1963年9月から10月にかけてオズワルドが訪ねた期間のメキシコ市はおそらく地球上でもっとも洗いざらい調査された場所の一つと言っても過言ではないであろう。事件以後、いくつかの政府調査機関や無数の研究家がオズワルドのメキシコ市滞在について入念に調べてきた。しかし蓄積した膨大な資料を延べ数十年かけて調べた結果、オズワルドがメキシコ市に滞在していた間になにがあったのか三十数年経った今も謎のままである。このメキシコ滞在を最後にオズワルドは運命の11月22日に突き進んでいく。

領事館の行列にいた男

1963年9月17日、オズワルドはニューオリンズのメキシコ領事館に出向いた。そしてメキシコのビザを取得している。ビザの番号は24085であった。
1976年10月CIAは、メキシコ政府がオズワルドのビザに関して調査した報告書を公表している。報告書には24082,24083,24085,24086、24087のビザ番号については詳しくその人物に関して記載しているのであるが、なぜか、24084のビザに関する記載だけが欠落している、どうしてこの様な欠落が生じたのか?
24084のビザを受け取った人物はオズワルドの前に並んでいた人物である。現在ではこの人物が何者であったのかは判明している、(皆さんはもうすでに、この人物が古くからCIAに関係していた人物であった。と書いても慢性になって驚かなくなってしまっているのでは無いでしょうか。)その人物の名前はウイリアム・ゴデット。彼自身で「自分はCIAの職員だ」と吹聴していた人物であるが、実際にはCIAニューオリンズ支局の「接触」を受けていた人物である。彼は下院暗殺問題調査特別委員会(以下 HSCA と略)においてオズワルドとガイ・バニスターが街頭で話している所を見たと重要な証言をした人物である。またゴデットの名前はCIAの内部文書の中にも登場する「ウイリアム。ゴデットは”ラテン・アメリカ報告”を発行している。同紙は国内接触部に配布されており、彼は他にも重要な情報を提供している。国内接触部としては、彼の抱える特派員に特別な報告をさせるように依頼すれば調査部の要望にも答えられると考える。」このような背景を持つゴデットが、メキシコ領事館の行列でオズワルドの前に並んで何をしようとしていたのか、またしても偶然の一致がくりかえされただけなのか。しかし、そこにゴデットがいたという事実は、オズワルドがなぜ1963年の8月・9月にCIAと関わりのある人物とこれだけ多く接触したのであろうか、といった疑問を一段とふかめるのである。

メキシコの迷路

まず、メキシコ市におけるオズワルドの足跡に関してのウオーレン委員会の筋書きを紹介しよう。
@ オズワルドはメキシコ市のソ連およびキューバの領事部に行き、キューバ経由でソ連に渡航したいと申し出たものの「証拠からするとキューバにとどまるつもりであった公算が強い」
A オズワルドはキューバのビザを取得するにはソ連のビザが必要であり、ソ連のビザの発給を受けるまでには四ヶ月かかると言われた。
B キューバ領事館で粘ったオズワルドは、エウセビオ・アズキュー領事と「激論」となり、結局、どちらの領事部からもビザを発給してもらえなかった。
C オズワルドはメキシコ市を発つまでの間「旅行の手続きをしたり、観光をしたり、ソ連大使館にビザ申請がどうなっているのか確認を入れたりしていた。」
このストーリーの問題点は、実際にはオズワルドはソ連のビザを申請しなかったことである。委員会は当時この事実を把握していなかったようである。少なくともこの事実に照らして考えるとオズワルドはなぜ申請もしていないビザの発給についてソ連大使館に確認したりしたのか?(少なくとも当時、ウオーレン委員会に誤認させるような)と言う疑問につきあたる。ここの所が最も重要な部分ですのでぜひ記憶していただきたい。
メキシコ問題の謎をいっそう深めることになったのが HSCAの調査である。HSCA は、何者かがオズワルドになりすましてメキシコ市に姿を現したという驚くべき可能性を提示したのである。偽オズワルドが現れたと”断定”するだけの十分な証拠は無いにしても「この様な仮説を見過ごせないだけの証拠は存在する」と記述している。この基本となるのが研究者の間では有名な「ロペス報告書」である、この報告書は1992年になってようやく公開されたものの、現在もなお一部非公開のまま残っている貴重な資料なのである。「メキシコに偽オズワルドが現れた」この事はオズワルドの人間像を決定的に変化させる事に成り、又一つウオーレン報告の嘘が暴露され、さらには、暗殺事件そのものの真相究明にも極めて大きな影響を与えるものである。この事を当時の上層部が把握していた可能性を明らかにした文書が、1992年のケネディ暗殺記録法成立時に、新資料として公開されている。1963年11月23日のフーバー長官とジョンソン大統領の電話でのやりとりを記録した文書である。

