1960年来るべき大統領選挙の前哨戦・民主党大統領予備選は、実質的にジョンソン、スチーブンソン、ハンフリー、サイミントンそしてケネディの5人の争いになった。民主党指導者たちはジョンソンを、民主党の元大統領トルーマンはサイミントン、おおきな影響力を持つルーズベルト大統領未亡人はハンフリー、をそれぞれ強力に後押ししていた。そして当時の実質的な民主党党首はスチーブンソンであった。おおかたの予想の中に何の後ろ盾の無いケネディの名前は無かった。しかし、勝利したのはケネディその人であり、それも地滑り的な大勝利であった。そして、この時からジョン・F・ケネディとリンドン・B・ジョンソンの宿命的な対決が始まった事は、歴史の大きないたずらであった。

誰よりも大統領になりたかった男

ジョンソンはなんとしても大統領になりたかった。彼は1960年の民主党の候補決定大会の前日になって始めて立候補を表明したが、その表明は決して突然のものではなく、実際には立候補表明の一年近くも前から全米で大統領選挙キャンペーンをおこなっていた。ただ、予備選のあいだはそれを傍観するという作戦を取り、他の候補者の間で激戦になるのを待っていたのである。激戦に成れば、最後の党大会で抜きんでた候補が現われず自分の現在の民主党上院院内総務という輝かしい立場からくる政治力で指名を獲得できると考えていた。作戦は、ほぼ成功しかけた。だがジョンソンはケネディの力を過小評価していたのである。
ジョンソンは、表明なき選挙キャンペーンの準備中に百万ドル以上の選挙資金を集めた、この資金はほとんどがテキサスの保守的な石油事業者からの献金であった。彼等は”テキサスレンジャー”と名乗りそのリーダー格のもっとも有力な人物はジョン・コナリーとH・L・ハントであった。
1960年の予備選が始まると事態はジョンソンの予想を裏切りケネディ独走の気配が濃厚になってきた、立候補表明をしていないのであるから当然ではあるが、ピッツバーグではケネディ七万六千票に対してジョンソンは七百四十票、ジョンソンが選んだ他の予備選でもほとんどが百倍以上の差をつけられて完敗したのである。ジョンソンは自分自身の力を過大評価していた事に気ずく。ここでジョンソンは対立候補として脚光を浴びてきたケネディの追い落としに、あの手この手の作戦を展開する。カソリックであったケネディにねらいを定めた”旧教徒の陰謀”キャンペーン(アメリカはプロテスタントの国であり、かつてカソリックの大統領は存在しない)、さらには父親であるジョー・ケネディが駐英大使時代にナチズムに対して妥協的な政策をイギリスや本国に提案していた事実を捉えて、これを攻撃したのであった。
党大会の直前にある事件が起った、当時「マンハッタン事件」としてちょっとした物議をかもしだした事件であるが、概要はこうである。マンハッタンにある病院に何者かが侵入、一人の人物のカルテを盗み出した。そしてこの犯人は検挙されていない。ただこれだけの事件であるが、そのカルテの人物がケネディであり、その病院はケネディの主治医の病院であった。候補決定の党大会でジョンソンは盛んに代議員にふれて回った「ケネディは重度のアジソン病であり、健康に重大な問題がある。証拠もある。」と・・・・・・

副大統領候補

ケネディは一回目の投票で勝利を確実にし、ジョンソンの作戦は失敗した。しかし、ジョンソンは敗北はしたが落伍はしなかった、ケネディはこの間の誹謗中傷にもかかわらずジョンソンを副大統領に指名するにいたったからである。推測ではあるが、ケネディがジョンソンを副大統領候補に考えていなかったことは明らかである。それではなぜ、副大統領候補にジョンソンを持ってきたのか?
ケネディは民主党の大統領候補選挙には勝ったが、まだ本番は先である、しかも、相手は確実に現職の副大統領ニクソンである。楽観は許されない。ケネディはこの本選に勝利する為には民主党の団結が不可欠な事を知っていた。ケネディ陣営の戦略家は、ケネディが分裂状態にある民主党を団結させてジョンソンを宥和するには、ジョンソンに副大統領の地位を提供するしかないと考えたのかもしれない。民主党は分裂し疲弊していた、ケネディが大統領候補に指名された事に対し、ただでさえ不満の多かった南部民主党員は怒っていたし、彼がジョンソンを副大統領候補に指名するとの噂が流れると、ただでさえ疑い深い党内のリベラル派を怒らせた。農民はケネディに、労働者はジョンソンに、黒人はその両方に不信感を抱き、スチーブンソンの熱烈な支持者達はケネディがスチーブンソンに国務長官のポストを約束しなかったことに不平を鳴らすしまつであった。こんな混乱の中、大方の予想は。ジョンソンはその申し出でをはねつけ、勢力を誇る与党民主党の党首として上院議員の地位に戻るものと予測された。ケネディの申し出では、団結の為のジェスチャーだけであり、誰もがそれを知っていた。 実際ケネディからの申し出でのある数時間前まで、ジョンソンは新聞記者に対しケネディの副大統領候補にはならないと断言していたのである。狡猾きわまりないジョンソンがケネディに公式に申し出でをするように仕向け、その上で承諾すると言う筋書きを考えたのか、あるいは、ただ気持ちが変わっただけなのか、それは知る由もないが。解っている事は、いかなる事情だったにしろ、ケネディが申し出でたとたん、ジョンソンは断るどころか、申し出でを二つ返事で承諾したのであった。この異変により、党大会は驚きの波にのまれた。
こうしてケネディ・ジョンソンの組み合わせが出来上がった。それは圧倒的な支持で党の指名を獲得したカリスマ的才能の男と、その勝利者を公然と嘲り憎む冷徹なテキサス人と言う組み合わせであった。そして副大統領候補になる事を承諾した直後、新聞記者に次のように述べている。候補受諾の直後の言葉としては極めて意味不明であり、三年後に聞いたならば恐怖の言葉となる言葉を・・・・・

