”ウオーレン報告書”は政府の諜報機関とオズワルドの関係についてわざわざ一節を設けて、結論として「政府の関連諸官庁の記録や政府の責任ある当局者たちの証言を詳細に検討した結果、アメリカ合衆国政府のいかなる組織とリー・ハヴェイ・オズワルドとの間には、いかなる時点においても一切の関係は存在しなかったことが確認された。」と述べている。しかし、当時も現在もなおオズワルドは政府諜報機関(ここではCIAもしくはFBI)の構成員であったとする推定の火種は消える事がない。

諜報機関の非協力

ウオーレン委員会もオズワルドと合衆国政府情報機関のひそかな関連を疑わせる各種の兆候に全く気が付かなかったわけではなかった。調査が開始された初期の1964年1月27日の委員会の秘密会で、ランキン首席顧問は「オズワルドはFBIの情報部員だったとの”うさんくさい噂”が出回っています」と報告した。これを聞いたボックス委員が、ダレス委員に向き直り、政府情報機関のメンバーかどうかを見つける方法はないものかと尋ね、つぎのような問答が展開された。

ダレス;ある人物が情報工作員ではなかった。と立証することは実に難しいことですよ。どうやって証明しますかね。
ボックス;できるんじゃないですかね?
ダレス;いいえ・・・・私にはどうやって証明するのかわかりませんね。
ボックス;貴方の所で、記録ファイルの全くない工作員なんていましたか?
ダレス;紙に書いた記録がないことはありますよ。紙に書いてある場合でも場合によっては、まるで象形文字を読んでいるみたいで、その意味のわかるのは、組織内で二人だけで、組織外の人には全くわかりませんね。そこで、ある人は、この人物は情報工作員であるといい、別の人はこの人物は違うと言うわけですよ。
ボックス;でも、(情報工作員を)雇い入れた人物にはわかるんでしょう?
ダレス;その通りです。でも口を割りませんよ。
ウオーレン委員長;宣誓をして証言を求められた場合でもですか?
ダレス;宣誓証言の場合でも口を割るとは思いませんね、口を割ってはならないのです。
ボックス;となると、この噂は解明できないことになり、委員会が抱える問題の解決は全く不可能になるわけですね!

アメリカ政府の職員たる者が、宣誓証言を求められても平然と嘘をつく事を、わずか二年前までCIAの長官を勤めていた人物が、こともあろうに現職の最高裁判所の長官の目の前で公然と言い放つのであるからすざまじい。「スパイの世界」では民主政治や法治国家の基本的なルールさえも全く無視されるのである。そして最後にボックスが嘆いたように委員会はこれら諜報機関の非協力によって、彼の予想した通りのコースを歩むことになるのである。
ウオーレン委員会が疑惑の存在に気がつきながら、結局なにも追及できなかったこの問題を、十年以上もたってアメリカ議会が取り上げたのである。1976年に下院の「憲法上の権利に関する小委員会」委員長を勤めたドン・エドワーズ民主党下院議員は、ケネディ暗殺事件ではCIAとFBIが真相を隠す工作の背景にいた、と結論を発表している。同じ年、上院情報委員会から、ケネディ暗殺事件の調査にあたってCIAとFBIがどのような反応を示したのかを調べる仕事を依頼された情報委員会のゲーリー・ハート民主党上院議員とリチャード・シュワイカー共和党上院議員は二つの情報機関の非協力ぶりにあきれてしまう。ハート議員は情報機関がオズワルドとキューバとの関係に関して全くの手抜き調査しかしていなかったと告発し、シュワイカー議員は、オズワルドがニューオリンズで、ある時は親カストロ派、ある時は反カストロ派のように行動し、情報機関に操られた役割を演じていたと結論する。そして、自分としてはオズワルドが政府情報機関と特殊な関係にあったと信じるが、どちらであったかについては、確信がない、と付け加えている。1976年からの下院暗殺問題調査特別委員会の上級スタッフの何人かは、オズワルドが地位の低い情報員であった。と確信し、スタッフの中で慎重で細心の性格で知られるある人物が、調査の結果としてケネディ大統領が政府情報機関の一部の分子による陰謀で暗殺されたと固く信じている、とトーマス・ブキャナンと共に最も初期の段階からの事件研究家であるアンソニー・サマーズは書いている。

