ヒューストン通りからエルム通りにかけてはモーターゲードの最終段階であった。エルム通りの陸橋を過ぎれば、すぐにステモンズ・ハイウエイの入口であり、そこからトレードセンターまでは自動車専用道路になり群集は居なくなる。したがって空港から続いた大群衆もディリー広場では極端に少なくなっていた。しかし、それでも推定で400人程度の人々が暗殺の瞬間を目撃したと想像されている。しかし、そのなかで目撃の瞬間に関してマスコミや警官に対する形で証言記録があるのは、わずか90名程度でしかない。それら90名の証言者のうち、なんと64名の人々が銃弾は前方からきた!と証言しているのである。勿論、数だけが「グラシー・ノール」説の質を決定するものではないが、あれだけ大勢の人々の感覚が狂っていたとは到底考えられないのではないだろうか?しかも、「グラシー・ノール」に最も近い所にいた重要な目撃者達のうちウオーレン委員会に召喚された人物はいない。彼等の証言が得られたのは、彼等の宣誓口述書が、ダラス保安官デッカーが委員会に提出したファイルの中にたまたま混ざっていたからにすぎなかった。
これらの証言は大別すると二つに分類される。一つは銃撃の場所に関する証言であり、一つは致命傷となった最後の銃弾が大統領のどこに命中したかに関する証言である。

銃撃の場所に関する証言

スミス(サム)・ホーランドはユニオン・ターミナル鉄道会社の保線係であるが、たまたまメイン通りに架かる陸橋の上で信号機のスイッチを修理していた。そして、自分のほうに向かってくる大統領の車を見ていた。彼の暗殺当日22日の宣誓口述書によると。
「大統領の車は丁度・・・アーケードの所だった。一瞬花火かと思うような音を聞いた。・・アーケードのほうを見ると木の間から煙が上がるのが見えた。・・確かに煙を・・・アーケードの裏手の木の間から煙が立ち昇るのを見たのです。」
ホーランドがアーケードと呼んでいるのはグラシー・ノールの上にある半円形の白い建築物の事である。人によっては「記念碑」「パビリオン」とも呼ばれている。ホ−ランドはすぐにそのアーケードの近くにある木の柵の端まで走っていったが、彼が着いたときには、すでに、10人以上の警官と、彼が私服刑事と判断した人々がその辺りにいた。その柵の後ろにはステイションワゴンが止めてあって、その車のバンパーは「ちょうど誰かが靴の底の泥を取ったかのように、あるいは柵の向こう側を見る為にバンパーによじ登ったかのように泥で汚れていた。」そして、ステイションワゴンの近くの芝には「1メートル四方ほどの芝がはげた所があって、人がかなり長い事そこに立っていたような感じでした。もしその小さな場所が何度も足で踏み固められた所だとすると、ワゴン車のバンパーの泥も・・・・」この場所から音が聞こえ、煙が上がるのを見た、というホーランドの証言は、ガードの上にいた以下の人々の証言とも一致している。
フランク・ライリー;「木の間から、銃弾がきたと思った・・・」
オースティン・ミラー;「煙か水蒸気だと思ったものが、鉄道線路から離れたエルム通りの木の間から立つのを見た。」
ジェイムズ・シモンズ;「盛り土の近くに硝煙を見たと思う。」
クレモン・ジョンソン;「パビリオンの近くに白い煙を見た。」

