現在アメリカ国民の中で事件当時、物心ついていた国民は、1963年11月22日の自分の行動を35年以上たった現在もほとんど記憶していると言う。いつ、どこで大統領の事件を知り、その死を知ったか、その時の服装すら覚えていると言う。自分もその一人であるが・・・ここに一人、事件のわずか三ヶ月後にその時の記憶の総てを忘れ去った人物がいる。さらにその人物はアメリカ社会の暗部”マフィア”との繋がりも深く、ケネディ兄弟の死後、その暗黒街清掃作戦の成果をことごとく白紙に戻してしまったのである。
その人物の名前はリチャード・M・ニクソン。

1963年11月21日、ダラス・テキサス

ニクソンがケネディ暗殺事件の記憶を喪失してしまったと言うのは、勿論ジョークである。ただし、このアメリカ憲政史上最大の汚点を歴史に残す事になる老獪な政治家は、ことケネディ暗殺事件と自分との関わりを問われると、とたんにその総ての記憶を失ってしまう事は事実である。1964年2月28日、FBIニューヨーク支局、副所長ジョン・マローンは、市内の高級マンションに住むニクソンを訪ね、最近ダラスへ行った事がありませんか?と尋ねた。ケネディ暗殺事件を調べているウオーレン委員会が、容疑者オズワルドの妻マリーナから事情聴取中、「夫オズワルドが1963年の春にニクソンを殺してやりたいと話していた」との供述があった為、念の為ニクソン元副大統領の行動を確認しに行ったのである。だが、マローン副所長を前にしたニクソンの態度は極めて謎めいていた。この時のFBI報告書によると、ニクソンはこう語ったと書かれている。「ダラスに行ったのはただの一度だけで、ケネディ大統領の暗殺の二日前(11月20日にあたる)のことであった。」
これは厳密に言うと嘘ではないが、重要なほかの事実を隠している点で問題がある。
確かにニクソンは11月20日の夜、ダラス入りをしている。だが、ダラスのラブフィールド空港からニューヨーク行きのアメリカン航空82便に乗って帰路についたのは11月22日の午前9時である。この同じ空港に二時間後。ケネディを乗せた「空軍1号機」が着陸しているのである。
ニクソンが直接の犯人ではないことは言うまでもない、しかし、元副大統領で、ケネディの大統領選のライバルだった人物が、ダラスでの正確な日程を、わずか三ヶ月後には忘れてしまうとは、不思議と言う他はない。
ニクソンはダラス到着のさい、出迎えた地元タイムズ・ヘラルドの記者に、ダラス来訪の目的は自分の法律事務所(マッジ・ローズ・ガスリー・アンド・アレクサンダー法律事務所)が代理人をしているペプシ・コーラ社の取締役会に出席のためと語っている。しかし、ペプシ社の社史のどこをめくっても1963年11月にダラスで取締役会を開催したと言う記述はない。もっとも、理由は不明であるがペプシ社の大株主達がこの時ダラスに集まっていた事は事実である。ニューヨークからやってきたエドワード・メイヤーズがその一人であるし、ペプシ・コーラ社の美しき女相続人でアカデミー賞女優のジョーン・クロフォードもダラス入りしている。さらにはエドワードの弟ローレンス・メイヤーズも彼の恋人、ジーン・ウエストを伴って20日にダラス入りしている。さらにエドワードの息子ラルフ・メイヤーズも同行している、彼の肩書きは陸軍情報部員。ペプシ社の大株主であるメイヤーズ一族であるが、これらの人物達が11月21日の夜、こともあろうにダラス市内の「カバナ・モーテル」でジャック・ルビーとあっていた事が明るみにでた。(蛇足ながら現場の教科書倉庫ビルで一時拘束されたジェームズ・パウエルは現役の陸軍情報部員であり、ラルフ・メイヤーズの部下である。}
実は、ニクソン自身もルビーと顔見知りであったとの指摘も存在する。マサチューセッツ州ウスターにあるホーリーカレッジ政治学部のトローブリッジ・フォード助教授が1975年に機密解除された膨大なFBI資料を点検していたところ面白い文書を発見している。戦後まもない1947年のFBIの文書の中にそれはあった。マフィアの行動を調査していたFBIの係官が、ニクソン共和党下院議員のワシントン事務所に、シカゴのジャック・ルーベンシュタインなる人物がひんぱんに出入りし情報を提供している事実を報告している。この長ったらしいユダヤ人の名前を持ったチンピラやくざはその年の末にはシカゴを引き払ってダラスに移り住んだ、そして通称ジャック・ルビーと名乗るようになったのである。
フォード助教授がFBIに照会したところ、まもなくFBIから「これは偽造文書であった。」との回答がよせられた。当時のFBI係官の宣誓までついた報告書を、十分審査のうえ機密解除しておきながら「偽造文書」とは良く言ったものである。蛇足になるが情報公開の発達したアメリカにおいてでも文書公開というのは、公開期限が来たから、もしくは公開法が成立したからと言って何でもかんでも公開する訳ではない、それなりのチェックがなされているのである。もし、なんでもかんでも公開されていれば、ケネディ法の成立によって大統領暗殺事件の真相はとっくに解明されていた筈である。フォード助教授はその後も調査を続け、この報告書は本物であるとの確証を得たと述べている。1946年、33歳での下院議員当選から1974年8月の大統領辞任まで28年間に及ぶニクソンの政治経歴をたどってみると、政治献金とその見返りといった形での暗黒街との関係が色濃く浮かび上がる。
蛇足ではあるが、すくなくとも元合衆国副大統領であり前大統領候補者であったニクソン氏が”1963年11月22日にダラスの街に居る。”かつ又”ニクソン氏とジャック・ルビーとの間に接点が存在する。”と言う確率はいったいどれくらいになるのであろうか、一般の人々と違い、毎日極めて過密なスケジュールのなかで生活していたであろうニクソン氏にとってはその数値はきっと”偶然”の部類に入るほどの低い確率であったことは疑いない。ウオーレン報告書にたびたび出現する”偶然”の山が、このニクソンの行動にもまた出現しただけなのであろうか?