個人ファイル201

1964年当時CIAのリチャード・ヘルムズ副長官はウオーレン委員会の証言で、CIAはオズワルドと過去に何の接触もしたこともないし、接触しようとした事もなかった、と述べている。だが、この虚偽の証言は1977年に劇的な形で暴露された。CIAがオズワルドに関する個人ファイルをケネディ暗殺事件の三年前、1960年12月9日から作成していた事が判明したのである。勿論、CIAが自発的に認めたわけではない、制定された「情報の自由法」によって研究者達が公開させたものである。丁度この年、暗殺事件の真相究明にあたっていた下院特別委員会がこれを見てCIAの当局者を喚問した。しかしCIA側の答弁は以下のようなものであった。「この種の個人ファイルは、ある人物が情報収集あるいは対敵情報操作の面で潜在的に重要と認められた場合に開設されるものであり、オズワルドはソ連への亡命者であったので情報面で興味があると考えられたからである。」委員会が、では、なぜこの201ファイルの存在を現在にいたるまで隠していたのかと追及すると、CIAの答えは「良くある事」の一言であった。CIAのこの説明を額面通り受け取ると、このファイルはオズワルドの意向とは関係なくCIAがオズワルドの行動を見張るために201ファイルを作製した事になるが、一方では元CIA当局者の証言によると、「この種類のファイルが存在すると言うことは、オズワルドがフルタイムでCIAの為に働く契約情報員であったか、あるいは、ある種の任務を与えられて特定期間CIAの為に働いていたことを示すものである」としているのである。
この事を裏ずけるように。次から次へと疑問点が出てきた。201ファイルの表紙には「リー・ヘンリー・オズワルド」と書いてあるのだが、勿論、正しくは「リー・ハーヴェイ・オズワルド」である、CIAは単純な事務上のミスと説明するが、世界有数の情報機関が問題の中心にいる人物のスペリングを間違えるなどとは考えられない。下院特別委員会はこの事を”CIAがオズワルドについて、本物である裏ファイルと公開用に作られた表のファイルの二重ファイルになっているのではないかと考えて、本物のファイルを見せるように要求したが公開した資料がすべてであるとの回答しか得る事ができなかった。さらに、亡命者であるがゆえに作製されたファイルのスタートが1960年12月9日になっているのである。オズワルドが亡命したのが、1959年11月26日のことであるので、丁度一年後にそのファイルが作製されたのである。CIAが亡命を知らなかった、などと言うことは有り得ない。この事は”ファイルが亡命者オズワルドに興味があって作製された”と仮定しても二重ファイルの存在を裏ずけるものであろう。
記憶に新しいことであるが、1992年5月から1993年8月にかけてCIAは、一連の事件関連の機密文書を公開している。その数は十二万五千ページに及ぶ膨大な文書であったがこの中には、当時CIAが「これがすべてである」と主張した201ファイルの数十倍に及ぶ量の201ファイルが含まれていたのである。

