海兵隊出身で、共産圏への亡命経験があり、そして再度母国アメリカに帰ってきた人物。このような経歴を持つ人物は、アメリカ人のなかでもそうざらには居ないであろう。しかも1960年代のアメリカではさらにその数は少ないと思われる。オズワルドはその数少ない人物の一人であった。しかしもう一人オズワルドと非常ににかよった経歴の持ち主が存在したのである。 キューバに関するオズワルドの疑問 ここで一人の人物を紹介しよう。名前はネルソン・デルカド、海兵隊時代を通してオズワルドと最も親しかった人物としてウオーレン委員会でも証言した人物である。「カストロについてはあれこれと話し合った。」1964年デカルトはウオーレン委員会で語った。 当時私はカストロに好意を持っていて、心底彼を支持していました。そしてそのことを公言していました。こうした事が、オズワルドと馬があった主な理由でした。私たちは同じ考えでした。あのころのカストロは、あらゆる角度から見て自由を愛する男に見えたのです。カストロは民主主義者として専制政治を打倒し、ついにキューバの人々に救いをもたらすと考えていました。 デルカドが言っているのはカストロが政権を掌握した前後の話である。カストロは政変直後はアメリカに接近しようとしていたし、共産主義者でも何でもなかった。あくまでも、デルカドの言うように専制政治からキューバ国民を解放する事を唯一の目的としていた。(キューバ危機参照)しかし、そうは言っても、海兵隊の新兵二人がキューバ革命についてこのような形で論じ合う事は、控えめに言っても普通ではない。CIA対情報工作部のレイモンド・ロッカは1975年に書いたメモの中でデルカドの証言を「オズワルドがカストロ・キューバにたいしていかなる感情を抱き、いかなる関係を持っていたのか、その背景を理解するのに欠かせない重要な証言であると述べている。ロッカはデルカドを「1958年12月から59年9月にかけてエルトロ基地で専門教育を受けていた時期に、オズワルドと最も親しかった同僚」と見ている。 彼ら二人は、日ごろからいかにしてキューバに渡るか、さらにはキューバ革命軍の将校となってキューバ遠征軍を組織して「カリブ海の」島々に乗り込んで、人々を解放しようと話し合っていた、中にはトルヒーヨ(ドミニカの専制支配者)をいかにして始末するのかなどを話し合っていたと言う。デルカドの証言に戻ろう。 彼は具体的に計画を立てるようになりました。どうやってキューバに行けばいいのかと言った事を知りたがったのです。そこで私は彼を避けるようになりました。それでも彼は色々と質問してきました。「自分のような英語しか話せない人間がキューバ人と一緒に革命運動に携わるにはどうしたらいいのか」といった具合でした。 デルカドの証言のなかで最も衝撃的なのは、オズワルドがキューバ外交官と接触していたと言ったくだりである。 どうすればキューバ政府を助けられるのか、と彼はしょっちゅう聞いてきました。私としては答えようがなかったので、言えるのはキューバ大使館に連絡すればいいという事くらいだと答えました。当時は我が国とキューバはまだ友好関係にありましたから、国家に反逆的だったとか悪意をもっていたということではありません。どう答えたらいいのか解らなかったんです。それで大使館に連絡をとればいいと言ったんです。そしたら彼はすでに大使館とは接触していると言いました。現にいままでほとんど手紙のこなかった彼の所へ頻繁に手紙が来るようになりました。それはロサンジェルスからの手紙で、彼は「ロスにはキューバ領事館がある。」と言っていました。 さらに証言は続く FBIの人たちにも言ったのですが、オズワルドに来客がありました、あの手紙が来るようになった後からでした。正面ゲートにオズワルドを訪ねて人が来ているという連絡を憲兵から受け取ったのが私でしたので良く覚えているのですが、その来客は男性でした。文民だったはずです。軍関係者でしたら中に通されていたはずですから。オズワルドは一時間半いや二時間くらいだったと思いますが、その男と一緒に過ごして戻ってきました。それが何者であったのか、何を話したのか私には解りません。彼は何も話さなかったのです。 デルカドは「その男はキューバ領事館関係の人間だと思うか?」との問いかけに「そう思う」と答えている。その理由として、訪問時間が夜9時と遅かった事、手紙によってキューバ領事館と接触を持ったとオズワルドが話した後の事であった事を上げている。オズワルドに面会者が来る事はかつてほとんど無かったからである。と述べている。 現在にいたるまで、謎の訪問者の素性は特定されていない、しかしCIAは、オズワルド以外に1959年ロサンジェルスのキューバ領事館を訪問していた人物を知っていた。その人物の物語はオズワルドに負けず劣らず謎に包まれており、研究者の関心を引いている。ロッカに言わせれば、キューバとの関係はオズワルドの物語の初期段階における「疑問符」だというが、この人物についても同様の言葉があてはまる。