ケネディ暗殺事件に関する重要文書は、そのほとんどが公開されていない。それら非公開の情報源はおおまかに大別して四つ存在する。一つは2039年まで非公開とされたウオーレン委員会の調査資料、二つはアメリカ連邦捜査局に保管されているであろう捜査記録、三つはキューバの秘密文書保管庫にキューバ秘密警察の調査資料が隠されていると思われる。最後の四つ目が旧ソ連の秘密警察KGBの保管する文書である。これら文書の中で唯一KGB資料だけがソ連崩壊の混乱のなかで、極めて短時間ではあったが、人目に触れた事があった。その文書は六冊のファイルからなる文書で、コード番号に31451のナンバーが割り当てられていた。KGB秘密文書31451はソ連におけるオズワルドの行動の総てが最大もらさず記録されている。この資料は暗殺事件の真相を明らかにする様な物ではないが、少なくとも、事件研究者にとって次の三つの重大な疑問に答える事のできる文書であった。
  1. オズワルドはソ連のスパイであったのか。
  2. 彼は、どこか他の情報部に協力したのか?
  3. 1959年10月から1962年6月まで、彼はソ連でいったい何をしていたのか?

これらの疑問は、事件研究者にとっては極めて興味深い内容を持っている。

コードネーム”リホイ”

リー・ハーヴェイ・オズワルドは1959年10月15日、フィンランドからの観光団の一員としてモスクワへやってきた。宿舎は市内のベルリンホテル。翌10月16日、オズワルドは当局にソ連への政治亡命を申し出、市民権の取得を申請した。ソ連にきた総ての外国人の尾行や監視は当時KGBの職権であった。オズワルドが亡命を申請すると一段と彼に対する監視がきびしくなった。この話しはのちにケネディ暗殺の容疑者となる人物についてソ連当局が作成した報告書の始まりであった。
最初のうち彼の亡命意図はまったくむくいられなかった。ベルリンホテルの外国人サービス課から、貴殿は申請書で共産主義のシンパであることを自認したが、申請は却下されたので10月21日までに出国すべしと通達された。彼の亡命申請がなぜ却下されたのか、説明しがたい。KGBが、アメリカのスパイかもしれない人物とよけいな事を構えたくなかったのか、それとも、政府当局が不要な米人審査やそもそも一観光客が原因の大騒ぎを嫌がったのかもしれない。しかし、そのごのオズワルドの態度はいやがおうでも彼らの注目を浴びた。
10月21日彼はホテルの部屋でソ連当局への抗議と称して自殺を図っている。治療の為ポトキン病院に運ばれたが、ホテル室内のテーブルの書き置きには「いったい俺は死ぬ為に、ここに来たのか?おれは生きたい」とあった。この事件の後、KGBは、ますます念入りに彼の身辺を調査した。防諜関係者は「彼は、西側諜報機関が送り込んだスパイではないか?」との仮説を立て、その後二年間つ続いた調査活動はすべてこの仮説を基に組み立てられた。
KGBの調査に対して、ポトキン病院の医師は、患者はバランスを欠いた人間で、突拍子も無い行動に出る可能性がある。と指摘している、事実オズワルドはこの後、出国を拒否したばかりか、ソ連最高会議に亡命許可申請書を送り付けたのである。さらに、10月31日、彼は駐ソアメリカ大使館に現れ、大使にたいして、アメリカ市民権の放棄を宣言している。この執拗さが見過ごされるはずはない、当時の最高権力者の一人、アナスタス・ミコヤンの出番となり、翌11月になって、彼の一時滞在許可がおりた。同時にKGBは彼の24時間の監視体制に入った。かれの滞在先に選ばれたのは、地方都市ミンスク、ここには外国人も住んでおらず、大使館も遠く接触も難しい、したがって彼が西側の手先であるかどうかは簡単に分かるというのがその理由であった。こうして1959年末にオズワルドはまったく見知らぬ場所に移り住んだ、当時はまだ薄っぺらだった彼の一件書類も、彼の後を追う様にミンスクに移された。内容は主として初歩的なデータや監視記録、彼の亡命申請書、”遺書”、医師の証言などの内容であった。31451文書を見たKGB職員の語るところによると、「オズワルド工 作」では現地諜報部は、直接尋問と特殊薬剤使用は控えたが、他にの方法は当時適用できるものは統べて使っていたと言う。ミンスクKGBは彼を「リホイ(邪悪・大胆)」と呼んだ。