オズワルドとCIAの接点

事件関連の著書の多いメリーランド大学助教授のジョン・ニューマンは、この新たに公開された201文書のなかからオズワルドがソ連から帰国した後CIAが強い関心を持っていただけでなく、実際にオズワルドと接触した事実を示す「有力な証拠」を発見している。ニューマンによると「オズワルドは1962年6月の帰国後、CIAの機密部門”国内接触部”の高官アンディ・アンダーソンなる人物に対し、ディブリーフ(任務完了報告)をした可能性が極めて強いと言う。「アンディ・アンダーソン」は仮名とみて良いであろう。CIAが、ソ連から帰国した直後のオズワルドからディブリーフを受けたのではないかと言う疑いは1977年当時から下院特別委員会の席上、強く出されていた。事件三日後の11月25日にCIAの当局者が書いたと言われる「内部メモ」が発見されていたからである。このメモにはソ連亡命中働いていたミンスクのラジオ工場にCIA当局者が興味を持ち、帰国したオズワルドにディブリーフする事を検討したと次のように書かれていた。
「われわれは、オズワルドが雇われていたミンスクの工場の(削除)や、ミンスクの一部地域について、オズワルドが提供できる情報にとりわけ関心を抱いた。それに勿論、オズワルドの人柄に関する資料を強化するような恒例の(削除)も入手しようと努めた・・・・」このメモを書いた当局者はディブリーフの可能性に関しては”知らない”と答えたが、他のCIA当局者が次のような証言を、下院特別委員会で行っている。それによると、「1962年の夏にCIAの出先機関の何人かの代表が書いたコンタクト・リポート(接触報告書)を読んだが、その中に、ソ連に亡命後ミンスクのラジオ工場で働いていた元海兵隊員で、ミンスクでは家族と一緒に住んでいた人物との接触記録が有った、と証言している。名前こそ明記されていないが、明らかにオズワルドの事と推定される。
CIAがオズワルドのディブリーフを受けたとしたならば、場所はおそらく帰国後に住んでいたダラスであったであろう、とサマーズは推理する。CIAの当時のダラス支部にはウオルトン・ムーアと言う国内接触部の人物が居たことも分かっている。この人物が「アンディー・アンダーソン」の仮面をつけていたとしても不思議ではない。
1993年に開示されたCIAの機密文書の中には、アメリカからミンスクのオズワルドに複数回にわたってひそかにバッゲージが送られ、ミンスクを担当するCIAの部署もこの事を承知していたという記述もあるといわれている。とすれば、CIAはソ連から帰国したあと初めてオズワルドと接触したのではなく、恐らくはソ連への入国前からオズワルドと何らかの接触を持っていた事になり、オズワルドの「ソ連亡命」自体がCIAの情報工作という可能性すら現実味を帯びてくるのである。
この様な角度から眺めてみると、CIAの201ファイルが、オズワルドのソ連入国からではなく、一年二ヶ月後の1960年12月からスタートしている謎にも一つの手がかりが出てくる。と言うのも、この空白の十四ヶ月の間に、米ソ冷戦時代を象徴する大事件が発生している。例のU2偵察機撃墜事件である。1960年5月1日にU2機がソ連領内で撃墜されたとき、オズワルドはミンスクの工場で働いていた。そのオズワルドはソ連亡命前、日本の厚木基地で海兵隊員として勤務しており、その厚木基地こそ極東におけるU2機の秘密基地であった事は現在では既知のことである。CIA当局としては、この時期のオズワルドとCIAの関係を表に出す事は何としても避けたいと考えたに違いなく、二重帳簿を作って隠蔽工作に出た可能性が強いのである。