「一か八かやってやろうじゃないか!・・・・・・・」と

ケネディ対ジョンソン

大統領候補指名選挙でケネディに敗れた後、ジョンソンは敗北を根にもち続けた、共に選挙戦を戦っている時も、当選した後でさえ、ジョンソンは根にもち続けた。表面上は問題の無い円滑な関係であるように見せかける必要があったが、実際には激しい敵意を抱いていた。大統領選挙で勝利した数日後、ケネディが信頼関係を取り戻そうとジョンソンを訪ねたとき、ジョンソンは新しい大統領当選者の前で頑として帽子を取ろうとはしなかった。この瞬間から、ケネディは国政に心を悩ますだけでなく、リンドン・B・ジョンソンの、辺りはばからぬ非常識な行動にも我慢しなければならなかった。
副大統領だったジョージ・ブッシュが大統領になったつい最近まで、アメリカ政界における副大統領の役割は政治的破滅への道を歩む事だとされていた。ジョンソンが副大統領に就任するなり直面したのもこの問題であったが、それは彼が政治的に無力な地位に就いたという現実を認めようとしなかったからである。彼は合法的な政治的権力は奪われても、副大統領としてまた政党人としてワシントンで強力な勢力を維持していけるものと勘違いしていた。一公僕としてではなく、一私人としての自分は権力者であり「権力は自分についてまわる。」と信じこんでいたのである。ジョンソンには信じられない事であったが、権力は彼についてこなかった。やがて、ジョンソンがそれに気がつき、自分が間違った選択をしたと悟ったときのケネディに対する敵意はさらに激しいものとなったのである。ジョンソンの権力はみるみる失墜し、ワシントンで何の影響力も持たない存在になりさがった。彼は政治家として、輝ける民主党上院院内総務と言う民主党ナンバーツーの立場から命令される立場におかれたのである。与えられる仕事と言えば、全米から陳情されるさまざまな実情調査や議員の地盤固めといったつ まらないものばかりで、議会でもお飾りのように議長席の隣に座っているだけの存在でしかなくなったのである。1962年頃になると彼は「テキサスに戻って引退するか再び上院議員に立候補するか。」とまで公言するようになっていた。しかし、彼はテキサスにおいてもその政治的勢力は失墜し、コナリーやヤーボローといった、かつて彼が顎で使っていた人物にその基盤を奪われていたのであった。
二人は正反対であった。ケネディは優れた教育を受け、育ちも良くマナーをわきまえた男であった。紳士である彼は、いくら贔屓目に見ても無骨なカウボーイ止まりのジョンソンに忍耐をもって接した。ジョンソンが政治的な問題を起こした時、ケネディにできる事といえば、肩をすくめてこう言うことだけだった。「仕方が無いさ、リンドンのすることなんだから・・・・」
ジョンソンはひそかにケネディや彼の顧問団を「激情家」や「労働運動かぶれの自由主義者」と呼んだ。ジョンソンにとって、ケネディは自分の夢を打ち砕いた敵であり、ジョンソンは彼の言動をいちいち自分へのあてつけとひがみケネディのせいで大統領になれないとうらんだ。
ジョンソンがケネディを嫌ったのは、彼が1960年の民主党大統領指名候補となってジョンソンの計画を砕いたからであり、自分が副大統領として祭り上げられ、かつての権力の栄光の全てを失う事になってしまった元凶であると逆恨みしたからである。ジョンソンはケネディの大統領という地位を本来ならば自分のものだと考えていた。ジョンソンのケネディに対する憎しみはあまりにも強く、継承権によって大統領になってからさえも、ケネディの遺族に対する仕打ちはひどかった。夫をなくしたばかりのジャクリーンに対するジョンソンのとった有名な態度は、どの様に考えても、社会的にも政治的にも、冷酷無情なものだったとしか思えないのである。