リー・ハーベイ・オズワルド
公式報告書で彼の単独犯行と決定され、大統領暗殺者として歴史に名前を残す事になった男、しかし彼の行動は暗殺者としてあまりにも杜撰で、かつ奇異なものである。ある日突然人目に目立つ行動をとったり、いかにも私が犯人です、といわんばかりの動きをする人物、今アメリカで、犯行は彼の単独犯行であると信ずるものは一人もいない。

事件の日まで

オズワルドはニューオリンズで生れた、四歳でダラスに移りその後ニューヨークで中学に入学し、卒業前に家族と共に再びニューオリンズに戻り中学を終えた、17歳になった時海兵隊に入隊した。入隊後、彼は平均以上の知能指数を買われ情報畑を歩んだ。日本の厚木基地に配属になった時からレーダー部隊に配属され、ロシア語の授業を受けさせられ始める、いわゆる対ソ諜報部員としての教育である。ところが彼は1959年9月突然ソ連に渡った、そして到着早々、再びアメリカに戻る意志のないことを表明、市民権の放棄を文書で提出、自分が、レーダー勤務で知り得た極秘情報をソ連に提供する用意があること、最終目的はソ連への亡命であると宣言した。この日から、8ヶ月後、1960年5月1日U2スパイ飛行機がソ連領内で撃墜されるといった事件が発生する。その時撃墜された飛行機のフランシス・パワーズはその著書のなかでオズワルドにふれて、撃墜とオズワルドの流したレーダーの極秘情報とは、深いつながりがあると断言している。ソ連で彼は結婚している、マリナ・ブルサコーワというミンス クの少女で彼女自身コムソモル(青年共産党)メンバーであったとされている。また、伯父にあたるイリヤ・ブルザコーバは共産党員であり、ソ連内務省の大佐である。
その後、オズワルドは前言をひるがえして、帰国の申請を出す、1962年のことである、申請は、妻と一緒の帰国である。申請は何の障害もなく認められ、あろうことか駐ソ・アメリカ大使館から、帰国費用まで貸し与えられている。1962年6月13日、オズワルドはマリナと共にニュージャージー州ホボーゲンに上陸する、常識的にいえばFBI,CIAが待ち構えていても不思議はない。ソ連に亡命して軍事情報をソ連に提供するとまで声明した男である。共産主義に神経質すぎる位の組織がオズワルド夫妻の上陸を黙認するはずはない。徹底的な尋問が行われてしかるべきである。現にこの頃は、共産圏をたんに旅行しただけの人間までチェックして、細部にわたる質問があびせられるのが常であった。しかし、オズワルド夫妻の入国はなにごともなく平穏であった。

当時の状況でソ連に亡命した人間がわずか3年で再びアメリカに戻れるということはまず考えられない、しかも、KGBの上部組織である内務省高官を縁戚に持ち、かつ共産党員の妻になんの支障もなくビザが発給される事などありえない事である。それが可能となる、たった一つの状況はオズワルドの行動はすべてアメリカCIAもしくは国務省の承認ないしは指示に基ずく行動であった場合のみである、すなわち、二重スパイもしくはアメリカ国内左翼向けのスパイ教育の一環としての行動である。ソ連亡命経験者、自称共産主義者、そして、ロシア人の妻、アメリカ国内における左翼諜報活動要員としたは、完全な履歴である。

