パレードのコース決定の謎?パレードのコースは、シークレット・サービスの入念なチェックとダラス警察によって事前に検討され決定されている、かつてこの地を訪れた重要人物のパレードの順路も参考にされている。伝統的にダラスのパレードはメイン通りを中心に実施されているが、問題は演説会場の商品館をパレードの到着地とした例はない事である。商品館に行く為には、ステモンズフリーウエイを使う事になるが、ステモンズに入る為にどの通りから入るかである。エルム通りからはスムースに進入できるがメイン通りからワンブロック北へ移動しなければならない、そのためには、一方通行のヒユーストン通りを逆行する必要がある。メイン通りからステモンズに入る為には、鉄道橋のさきでエルム通りの交通を遮断して横切る形となる。どちらも若干の交通規制が必要になる。最終的にコースは発表された、1963年11月22日のダラス・モーニング・ニュースの第一面の半分を使ってコースが紹介されている。驚いた事にコースは、メイン通りを直進して広場の真ん中を通る事になっていたのであ
る、実際警備上の面から考えても、また見物の人々に対するサービスの面からも、素人の私でも分かる良策である。しかし、実際は違っていた。ではこのコースの変更を指示した人物は誰か、その名前はダラス市長アール・キャベルである。彼によって大統領のパレードコースが土壇場で変更されたのである。時代背景をじっくりお読み下さった方はお気ずきでしょう、ビックス湾事件のCIA側責任者、副長官でありずっとケネディーを”キューバを共産主義に売った男”と非難し続けている男チャールズ・キャベル将軍の実弟がアール・キャベルダラス市長であった。 パレードの一時間前に・・・・パレードがデイリー広場を通過する予定の一時間前、ジュリアン・マーサーは丁度一時間後の悲劇の現場付近で交通渋滞に巻き込まれていた。その時彼女の右側に、道路の縁石を乗り上げる様にしてグリーンの小型トラックが停車しているのを目撃している。車の中から、一人の青年が飛び出してきて土手を駆け上りグラシーノールの方角へ消えていった。その青年の手には、茶色の紙で包んだ何かが握られていた、マーサーはそれを間違いなく銃であったと証言している。彼女は直感的に、多分護衛のシクレット・サービスだろうと思ったと言う。なにげなく、トラックの運転手に目を移すと、丸顔で福々しく、黒髪だが前の方が薄くなりかけた男が運転席にいた。マーサーの視線を感じたのか、男は向き直って彼女を威嚇するかのようにじっと睨み付けたという。それから二日後、マーサーはオズワルドを撃った犯人ジャック・ルービーの顔写真を見て、飛び上がった。そこに映った顔は、あの時の運転手だったのである。 犯人通報者は誰か?そもそも犯人を目撃した人物はいったい誰なのだろうか、”身長約5フィート10インチ、30代初めのやせた男”これが警察無線で手配された容疑者である。ウオーレン報告書によると、目撃者の名前は、ハワード・ブレナン 45歳になる配管工である。ブレナンは、エルム通りとヒューストン通りの南西の角でパレードを見物していた。そこからは、倉庫ビルの南面全体がはっきりと見える、彼の位置から6階の南東窓まで直線距離で120フィート(36メーター)である。ブレナンはこの位置から、狙撃者の顔の特徴から全身まで見た事になっている。しかし、問題の窓は引き上げ式で下から三分の一ほどしかひらいていなかった、それも、事務所と違って倉庫の窓は低い位置にある、その為その窓から外を見る為には、中腰か膝をつかなくてはならない、この状態では人間の身長など、とうてい目測できるはずはない。 遅れたビルの封鎖”被疑者解析”のページでも述べたように、事件後2、3分後に警察官ベーカーは2階の自販機の前でオズワルドにあっている、これはとりもなおさず警察が狙撃の可能性のある現場の一つとして、教科書倉庫ビルを見ていた為でる。事件直後、最初に倉庫ビルに到着した警察幹部はハーバート・ソーヤー刑事部長である、およそ事件から5分後の12時35分頃である。彼のとった行動は。