最後の銃撃のあった瞬間に偶然、大統領専用車の周りに立っていた人物達は、最も重要な証人になるはずである、しかもその人達の名前は一握りの例外を除いて判明している。しかしこれらの最も重要と思われる人達は一切委員会には召喚されていない。
この写真は1978年の下院に設置された調査委員会の活動の中で新たに発見された写真である。丁度ザプルータフィルムの230コマ目(大統領が初弾にたいしての反応が顕著に現れた時点)に相当する写真である。アンブレラマンの異様なスタイルも、はっきりと映されている。この写真は数秒後に起こる悲劇の瞬間の周囲の人物の全般的な位置関係を把握するのに適した写真である。この中で、ジョン・チムズ夫妻、チャールズ・ブレム親子、ウイリアム・ニューマン一家、メアリー・モーマンとジーン・ヒル、アブラハム・ザプルーターとその秘書マリリン・シッツマンそして映ってはいないが、写真の左端の部分にあたるノールに登る階段の所に立っていたエメット・ハドソン。これらの人々の証言は、すべて”銃弾はグラシー・ノールの茂みの中から発射された。”と一致しているのである。
「ステモンズ・フリーウエイ」の道路標識の近くにいたチムズ夫妻は二人とも銃弾は自分達の後ろからきたと、次のように宣誓証言している。ジョン・チムズは「私は、振り返りました。花火なのかどうかたしかめようと思って・・・・」彼の妻は「後ろのほうからきたと思います。」
車がステモンズの標識を過ぎた所で、大統領の左手にはチャールズ・ブレム親子がいた。「ダラス・タイムズ・ヘラルド」紙が11月22日に報じたところによると、ブレムは「銃弾は大統領の前か横からきたと思った。大統領は前に倒れなかった。だから、後ろから撃たれたのではないはずだ。」と説明した。後日、事件研究家マーク・レインのインタビューに答えてブレムは「命中の時、大統領の左後方に何かが飛ばされたのを見た。その瞬間、それは彼の頭蓋骨の一部だと思った。」と述べている。ブレムの前を過ぎた車は、左手にメアリー・モーマン、ジーン・ヒル。右手にウイリアム・ニューマン一家の間を通過していた。そしてアーケードの上からはザプルーターのカメラが決定的瞬間をフィルムに収めていたのである。
ザプルータは自分の最初の考えとして、「私の後ろからだ。」と証言している。ニューマンは「私たちはちょうど銃弾の通り道に立っていたようでした・・・・銃弾は私のすぐ後ろの庭から飛んできたと思いました。庭は私が立っていた所よりも高い位置にありました。教科書倉庫のほうを見た覚えはありません。私は庭のほうを見ました。」さらに大統領の左手に立っていたメアリー・モーマンは自分のポラロイドカメラのファインダーを覗いていた。その時の状況を、友人でモーマンと一緒にいたジーン・ヒルは記者団に対して「彼女はちょうど道路がカーブしているところに立っていたの。私は通りの端のところで叫んでいたわ・・・”ネー大統領、写真を撮りたいの”・・って。その時、射撃音がしたわ。メアリーは写真を撮って地面に伏せたわ・・・・そして私のスラックスを引っ張って。”座って!撃たれるわ!”と言ったの・・・正直いって、ノールから撃っていると思ったわ・・・ノールのほうから撃っているって・・・撃っているのは一人じゃないと思ったわ・・・銃声の音の具合とか・・・タイミングとかで・・・・」
これらの証言から最初にケネディを傷つけた銃弾や、コナリーを傷つけた銃弾への反応は覗う事ができないのはなぜであろうか?この最後の瞬間の場所にいた人々には致命傷の銃弾以外の銃声はさほど気にならなかったのであろうか?この瞬間をケネディの右手前方の正面から見ていた三人の人物がいた。その中の一人がエメット・ハドソンでデイリープラザの管理をしていた人物である。(写真階段の中央の人物・白バイの左の二人右がヒル左がモーマン・右端の男性がブレム)彼は宣誓証言で次のように証言している。「傾斜面の一番低い段の所に・・・いた・・・私が聞いた銃声は絶対に後ろから、それも私の上のほうからしました。」と述べている。そして、「私の横に立っていた男(氏名不詳)が「伏せろ!誰かが大統領を撃っている!」と叫んだと言った。ザプルーター・ニューマン・ハドソンの三名(三名の位置関係)は致命弾が命中した瞬間には、鉄道の操車場のほうに背を向けていた、しかしそこまでは最も離れていたニューマンでも15メートル。ザプルータにいたっては5メートルの至近距離に立っていたのである。テキサス教科書倉庫ビルは彼等の左手前方75メートルの位置にあたるのである。


