今となってみると、ケネディ暗殺事件の最大の”皮肉”は、暗殺者とされたオズワルドが逮捕されたことによってではなく、ジャック・ルビーと言う「第三者」が現れてオズワルドを射殺したことによって、事件の背後にひそむ大掛かりな陰謀の存在が浮かび上がった事であろう。(ルビーがオズワルド射殺後、警察の尋問にたいして、最初に応えた言葉は、オズワルドを撃ったのは、ケネディ大統領暗殺に関する陰謀と関連したものではないと主張したのである。もし、ルビーが真実、大統領の死を悲観し、キャロラインに対する同情やジャクリーヌが法廷に立つ事を防ぐ為に犯行を実行した、とするような一介の小市民であったとしたならば、この発言はおかしい・・・)言い換えると、もしルビーが表面に出てこなくて良い状況、すなはち、容疑者オズワルドが、警察もしくはシークレットサービスの手にかかって死亡してさえすれば、事件は一件落着まさに完全犯罪に成っていたかもしれないのである。事実、警察官としてその役目を実行しようとしたチピットは、逆に殺されてしまった、と推定する考え方も存在する。実際には、オズワルドは生きて警察の手に落ちてしまった、そのことは当然始まるであろうオズワルド裁判において”身代わり”オズワルドは知り得る事のすべてを洗いざらい表に出してしまう危険性が十分に考えられた。そこで、暗殺劇”第二幕”が急遽追加され、その主役として「ジャック・ルビー」が登場したと推定する事に、はたして無理があるのであろうか。ここでは、急遽「大舞台」の主役に抜擢されたジャック・ルビーの行動を追ってみる。

陰謀の道化師

陰謀の中心人物達にとって、ルビーを大統領暗殺の直接の目的に使う意図はなかったように思われる。(オズワルド逮捕以前の時点でルビーが目撃された場面は、事件の数時間前、グラシーノールへ狙撃犯を送ったピックアップの運転手として、もう一回はパークランド病院の中である。)しかし、歯車が途中で狂い、暗殺の実行犯もしくは実行犯と見せかけた人物が、警察もしくはシークレットサービスに射殺されずに逮捕されてしまったような場合、警察内部でこの犯人を沈黙させる事に最適な人物としてルビーが準備されていたとしても不思議ではない。事実、これを裏付ける重要な事実が存在する。事件の三日前の11月19日、ルビーは店の税金対策顧問弁護士グレアム・コッチを訪ねて、国税局の税金滞納問題を解決する為の金が入るアテができた、と報告している。また、この四日前にルビーは、シカゴから移住してきて十六年目にして初めて金庫を買っている。事件直前までルビーの店は結構繁盛していたが、彼は税務署や債権者に金があることを知られたくないと言う理由で、銀行には一切預金せず、金庫にも入れず、現金を常に肌身離さずもって居たのにである。そんな彼が突然金庫を買った、理由は彼にとってかつてない程の大金が入る予定ができたからではないだろうか。オズワルド殺害でルビーが投獄されたあと、実弟のアール・ルビーの収入がこれといった理由もなく激増した事に注目する事件研究者も多い。だが、ルビーの行動の中でもっとも疑惑を呼ぶのは、オズワルドがダラス市警に逮捕、拘留された後、ルビーはほとんど昼夜兼行でその動静を追い、ある種のチャンスを狙っていたとしか思われない行動をとっていることである。先入観なしにルビーの行動を時間を追って見てみると、その行動はオズワルドに対して何らかの行動をとる事を目的としているとしか思えないのである。しかし、ウオーレン委員会は、ありとあらゆる口実を求めてルビーの行動が偶然の連続であったとしているのである。それでは、ルビーが、容疑者オズワルドを付け狙い、殺害の機会を狙っていたことが明らかになると、何がまずいのであろうか。第一に、一市民の愛国者であるところのルビーが、一時の義憤に駆られてとっさの凶行に及んだという報告書の筋書きが壊れてしまう。第二に、ルビーがきわめて計画的にオズワルドを殺害したとなると、オズワルドがこのまま裁判にかけられ、色々な証言をすることによって、きわめて不利な立場に立つ人物がいることが明らかになってしまう。仮に、その人物がルビー自身であったとしても、ケネディ暗殺は、少なくとも二人の共犯による陰謀であった事になってしまい、これでは、ウオーレン委員会が、早々と確立した大原則の”単独犯行説”が崩れ去り、調査が振り出しにもどってしまう。第三に、ダラス市警の厳重な警備におかれていたはずのオズワルドが、一市民に過ぎないルビーが自由自在に付け狙うことができた事を認めるならば、これは、ダラス市警の中にルビーに便宜を図った警察官が存在した事を認めるに等しく、暗殺事件はダラス警察をも巻き込んだ大陰謀に発展する可能性を秘めている事になるのである。