1962年10月8日ダラスに戻った彼はチャイルズ・ストーバル社という海底や海岸線の地図を作成する会社に籍をおく、ここは、国務省関係の仕事を主に扱う会社である。ソ連亡命経験者であり共産主義者であるかもしれない人物が、である。この時期、確証はないが、オズワルドがFBIの情報提供者に登録されていた、といわれている。月給をもらいコード番号まである正式な職員としてである、この件でウオーレン委員会でも討議された形跡がある。
このダラスでのオズワルド夫妻の生活は、ソ連帰りで妻はロシア人ではなかなか溶け込む事は難しかった、このダラスでの生活をささえてきたのが、白系ロシア人社会である、アメリカの中で暮らすロシア人社会はきわめて排他的であったが、彼らは、気持ち良く迎えられた。中でも、ジョージ・モーレンシルツは、彼らの保護者的役割をはたす。彼は、石油業界の実力者であり国際的ビジネスマンとして名前が知れていたが、その経歴は極めて波乱に富んでいる、白系ロシア人の彼は共産主義者に祖国を追われ、大戦中はフランス情報部員として働き、戦後アメリカ市民権を得た彼はCIAの外局で働いている。中南米を旅行した時彼はグアテマラのCIA軍事訓練所でハワード・ハントと連絡をとっていた形跡がある。このような人物を自分の庇護者として、オズワルドは完全に信頼しその指示は彼にとって絶対的であった、と言われている。
1963年3月20日ダラス郵便局私書箱3915番に一丁のライフル銃が送られてきた。イタリア製カルカノ6.8ミリライフル銃である。この私書箱3915番の契約者はアレック・ジェームズ・ヒデル、そして注文者もアレック・ヒデルであった、販売したのはシカゴのクライン・スポーツ店、価格は、本体と照準器込みで19ドル88セントであった。逮捕時、オズワルドの財布からアレック・ヒデルの名前の偽造・選抜徴兵カードが発見された、また注文書その他の筆跡はオズワルド自身のものであった。ここに二枚の写真がある、片手にライフル、腰には短銃を吊り下げた勇ましい写真である、ちなみに、手に持っている新聞は「ワーカー」と「ミリタント」である。この二紙はアメリカの左翼系機関紙である。写真の検査の結果、手に持っているライフルは暗殺に使用されたとされるイタリア製カルカノ6.8ミリ・ライフル銃と確認されている。この写真は、妻マリナの証言から、彼女自身が、1963年3月31日にフオートワースの自宅の前で撮 影したものであるとされている。したがって被写体は間違いなくオズワルド本人であるはずである。しかし、これにも疑問がある、写真を見るとオズワルドの影はくっきりと映り、後ろには潅木に花が咲き乱れている。この写真を撮った日は太陽がサンサンと降り注ぐ快晴の日に違いない、ところが1963年3月31日のダラス・フオートワース地区の天気は曇り、時々小雨がぱらつく天気が、一日中続いていたのである。また、バックの花は、ダラスの街では3月には絶対に咲かない花であり、咲くとしても9月か10月なのである、この年の9月には、オズワルドはニューオリンズに現れており、万一、1年前の9月か10月であれば、カルカノ銃はまだシカゴのスポーツ店にあったのである。さらに、写真の影をじっくり見て頂きたい、体の影、周りの影はすべて右斜めからの光線を示す影が写っているが、顔の鼻の影だけは真上からの光線の影である、又この写真では、はっきりしないが一方の写真では、右手に指輪をはめているが、もう一方の写真では指輪ははめていないのである。あきらかに、連続して撮影された写真にしては極めて不自然である。

さて、この時期に彼がライフル銃を必要とした理由はなんであろうか、ウオーレン報告ではこの時期から暗殺を計画していたニュアンスで書かれている、仮にそうだったとした場合、ライフルの選択はどうであろう、仮にも大統領を殺す為の銃である、性能面については”凶器解析”を参照していただきたいが、19ドル88セント、約20ドルである当時のレートは1ドル360円、日本円にして7200円、当時日本の大卒初任給が7000円から8000円の時期である、現代に直すと20万円前後であろう、いかにしても安物の感じはいなめない。それに問題の写真である、この写真、顔だけを合成したものではないかと、当時から疑問視されている写真である、現在なら朝飯前の作業であるが、じっくりと光りと影の関係をみてみるとなにか違和感を感じるのは私だけでしょうか。