日本におけるオズワルド

オズワルドが勤務した1950年代末から60年代始めにかけての厚木基地はアメリカ軍の「レーダー基地」であった。ソ連や中国のレーダー網を探知する装置を搭載した海軍のコンステレーション機や海兵隊のジェット戦闘機が離着陸する。オズワルドらのレーダー兵は、自軍機をレーダーで目的地へ誘導したり、パイロットと交信して情報を提供したりした。ときどきソ連や中国の軍用機が航路をそれて日本上空に迷い込むと、これを追跡するのも任務であった。しかし、一皮むけばこの厚木基地は、CIAにとって中ソの軍事情報を収集するアジア最良の前線基地であった。当時西側陣営の持つ、もっとも重要な情報収集の手段と言われたU2機の何機かがこの厚木基地に配備されていたのである。この厚木基地時代のオズワルドを知る何人かの同僚は次のように証言する。オズワルドは毎週末になると人目をひく日本美人と手を組んで繁華街を歩く姿を見掛けたと言う、聞いてみるとオズワルドはこともなげに「クインビーの女だよ」と答えたと言う。「クインビー」は当時東京都内でも指折りの高級クラブで、在日米軍の士官級以上が出入りしており、オズワルドのような下級兵士の姿をみかけることはまれであった。一晩で百ドル以上と言われた高級クラブに月給八十五ドルのオズワルドが頻繁に出入りし、しかも特定のホステスを外に連れ出す経済的余裕が、どこから生まれたのであろうか。1958年6月にオズワルドは「事件」を起こしている。基地内の「ブルーバード」と言う喫茶店に入ってきたオズワルドが上官の軍曹の姿を見つけて「俺の食堂勤務の時間は、他の仲間より長い」といちゃもんをつけてコーヒーを頭からかけたのである。直ちに軍法会議にかけられ、営倉二十八日間と罰金五十五ドル、さらに前回の事件で執行猶予となっていた重労働二十日間も追加される判決が出ている。挑発されることはあっても、挑発することはしないと言われたオズワルドの性格からすると、似つかわしくない出来事であった。しかし、仲間の証言によると、彼が営倉に入っている姿や重労働に服している姿を見た同僚は一切いなかったのである。この為、オズワルドが軍情報部からの指令で、これらの期間中、日本国内で何らかの情報活動に従事していたのではないかとの疑惑も生まれてくる。

ミノックスカメラ

オズワルドがCIAもしくはFBIと雇用関係にあったかどうかを、その組織に尋ねるなどと言う事は愚の骨頂である、冒頭のダレス元長官の発言を引けあいにだすまでもなく。かつて、これら諜報機関が諜報にたずさわる重要人物に関してその事実を認めたことは過去に一度も無かったし、これからも無いであろう。したがって、これら諜報機関がオズワルドとの関わりを否定する事は建前だけのものであり、全く意味が無い。したがって我々は数々の状況証拠を積み重ねて推理するしか方法は無いのである。ここに一つの状況証拠がある。オズワルドが逮捕されて数時間後、ダラス警察の刑事がオズワルドの家を捜索している。この時、手回り品を入れた海兵隊支給のキャンバス袋からドイツ製のミノックスカメラを発見している。この精巧なカメラは第二次大戦中、枢軸国と連合軍双方の情報工作員に支給され愛用されていたものである。ダラス警察は11月26日の報告書にオズワルドの所持品をリストアップして、当然このカメラもリストの中に含めている。すると、この報告書を受け取ったFBIは、この「ミノックスカメラ」の項目を「ミノックスカメラの露出計」と書き改めているのである。この話を聞いたダラス・モーニング・ニューズ紙のアール・ゴルツ記者が興味を持ち、ミノックス社のニューヨーク代理店の元責任者にあたってみた。するとその元責任者から次のような面白い結果が出てきた。
1、アメリカで販売されているミノックスカメラは、135000から始まってすべて6ケタの製造番号が刻印されている。
2、オズワルドが残したカメラの番号は5ケタの27259で一般人には入手できない。
3、1963年当時ミノックスの露出計はアメリカ国内で一般には販売されていない。
これらの事実を突き付けられたFBIは1964年1月31日、ミノックスカメラを発見したことは認めたが、これはオズワルドの家の大家のルース・ペイン夫人から提出されたもので、持ち主は彼女の夫でベル・ヘリコプター社に勤務するマイケル・ペイン氏であると発表した。だが、ルース夫人はFBIからカメラを提出するよう求められた事は無いといい、マイケルが持っていたカメラは当時破損して使い物にならない状態であったと語っているのである。FBI当局が、このようなすぐにでも底の割れるようなドタバタを演じてまでオズワルドとミノックスカメラの関係を隠そうとしたのか?それは、1963年当時、この種のミノックスカメラを所持していることは、アメリカ政府の情報組織の一員である事をほとんど確証させるに等しい事であったからではないだろうか。