ルビーの行動

ケネディが暗殺され、容疑者としてオズワルドが逮捕されてからのルビーの行動を時間の順に整理する。11月22日午後1時45分、下町のテキサス劇場の中で逮捕されたオズワルドは、午後から夜にかけてダラス市警本部で尋問を受けた。このころルビーは警察と裁判所の双方が入っているビルの三階に午後6時頃いるところをダラス・モーニング・ニューズ紙の警察記者、ジョン・ラトレッジに目撃されている。三階はいわばダラス市警の中枢部で、ジェシー・カリー署長の部屋と記者室などがある。大統領暗殺でごったがえす市警本部では、各階のエレベーターの出入り口に警察官が立ってチェックしていたが、ラトレッジ記者によると、ルビーは二人の記者に挟まれた格好で三階に入ってきたという。ルビーは後のウオーレン委員会の取り調べに対して、同夜は午後11時15分までは、市警本部には行かなかったと主張し、委員会はこれを信用している。しかし、そのルビーを午後6時から9時の間に市警本部で目撃したと証言したのはラトリッジ一人ではない。市警の風俗犯罪担当のエバハート刑事もその一人である、かれは、7時ごろ夕食を終えて3階に戻るとルビーに話し掛けられ握手までしたと証言しているのである。彼は、その担当上ルビーとは何度も面識がある。さらに、ダラスのラジオ局WFAAのロビンソン記者は、当日7時から8時の間にルビーがフィリッツ捜査一課長の部屋に入ろうとして、警察官に止められているところをを目撃している。それでも、ウオーレン委員会はルビーの主張を支持し、彼らの証言のことごとくを”時刻の記憶違い”の一言で却下してしまうのである。ルビーは11月22日の夜遅く、彼の主張では、この日初めて警察本部を訪れなんなく3階に入っている。23日を迎えて間も無い深夜、カリー署長とヘンリー・ウエード地方検事の二人が3階にいた記者団に対して、地下で記者会見を開き、その席にオズワルドも出席させる、と発表した。歓声を上げて地下に降りる記者団のなかににルビーの姿が在った。「歴史の興奮につりこまれて」と、あとでルビーは証言しているが、同時にそのポケットには連発式の短銃を忍ばせていた事もFBIの尋問で告白している。地下の記者会見室にオズワルドが連れてこられると、記者団は顔をよく見ようとテーブルのうえに土足で立った。ルビーもその中に混じってテーブルの後ろのほうに立っていたのをセス・カンター記者に目撃されている。(セス・カンター記者はルビーの友人で、暗殺直後のパークランド病院でも、ルビーと話しをしている。)それよりも、テーブルの上に立つルビーの姿は記者会見のニュースフィルムにはっきりと映し出されていたのである。もし、このフィルムがなかったらルビーは記者会見の席にも居なかったと主張していたかもしれない。ルビーの前には大勢の記者達、さらにその前にはカメラマン達が割り込み、フラッシュが飛び交った。「もし、ルビーがこの場所でオズワルドの射殺を意図したとしても、うまくいかなかったのではないか。」とカンター記者は、その著書”ジャック・ルビーとは何者だったのか?”のなかで書いている。最初のチャンスは見送らざるを得なかった。記者会見は極めて短時間で終わった。ところが、この記者会見の終わった後の奇妙な出来事を、会見に参加した多くの記者達が覚えているのである。オズワルドを拘置所に戻した後、ウエード検事がその場にしばらく残ってオズワルドの素性や過去の行動について記者団に説明していた。その際、検事がオズワルドの素性に関して「この男は、親カストロ系のキューバ解放委員会のメンバーです。」と言うと、最後列に立っていた男が大声を張り上げて、こう言った。”違う!”対キューバ公正委員会(Fair Play for Cuba Committee)のメンバーだよ!”と”一斉に記者団の目がその男に集中した。彼ら記者団はその男と、同じ警察の地下で翌日再会することになる。ダラスやニューオリンズに支部はなく、ワシントンに本部があるだけの一般には無名の組織の正式名称「対キューバ公正委員会」をこの段階でルビーが知っていて、なおかつオズワルドがそのメンバーであった事(注釈が必要であるが、オズワルドはこの委員会のメンバーである事を自称していたに過ぎない。)を記憶していた事はいったい何を意味するのであろうか。ウオーレン委員会はルビーとオズワルドは、事件前、一切繋がりはなかったと断言しているのである。11月23日、ルビーの動きは活発になる。この日の正午ごろ、カリー署長はフィリッツ警部を呼び、午後4時にオズワルドの身柄を市警から郡拘置所に移送するように指示した。この重要な内部情報は、アッというまにルビーの耳に入る。ルビーのナイトクラブの隣にある駐車場の係員が、午後1時30分頃ルビーが公衆電話をかけにやってきて、話の中にカリー署長の名前を出したのを聞いている。さらに、午後3時頃、オズワルドの移送先である郡拘置所で大勢の野次馬のなかにルビーの姿を交通課のハークネス巡査部長が確認している。ルビーは再びクラブの隣の駐車場に戻り再び公衆電話をかけている。今度は駐車場のマネージャーのホールマークが会話の内容を聞いていた。オズワルドの名前こそでなかったが、「彼」という言葉が使われ。「俺はそこに行ってるよ。」と告げていたという。この時の電話の相手はダラスの放送局KLIFのアナウンサーで、ルビーがこの日の午後、2回も電話してきてオズワルドの移送時間を聞いてきたと、ウオーレン委員会で証言している。23日の午後、ルビーが市警本部に現れているのを少なくとも5人の記者が目撃している。その内の一人NBCテレビのディレクター、ラインステインは、ルビーがテレビの中継車にやってきて、テレビモニターに映し出される市警本部3階の様子を懸命に見つめていたと証言している。しかし、ルビーはウオーレン委員会でこの日の午後には市警本部には行かなかったと言っている。すると多くの目撃証言にもかかわらずウオーレン委員会は「ルビーは23日の午後には市警本部には行かなかった。」と結論するのである。結局、この23日にはオズワルドの移送は行われず、カリー署長は夜になって「移送は翌24日の午前10時に実施する。」と発表した。

