国家権力が権力として存在できる為に洋の東西を問わず、国家権力は裏の世界の実力者とつながる。日本においても、よく影の実力者と言う言葉が使われる。この場合、一般的にその影の実力者は、裏社会の人物の場合が多い。アメリカの場合マフィア組織と国家権力、特にCIAとの繋がりは古く、CIAの前身のOSSの時代までさかのぼる、1940年代初頭の事である。

1950年代のマフィア組織

1920年代から1930年代にかけてマフィア組織はアメリカ社会に急速に根を下ろし始めた。アル・カポネ、フランク・ネッテイの時代である。この頃はファミリーと呼ばれるグループに分かれ互いに反目しあっていた。こんな時代に終止符をうったのがメイヤー・ランスキー、犯罪組織の帝王と呼ばれた人物である。彼は、イタリア系、ユダヤ系、アイルランド系の各組織を一つにまとめ組織化した。第二次世界大戦を経てマフィア組織は防諜工作や港湾防備の共同作業によって急速にCIAに接近する、政府もまた、各国との裏面工作にマフィア組織を活用するようになる。なかでも1952年のキューバ、バチスタ政権の返り咲き劇の主役はランスキーであった。彼はその実績から、キューバにおける利権のほとんど統べてを握った、カジノ、売春、ヘロインと、まさにキューバは彼にとって金の成る木そのものであった。彼はこの莫大な利益を彼自身の一人占めにする事はなかった。当時国外追放の身であったラッキー・ルチアノやルイジアナを中心として南部アメリカを押さえていたカルロス・マルセロ、マイアミのボ スサントス・トラフィカンテも参加した、当時の地下帝国の超大物が揃った感があった。なかでも、サントス。トラフィカンテは日本で言うところの武闘派の代表格の人物であった、1957年ニューヨークマフィアの大ボス、アルバート・アナスターシアの殺害事件は彼がランスキーとの契約によって実行されたといわれている。彼らは、キューバをギャンブル天国としただけでなく、ヘロインの中継基地として育て上げた。当時のヘロインルートはフレンチ・コネクションと呼ばれる、フランス経由のものであったが、このルートは次第に取り締まりが厳しくなり壊滅真近かであった、そこでこのハバナ、マイアミルートが脚光をあびてきたのである。1957年の段階で、ハバナの裏社会はランスキーを頂点とする強力なシンジケートによって独占され、彼らの繁栄はとどまるところを知らなかった。

1957年から1959年

1957年アメリカ上院に一つの委員会が発足する、マクレラン委員会である。この委員会の目的は労働組合の腐敗を調査し、組織犯罪との関連を究明する事にあった。当時のアメリカ労働組合は腐敗のどん底にあり、組合運営の資金は湯水のように組織犯罪の世界に流れ、マフィアとの深いつながりが取りざたされていた。その代表的な組合が全米一の規模を誇る、チームスターユニオン、全米のトラック運転手250万で組織する組合である。その組合のボスがジミー・ホッファーである。彼はマフィアと極めて近い人物であり、マフィアの殺人事件にすら関与していた疑いを持たれていた。
このマクレラン委員会の牽引車的役割を担ったのが、マサチューセッツ州選出若干40歳のジョン・F・ケネディ上院議員であり、さらにその委員会の首席顧問が司法省から回ってきたロバート・ケネディであった。二人は、チームスターとマフィアの腐れ縁を完膚なきまであばいた、アメリカ国民の目にマフィアの世界がはじめて白日のもとにさらされたのである。これによってジミー・ホッファーは致命傷を負って舞台から去っていく、以来、彼とケネディ兄弟との因縁の闘いが始まったのである。又、シンジケートの目に、はじめてケネディ兄弟が敵として写った最初であった。
1959年シンジケートにとって信じられない事が現実になった、カストロ軍によってハバナが陥落したのである。ランスキーはアメリカに逃れたが、トラフィカンテは捕らわれて投獄されている、これはシンジケートのボスであった事が理由ではない、あくまでバチスタの個人的緊密関係者として捕らわれたのである。カストロは、当初からキューバを共産化する意思はなかった事は時代背景の項で述べたが、カストロは当初シンジケートに対して寛容であった事実バチスタとの繋がりのあまり無いメンバーは自由に商売を続けていた、この時カストロからギャンブル担当の大臣として任命されたのが、フランク・スタージェスである。(スタージェスに関してはこのページにたびたび名前が出てくる)。 又、この時期捕らわれの身のサントス・トラフィカンテを頻繁に訪れていた一見ギャング風のアメリカ人がいたことが、イギリス人ジャーナリスト、ジョン・ウイルソンという人物によって確認されている。ジャック・ルービー、オズワルド殺害犯人である。

