リー・ハーヴェイ・オズワルド、ソ連への亡命経験があり、帰国後はキューバ革命政権を支持した”生粋のマルキスト”。これがウオーレン委員会の描く大統領暗殺犯のプロフィ−ルである。このアメリカ国内でのカストロ政権擁護の活動の母体となったのが「対キューバ公正委員会」通称FPCCである。前回アップしたカナル街事件でも検証したように、アメリカ国内でのオズワルドの一連の政治活動にほ極めて不自然な動きがつきまとっている。それでは彼の母体組織とされているFPCCとの関係はどの様なものであったのか?この項目ではオズワルドとFPCCの関係に触れてみたい。

対キューバ公正委員会

FPCCはCIAが反カストロ工作を本格的に開始したのと、ほぼ時を同じくして発足した。FBIのフーバー長官は国務省保安局長に宛てた1960年7月15日附のメモで、ロサンゼルス・スポーツ・アリーナでのFPCCのビラ撒き活動と「メキシコは革命に参加し、メキシコ固有の領土であるテキサス州とニューメキシコ州をアメリカより奪還すべきである。」とのキューバ国営放送の声明を関連付けてFPCCの活動に留意するように通告している。このメモがアメリカ国務省内の記録にFPCCが現れた最初である。一方CIAにおいてはFPCCのニューヨーク支部長リチャード・ギブソンが、独立したばかりのコンゴの首相パトリス・ルムンバに肩入れしたことに対して関心を示し始めていた。「大衆をひきつける力が強く、しかもソ連寄りだと考えられていた」ルムンバは「アメリカ政府内では要注意人物」であったからである。カストロとルムンバを公然と支持するFPCCはCIAにおいて特別なカテゴリーに属する団体とされていたのである。CIAはFPCCの主要メンバーの一人であるリチャード・ギブソンを標的にさだめ浸透工作にのりだしている。以前カストロ首相府に勤務していて1960年以降CIAのスパイに転じたジューン・コブをギブソンに接近させてFPCCの組織の内容を掴むことに成功している。この時の報告書の一部である。
[1960年10月27日の夜、対キューバ公正委員会のリチャード・ギブソンはジューン・コブと一緒に過ごした。そしてFPCCについてかなりざっくばらんに次のように語った。我々は「世界を破壊したい」組織の立ち上げにあたっては、キューバ政府から15000ドルの資金を受け取った。キューバから資金を引き出すために、毎月1500ドルかかる。金は潤沢な時もあれば、底をつくこともある。ドルチコスやカストロに直談判して5000ドルを出してもらったこともある。自分はラウル・ロアから、キューバ国連代表部の広報担当官になってほしいと言われた事もあると述べている。FPCCはアフリカで、とりわけルムンバ一派と組んで活動している。キューバはギブソンをアフリカに送り込みたい意向である、キューバ資金を流し込めばアフリカでも「こと」を起こせると考えているようである。またFPCCはアメリカ南部において黒人層に浸透し彼らを煽っている兆候がみられる。自分たちの計画は穴だらけで、逮捕されることも覚悟しているが、それでもアメリカに対する闘争は続けるつもりであると語っている。」
注目すべきことにCIAは、FPCCとギブソンを、カストロが資金を出してアメリカで反乱を煽るための手駒と睨んでいたことである。そのような発想は、キューバにけしかけられてメキシコがテキサスに攻め込むという、フーバーの7月15日付メモにある話と同様、危険極まりない。こうした脅威論は大袈裟であったとしても、CIAがカストロとルムンバの暗殺を企てていたという事情を考えると、CIAにとってFPCCとその活動内容の情報を収集することは確かに急務であったはずである。

