1963年4月にオズワルドはニューオリンズに現れる。そして9月にこの地を離れるまでの5ヶ月間に非常に不可解な行動をとっている。はたして彼はウオーレン報告書に言う所の「真のマルキスト」であったのであろうか?この項目では、ニューオリンズにおける彼の行動を精査する事によってオズワルドに対する謎を深めていただきたい。

1960年前後の南部アメリカ

1959年1月1日、カリブ海に浮かぶ島、キューバにカストロ政権が誕生した。これと同時にバチスタ政権に保護されていた数多くの人々と共に続続と亡命者が南部アメリカをめざして海を渡った、その数数万とも数十万とも言われている。カストロ政権はこの様な亡命者達を”去る者は追わず”の政策で対応している。これによって南部アメリカ、特にマイアミを中心とするフロリダ、さらにはニューオリンズには再び祖国キューバの奪還をめざす亡命キューバ人のコミュニティーができ数々の戦闘的組織が誕生していったのである。そのほとんどは、物質的にせよ金銭的にせよなんらかの形でCIAの影響を受けていたのである。一部の戦闘的グループは積極的にCIAの指導下にはいり軍事訓練を受けていたのである。そして、1961年4月17日、ピッグス湾事件として暴発し、そして敗れ去ったのである。しかしピッグス湾事件以降も亡命キューバ人達の組織はピッグス湾事件ほどの規模の暴発はないにしてもキューバに対しての挑発・撹乱のあらゆる手段を講じて祖国への帰還をめざして活動を続けている。それは、本日現在も尚、やむことなく続いているのである。
オズワルドがニューオリンズに現れた時期の亡命キューバ人組織はお互いに主導権を争い、カストロ政権のスパイがこれにからみ、そこにCIAの陰陽にわたる干渉、さらにはケネディ政権の融和政策によるところの干渉が絡み合ってお互いの組織に対する浸透工作が日常的におこなわれていた。まさに百家争鳴、疑心暗鬼の渦巻く世界の真っ只中にあったのである。
ここで今回のテーマであるニューオリンズにおけるオズワルドの行動の解析に関わりのある組織についてしるしておく、以後組織名は略称で記載するので頭に入れておいて頂きたい。
亡命キューバ人達を組織立てたのは、キューバ民主革命戦線(略称 FRD)である、この組織はアイゼンハワー政権末期にCIAがカストロ政権の軍事的転覆をはかってメキシコに作った組織であり、その軍事部門である2506旅団は大半がグァテマラの秘密軍事訓練施設で訓練をうけていた、この部隊がピッグス湾の主力部隊となるのであるが、このFRDとアメリカ政府との連絡調整のための組織として発足したのが、キューバ革命評議会(略称 CRC)である、この組織が事務所を置いていたのがキャンプ街544番地、例のガイ・バニスター探偵事務所やオズワルドがキューバ公正委員会ニューオリンズ支部の住所としていた場所である。FRDはピッグス湾事件によって壊滅的打撃をうけ、必然的にCRCがその後を継いだ形となっていった、そしてニューオリンズに事務所を置くもう一つの組織としてキューバ学生革命評議会(略称 DRE)なるものがあった、当時のニューオリンズの組織としてはもっとも戦闘的な組織と言われ、組織単独でハバナ砲撃を実施したりしていたのである。そしてマイアミにはキリスト教民主運動(略称 MDC)が存在していた。

ポンチャートレイン湖襲撃事件

1963年7月24日 MDCのマニュエル・バチスタ司令官が率いる約20名のキューバ人がニューオリンズから東へ約24キロのポンチャートレイン湖の軍事訓練基地に入った。この基地はグァテマラの訓練基地に移動する為のDREの運営するアメリカ側の基地であった。ここには数多くの軍事装備品や兵器・弾薬なども備蓄されていたのである。この基地にはDREの軍事部門の責任者ジョン・コッチがおり、CIAとも深い繋がりのあったジョン・ヌーンなどがいた(二人ともFBIの手入れの際に逮捕されている。)この軍事基地がロバート・ケネディ司法長官の命令によってFBIの手入れを受けたのである、大統領の対外宥和政策の一環であったがCIAの組織的・金銭的支援を受けていた組織が同じ政府機関のFBIの襲撃を受けるのであるから少々ややっこしいが、ケネディ政権の施策とCIAの思惑の違いが表面化した典型的な事件であった。この事件によってニューオリンズのキューバ人組織は一時的に打撃を受ける事になった、これがケネディ暗殺事件の原因の一つと見る研究者も多い。こんな事件がニューオリンズの町を駆け巡っているさなかにオズワルドの姿が登場するのである。