ジョンソン 9月にオズワルドがメキシコ市のソ連大使館を訪れた件でなにか解ったかね?
フーバー いえ。実はかなりややっこしい話になっています。ソ連大使館でオズワルドと名乗った男の録音テープと写真を入手したのですが、この男の声も容貌もオズワルドとは違うのです。すなはち、ソ連大使館には第二の人物が現れたようなのです。

まだ、事件二日目の23日にすでにこの様な会話のレベルまで捜査が進展していた事にたいしての疑問はさておくとしても、フーバーのこの発言は少なくとも FBIはこの事実に関して把握していた事を証明する文書である。

メキシコ市でのオズワルド

まず、オズワルドのメキシコ市におけるソ連大使館領事部、キューバ大使館領事部、そしてオズワルドの三者の関わりを時系列的に追いかけながら疑問点を提示していく。最後に「問題の会話」の分析を試みる。
オズワルドの乗ったバスがメキシコ市に到着したのが1963年9月27日金曜日午前10時、帰路に就いたのが10月3日の木曜日の朝であった、したがって、オズワルドが大使館を訪ねたり電話をかける事のできる時間はこの範疇と言う事になる。まず最初にオズワルドは27日10時30分にソ連大使館領事部に電話をかけたとされている。続いて10時37分に二度目の電話をかけている、この時の電話の内容は

相手 領事はいらっしゃいますか?
ソ連領事部 外出中です。
相手 オデッサに行く為のビザが必要なのですが。
ソ連領事部 11時30分に御電話ください。
相手 いつまでならいいですか?
ソ連領事部 [受話器を置く]

この最初の電話内容は CIA メキシコ支局が録音していた。このオズワルドがかけたとされる二度の電話の最大の問題は、電話をしてきた男はスペイン語を話したと言う点である、テープから書き起こした人物は、この男のスペイン語に関して特別な感想を付記していない。後日オズワルドがロシア語で電話をかけてきた時の書き起こしには、「ひどい」「ほとんど理解不能」とコメントしている事を考えると。このスペイン語は通常理解できる範疇であったことになる。とするならば、オズワルドはスペイン語を流暢に話す事ができたのかと言う問題が起きる。海兵隊時代スペイン語の基礎は教えられたとの記録はあるが、オズワルドが上記の内容を訛りなしに発音できるほどのスペイン語力を持っていたという話は聞かない。ましてや、ロシア語よりもスペイン語のほうがうまかったとは奇妙に感ずるし、後に領事部でオズワルドと面談したバレリー・コスチコフは「スペイン語は話せるのか」との問にオズワルドは「ノー」と頭を振っている。ウオーレン報告書ではこの二度の電話の主は「オズワルド」と言う事になっているが、HSCAのロペス報告書では完全に否定されている。第一この会話の中ではオズワルドを特定するような言葉はないし、偽者のオズワルドがかけた可能性と同程度にまったく関係の無い人物がたまたまその時間帯にかけてきた可能性もあるのである。
オズワルドが最初に直接、姿を現したのは27日の午前11時前後にキューバ大使館である、彼はキューバ経由ソ連行きの通過ビザの発給を申請に来ている。この時応対したキューバ大使館領事部のシルビア・デュランは書類のなかに写真が不足している事を指摘している。そこでオズワルドは、いったんキューバ大使館を出て写真を撮りに行き、12時15分頃再びキューバ領事部に現れている。デュランはビザ申請書を作成してやって、”ソ連のビザを取得しないと、キューバのビザは発給できない”旨オズワルドに告げている。この時ヂュランに対してオズワルドが身分証明に提示した書類のなかにFPCC(対キューバ公正委員会)の会員証もあったがヂュランは疑っていた。実は、アメリカ共産党のお墨付きが無かったからである。この当時、キューバ政府はアメリカ共産党の照会のある人物に対してはソ連のビザの必要はなく迅速にビザは発給されていたのである。
オズワルドはその足でソ連大使館にむかっている。キューバ大使館とソ連大使館は2ブロックしか離れていなく、歩いても数分の位置関係にある。
ソ連大使館にオズワルドが現れたのは午後12時30分とされている。オズワルドはソ連大使館のベルを鳴らした。歩哨から連絡を受けたコスチコフはオズワルドと話し後をネチポレンコ副領事に任せた。このソ連大使館でのやりとりはネチポレンコ副領事の回想で紹介しよう。