カストロ支持のプラカード

1963年の1月から4月にかけてオズワルドはアメリカ国内の左派系団体と盛んに連絡をとっている。2月の20日にはオズワルドはアメリカ共産党に手紙を出し、色々と問い合わせをする一方で”ワーカー”と”ミリタント”の定期購読を申し込んでいる。例の3月31日に妻マリーナが自宅の庭で撮影したとされる”戦闘への準備”となずけられた写真で彼が左手に掲げている新聞である。さらに3月24日には、社会主義労働者党に手紙を送っている手紙は同封されていた新聞の切り抜きと共に現在では散逸している。社会主義労働者党では3月27日オズワルド宛に返信を送った記録はあるが、そのコピーは取っていなかった。ついでに加えるとこの間の3月4日にオズワルドはシカゴのクラインスポーツ社の通信販売広告で凶器とされる、マリンカカルカノを注文している。そして一連の接触のなかで最も重要な一通の手紙を1963年4月19日に郵送している。宛先は対キューバ公正委員会全国本部{FPCC}である。その手紙の全文である。

拝啓
ただで何かをしてもらおうとなどとは考えていません。ただ、私は現在失業中です。そこで昨日生まれて初めて、首にプラカードをぶら下げて街頭に立ち、”キューバにフェアプレーを!”のパンフレットなどを配りました。15部ほどしか無かったので、40分で無くなってしまいました。罵られることもあれば、賛同してもらえることもありました。手製のプラカードに書いたのは「キューバから手を引け。カストロ万歳」と言う文句です。基本のパンフレットをもう40ないし50部送って頂きたく、お願い申し上げます。敬具
リー・H・オズワルド

問題はこの手紙に言う所の「街頭でプラカードをかけて歩いた」という記述である。ウオーレン委員会で証言したFBIのホスティ特別捜査官は、「繁華街に限らず、ダラス市内で、何者かが”キューバから手を引け。カストロ万歳”などというプラカードを首から下げて現れたなどという情報はいっさい受けていない。」つまり、オズワルドについて自分達がそのような報告を受けていない以上、そんな事実はなかったはずだと言う論法である。ホスティは続ける。「首にカストロ支持のプラカードを下げて町中に現れるなどという大胆かつ挑発的な行動をすれば、必ずFBIダラス支局の監視・報告システムの網にかかってくるはずである。このような行動をダラス市内で行ってわれわれの耳に入らないなどとは、とても信じがたい。」と述べている。現実にFBIの情報収集能力から考えるとこのことは事実であろう、とするならば、オズワルドが書き送った”カストロ支持のプラカード”はまったくのデタラメと言う事になる。さらに奇妙なことにオズワルドがFPCCに対してパンフレットの送付先として指定したのがダラスの自宅の住所であるが、なぜかオズワルドは手紙を投函した日の5日後の4月24日ニューオリンズに向けて旅立っているのである。ここで考えられる事は、オズワルドのニューオリンズ行きがはたして彼の意志によるものなのか、それとも何らかの外部からの指示によるものなのかと言う点である。手紙の文章やパンフレットの送付先の指定などを考えあわせると少なくとも4月20日の時点ではオズワルドのニューオリンズ行きは彼の計画のなかには無かった事だけは事実であろう。