オズワルドとブリンギエール

DREのニューオリンズ代表の名前をカルロス・ブリンギエールと言った。彼の営む洋品店に1963年8月5日一人の人物が訪れてきた、オズワルドである。ブリンギエールの証言によると、「最初この人物がいったい何者であるのか頭のなかで考えていた、こいつはFBIの手先なのか、それとも共産主義者なのかと。しかしそれから4日後(カナル街事件)には、彼はFBIの工作員ではなく、親カストロ派の工作員だと確信した。」と述べている。前述のようにブリンギエールは、DREのニューオリンズ代表である。DREはポンチャートレイン湖でメンバーが逮捕されている、だから事件の五日後に自分の店にフラリと入ってきてゲリラ戦に付いて喋り出した時、ブリンギエールがこの人物に対して警戒心を尖らせたのも無理はない。ブリンギエールの証言の続きを聞いてみよう。「8月5日の事でした、私がフィリップ・ジェラーチという若者と店で話をしているとオズワルドが口を挟んできました。そして、反カストロ闘争に興味があり、カストロに反対し、共産主義に反対していると語り掛けてきたのです、その後オズワルドは、自分は元海兵隊員でゲリラ戦の訓練も受けており、キューバ人を反カストロ闘争の為に訓練してやってもいいと申し出たのです。その上、自らキューバへ乗り込んでもいいと言う事でした。」ブリンギエールは、自分の役目はプロパガンダと情報収集であって軍事行動ではないと説明して、オズワルドの申し出を「断った」と言う、しかし「オズワルドは諦めず、明日私へのプレゼントとして、、キューバ人を反カストロ闘争に備えて訓練するための本を持ってきてあげようと言った。」
次回のアップで詳細を書くが、この年の4月にはカストロ支持のプラカードを持ってダラスの街頭にたって、アメリカ国内の唯一のカストロ支持団体、対キューバ公正委員会(略称 FPCC)に加入申請をしているオズワルドが、8月には、反カストロ団体の幹部を訪れるというのは、大変な変身ぶりである。それに輪をかけて興味ぶかいのは、この後ほどなくしてオズワルドがブリンギエールの店の近くで親カストロのビラを配っているのである。オズワルドはあえてブリンギエールを挑発しているのである。不可解な事にウオーレン報告書は、ブリンギエールへの接触で見えたオズワルドの「一人二役」ぶりについてほとんど言及せず、単純に事実のみを表記しているだけであり、この相矛盾する行動を説明していない。又、ブリンギエールの所属するDREが長年にわたってCIAの資金援助を受けていることにも言及していない。
翌8月6日、オズワルドは再び店にやってきて留守をしていたブリンギエールの弟に海兵隊教本を預けて帰っている。ブリンギエールは教本に目を通し、興味をもって保管する事にした。しかし、その事を忘れかけた、8月9日午後1時頃、外出先から店に戻る途中で友人のセルソ・エルナンデスに、カナル街で「カストロ万歳」というスペイン語のプラカードと、何かキューバについての物を持って立っている男がいる、と知らされたのである。