その男の名前はジェラルド・パトリック・ヘミングである。 キューバに関するヘミングの疑問符 実際にキューバに亡命して、カストロの部隊と行動を共にし、戦闘にも加わった「アメリカ元海兵隊員」ジェラルド・パトリック・ヘミングに関しては、オズワルドに比べてあまり知られていない。一つには、大統領暗殺との関連で調査の対象にならなかったことにその理由が有るからかもしれない。しかし、もう一つの理由は彼のCIAとの関わりにあるからかも知れない。オズワルドと違ってヘミングとCIAとの関わりは公然の秘密であったからである。ヘミングファイルによると、彼は1954年4月19日から58年10月17日まで海兵隊に在籍しており、海兵隊航空団の一員として日本に配属されていた。除隊後、ロサンジェルス近郊に帰国、1959年2月18日前後にキューバに向けて出発し、カストロの部隊に合流した。その時、お互いの連絡は無いものの、カストロの部隊に合流したもう一人のアメリカ人が居り、以後、仲間として行動を共にした。その人物の名前は、フランク・アンソニー・スタージス。読者諸兄にはお分かりでしょう。かのウオーターゲート事件の「鉛管工グループ」の一人の人物である。又、ヘミングが海兵隊航空団に配属され日本に滞在していたという記述は極めて興味深い、この時期日本の海兵隊航空団にはオズワルドも在籍していたのである。 CIAとヘミングの関係について、1967年のCIA報告書には次のような記述がある。「表記の人物(ヘミング)とCIAとのあいだに何ら関係はなかったとする別表の記述に注意を喚起されたい。なぜならこの記述は正しくないからである。」「ヘミングファイルを再検討した結果、ロサンジェルス支局に情報を提供していたというヘミングの主張は真実である。」問題の別表は公開されていないが、この報告書は読む事ができる。そこには、ヘミングとCIAの初期段階での接触やヘミングのマイアミへの移動に関する「メモ」が含まれており、メモの概要も示されている。たとえば、1960年10月の接触だけで「キューバに関する14件の報告書」が作成されたという。 この1960年10月の接触報告書の中には1959年2月にヘミングがロサンジェルスのキューバ領事館を訪ねた一件も含まれていた。CIA保安部が1977年に作成したメモには。この接触について、こう書かれている。 ヘミングは、1959年2月18日前後にマイアミ経由で空路キューバに向かい、59年2月19日ハバナに到着した。本人によると、出発前にロサンジェルスのキューバ領事館と接触したという。 このメモは、キューバ行きをはじめとするヘミングの行動が重要なのは、それがオズワルドの行動記録と関連している可能性があるからだということを強く示唆している事にある。問題は二つある。第一に、ヘミングはオズワルドに会ったのか? 第二に、会ったとして、ヘミングは1960年10月の接触でCIAに対して何か話したのか、そうであるならば、何を話したのか?という疑問である。CIAは1970年代、CIAと関係があるというヘミングの主張、とりわけオズワルドに会ったことがあるという彼の発言にどう対応すべきか戸惑っていた。1977年の保安部メモには次のような記述がある。「部内の限られたファイルを子細に検討したものの、オズワルドとヘミングとの間に関係があった可能性は確認できなかった。二人の記録を突き合わせても、符号する接点を見出すことは出来なかった。」 エルトロ基地、正面ゲートの男 1976年ヘミングは雑誌のインタビューに答えて次のように語っている。 1959年にロサンジェルスで偶然出くわしました、彼がキューバ領事館にやってきた時です。領事館の人が私を呼び、いま海兵隊員が一人来ており、隊をやめてキューバに渡り革命家になるつもりだと言っているのですが、と。そこで私がその男に会いました。自分はレーダー操縦士の下士官で、知ってる事は何でも提供してキューバに貢献したいという話でした。それがオズワルドだったのです。私は話しているうちに、この男は[親カストロ勢力]に浸透を図っているのだと思いました。そこで領事館の人に彼を追っ払うように言いました。私は、彼を海軍情報部の人間だと思ったのです。 ヘミングは浸透者(多少意味合いが違うがスパイと読み替えても良いかもしれない)を嗅ぎ出すことには長けていたはずである。なにせ、ヘミング自身がCIAからの浸透者であったからである。彼はマイアミで自分の特殊部隊組織を作り、それを”国際浸透部隊”となずけている。特殊部隊とは「早い段階で」革命組織に「浸透」し、影響力のある地位に就き、そうした組織を「好ましい方向に転換」させる要員のことを言う。ヘミングがキューバとマイアミで行っていたのは、まさにそうした活動であった。 1995年ヘミングはジョン・ニューマンのインタビューに答えて次のような発言をしている、
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