彼がアメリカのソ連大使館宛に出した手紙はすでに読んでいたが、ワシントンのソ連大使館には要請書は出したのか?と尋ねてみた。すると彼は、手紙を書いたが却下されてしまったと答えた。そしてワシントンのソ連大使館と接触をもったことでFBIに逮捕されるかもしれないと不安を口にし、FBIに逮捕の口実をこれ以上与えない為に、メキシコにきて計画を続行することにしたのだ、と説明した。そこで彼にたいして「ソ連への渡航に関する問題はすべて申請者の居住する国の大使館ないし領事館で対応するといった規則がある事を説明した」その上で、今回は例外として今書類を渡すのでそれに記入してもらってソ連本国に送ってあげよう。ただし、返事は申請者の居住地に送られるし、送付されるまでには少なくとも四ヶ月はかかるであろう、と告げた。」

この事をオズワルドに告げた時彼が叫んだ言葉をネチポレンコ副領事は強烈に記憶していると言う。
彼は私の言葉を聞いて動転して叫んだのです。

「それじゃ駄目だ、それでは困る! 悲劇が起きてしまう。」

オズワルドはネチポレンコの差し出したビザ申請書を受け取らずにソ連大使館を後にした。
ソ連大使館で申請をはねつけられたオズワルドは再びキューバ大使館に現れた。時刻は同日の午後4時から5時のあいだであるとされている。再び応対に立ったヂュランに対してオズワルドは、ソ連領事部はビザ発給に問題はないと言っていると嘘をついた。その話に疑問をもったデュランはソ連大使館に電話を入れている。時刻は4時15分とされている、盗聴されたその電話の内容は次のようなものであった。

ソ連に行くので通過ビザを出してほしいと言うアメリカ人が来ています。ソ連領事部でビザが取得できれば、こちらでは調査ぬきでビザを発給できるのでそちらに行くように言っておいた人物です。そちらではどなたが対応されたのでしょうか。本人は何も問題はないと言っているのですが。

相手のソ連領事部の部員はこちらから再度電話する旨告げて電話を切った。キューバ領事部のデュランにソ連大使館のコスチコフから電話が入ったのは、それから20分後のことであった。当然ながらオズワルドの嘘はすぐに露見した。オズワルドは興奮して、キューバ領事エウセビオ・アズキューと言い争いになった。オズワルドはその後キューバ領事部にやってくることも電話をかけてくることもなかった。

9月28日土曜日

CIA の盗聴記録によると、27日午後4時26分、メキシコ市のソ連大使館からワシントンのソ連大使館に電報連絡が発信されている。オズワルドの登場によって三つの国の首都を結ぶソ連とキューバの情報機関のチャネルが動いた。キューバ領事部はハバナに電報を打ち、ソ連大使館は翌日朝モスクワに電報を打っている。
9月28日は土曜日である。この朝9時30分、職場のバレーボールの試合に出場する為コスチコフが領事部に来ると、そこにはもうオズワルドが来ていて、バベル・ヤツコフ領事の所にいた。オズワルドは改めてビザを発給してくれるよう食い下がった。しかし、またしてもはねつけられてしまう。この間の状況について前出の回想によるとこの様になる。