致命傷の位置に関する証言

銃撃の場所に関する証言と共に、致命傷の当たった位置に関する証言も非常に重要である。勿論、これに関する証言も、最も至近距離にいた彼等の証言がもっとも重要である事に異論のあるはずはない。ここで前述の至近距離にいた人々の”致命傷の場所”に関する証言を聞いてみよう。
ニューマンは妻と二人の子供と一緒に「グラシーノール」の壁の真ん前に当たる辺りの道が大きくカーブする所に立っていた。ザプルーターのカメラが313コマ目を映したとき、大統領の車はニューマンとほぼ並行する所まできていた。ダラスのテレビ局WFAAのインタビューのなかで、ニューマンは次のように話している。このインタビューは狙撃の約一時間後に放映されている。「・・・車が我々の真ん前にきたとき・・・明らかに我々の後ろから飛んできた銃弾が大統領の右のこめかみに命中した。」と、その日の午後に作成された宣誓供述書では、彼は「頭の横を撃たれた。」と変更している。1966年11月にニューマンは改めて事件研究家ジョシア・トンプソンのインタビューを受けたが、その時には次のように語っている。「大統領は、頭の横を撃たれた、そしてそのために頭は左後方に押し倒されたんです。ちょうど野球のボールをぶつけられたみたいでした。銃弾が命中したのは右の耳のすぐ近くで、耳がすっ飛んだ、とその時思いました。」それでも、ニューマン夫妻は委員会には呼ばれなかった。
銃弾が頭に命中した瞬間のケネディの右側がよく見える位置にいたもう一人の人物はマリリン・シュッツマンである。彼女はザプルータの秘書であり、ザプルータと共にアーケードの石柱の上に登っていた。彼女は「銃弾はケネディの右のこめかみ付近に命中した。耳の上のすこし前側・・そう、目と耳の間くらいでした。」と証言している。さらにチャールズ・ブレムの場合には、命中の瞬間には大統領の丁度反対側から見る位置になっていた。1966年のビデオで記録されたインタビューのなかで、彼はマーク・レインの質問に答える形で「私は大統領に銃弾が命中した瞬間をはっきりと見ました、大統領の頭蓋骨の一部と思いますが、そのようなものが大統領の少し左後方にすっ飛びました。それは左後方のカーブのほうに飛んでいきました。」
銃撃の瞬間、大統領の一番近くにいた人物は同乗していた人々を除けば、護衛の為大統領車の左後方を伴走していた二人の白バイ警官であろう。二人の名前はB・ハージス巡査とB・マーティン巡査である。二人とも”被弾して飛ばされた肉片を浴びた。”と語っている。ハージスは肉片が”私自身が撃たれた。”と勘違いしたほどの勢いでぶつかってきたといった。彼は暗殺当日の11月22日には、銃弾は大統領の頭の右側に命中したと語っていた。マーティンは血のようなものが彼の制服、ヘルメット、そしてオートバイの風防ガラスに飛び散ったと証言している。そして、究極の目撃者。大統領夫人ジャクリーン・ケネディは、銃撃直後、車の後部トランクに身を乗り出してなにかを掴もうとする仕草をしている。これは彼女の「証言」によると、大統領の体の一部が飛んでいってしまったので掴み取ろうとした為である。と語っている。
このように、致命傷の瞬間をまじかに見た人々は共通して最後の銃撃は”大統領の右前方に命中した”と語るか、もしくは”大統領の肉片が左後方に飛ばされた”と証言しているのである。一人として”後頭部に命中”と言う人物は存在しない。

謎の女

まず、下の五枚の写真を開いて見て頂きたい。致命傷を受けた前後の映像です。(ブレム親子の側に注目)すべて再録ですが確認の為。
PHOTO1 PHOTO2 PHOTO3 PHOTO4
いかがでしょうこの項目で紹介した目撃者の紹介の中に入っていない人物で、しかも最も重要な位置に立っている人物にお気ずきではないでしょうか。重要な証言をしたチャールズ・ブレム親子の側に立っていた女性・・・しかも写真を撮影している様子がはっきりと記録されています。この女性は事件直後から現在にいたるまでまったくその素性確認がとれていない人物なのです。当然、彼女が撮影したであろう写真も日の目を見ていません。事件研究家の一部の人々は懸賞金まで出してこの女性を探しましたがすべて徒労に終わりました。そこで、この謎の女性に関しては、暗殺者グループの一員ではないかと言った推測もなされています。