まず教科書倉庫ビルの巡視である、彼は4階まで回った後、おもむろにビルの封鎖を指示したとされている。その時間は12時45分と記録されている、順序が逆ではないだろうか、こそ泥の逮捕ではない、大統領殺害犯が、まだ中にいる可能性のあるビルなのである。現実に、ソーヤー部長が到着と同時にビルの封鎖を行っていれば、オズワルドもビルから出られなかった可能性は否定できない。15分あれば、7階建てのさして広くはない建物の、どこに居ようと脱出は可能である。しかし、この遅れた封鎖の後、教科書倉庫ビルに取り残された人物がいた、ジェームス・パウエル,現役の陸軍情報部員である。 ダルテックスビル事件当日、ダラス警察はオズワルドを含めて合計9人の挙動不審人物を逮捕、もしくは連行している、この中でオズワルド以外の8人は全員指紋も取られず、記録も写真も皆無なのである、ただ、名前だけが列挙されているに過ぎない。ほとんどが偽名であった。その中に、ジム・ブレイドンという人物がいた。 暗殺者の巣作り事件のあった1963年11月から20年以上ものあいだ、ダラス・テキサス教科書倉庫ビルは閉鎖され、一般人はビルに立ち入ることが禁じられていた。最近になってようやく解禁となり、現在では”6階ミュージアム”として解放されるようになった。その事自体、異常ではあるが、本項の主題ではないのでさて置くとして。事件の研究者達によって”暗殺者の巣”と呼ばれるこのコーナーは、いったい、いつ作られたのであろう。この”巣”は、外壁に教科書の入った段ボール箱が28個積み上げられ、巣の中には雑多な箱と、銃架変わりに使用したと思われる3個の箱が積んであった。総計で40個以上の段ボールが使用されている。被疑者解析の項で述べたように、ビルの6階には事件当時、ボニー・ウイリアムズが昼食を摂っていた、ウイリアムズの証言によると、彼が6階を離れたのが、12時10分から15分の間と言う事になっている。当然その日の午前中まではこの6階では連日荷役作業が行われている。倉庫の荷物の積み上げにはおのずとルールがある。それでなければ作業に支障が起きるのは素人でも分かる。前日までに巣ずくりが行わ れていたら、確実に異常が発見されるはずである、すると、巣ずくりは事件当日の午前中に行われたのであろうか、答えはノーである。午前中には通常通り作業は行われており誰かが(ウオーレン報告書によると、オズワルドであるが)通常と異なる作業を誰かがしていたといった証言は皆無である、それにいつ誰が近くに来てもおかしくない環境でこのような作業が出来るはずも無い。すると、この巣はウイリアムズが立ち去った12時10分以降に作られた事になる、はたしてこのような事が一人で可能であろうか。皆さんも経験があると思いますが、荷物で重いものの代表は、水と紙なのです。引越しなどで、大きな段ボールに気前良く本を詰め込んで動かなくなってしまった経験はありませんか?この、巣に使用された教科書入りの段ボールは一個の重さが平均25キロあるのです。全部で約1トン・・・・これを一人で射撃直前までかけたとしても20分で積み上げる事は不可能では無いにしても、これだけの時間でやれば、ヘトヘトになってしまうはずなのです。しかしオズワルドの超能力はここでもいかんなく発揮され、作業の直後オリンピック選手なみの射撃のさえをみせたと、報告書は言ってい るのです。 ダラス市 カバナ・モーテルに集まった人物ダルテックスビルで一時逮捕された人物、ユージン・ブレイデイングは、ダラスに滞在する時は、カバナというモーテルを定宿にしていた。彼は、1963年11月21日の夜も、このモーテルに滞在していた。ところが、同じ日の夜、もう一人の人物が、このカバナモーテルを訪れている、ジャック・ルービーである、彼の証言によると、彼がこのモーテルをたずねたのは、ローレンス・メイヤーズという人物に会う為であったと証言している。