1963年4月27日、彼は妻や家族を残して、突然生まれ故郷のニューオリンズへ移る。そして、ライリー社というコーヒー製造会社に就職する、ちなみに、この会社のオーナーのウイリアム・ライリーは自由キューバ委員会という右翼団体のメンバーであり、組織の財政面の大物支援者である。ニューオリンズでのオズワルドは、いままで一度たりとも興味を示さなかった問題に足を踏み入れる。キューバ問題である。8月9日オズワルドはニューオリンズのど真ん中で、フィデル・カストロ政権支持のビラを撒き始めたのである。アメリカでもっとも保守的でかつ共産主義、フィデル・カストロという言葉に嫌悪感をいだき、亡命キューバ人の多数住む町で、カストロを擁護するビラを撒いたのである。反応は衝撃的であった、ビラを撒く彼の姿はあらゆるマスコミで報道され、彼の顔と名前はその日のうちに町中に広まった。このような行動をとってただですむはずはない、現にかれは、反カストロ派の亡命キューバ人に襲われている。この暴行事件で警察につれていかれたオズワルドは、警察署でFBIのエージェントを呼ぶように要求している。日本でいえば街の暴行事件で 県警の警察署にひっぱられた人間が警察庁の職員を呼べといってるようなものである、いや連邦警察のアメリカでの実権からすればそれ以上かもしれない。
”キューバ公正委員会”これがかれの名乗った組織の名称である、問題はその事務所の所在地である。ビラに印刷されたキューバ公正委員会の事務所は544,CampSt.NEWORLEANS,LA.(ニューオリンズ、キャンプ街544番地)である。ここには、何の変哲もないテナントビルが建っている。ここのテナントに入っている事務所が極めて奇異な感じをいだかせる、ガイ・バニスター探偵事務所(彼の名刺の住所はラファイエット街531番地であるが入口が違うだけで建物は一緒である)・キューバ革命委員会(反カストロ団体)、まさに呉越同舟である。まずガイ・バニスターとはどんな人物か、彼は元FBIのシカゴ支局長である、そして退職後、私立探偵事務所を、ここニューオリンズに開いているが、仕事の内容はすべて政治的なものばかりであり、特に反カストロ工作の仕事が100%であった。そしてここで働く一人が元CIA諜報員デビット・フィーリーである。さらに、この事務所に頻繁に出入りしていた人物、ニューオリンズの有名人であり実業家でもあったクレイ・ショーである 、彼もCIAのニューオリンズ支局の幹部であったことは現在では良く知られている。
キューバ革命委員会。この組織はニューオリンズに数多くにあった反カストロ団体の統合連絡事務を取り扱っていた組織である。この連絡事務所の設立にあたっては、CIAがそのスポンサーであったとされている。この組織に調整役としてCIA本部からまわされてきた人物が、亡命キューバ人のグアテマラ訓練基地(時代背景キューバ問題の項、参照)の指導者エベレット・ハワード・ハントバーナード・バーカーの二人である。
ニューオリンズでカストロ支持のビラを撒いた8月9日の前後に彼がカストロ政権擁護の為のなんらかの活動をしたという記録はない。わずか1日だけの行動だけで彼はニューオリンズの地で、親カストロ派の人物というレッテルと、マスコミという絶対的な記録をのこしたのである。


ニューオリンズでのオズワルド、ビラ撒きとテレビインタビュー

映画”JFK”を見た方も多いと思われます、映画の舞台はこのニューオリンズ、映画の主要登場人物の名前がこの項にすべてでてきます。ニューオリンズの地方検事であったジム・ギャリスンはキャンプ街544番地を足場に、ついにクレイ・ショーの起訴にまでこぎつけますが、FBI,CIAの非協力・妨害によって真実を明らかにする事ができませんでした。ケネディー暗殺事件が法廷で争われた唯一の事例でした。又、この項に登場する人物の名前で、どこかで聞いたような名前が、映画の登場人物以外におありかと思います。ハワード・ハント、バーナード・バーカーの二人です、そうニクソン政権末期、ニクソンの指示でウオーターゲートビルに侵入、逮捕された事件の主犯格二人の名前です・・・