ニクソンとマフィア

ニクソンの「マフィア交友録」は、すでに公開された資料だけでも十分に裏ずけることができる。
1946年、太平洋戦争のヒーローとして下院選挙に名乗りをあげた無名の新人ニクソンに、カリフォルニア・マフィアの大物、ミッキー・コーエンが5000ドルの小切手を切った。小切手の受け渡しをしたのは、ニクソン終生の腹心となるマレー・チョティーナである。チョティーナは当時コーエンを初めとする西海岸の暗黒街の男たち221人を顧客に抱えた腕利きの弁護士で、このあとニクソンの下院・上院の選挙で最も信用の厚い選挙参謀となった。1952年に共和党大統領候補になったアイゼンハワー元帥に、若手のニクソンを副大統領候補にと売り込んだ一人はこのチョティーナだった。下院で二期4年勤めたニクソンが1950年、上院の椅子を目指すと、コーエンは今度はラスベガスの賭博仲間を説いて合計7万5千ドルをかき集め、首尾よくニクソンを当選させた。これらのことはコーエン自身が1975年に出版した自伝「私の言葉で語る」の中で得得として回想されている。1960年の大統領選挙は共和党のニクソン対民主党のケネディの対決となった。
シカゴ地区のマフィアの巨頭ジアンカーナが、ウエストサイド地区での”集票”に超人的能力を発揮した上、共通の友人であるフランク・シナトラを通じて、大統領候補者の父親、ジョセフ・ケネディに相当な金額の献金をしていたことは「続・暗部解析」のなかで紹介したが、同じことが共和党に対しても行われていたのである。悪名高い全米運輸一般労組「通称・チィームスターユニオン」の会長を15年間も勤めたジミー・ホッファーの腹心で、後にその重要な告発者になったエドワード・パーティンという人物がこの証人である。1960年大統領選挙たけなわのある日、ニューオリンズのマフィアの首領、マルセロがホッファーに会いにやってきた。二人は旧知の間柄である。ホッファーの腹心でもあったパーティンもこの会談の席に同席した。パーティンの証言
「私はこの話し合いに出て会話を聞いていた。マルセロは五十万ドルの現金をスーツケースに詰めており、この金はニクソンへ行くことになっていた。ニクソンに対しては全部で百万ドルの政治献金が行われることになっており、残金はニュージャージーとフロリダの連中から出る予定であった。」
この時の選挙はニクソンが僅差で敗れた。
1968年、ニクソンは最後の賭けに出て共和党大統領候補の座をつかんだ。相手はハンフリー副大統領。(もし、ロバート・ケネディがこのキャンペーン中に暗殺されなければ、ニクソン対ケネディ兄弟の因縁の対決選挙になることは確実であった。)
この時も、マフィアと一心同体の関係にあるチィームスターユニオンがニクソン支持に動いた。労組副委員長のトニー・プロベンザノ、労組の財政コンサルタントのアレン・ドーフマン、南部カリフォルニアのマフィア幹部ジョン・アレッシオらがそれである。
ニクソンが当選し、1969年1月にホワイトハウスに入ると、選挙参謀のマレー・チョティナーも大統領特別補佐官として大統領官邸に一室を与えられた。こうしてチョティナーの顧客でもあったマフィアの巨頭達は彼を通じて、ニクソン政権に太いパイプを持つことになる。さらにニクソンは大統領として政権につくと同時に、あらゆる面で協力してくれたマフィアの巨頭達に公然と”義理”を果たしたのである。
当時、ニューオリンズのドン。マルセロは司法当局から手厳しく追及され、二年間の刑に服していたが、ニクソンはフーバー長官に特別の要請をしてマルセロの刑期を四分の一の半年に減刑させている。その上、健康上の理由ということで、その半年の刑期も連邦受刑者病院で優雅にくらすことを認められた。
71年3月に刑期ならぬ入院生活を終え釈放されたマルセロはチョティナーとともに、もう一人の大物ジミー・ホッファーの釈放作戦を開始する。そして1971年12月ニクソン大統領は、ホッファーの刑期13年を5年に減刑した上、クリスマスに間に合うように仮釈放の決定を下したのである。ケネディ兄弟、とりわけ弟のロバートが執念を燃やしたアメリカ社会の大掃除、マフィア撲滅作戦は、こうしてケネディのライバル、ニクソンの手で完全に白紙に戻されたのである。勿論、過去の選挙の時の恩義に対する”義理”を果たす意味合いは考えられる事ではあるが、マフィアの暗殺事件との関わりを肯定する研究者達の間ではさらに一歩進んで、聞くことすらおぞましい「論功行賞」ととらえる人々も存在するのである。