話の間ずっとオズワルドは動揺した様子で神経質になっていた。FBIについて話すときはとりわけそうだった。突然半狂乱になったかと思うとすすり泣きを初め、涙ながらに「恐いんです・・・・・殺される。ソ連に入れてください!」と繰り返し訴えた。迫害されていると訴え、メキシコに来るときも尾行されていたと言う。右手をポケットに入れると、リボルバーを取り出し「いいですか、身を守る為にはこんなものまで持ち歩かなくてはならないんだ。」と言って、差し向かいに座っていた机の上にリボルバーを置いた。

「恐いんです・・・・・殺される。ソ連に入れてください!」とはどのような意味なのであろうか?文面から想像するオズワルドの態度は昨日の発言やこの発言を加味すると、なにかに追いつめられ、何とかその地獄から這い出そうとする純真な人間の叫びのような気がするのは自分だけであろうか?
やがてオズワルドは「ビザはすぐには出ないのだと納得したらしく、平静を取り戻し」ソ連大使館を後にした。ここでなによりも重要なことは、コスチコフによるとオズワルドは「我々が渡したビザ申請の書類を昨日同様持っていかなかった」のである。
オズワルドのメキシコ市でのビザ取得の試みはこれで途絶える。ソ連大使館で渡された申請書には記入はおろか、持っていく事すらしなかったのである。これ以降、メキシコ、キューバ、ソ連の当局者は、オズワルドがキューバ、ソ連の大使館や領事館に出入りするのを目撃していない。
しかしこの後、事態は変わってくる。この時以降の電話盗聴の書き起こしは、その場に直接居合わせた人の記憶している事実関係とは似ても似つかない内容になっている。メキシコ市の「現実」に、驚くべきことが起きるのである。

メキシコ市の「現実」

1963年9月28日の午前10時45分頃、オズワルドはリボルバーをポケットに戻してソ連大使館を後にする。
それから一時間後ソ連大使館領事部の電話のベルが鳴った。発信先はキューバ大使館。
午前11時51分CIAの盗聴装置が作動した。しかしこんな日に装置が作動することは、かつてなかった、キューバ領事部は毎週土曜日は必ず休業していた。しかも通話テープを書き起こした作成者は、電話の主を特定できなかった。「後になって」それは「シルビア・デュラン」であると特定されたと言う。ただしその「後」というのがいつなのかはあきらかにされていない。
以下、9月28日午前11時51分の通話の全文である。

デュラン ソ連領事部に行ってきたと言っているアメリカ人が来ています。
ソ連領事部 少々お待ちを・・・・

シルビア・デュランがすぐ側にいると思われる人物に英語で話している音声が入る。以下はその内容。
デュラン 待ってくれと言ってます。ロシア語はできますか?
オズワルド? ええ
デュラン それなら直接話ししたらどうですか?
オズワルド? どうしようか?・・・・

シルビア・デュランの隣にいてロシア語ができると言った男が電話口に出て「ほとんど理解不能な、ひどいロシア語」で話を始めた。
この人物は後にオズワルドと特定された。

オズワルド おたくの大使館に行って領事と話をした者ですが。
ソ連領事部 で、ご用件は?
オズワルド 今しがたそちらに行った際に、私の滞在先をメモしましたね。
ソ連領事部 存じております。
オズワルド その時には滞在先は忘れていたんです。滞在先を教えてもらいにキューバ大使館に来ています。キューバ大使館は知っていますので。
ソ連領事部 それなら滞在先のメモを持ってこちらに来られたらどうです、すぐ近くですので・・・
オズワルド では、うかがいます。