オズワルドの射撃成績

ミンスクでは、彼はゴリゾント通信機工場第25試作部に組立工として配置された。月給761ルーブルの最低レベルの賃金でエレクトロニクスとは無関係であった、さらに試作品工場であるからKGBにとっては都合が良かった。彼が非公開のデータに興味を示すかどうかの判断を容易に下せるわけであった。彼の周囲の人間は統べてKGBに呼び出され国家に対する忠誠を誓い、オズワルドの看視者となった。オズワルド本人が自分の一挙手一投足をKGBが知っていたと言う事を察知していたかどうか、判断が難しい、外見上はすべて順調であった。国は彼の面倒を良く見た。赤十字は彼に月額800ルーブルの生活保護費を出した。さらに市内の中心部に住宅も提供された、彼がミンスクに来たのは1960年の1月であったが、ソ連市民なら数年待たなければ提供されない社宅が3月には供与されたのである。しかし、当然の事ながら、その社宅にはあらゆる監視・盗聴装置が張り巡らされていた。今日、諜報関係者が説明するところによると、オズワルド工作において、KGBにとって重要だったのは盗聴装置だけではない、彼のおかれた状況と彼の挙動も重要であった。たとえば、31451文書 には、彼がカメラとラジオを買った事が指摘されている。しかし「リホイ」はそれらを事実上使用しなかった、ラジオは壊れてしまい、かれは友人に修理を依頼している、故障は極めて簡単なもので、これによって彼がエレクトロニクスの知識はまったく無く、専門教育は受けていないと結論している。このような些細な事以外にも、KGBは彼がマルクス・レーニン主義の学習にどれだけの関心を持っているかにも注意を払った、何しろ亡命理由が共産主義のシンパである事が理由の一つにあげられているのである。ところが、彼は共産主義の著作には一切無関心、労働組合の集会にもほとんど顔を出さず、仕事ぶりもいい加減であったと報告されている。日増しにソ連の生活条件に対する不満を膨らませていった。彼は、同僚に社会主義は実際にはそれほど良くない、工場の給料だけでは暮していけないと言っている。1960年8月彼が工場の狩猟クラブに入会しツウラ兵器工場製のTOZ銃を手に入れた時、KGBは大騒ぎになった。当時、彼と銃に関連する事情がのちにどういう意味をもつようになるのか想像もできなかったのであるが、KGBは彼が狩猟を口実に秘密施設のありかを探るつもりではな いかと警戒したのである。森に行くたびに、「リホイ」の周りにはKGB協力者の同僚達が同行していた、彼がスパイ目的で狩猟に出かけているのではないことは、すぐに分かった。と同時に、かれの射撃の腕前も、たいしたことはないことも動じに判明した。彼の工場で職員の射撃大会が催された事が有った。工場のスポーツ行事責任者のダビット・ズヴァゲリスキーの話しによると、「リホイ」の成績は25メートルクラスの標的射撃で5点満点の3点であったと言う、まあまあ並みの成績である。ケネディ暗殺研究者の中には、オズワルドがソ連で大いに射撃に熱中して、余暇の大部分を射撃場で過ごしたとするものが居るが、文書には射撃場に顔をみせたのは、この時一度だけであったとされている。

マリーナ・ブルザコワとの結婚

1961年3月17日オズワルドはミンスクの労組会館で開かれたダンスパーティーで19歳の薬局店員マリーナ・ブルザコワと知り合う、その後まもなくオズワルドは病気になって入院する。マリーナは彼を見舞った。その後一ヶ月の1961年4月30日二人はミンスク市レーニン区の戸籍登録所に婚姻届を出している。彼らの関係がこれほど早く進んだのは奇妙である。1960年代のソ連ならなおさらである。それゆえ、彼女がKGBの協力者であると疑う研究者も居るが、31451文書を見た事のあるKGB職員は、二人の出会いを監視したのは事実であるが、それ以上のものはないと記されていたと言う。KGBでは彼女を雇った事も無ければ、協力を依頼した事も無いと断言している。時の経過と共にマリーナ対策の必要性は無くなっていった。それと言うのも、KGBがオズワルドの身辺調査を進めれば進めるほど、彼がソ連情報部にとって何の価値も興味も無いことがわかってきたのである。リー・ハーヴェイ・オズワルドはCIA、その他いかなる情報組織の任務をも遂行していないと言う事が判明したからであった。1961年時点の31451文書の最終結論であった。

オズワルドの帰国

1961年12月、オズワルドは突如アメリカ帰国を申請している。ソ連当局は、この突然の行動に困惑を隠さず、彼の行動を邪魔した形跡がある。ソ連のプロパガンダから見れば、これはまずい事態であるからだ。KGBがオズワルドの身柄拘束に関与したことは無いと言うのが公式の主張であるが、ミンスクの知人達は、彼がモスクワへ行こうとしたのを、某勢力が妨げた事が何度もあると証言している。彼は、アメリカ国籍は放棄していなかった為、彼の米国査証1733242は彼の手元にあった。それゆえ、KGBの圧力行使はアメリカ側もオズワルドに注視していただけに、大問題に発展する可能性もあった。ソ連当局の引き延ばしにはあったが、1962年6月にオズワルド夫妻と生後3ヶ月の娘ジューン・マリーナは、ついにソ連を出国した。彼は、出国にあたって、隣人のマイヤ・ゲルツオビッチ夫人に別れの言葉を言った。「自分の共産主義を自分で建設して下さい。あなたがたは、ここでは人間らしく微笑するすべさえ知らないのです。」と・・・・こう言い放ったオズワルドはほどなくアメリカに到着して、31451文書関連の調査はこれで終了した。1963年11月22日まで・ ・・・・・・

残された謎「彼は、なぜ、何の為にソ連に来たのか?」

ケネディ暗殺事件でリー・ハーヴェイ・オズワルドの名前が、全世界に知れ渡った時、31451文書は再び日の目を見た。そして、その厚さは数日で数倍になったと言われる。事件当時、オズワルド=ソ連亡命者=共産主義者=ソ連の犯罪の図式が最も早い時機の犯人像であった。しかし、31451文書はその可能性を完全に否定している。とにかく、KGB当局者も又ミンスク時代の彼の知人・隣人達の誰一人として、オズワルドがなぜ、何の為にソ連にやってきたのかと言う問題に、筋道をたてて回答できる人間は一人もいなかったのである。彼が、ソ連もしくは、共産主義に格別の愛着をもっていなかったことはあれほど早くにあきらかになっている。KGB31451文書は、彼の亡命意図は不明と結論している。