このローレンス・メイヤーズは彼の恋人、ジーン・ウエストを伴って20日にダラス入りしている、そして、彼の兄のエドワード・メイヤーズも息子のラルフ・メイヤーズと共に、同じ頃ダラスにいた、エドワードは、ニューヨークのペプシコーラの販売会社を経営しており、ダラス入りの目的は、ダラスで開かれた清涼飲料水業者の大会に出席する為であったと証言している。そして同行した、息子ラルフ・メイヤーズは陸軍情報部の諜報部員であった事は現在では、周知のことになっている。とすると事件前日の夜、同じダラスのモーテルに、ローレンス、エドワードの兄弟さらに陸軍情報部員、事件現場で不審人物として逮捕された人物、オズワルド殺人犯の5名が集まっていたのである。ちなみに、当時ペプシコーラ社の顧問弁護士は、リチャード・ニクソンであり、エドワード・メイヤーズとは旧知の間柄であり、彼自身もダラスの清涼飲料水業者の大会に出席していた。 シカゴ局WH4−4970ベル電話会社のローレンス・メイヤーズ通信記録の中にシカゴの電話番号WH4−4970が頻繁に出てくる。この電話番号は彼の恋人ジーン・ウエストの電話番号である、これだけなら、当たり前といえば当たり前であるが、この電話番号が妙なところから出てくると、笑い事ではない。この電話番号の通信記録が出てきたのが、ニューオリンズ・キャンプ街544番地のガイ・バニスター事務所のデビット・フィーリーの記録からである、フィーリーとジーン・ウエストの接点はまったく無い。とすると、WH4−4970の電話を利用してウエストが連絡員となり、メイヤーズ・フィリーの連絡線はあったのである。メイヤーズには陸軍情報部の甥がいる。さらに驚くべき事に、ジャック・ルービーの通信記録にまで、この番号が出てくるのである。 オズワルドとニクソンを結ぶ線007の映画をご覧になった方も多いと思いますが、彼のように事件の全体像をしっかり把握して、敵に向かって大活躍をする。というような、人物は現実の諜報活動にはまったく無い、もし、彼のような人物が仮に存在したとしたら、その裏では数千人の諜報部員がサポートしているのである。各諜報部員は全体像はまったく知らずに活動するのである、コンピュータの巨大ソフト開発と同じである。しかし、その諜報部員や利用される人物、の接点をつなげていくと巨大なプロジェクトの概要は見えてくる事がある。オズワルドが庇護を受けたモーレンシルツ、そしてニューオリンズ、キャンプ街544番地でのクレイ・ショー、デビット・フィリーとの接点、そこに同居するキューバ革命委員会の調整役ハワード・ハント、バーナード・バーカー(二人は現場に居た可能性がある。グラシノールの偽シークレットサービスと連行される三人の男の一人として)。デビット・フィリーやジャック・ルービーとWH4−4970で連絡をとるローレンス・メイヤーズ、彼の甥の線から陸軍諜報部、現場の教科書倉庫ビルにいたジェームズ・パウエルは現役の陸軍情報部員。また兄エドワードの清涼飲料水会社の顧問弁護士は、リチャード・ニクソン。 一人の人物ウオーレン委員会証拠物件237号は一人の人物の写真である。暗号名”ソウル”プロの殺し屋である、この人物こそケネディに致命傷を与えたヒットマンであったと主張する人物がいる。リッキー・ドン・ホワイト、彼の父親ロスコー・ホワイトは、事件当時CIAの諜報部員であり事件に深く関わったと、息子リッキーに述懐したと言うのである。父親によると、CIAのある上層部から重要なプロジェクトに信頼のおけるヒットマンが必要であるとの指示を受け、かつて何度か共同で任務についたことのある人物、暗号名ソウルを推薦したと言う、ソウルがどのような任務に就いたかは父親は知らないと言ったが、彼を紹介した以降で暗殺者が前面にでてきた事件は世界中でケネディ事件だけであると、強く暗殺事件との関わりを示唆していたと言うのである。これだけの証言では何の重要性は感じられないが、この証言を補強する証言がまったく別のところから出てくると、俄然重要なファクターとしてクローズアップされてくる。その証言は、ロサンゼルス郡保安官事務所の刑事部長ヒュー・マクドナルドの口から飛び出した。彼によると、ある事件でソウルと話す機会があったマクドナルドは彼 の口から直接、暗殺に携わった事を聞いたと言うのである。