FPCCニューオリンズ「支部」

1963年の5月から7月までの三ヶ月間、オズワルドはニューオリンズにおいて、もっぱらFPCC関連の活動に精力を注いでいる。ニューオリンズに来て一月たった5月26日、オズワルドは再びFPCCに手紙を書いている。「正規の会員」になりたいと述べて「今はニューオリンズに住んでいるので、自腹を切って小さな事務所を借り、ニューオリンズにFPCC支部を開設したいと考えている」とした上で「支部開設の許可証を発行してもらえないか」と頼んでいる。FPCC全国委員長のビンセント・リーは5月29日、会員証を同封して返事を送った。リーはニューオリンズに支部を作る事自体は励ましつつも、「ニューオリンズにはごくわずかしか会員がおらず、その人数で支部を設置するのは容易ではない。」と書き送った。さらに「事務所については絶対に認められない。少なくとも、それとわかるような形でそちらの狂信的な連中の目に簡単に触れるようなものはやめたほうがいい。いきなり事務所を構えることは勧めない。当面は公の場所で行動してみて、辺りの反応をみたらどうか。」と助言しているのである。しかし、もし、リーがこの間のニューオリンズにおけるオズワルドの行動を知ったならば、彼は不安を覚えたにちがいない。
オズワルドはジョーンズ印刷会社に出向き「リー・オズボーン」の偽名でFPCCのビラ1000枚を注文、さらにラファイエット郵便局に私書箱を開設している。そして例のキャンプ街544番地に事務所を開設したのである。
6月4日オズワルドはジョーンズ印刷会社に出向きFPCCのビラを受け取る。「FPCCニューオリンズ支部」と印刷されたビラは5月29日のリーの手紙にあるように、オズワルドには認められていないことであった。ビラを受け取るとオズワルドはリーに手紙を書いた。「刷り上がったビラを見てみると、支部の問題ではいささか先走ったという気もします。しかし、それはさほど問題ではありますまい。ビラが挑発的に過ぎるとお思いになるかも知れません。ですが、たとえ狂信的な連中の目に留まる事になっても、人々の注目を集めたいのです。ビラは2000部刷りました。また、いただいた助言には反しますが、初めから事務所を構えることにしました。いずれにせよ連絡は欠かしません。事務所が一ヶ月しか続かなくても、事務所を全く開かないよりは多くの人の目に触れたほうがよいとは思いませんか。」オズワルドがこの手紙を書いたのは6月5日から14日の間と思われる。手紙のなかでビラの枚数を多く書いたりしたのはともかく、それ以上に重要なのは、ニューオリンズにFPCCの支部が存在すると公言したことである。
手紙を受け取ったリー委員長はオズワルドとの接触を終わることにした。ウオーレン委員会で証言したリーは、オズワルドの振る舞いはFPCCの規則や手続きに対する重大な違反行為であると判断したからであると述べている。

監視下にあったFPCC

1963年5月16日、ある情報提供者がもたらした情報によると、FPCC発足2年間は、アメリカ共産党分子と社会主義労働者党分子のあいだで権力闘争があった。しかしこの一年間はFPCC指導部の努力が効を奏して、これら両党及びその他外部組織の影響力は無いに等しくなる。1963年5月20日、別の情報源が、FPCC全国本部はニューヨークブロードウエイ799番地に置かれていると知らせてきた。この情報提供者によると、FPCCは1962年秋に全国委員長のポストを新設し、現在そのポストにあるビンセント・リーがFPCCの政策を決定している。
明らかにFBIシカゴ支局はFPCC内部に有力な情報提供者を抱えており、おそらくFBIニューヨーク支局もそれなりの情報源をもっていたと思われる。一方CIAは、FPCCニューヨーク支局長リチャード・ギブソンに関する情報を入手していた。1960年にジューン・コブとの会話を盗聴し報告書が作成されていたことは前述の通りである。当然ながらFPCCの送信着信のすべての郵便物、電信にかんしてもすべて監視下にあった。例の4月19日付のオズワルドの手紙も翌日にはFBIの捜査官の机上にあった。ここで考えるにあたってオズワルドの性急なFPCCへの接近と裏返して言えば”特別なカテゴリー”に含まれるFPCCに急接近しているオズワルドをFBIやCIAどのようには見ていたかという点である。推理をお許し頂けるのであれば、オズワルドはなんらかの指示によってFPCCに急接近していった、オズワルドの親カストロイメージの構築のためにとられたこの処置は、現実にそのイメージは見事に作り上げられていった。さらにその指示者はFPCCが完全に監視下にある事を熟知していたことになる。FPCCは、オズワルド像の構築のために完全に利用されたのである。後日談となるが、ケネディ暗殺事件後例のニューヨーク支部長リチャード・ギブソンはCIAに寝返りその職員となる、そしてFPCCは旬日を経ずして解体の憂き目を見る事になる。