通報

24日の未明、FBIダラス支局とダラス郡保安官事務所に午前2時30分から3時の間に電話がかかってきた。内容は共にオズワルドの殺害を予告したものである。ウオーレン報告書には「氏名を名乗らない男の声で、委員会は、大統領を殺した男を殺す事に決定した。と告げてきた。」と短く触れている。実際にはもっと詳しい内容であった。この二件の電話はあきらかに同一人物からのものであり「リー・ハーヴェイ・オズワルドは、ダラス郡拘置所への移送の途中に、ダラス市警本部の地下室で殺害されることになっている。罪のない一般市民が巻き添えにならないよう、警察は発砲をひかえてほしい。」といった内容であった。この内容からみて、これは密告というよりは通報である、殺害の場所を予告するなど自信に満ちており、電話の主が名乗った「委員会」は陰謀グループの存在を誇示するかの様であった。これらの殺害通報の電話をしてきた人物がいったいどの様な背景の人物なのか、ここで言う「委員会」と称する組織は大統領暗殺にも関与したのか、それともオズワルド殺害だけを目的としたものなのか調査が必要なことは明らかであるにもかかわらず、ウオーレン委員会はこの電話にかんして何らかの追跡調査を実施したかどうかすら一切触れていない。これらの電話の内容はすべて警察首脳部に伝達されている。さらには、郡保安官のデッカーが正式にダラス警察に対し、オズワルドの身柄に危険な兆候が存在する事を警告している。にもかかわらずカリー署長は、これらの電話の内容やデッカー保安官の警告も本気で受け取らなかった。警察内部においても、オズワルドの移送について大勢の記者団の待ち受ける地下出入り口を避けて、別の出口からコッソリ移送したほうが良いとの意見もあったにもかかわらず、カリー署長はすでに記者団に移送現場を公開すると約束している、といって取りあげなかったのである。