ジム・ギャリスンの記者会見の映像 1  
ジム・ギャリスンの記者会見の映像 2  


1963年9月24日、ニューオリンズで親カストロ派の人物の印象を強烈にのこした彼はメキシコに現れる、彼は、メキシコのキューバ大使館に現れキューバ渡航のビザを申請する、目的は分からないがキューバ政府はこれを拒否する。すでに、この時点で共産側はオズワルドをうさんくさい人物と見ていた様である。さらに注目すべきはこの時期のCIAメキシコ支局長代理としてハワード・ハントがいたことである。彼との面識があった事や手紙の交換も頻繁にあった事は事実として立証されている。目的を達成できなかった彼は、ダラスにもどっている、そして直後にテキサス教科書倉庫に就職している、1962年6月帰国、1963年ニューオリンズへ、同年10月ダラスへ、わずか1年ちょっとのあいだに彼は各地を転々としているが職に困ったことはない、いくらアメリカといってもこの時期のアメリカは好景気とはいえない時期である。しかも、ソ連帰りの人物が、である。とにかく、彼はテキサス教科書倉庫に職場をもった、ダラスに現れた後のオズワルドはダラス市内で数々の奇行を演じている、数々の証言によると、11月初め 、自動車販売会社に現れたオズワルドは自動車を買いたいと物色するが、応対に出たセールスマンと喧嘩をしている。彼はセールスマンに”気に入った車がない、ソ連の車はないか、車はソ連のボルガに限る”といっている、テキサスでこんな事を言う人物は絶対にいない。また、射撃練習場に現れた彼はイタリア製のカルカノ・ライフル(犯行に使われたとされる銃)をこれ見よがしに見せ、他人の標的を撃ったりしてトラブルを起こしている。床屋、食料品店、銃砲店等いろいろな所で彼は”オズワルド”を印象付けている。


これから犯罪をおかそうとしている人間は、たぶん(未経験ですので)自分を目立たない様にするのが自然ではないでしょうか。彼の採った行動はいかにしても犯罪者としては異常な行動としかいえない気がします。また、事件直前のダラス市内での彼の奇行は、すべて影武者の行動であった、という説もあります。彼と喧嘩した車のセールスマンは事件後、喧嘩をした”オズワルド”は別人であると証言しています。(このセールスマン、アルバート・ボガードは2年後理由不明の自殺をとげている。)それでは、影武者がオズワルドを印象つける為にわざと奇行をくりかえしていたのであれば、いったい誰が、何の為に?勿論、事件前のオズワルドは、ただの一般市民の一人だったのです。


事件当日

1963年11月22日、午前11時45分教科書倉庫ビルは昼の休憩時間に入った。その時、5階のエレベーター前で上りのエレベーターを待つオズワルドが目撃されている、次には、11時55分頃、従業員チャールズ・ギブソンによって6階エレベーター前で目撃され、ギブソンの”下に降りるのか?”という問に”ノー”と応えている。入れ違いにポニー・ウイリアムズという従業員が6階に上がってきた、ウイリアムズは6階でのんびりと昼食を摂った、その間の時間は10分とも15分とも供述しているが、この間、彼は6階には誰もいなかったと供述している。そして、事件後2、3分後、ビルにとびこんできた警察官ベーカーと案内にたったビルのマネージャー、ロイ・トルーリとによってに、2階食堂の自動販売機の前でコーラを買っている姿が目撃されている。そしてベーカーがトルーリに、”この男を知っているか”と聞くとトルーリは”ここで働いている男だ”と応えた。この時のオズワルドを、ベーカーは、”彼は興奮したり、おびえているようには見えなかった”と証言している。その直後、女子事務員のレイドは、2階事務所でオズワルドに”大変!大 統領が撃たれたのよ”と声をかける。だが彼は、何の関心も示さずに黙って階段のほうへ歩いていった、と証言している。最後に12時45分頃、ダラス警察の副保安官クレイグは、オズワルドそっくりな男が教科書ビル横の斜面を駆け降りてくるのを目撃している、その男が口笛を吹くと、ヒューストン通りのほうから黒人の運転するステーションワゴンが近ずいて止まり、その男を乗せて走り去った、と証言している。その直後、教科書ビルは封鎖される。(一般的疑問の現場にて、参照)