ケネディ登場

メイヤー・ランスキーは全米のシンジケートを集めて、カストロの首に100万ドルの賞金をかけた、当時の100万である。さらには、亡命キューバ人を積極的に支援して武器、弾薬、財政援助を行っている、その資金、武器を使って亡命キューバ人達は連日のようにキューバを攻撃し続けた、カストロは攻撃のバックにはアメリカ政府がいるものと判断していた、事実アメリカ政府は黙認の形をとっていた。カストロはこの時期からアメリカ離れをはじめる、5月には国内の企業の国有化を宣言して全ての外国企業を国有化し共産化の第一歩を踏み出す、この事はシンジケートにとってキューバの利権の全てを失う事を意味していた。なによりも、ハバナからのヘロインの途絶は組織にとっては最大の痛手であった。彼らは共産化するキューバを解放する大統領の出現を心待ちしていた。この年は大統領選挙の年である、ケネディ・ニクソン、大方の予想はニクソンの勝利であったがシンジケートとしてはどちらでも良かった、二人ともそのスローガンにカストロ打倒を掲げ、キューバの解放を訴えていたからであった。どちらが勝ってもキューバ進攻の可能性はあり、そうなれば 、彼らがキューバに戻る日も遠くないと見ていたのである。そして、選挙にはケネディが勝った。しかし、ビックス湾事件で、情勢は彼らの思惑とは異なった方向に進んで行った。ケネディの正規軍投入拒否は彼らにとってまさに裏切り行為の何者でもなかった。彼らはケネディに全責任があると判断した、ケネディが大統領でいる限りキューバは彼らの手には戻ってこない、この点で彼らの結論はCIAや軍部の結論とまったく同じであった。

ロバート・ケネディ司法長官

ケネディ内閣で司法長官に就任したのは、ケネディの実弟ロバートであった、かってのマクラレン委員会でのコンビがいまや大統領と司法長官という絶対的な権力者として彼らの前に登場したのであった。ロバート・ケネディはかつて無い規模でシンジケート撲滅作戦を開始した、彼はまず手始めにカルロス・マルセロに焦点をあて、強制的に国外追放処分にした。まるで、誘拐劇そのままの強制退去は物議をかもしだし、マルセロは法廷闘争に持ち込んだ。法廷はロバートの違法行為を認め、マルセロの国外退去処分は違法と判断される、彼は自由の身となった。追放先のマルセロが帰国する時の自家用機パイロットがあのデビット・フィリーである。マルセロのロバート・ケネディに対する憎悪は頂点に達した、彼はニューオリンズで開かれた、シンジケートの秘密会でケネディ兄弟の殺害計画を公然と言い放ったといわれている。しかし、このような脅しにもロバートは決して調査の手をゆるめる事はなかった、彼は自分の行為は正義であることを知っていたし、何よりも大統領の100%の支持がその背景にあった。ロバートの標的はマルセロだけでは無かった、かつてマク ラレン委員会で追及したジミー・ホッファーも標的の一人であった。ロバートは司法省の全組織を動員して彼の身辺を調べ上げ、ついに彼を8年間の刑務所送りに成功する。ケネディが死んだ時彼は友人にこう言ったといわれている。”これで、奴も(ロバート・ケネディ)、ただの弁護士になっちまった訳だ。”と、1971年彼は特別恩赦で出獄する、その恩赦を指示したのは、時の大統領リチャード・ニクソンであった。
ケネディ兄弟のシンジケート撲滅作戦はとどまる所を知らなかった、兄弟はついに伝統的マフィアの本流、シカゴにまでその手をのばしていった。当時のシカゴマフィアのドンがサム・ジアンカーナである。マルセロへの追及、ホッファーの逮捕さらにはジアンカーナへの追及にシンジケートはまさに臨戦体制であった。組織対ケネディ兄弟、この闘いはケネディの死を迎える直前まで繰り広げられるのである。読者のなかには、ジョセフ・ヴァラキという名前を覚えていらっしゃる方もおられると思います。かつてマフィア内部で、組織を裏切り組織内部の秘密を公にした人物のなかで、もっとも組織内での地位が高かった人物である。ヴァラキの証言で組織内部の秘密が公の場で明らかになったのも丁度この時期である。ここに、一人の女性がいる名前はジュデイス・キャンベル・エグスナー、ケネディの情事の相手とされている女性である。彼女を大統領に紹介したのが、フランク・シナトラ、著名な歌手である。そして、シナトラは当時シカゴのサム・ジアンカーナやラスベガスマフィアのドン。ジョン・ロゼリの庇護下にあ ったことは周知の事実である。ジアンカーナはシナトラによって彼女を大統領に近ずけ、大統領の弱点を握る計画であった。そうして今回のシンジケート撲滅作戦の中止と取り引きするつもりであったといわれている。