以上である。
この通話の分析に入る前に二つの可能性を念頭において検討すべきである。第一の可能性は、電話の主は実際にオズワルドとデュランで、ソ連領事部と話したという可能性である。この場合オズワルドは「ビザはすぐに出ないのだと納得した」と言うソ連領事部の判断は間違っていたことになる。つまり、オズワルドがソ連領事部を後にしてからデュランの電話があるまでの一時間ほどの間にオズワルドは希望を取り戻し、休業日であるはずのキューバ大使館でデュランを呼び出し、領事部の中に入れてもらい、デュランを説き伏せ、デュラン自身が18時間前にオズワルドのビザは四ヶ月以内には出せないと意見の一致をみたはずのソ連大使館領事部に電話をかけさせた。という事になる。第二の可能性は、電話の主は本物のオズワルドとデュランではなく、オズワルドのソ連大使館での結果について情報を引き出そうと二人になりすました偽者だった。というものである。
それでは、この通話の分析にとりかかってみよう。
まず、最初のデュランの”ソ連領事部に行ってきたと言っているアメリカ人が来ています。”という発言であるが、いままでのオズワルドのソ連大使館とキューバ大使館のやりとりと、内容を熟知してるはずの彼女にとっては「行ってきたと言っている」と言う言い回しはおかしい。逆にこの間の事情をヂュランが知っている事を知らない人物がヂュランの名前をかたったとしたら理解できる。検討してみると、「ヂュラン」の発言は、おそらく外部からの観察によって解っている事以外言わないように慎重に言葉を選んだ発言である。ヂュランの偽者はオズワルドがソ連大使館に行った事は知っているが、本物のヂュランがその事を知っていたかどうかは解らないのである。要するに、本物のヂュランであるならば、オズワルドがソ連大使館に行ったというコスチノフから聞いた情報を基に話すはずである。
つぎに、オズワルドとされる人物が”おたくの大使館に行って領事と話をした者ですが。”と言う。これは事実である。オズワルドはヤツコフ領事と一時間ほど一緒に居たのである。ヤツコフが隠れて大使館に入っていったわけでもないので、偽者のオズワルドでもヤツコフが領事部内に居た事はつかめるはずである。この発言とそれにたいする領事部の「で、ご用件は?」はオズワルドが偽者であったとしても話しはあう。
もともと、オズワルドがビザ申請を諦めて、申請書に記入することすらしなかった以上、オズワルドがソ連領事部に電話を入れる理由など無いのだが、偽者としては、オズワルドが申請書を提出したかどうかについては知る由もないのである。
次の”今しがたそちらに行った際に、私の滞在先をメモしましたね。”の発言にいたっては問いかけに対する答えにもなっていないし、わざわざ休みの大使館を煩わすほどの事もないように思えるし、何と言ってもこの発言は申請書を提出しなかったと言う事実と辻褄が合わない点である。むしろ電話の主が偽者で僅かの目に見えた情報だけを頼りに手探りしながら、何らかの情報を得ようとしていたと考えれば説明がつく。しかし、領事部の電話の主の返事はおざなりのものでしか無かった。今度は「オズワルド」がわざわざキューバ大使館に来てまで電話をかけなければならなかった理由を持ち出さざるを得なかった。そこで次の発言が飛び出してくる。”その時には滞在先は忘れていたんです。滞在先を教えてもらいにキューバ大使館に来ています。キューバ大使館は知っていますので。”・・・・・この発言を”ロペス報告書”は支離滅裂と酷評している。オズワルドが忘れていたという滞在先をソ連大使館がどうしてメモすることができるのであろうか?さらに公式な申請すらしていない人物の滞在先などソ連大使館が連絡するように指示するはずもなく、またビザの発給拒否の再考を頼む電話であったのならこの発言は筋が通らない。ソ連大使館の電話の主はあきれて”こっちに来ればイイジャン”と言っているのである。話の接ぎ穂を失った「オズワルド」は”では、うかがいます。”と言うほか無いのである。勿論、オズワルドがソ連大使館を訪ねた記録はない 。

このように、多分「明らかなオズワルドの偽者」がオズワルドのソ連大使館の中での情報を偽者まで使って知りたかった理由はいったい何なのか?
読者諸君も考えてみてください。