彼によると、1963年5月、私的筋によって計画された暗殺の打ち合わせの為ハイチを訪れた、そこで彼は暗殺に関する基礎的な詳細を与えられ、1963年末までに実行するように指示され、手筈はすべて整っていると保証された。大統領の近くで発砲する身代わりまで用意されており、その身代わりは自分の発砲は単にケネディを脅すだけであると信じこまされている。と言うのである。ソウルはどこの組織にも属しておらず常に単独で行動する人物である。ホワイトとマクドナルドの主張で唯一の重要な食い違いは。ホワイトが、ソウルと自分の父親とが、CIAの諜報員として関与していたと主張するのに対して、マクドナルドはある私的なグループに金で雇われて実行したと主張する点である。 これらの主張の問題点は、彼らの主張を裏ずける実証がなく、さらに暗号名ソウルが見つかっていない点にある。 暗殺現場に居た人物ここに3人の人物(一人は影になっている。)が、警察官に連行されていく写真がある。この写真は事件の後、デイリー広場の北側に広がる操車場で、不審人物として逮捕された3名の写真と説明されている。当時さほど、重要視されていなかった写真であるが、写真の警察官の銃の持ち方に疑問がだされ調査の対象となった、当時、この写真の二人の警察官はダラス警察に所属する警察官に該当者がいなかったといわれている。また、連行される人物が一人はハワード・ハント、一人はフランク・スタージェスに酷似しているといわれている。両名は(時代背景キューバ問題の項参照)やウオーターゲート事件の主犯格として登場する人物であり、元CIAのエージェントである。この二人が事件当日現場に居た事が事実とすれば、暗殺プロジェクトの全容がかなりハッキリしてくるのである、当然二人は、そのような事実は無いと言っている。 守られなかった規則大統領護衛官(シークレットサービス)は、大統領の護衛が目的で全米の警察から選抜され、特別な訓練を受けた男達である。したがって、大統領警護の任務についている場合には、24時間その任務に拘束される。ところが、このテキサス遊説旅行に際して警護官達は通常の任務を忘れたかの様な行動をとっている、その例として、ダラス入りの前日11月21日の夜、フォートワースのの街で大統領夫妻が床についた後、彼らはホテルを出て飲みに出かけていたのである。翌日の8時からその任務が始まるのを十分承知のうえである。大部分は朝の3時にはホテルに帰ったが一人は5時まで帰らなかった。9人の警護官のうち4人は、翌日のパレードで大統領の後続車に乗る最重要任務に就いた。この件に関して、ウオーレン報告書は”彼らが、前夜早い時刻に床についていたならば、事件の瞬間もっと、敏捷性を発揮していたとも考えられる。”と、にがにがしく書いている。 警察署長の職務放棄ある街でその国の最高権力者が、どんな理由にせよ死亡した場合、それが銃で撃ち殺されたような場合その街でもっとも忙しくなるのはその街の警察署長である事は当然である。ところが、ダラスの警察署長ジェシー・カリーは事件直後の初動段階では一切その職務を執行していない。彼は、パレードのもっとも先頭を走る先導車に乗っていて事件に遭遇している。彼は、事件直後、現場に戻り陣頭指揮を執る訳でもなく、パークランド病院に二人の被害者に付き添う形で急行している。この事自体は批判もあるであろうが無理も無い行為と思われる。しかし、この後彼は大統領が死亡しコナリー知事も一命を取りとめたことが判明した後も、病院にとどまりジョンソンに付き添っていた。彼はジョンソンの警護の為にいた訳ではない、ケネディが死亡した瞬間シークレットサービスの最優先警護対象者はジョンソン副大統領に移っていたからである、警察署長のでる幕は無いのである。それでも彼は病院にとどまり、なんの行動も起こさなかった。さらに、ジョンソンが空港に向かう事を決めたあと、被害者に付き添う訳でもなく、現場に戻って陣頭指揮を執るでもなく、ジョンソン