オズワルドが犯人ではないと言っているほとんどの研究者は、彼が事件に何らかの形でかかわっていたであろう事は認めている。それは、根っからの政治好きの青年で、政治活動にまで首を突っ込むほどの人間が、大統領のパレードがすぐ側を通過しているのに、食堂でコーラを飲んでいるはずはないし、”大統領が撃たれた”という事務員レイドの声にもまったく無関心でいるわけはないのである、この異常とも思える行動こそが、なんらかの関わりを持つている証左にほかならない。
もう一つ、オズワルドの動きである。ベーカー警察官は事件直後、倉庫ビルに飛び込んでいる、そして2階でオズワルドを目撃したのは事件後2分遅くとも3分と証言しているが、歴史に残る射撃を行い、ライフルを積み上げられたダンボールの下に、見つからない様に隠し、さらに4階分の階段を駆け降り、小銭を出して自販機からカップ式のコーラを取り出し、手に持つまでに3分である。しかも、落ち着いていて息も切らせていなかった、と言うのである。
逮捕された時、オズワルドはその時間、2階で食事を摂っていたと供述している、その間2人の黒人従業員が自分のそばを通りすぎたので、調べてもらえば分かるはずだと供述しているが、警察が、その黒人従業員を探した形跡はない。
ここに、一枚の写真がある、シークレット・サービスの職員のポーズから考えると発砲直後か、それに近い時間帯の写真であることには違いがない、教科書倉庫ビルの正面入り口から顔を出している青年はいったい誰であろうか。


この後、オズワルドが目撃されたのが警察官チピット殺害現場付近とされている。ウオーレン報告書によれば、チピット殺しの現場付近で短銃を持った男を目撃した人物は合計12人としている、しかし、その中で警察での面とうしで、オズワルドをその人物であると指摘したのは、5人にすぎない。最も至近距離で事件を目撃した人物はドミンゴ・ベナベテスという機械工(彼の双子の弟エディー・ベナベテスは事件の3ヶ月後、頭を撃ち抜かれて死亡、犯人不明)であるが。かれは、現場から5メートルしか離れていないところから、事件の一部始終を見ていた。その彼が、犯人とオズワルドは別人であると主張している。また、目撃者の一人で、チピット殺しの犯人はオズワルドではないと主張したハロルド・ラッセルは事件から3年後、警察官に射殺されている、さらに、ワレン・レイノルズは同様に犯人は違うと証言したが、事件2日後、何者かに襲われ瀕死の重傷を負う、回復後、彼は前言を翻してオズワルドが犯人だったと証言する。


チピット殺しの現場状況には不自然な事が多い、事件概要の項からチピット殺しの状況を再録してみる。”警察官チピットは、東10番通りで、さきほどから警察無線で流されている大統領暗殺容疑者の人相手配に酷似した人物を発見、その人物に車を寄せていった。その人物はパトロールカーに歩み寄り、窓ごしにチピットと言葉をかわしていた、ドアを開けて彼に近ずこうとしたチピットにたいして男は、短銃をひきぬき数発発砲、4発が命中して彼は即死した”。ウオーレン報告書の記述です。
さて、皆さんはアメリカ映画やテレビ番組さらにはドキュメンタリーなどでこのようなシーンを何度かみているはずですが、いかがでしょうか。挙動不審者を発見した時、アメリカの警察官は窓越しに声をかけたりしないし、ましてや拳銃を構えずに被疑者に近ずく事など絶対にないのです。ここはアメリカです,しかも1960年代のテキサスです,ほぼ全員が拳銃をもっているし、発砲事件などは日常茶飯事の地域なのです。しかも、この地域はチピットの担当地域ではなかったのである。