8月9日 カナル街

8月9日金曜日午後1時、オズワルドはブリンギエールの店にほど近いカナル街700番地のブロックまでさりげなく歩いて行き、FPCCのビラを撒き始めた。知らせを受けたブリンギエールと仲間のセルソ・エルナンデスとミゲル・クルスは現場に走った。言い合いに怒鳴り合い、そして口論が続いた。ブリンギエールが殴り掛かろうとすると、オズワルドは予想していたかのように、両方の腕をダラリと下げて挑発した。ブリンギエール達はオズワルドのビラを取り上げて、使い物にならないようにあたりにばらまいた。数分後には警察官が駆けつけ四人全員が逮捕された。
以上が極々簡単な”カナル街事件”の描写であるが、この記述でも「ウオーレン報告書」のそっけない説明に比べれば、十分に詳しいといえる。同報告書の記述はわずか3行「8月9日、ブリンギエールはオズワルドがFPCCのビラを撒いているのを目撃する。ブリンギエールと仲間はそれに腹をたてて、口論になった。騒乱を起こしたかどで、オズワルドと三人のキューバ人は警察に逮捕された。」これがすべてである。ウオーレン委員会は細かい事実関係を埋める作業は平気で国民に任せ。なぜオズワルドは口論を挑んだのか、なぜその相手にブリンギエールを選んだのか、といった当然の疑問を国民に抱かせたままにしたのである。また、この事件に関して警察官フランセス・マルテロが以下のような重要な証言をしているのに、一切触れていない。現場に急行した警察官マルテロは、現場での印象をこう語っている。「オズワルドは、事件を起こす為に、彼らを嵌めたように見えました。しかし実際に騒ぎが起きた後は、全くもっておとなしく物静かでした。」と。
警察に連行されたオズワルドはまたさらに奇妙な言動に走る。(一部被疑者解析の項目参照)拘置所に入れられたオズワルドは、今度はFBIの捜査官と面会したいと要求したのである。マルテロの証言によるとこうなる、「オズワルドはFBIの捜査官との面会を望んでおり、”対キューバ公正委員会(FPCC)”のニューオリンズでの活動内容に関して情報を提供したいと述べている」ここまでくるとオズワルドの一連の行動の目的とするものがいったい何処にあるのか疑問に思えてくる。あえて考えるとするならば、カナル街事件同様に、あえてリー・ハーベイ・オズワルドという人物の注目度を関係機関、特に司法情報関係筋に高めること以外には考えられない。実際にオズワルドと面談したFBI捜査官はジョン・クイグリーであるが、不思議なことにこのニューオリンズ警察におけるオズワルドとの面談内容に関する”クイグリー報告書”は極秘扱いとなって公表されていない。

8月16日 トレードマート

1963年8月12日裁判が開かれオズワルドは罰金10ドルの判決を受け有罪となった。ブリンギエール等三人のキューバ人は「裁判所が起訴を棄却」した。この時点からオズワルドは完全にCIAの監視下におかれている。この後のメキシコ行きやダラスへの帰還といった運命の時までの三ヶ月間のオズワルドの行動はすべてCIAの報告書が存在する。たった一日、1963年11月22日を除いて・・・・この事実の証明の為の事実としての逸話がある。判決後オズワルドは再び活動を開始するが、CIAの内部資料によると、「1963年8月16日の午後10時30分、オズワルドは、白人男性を連れて、カナル街とグラビエ街の交差点にあるインターナショナル・トレードマートに現れた。そこでオズワルドは三、四人を2ドルで雇うとFPCCのビラを配らせた、ビラには、オズワルドの本名とマガジン街4907の住所がスタンプしてあった。オズワルドはビラ撒きを手伝わせた男の一人チャールズ・スティールに、スポンサーはチューレン大学だと語っている。地元の放送局WDSUがこのビラ撒きの一部始終を撮影した。これを聞きつけたブリンギエールはトレードマートに向かったが、オズワルドはすでにいなくなっていた。」オズワルドの行動はCIAの監視下におかれ、全ての行動が記録されしかも撮影までされていることがよく分かる。
ところで、このトレードマートでのビラ撒きに関しての疑惑を述べてみる。カナル街で撒かれたビラには責任者の名前として アレック・J・ヒデル、事務所の住所は、例のキャンプ街544番地であるが、トレードマートでのビラには オズワルドの本名と住所はマガジン街4907番地の自分のニューオリンズでの自宅の住所となっている。また、オズワルドが現れたインターナショナル・トレードマートの責任者の名前は クレイ・ショーである。