カストロ暗殺計画

CIAは表の政府組織の中で、もっとも裏の工作を取り仕切る部門である。各国の政府要人でさえCIAの意にそわなければ、しごく簡単にその命さえも消されてしまうのである。ドミニカのトルヒーヨ大統領、ヴェトナムのゴ・ジン・ジェム、時代は違うが、韓国、フィリピン、チリ、で政変が起こるたびにCIAの名前が取りざたされている事は周知の事実である。こんなCIAにとって当時もっとも欲しかったのがカストロの首であった事は間違いない。1975年アメリカ上院外国要人暗殺調査特別委員会でこのカストロ暗殺計画の全容があきらかになった。1960年8月、その計画はスタートした、CIAはこの計画のコーデイネーターにワシントンで探偵業を営むロバート・メイヒューという人物をえらんだ。彼は、元FBIの捜査官で例のニューオリンズのキャンプ街544番地に事務所をおくガイ・バニスターのシカゴ時代の部下である。彼は実行犯としてマフィアのヒットマンが最適と考え、ラスベガスにジョン・ロゼリを訪ねる。そこで、ロゼリは彼にサム・ジアンカーナサントス・トラフィカンテを紹介する、この二人はマフィア社 会のなかでも、いわゆる武闘派として知られている事は前述した。メンバーは揃った、この計画はケネディによって長官のダレスや副長官カベル、作戦次長リチャード・ビッセルが解雇された後も脈々と受け継がれていった。当然、新任のジョン・マッコーン長官や大統領にすら秘密のプロジェクトであったという。計画は何度も実行されようとした。しかし、どの計画もちょとしたミスで実行されることはなかったのである。

大統領への挑戦

1963年に入るとケネディは次々と対ソ宥和政策いわゆるデタント政策を発表する。1962年10月のキューバ危機は彼にとって歴史観さえも変えるような事件だった、ケネディはソ連との平和共存を望んだのである。全世界は、これを歓迎し恒久的平和の到来を夢見たのである、こんな政策は対キューバにも適用される。さらに、ケネディはヴェトナム撤退を検討しはじめる。これらの政策は、メイヤー・ランスキーを頂点とするシンジケートにとって耐えられるものではなかった。キューバに戻る夢を断たれ、かつまたヘロインの最大供給元である東南アジア、それも密輸の母港であるサイゴンを手放すはめになるかもしれないのである。別の意味で軍部、CIAにとっても思いは同じであった、共産主義を容認するがごとき政策は、決して容認できるものでは無い。さらに、産業界にとっても平和は好ましい事態ではない、彼らにとって自国の平和が揺るぎ無い条件下での緊張状態は、極めて好ましい状況なのである。こうして、シンジケート、軍産複合体の利害はまさに完全に一致したのである。
ケネディの政策を変更させろ、彼らは、来るべき1964年の大統領選挙の行方に期待した、共和党の候補者はゴールドウオーター、かつて赤狩りで名をはせたマッカーシー上院議員に勝るとも劣らない保守主義者である。しかし、あらゆる世論調査はケネディ再選を確実なものと報じていた。これからさらに4年間はケネディの時代が続く、そしてその次にくるのはロバート・ケネディ大統領の誕生である。最悪ケネディ王国はまだ12年続く可能性が高い。とすれば、結論は、一つしかないと考えてもおかしくは無い、オペレーションシステムはすでに完成している、カストロ暗殺計画の名前を変えればすむ事である。