そして、テキサス劇場で逮捕されるのであるが、逮捕以降彼の口から出た言葉や、法的に不合理な状況を、各場面と共に拾ってみる。テキサス劇場逮捕された時、マクドナルド巡査は彼が”ああー、これで終わった”とつぶやいているのを聞いている。ダラス警察署で最初にオズワルドを尋問したフィリッツ警部は、FBIのゴードン・シャクリン捜査官からFBIのジェームス・ホステイー捜査官も同席させたいと依頼されている、(アメリカの法律ではこの大統領暗殺事件は連邦警察の管轄ではないのである)さらに、警部が立ち会う理由をたずねると、その捜査官はオズワルドをよく知っているからだ、と応えたという。
ダラス警察署では、2日間延べ18時間にわたって尋問が続いたがこの間、弁護士も同席せず。またその長い時間の間、誰一人として尋問をテープに録音もしていなければ、尋問を記録する法廷速記者も同席せず、口述記録も尋問調書もとられていない。最初の尋問だけとか、最初の一日だけとかなら、興奮や緊張の為ともいえるだろうが2日間18時間もの間である。また、ウオーレン報告書は、オズワルドは弁護士を拒否したと書いているが、彼は、報道陣に”弁護士を呼んでくれ”と何度も訴えている。
彼はこの間、比較的自由に報道陣の前に出ている、これ自体異常なのだがその時オズワルドは大統領殺しを全面的に否定しているし、こんな発言をしている”私は、囮なんだ!”と・・・・

オズワルドの発言映像 

オズワルドの記者会見映像

”ああー、これで終わった。 Ah. It’s all over now!”とはどんな意味であろうか、言葉のニュアンスによってどうにでもとれる、たとえば、”自分の人生も終わった・・”とも、”これで、自分の任務も終わった・・・”とも。 テキサス劇場の中で格闘までして逮捕された直後の言葉であり、手錠をかけられた時の言葉としては不釣り合いな言葉ではないだろうか。さらに”私は、囮なんだ・・・!”にいたっては、かれの悲痛な叫びに聞こえてしまう。 事件全体を眺めてみると、この事件の流れの中で法的な権限のない部署の干渉が多いのに気が付く、この警察署でのFBIの干渉もその一つである。(その他は遺体解析参照)ましてや尋問調書がないことなどは、なにか意図的な事を連想されても反論はできないのではないだろうか。

オズワルド殺害の実況音声      
オズワルド殺害時の保安官の証言  
オズワルド殺害時の警察官の証言 
オズワルド殺害の中継映像


1963年11月24日午前11時20分オズワルドは郡刑務所に移送される為にダラス警察地下に姿を現した、待っていた数百人の報道陣のフラッシュやテレビカメラの砲列のなか、護送車に向かう彼の左手から、ソフト帽をかぶった一人の男が飛び出してきた、オズワルドはその男の顔を一瞬みて、驚きと不可解の混じったような表情を見せた。しかし彼の発した”OH!No!”の声は、その人物に向かって発せられたのか、それとも、持っていた短銃に向かって発せられたのか、永遠の謎として残ってしまった。犯人はジャック・ルービー、ダラスでナイトクラブを経営する人物であった。こうして、オズワルドの口から真実がのべられるチャンスは永遠に去った。

ジャック・ルービーの周囲にいた人物、従業員、犯行後ルービーの自宅内部をスクープした新聞記者等のうち6名が2年後までの間に死亡した、その中に通常の病死の人物は一人もいない。