謎の写真

CIAメキシコ支局はオズワルドの出現について本部に報告した際、盗聴した電話テープの書き起こしについて触れている。前述のように9月28日の電話はおそらく偽者がかけたものであろう。以下は10月9日に本部に送られた公電6453の全文である。

1、[削除]によると63年10月1日、下手なロシア語を話すアメリカ人男性がオズワルドを名のり、9月28日にソ連大使館で領事と話した者だと電話してきた。男はコスチコフと話したと言っている。表記の人物は電話に出た大使館の守衛に対してワシントンへの電報について進展はないかと尋ねた。守衛は確認して、まだ連絡はないが、要請については伝えてあると答えた。
2、10月1日の12時16分にソ連大使館に入り、12時22分に出てきたアメリカ人と思われる男性の写真あり、年令は35歳くらい、スポーツマンタイプの体型で、身長は約1メータ80センチ。額は後退しており、頭頂部は禿げ上がっている。カーキ色のスポーツシャツを着用。情報源は[削除]。

この男性の描写は、大使館に出入りする際に盗撮された写真にもとずいている。素性が分からないため、彼は「謎の男」と呼ばれた。この男の身体的特徴がオズワルドに当てはまらない事は一目瞭然である。なにより重要な点は、支局は写真の男とオズワルドと名乗った男が同一人物であるとは述べていない点にある。公電を通常に読むと、オズワルドと名乗った男と写真の男が同一人物だと支局が判断したと考えるのが普通の読み方であろうが、公電は両者の関係についてはっきりとは触れずに、事実関係のみを記しているに過ぎない。メキシコ支局としては、オズワルドが35歳くらいで、身長が1メートル80センチで禿げているかどうかなど知るよしもないのである。これに対して公電を受け取った本部は、オズワルドの身体的特徴を詳しく知っていたはずである。
翌、10日の午後5時12分、CIA本部は奇妙な行動をとる、FBIと国務省、海軍省に公電を打ち、電話の主と写真の男を結び付けたのである。

1963年10月1日。信頼できるメキシコの秘密情報源が伝えてきたところによると、オズワルドと名乗るアメリカ人男性がメキシコ市のソ連大使館に電話して、先にワシントンに送った電報について問い合わせた。このアメリカ人は、年令35歳くらいで、スポーツマン体型をしていて、身長1メートル80センチで、額が後退していると描写されている。

公電はこの人物が「オズワルドである可能性もある。」と記しているのである。この公電の問題点は、明らかにこの情報は誤っていることを承知の上でCIA本部が政府機関に情報を流していた事である。その証拠に、この公電を発信したわずか2時間後の7時29分、CIA本部はメキシコ支局宛の公電でこのように述べている。「オズワルドは身長1メートル75センチで、体重75キロ。髪の色は明るい茶色でカールしており、瞳は青。」これがオズワルドの本当の身体的特徴であり、本部はそれを明らかに知っていたのである。この政府機関への公電の発信責任者はいったい誰であろうか?CIAはこの責任者の氏名を公表する事を現在も尚拒否している。

シルビア・デュラン

1963年12月11日CIA計画担当副長官リチャード・ヘルムズは一通のメモを受け取った。

FBIの報告者(暗殺事件に関するFBI報告書)は、一般に公開される可能性もあるようである。そうなればメキシコでの[13文字削除]工作が危うくなる。オズワルドがソ連大使館を訪れた理由をFBIがあらかじめ知っていたことがソ連に解ってしまうからである。