と共に空港に向かったのである。彼は空港に到着すると今度は、大統領専用機に乗り込み90分間も出てこなかった。ダラスの街には暗殺者が自由に歩きまわっている可能性もあり、部下達が血眼になって行動している時に、彼は事もあろうに、大統領専用機の中で行われたジョンソンの大統領就任宣誓式の最前列に陣取っていたのである。(写真、ジョンソンの右手に隠れている人物) 現場に残ったシークレット・サービス事件の直後、現場にいた警察官達がまっさきに向かったのはグラシノールの木の茂みであった、その現場にもっとも早く着いたのはセイモア・ワイズマン巡査である。彼が、その場所に付いた時まっさきに目についたのが多くの足跡とタバコの吸い殻であった。続いて、到着したのがジョー・スミス巡査である。彼は火薬の匂いがした、と証言している。二人はその場所で見かけぬ男を発見する、二人が銃を構えてちかずくと、その男は胸のポケットから手帳のようなものを出してこう言った。”シークレットサービスだ、ここは大丈夫、何も無い”と。 グラシーノールに昇った煙ユニオンターミナル鉄道の保線係サム・ホーランドは信号機の修理の為陸橋の上にいた、彼は大統領のパレードを陸橋の上から眺めていたが、大統領のパレードの手前にある茂みから煙りが上るのを見たと証言している。丁度彼の目線からはパレードと茂みを両方視界のなかにとらえる位置にあった。 舞台裏からの目撃者リー・バワーズは、グラシーノールの裏手にある鉄道管理塔で仕事をしていた。この建物は高さ約4メートルあり、引込線から駐車場その奥にデイリー広場が広がっており、全体を一望できる位置にある。彼は、パレードを見物する意思はなかったので事件の瞬間は見ていない。しかし、その30分程前に謎の茂みの裏手にある駐車場付近に、見慣れぬ他州の車が3台入ってきて付近をゆっくりと走りまわっていた。そのうちの2台は他州のナンバープレートであった。その車を運転していた男達は、マイクだか電話だかを手にしてしゃべっていた、塔の目の前をウロウロしていたのでハッキリとみている。と証言している。 六階にいたもう一人の影狙撃犯を目撃したとされる人物は、前出のハワード・ブレナンである。彼の目撃証言によって人相手配がおこなわれている。記録によると、ウオーレン委員会で目撃証言をした人物は3名となっている、一人はブレナンであるが、他の二名はアーノルド・ローランドとリー・ユーインズである。ここで、この二人の証言を引用してみよう。 雨傘の男1963年11月22日ダラスの街はうす曇りの天候であった。前日までの雨も上がり、まずまずの天候であったと記録されている、このような日に雨傘を持ってパレード見物にきていた男がいる。左の写真をご覧ください、ザプルーターフィルムの225コマ目の写真である。道路標識の裏に雨傘を広げている人物が写っている、目撃者によると、彼は狙撃の直前に傘を開いて高くかかげた、次の瞬間銃撃が起こった、すると彼は傘をたたみステッキのように持って落ち着き払って現場を離れていったと言う。確かに傘を開いて高く掲げるといった不審な行為は狙撃の合図のようにも取れるし、目前で銃撃が行われたにもかかわらず悠然と現場を離れていく、といった行為は異常である。この黒いレインコートを着た人物こそが、大統領暗殺の総指揮をとった人物であると信ずる研究者も多い。 FBIに流れたテレックスウイリアム・ウオルターは、事件当時ニューオリンズのFBIに勤務していた職員である、彼はこう証言している。事件の起こる5日前、彼は夜勤にあたっていた、かれの勤めるニューオリンズ支局のテレックスが一枚の警告文を打ち出した。彼はこの警告をニューオリンズの5名の捜査官に電話で連絡した、彼の任務はここまでであった、彼は忠実に任務を果たしたのである。しかし事件が発生して彼は仰天した、警告のテレックスの内容通りの事件が起こってしまったのである。彼は事務所に飛んでいってそのテレックスの内容を確認して、内容を正確に写し取った、数日後そのファイルケースを開けてみると、そのテレックスだけが抜き取られて無くなっていた。彼の写し取った警告のテレックスの内容は以下の文章であったと言う。 |