殺害

11月24日午前11時15分最後の取り調べを終えたオズワルドは、左右と後方を刑事に守られるようにして地階に姿を現した。すぐ近くに通用口があり、ここで待っている市警の護送用装甲車に乗せられることになっていた。実際にはこの装甲車はオトリで、このあとに続く無標識の警察の車にオズワルドは乗せられることになっていた。地下には警備にあたる70人から75人の警官と、40人から50人の記者団が待ち構えていた。午前11時21分、オズワルドと護送警官3人が通用口を外に出ようとした時に記者団と警官隊の間をすりぬけて前方に飛び出したルビーが38口径の連発式ピストルを一発オズワルドの腹部に撃ち込んだ。文字通り何百万のアメリカ国民がこの瞬間を目撃した。オズワルドは危篤のまま、パークランド病院に運ばれた。わずか2日前にケネディ大統領の手当てをした同じ場所、同じ医師団によって手当てを受けたが出血多量で午後1時7分に死亡した。ウオーレン委員会は、ルビーのオズワルド射殺に関して、ダラス警察の事前警戒の不備を厳しく批判してはいるものの、次から次へと起きた警察の失態に関しては信じられないほど鷹揚な態度をとり、全ては警察の「不注意」や「偶然のミス」と解釈する。そして、ルビーの計画的犯行という見方を徹底的にしりぞけているのである。

謎の進入

ここで大きな疑問として浮かび上がってくるのが、移送予定時刻の2時間以上も前の午前9時過ぎから警察関係者、報道関係者以外の人物をすべて締め出したはずの市警ビルの地階に、なぜ無関係のルビーが誰にも見咎められることなく、たやすく入り込めたのか?という疑問である。ウオーレン委員会はルビーが市警本部の外から通用口までやってきて、たまたまオズワルドの移送現場に行き当たり、出会い頭にオズワルドを撃ったとしている。この主張はルビー本人の申し立て以外に一切の証人は存在しない。逆に、地下への通用口を警備していたロイ・ボーン巡査はウオーレン委員会で、通用口を歩いているルビーの姿は最後まで見かけなかった、と証言している。また、ルビーが通用口からやってきたのではない事を証言する人物は合計8名もいるのであるが、ウオーレン委員会はそれでもルビーの方を信用して、ボーン巡査の証言は「正直な思い違い」とかたずけてしまったのである。オズワルドを射殺した直後ルビーは4人の警察官から尋問を受けた。この中の一人が地階の警備責任者であったパトリック・ディーン巡査部長である。この人物は、ルビーとダラス市警を結ぶ重要なカギを握る人物として信じられている人物である。ディーンは直後のルビーの尋問で、ルビーは市警ビルの前の通用口から誰の助けもかりずにしのび込んだ、と供述したと報告しているが他の警察官からはそれを裏ずける報告もなければ、尋問に同席した他の警察官もルビーがそのような供述をしたのを記憶していないのである。はたしてルビーはどのようにして市警ビルに侵入したのか。後の下院調査委員会は次のように結論した。それによると、近くのウエスタンユニオン電信会社に現れたルビーは、そのビルから市警本部に続く、人通りのない路地にでて、中ほどにある市警本部ビル一階裏側にある裏口のドアから中に入り、地下に降りて行った、と言うものである。当時、ウオーレン委員会で証言したディーン巡査部長は市警ビルの警備責任者として”24日当日、そのドアは内側からカギがかかり、外部から進入する事はできなかった。”と証言しているが。他の市警ビル管理人達は全員そろって、その日には問題のドアにはカギはかかっていなかった、と証言しているのである。

ディーン巡査部長

それでは、ウオーレン報告書のなかにも頻繁に登場する、パトリック・ディーン巡査部長とはどのような人物であったのであろうか。下院調査委員会のブレーキー主席顧問は、この人物は当時マフィアグループとの交際にドップリとつかり、しかもルビーとは「親友」の間柄であったと言う。事件が一段落して、ウオーレン報告書を読んだ獄中のルビーは、そのウオーレン報告書に署名してディーンに送っている、そこには署名と共に「あんたのバディー、ジャック・ルビーより」と書かれていた。バディーは俗語で「兄貴分・相棒・親友」といった意味である。ディーンと親交のあったマフィアの人物は、当時ダラスのマフィアグループのリーダーであったジョセフ・チベロがいる、1957年11月にペンシルバニアのアパラティンで全米マフィアの首領会議があり、これに出席できたチベロがダラスに戻り開いた祝賀晩餐会には、現役の巡査部長であったディーンも招待され堂々と出席しているのである。