ここで言うFBI報告書とはウオーレン委員会にさきだってFBIが進めていた事件に関する報告書の事であるが、FBIはどのようにしてオズワルドの大使館訪問の理由をあらかじめ知る事が出来たのであろうか?
オズワルドのソ連大使館訪問について、アメリカ政府情報機関の人間があらかじめ知っていた可能性が有る事は極めて興味深い。メモで触れられているFBI報告書は、FBIが情報源であるかのような受け取られる文面になっているが、メモからは「オズワルドがソ連大使館を訪れた理由をFBIがあらかじめ知っていた」のはCIAのメキシコ市での工作活動の成果だと想像するほうが無難である。そもそもこの一節は何を意味するのであろうか。オズワルドはメキシコのソ連領事部にたいして、自分はソ連への再入国について駐米ソ連大使館と手紙のやり取りをしていたと語っているが、その内容はFBIの知る所となっていたことは確実である、しかしその事自体が公になったとしても、メキシコ市のCIAの工作機間になんらかの影響が出るとは考えられない。CIAがあらかじめ知っていたのは、オズワルドがソ連大使館を訪れる事だけではなかったようである、メキシコ市当局は9月27日にオズワルドがメキシコに到着してからずっと監視していたことをしめす状況証拠がある。それはロペス報告書によれば、CIAは暗殺後の調査でオズワルドのメキシコ市到着日が明らかになる以前から9月27日にさかのぼって盗聴記録を洗い直すことを決めていたと言う事実である。ロペス報告書によると、
当委員会は、CIA本部がなぜ1963年11月23日の時点で、[削除]の資料を9月27日のものまでさかのぼって検討するよう判断できたのかつきとめることはできなかった。

鋭い指摘である。ロペス報告書がこの次に投げかけた疑問も明瞭である。すなはち、オズワルドのキューバ領事部訪問についてCIA本部は何を知っていたのかという疑問である。CIAにとって10月9日の公電が公開されるとまずいのは「公電では10月1日付の盗聴テープについても述べている、おそらくこの電話の主は偽オズワルドであったろう。本物のオズワルドはこれに先立つ9月28日にビザ取得を諦めていて、ワシントンから返事があったかどうか確認の電話を入れる理由が全く無い、繰り返すが、偽オズワルド(達)は本物のオズワルドがビザ申請書に記入しなかった事を知らなかったからである。さらには明らかにオズワルドとは異なる身体的特徴を詳細に述べている点である。本物のオズワルドは11月24日に死亡しているので、この偽者による通話に関して反駁する事は出来なかったが、ここに一人その関の事情に精通していたであろう人物が生存していた。シルビア・デュランである。」

ケネディ暗殺事件の翌日1963年11月23日、CIAメキシコ支局はメキシコ政府に対して「メキシコ政府当局は可及的速やかに彼女を逮捕し、尋問できるまで独房に監禁」するように要請した。1963年12月2日の国務省発の電報によると、キューバ政府はデュランが「拷問を受けた」と非難している。64年2月21日付でウオーレン委員会に送られたCIAメモによると、デュランは63年9月27日金曜日にオズワルドがやってきたとしたうえで「以後二度と連絡してこなかった」と言いきった。この発言は、デュランとオズワルドがソ連領事部に電話したことになっている翌土曜日の盗聴記録と全く矛盾する。ところがこのデュランの発言はウオーレン委員会の報告書のどこにも記載されていない。ウオーレン報告書は、金曜日の口論のあと、「オズワルドはメキシコ滞在中に再度ソ連・キューバの両大使館に接触した」とし、この事実に反する記載の根拠を「秘密の情報源」として明示を拒否しているのである。
ウオーレン委員会の「情報源」とは何だったのか。1963年9月28日の通話盗聴記録のことなのか。それとも他に存在するのか?
実は、この捏造された記載の出所はCIAとメキシコ政府であった。64年2月19日付のメモのなかで、CIAはウオーレン委員会に対し「確信はない」がオズワルドは63年9月28日にキューバ領事部を訪れたものと「推察」すると述べている。また、ウオーレン報告書所収の64年5月14日付メキシコ政府報告書には、デュランは「オズワルドがその後電話してきたかどうかは覚えていなかった」とある。オズワルドは二度と電話してこなかったというデュランの実際の発言とCIAおよびメキシコ政府の説明の食い違いには驚くべきものがあるが、ウオーレン報告書は双方の説明を聞いていたにも関わらず、一方的にCIAの「推測」のほうを信用したのである。