ある事件が発生してその容疑者が逮捕された後の司法的な処理に関してはどの様な流れになるのであろうか。まず、警察で尋問を受け「起訴」「不起訴」が決定される。検察側が十分に公判維持が出来ると判断すると、正式に裁判所に起訴され公判が開始される事になる。裁判所において公判が開始される冒頭に行われるのが「起訴状」の朗読である、これは容疑者の被疑事実を順序立てて説明し検察側の持っている証拠を開示し「この様な経緯で容疑者が違法行為を行った」事を明らかにしていくのである。(基本的にはこの起訴状において述べられた事実に関してのみ公判は維持されていくことになる)この冒頭の起訴状に述べられた事実に関して容疑者はその事実を認めるのか認めないのかを陳述し、認めない場合においてのみ公判は続行される事になる。弁護側はこの起訴状に述べられた事実関係に対して反論し反証を提示してその起訴状の事実関係を崩していく作業にその総てをかけていくのである。ケネディ大統領暗殺事件においては容疑者の死亡によってこの裁判は開かれることはなかった。だからと言って何の調査もされず事を収めるには事件が大きすぎた。事実、事件当初FBIは入念な調査をおこないその報告書をほとんど完成させていたし、議会側も独自の調査委員会がその活動を始めようとしていた。一つの事件に対して複数の調査がおのおの連携を持たずに独自に行われようとしていたのである。これらの動きに対して危機感を抱いたジョンソン大統領は、その総ての動きを封じる作戦にでた。その切り札として発足したのがウオーレン委員会であった。この様な大統領直属の調査委員会自体が異例の事であり、アメリカ憲政史上初めてのことであった。ウオーレン委員会の項参照 そしてその調査委員会が発表した報告こそが世に言う「ウオーレン報告書」である。ウオーレン委員会は法廷ではない。したがって誰が有罪で、誰が無罪かを争う場ではなかったのである。あくまでも多くの証言を集めその証言を精査していく事にあったのである。しかし、現実に委員会の運営は、まるで容疑者オズワルドに対する検事の役割をほうふつさせるものがあった。それではこれらのウオーレン委員会の運営を百歩ゆずって正当化してみた場合には、この報告書の持つ性格は検察側の「起訴状」にあたることになる。したがって起訴状のいかなる部分でも事実誤認が証明されれば公判は維持できなくなるし、容疑者は無罪となる。
身内の疑問
周知の通りアメリカ政府の立場からするとこの暗殺事件は「完全犯罪」などではなく、キューバの革命政治家カストロを支持する孤独な左翼青年の単独犯行として一件落着済である。その根拠となっているのがジョンソン大統領によって招集され九ヶ月に亘って調査した結論として発表された「ウオーレン報告書」である。しかし皮肉にもこのウオーレン報告書の発表がアメリカ国民の疑惑を爆発点にまで高め、政府の言動をすべて疑わせる元になってしまったのである。報告が発表された1964年9月の時点で、ケネディ暗殺はオズワルドの単独犯行などではなく、陰謀の結果であるとする人達は31%に過ぎなかった、それが四年後の1967年には国民の67%が陰謀の存在を否定しないとの調査結果に膨れ上がった。さらに1993年11月に暗殺30周年を記念してCBS放送が実施した世論調査においては実に89%。つまりほとんどの国民が単独犯行説を疑問視している事が明らかになっている。皮肉なことに今度はウオーレン報告書の存在そのものがケネディ暗殺事件の真実を知ろうとするアメリカ国民の前に、大きな壁として立ちふさがっているのである。
ケネディ暗殺事件は、最初から今日のように「完全犯罪」の様相を帯びていたわけではない。事件の発生とともに、現地テキサス州の警察力と連邦捜査局などの強力な捜査陣が大量に投入され捜査が進められていたならば、事件の半年か一年後には真相が浮かび上がった可能性が十分にあった。そして、これを受けてテキサス州で州の刑事裁判が行われ、ワシントンの連邦議会で暗殺事件の政治的、社会的背景のつっこんだ調査が平行して進められていたならば、いくら難事件といえども、アメリカ国民はこの悲劇の輪郭を早いうちに捉える事ができたに違いないのである。このような可能性をすべて打ち砕き、事件の解明を永遠の謎にしてしまったのが、ウオーレン委員会の政治的色彩を色濃く残した表面的な調査と運営、そしてご都合主義で塗り固められた「ウオーレン報告書」であった。この事を裏書きする事実が存在する。事件の調査を指揮し最終報告書を書き上げた当のウオーレン委員会の委員七人の委員の大半や調査スタッフの相当数が、報告書の核心部分にあたるオズワルドの単独犯行説や「魔法の銃弾」説を、心の奥底では信じていなかったと言う事実、さらには驚くべき事に委員会を招集しその報告書を承認して国民に発表した最高責任者であるジョンソン大統領ですら、引退後この報告書の結論に疑問を持っていたことを漏らしていたのである。
ジョンソンは大統領を退任して四年後の1973年1月22日に故郷のテキサス州ジョンソン市の自宅で64歳の生涯を閉じたが、死ぬ少し前に評論家のレオ・ジャノスと会見している。ジャノスは1973年7月号の月刊誌「アトランティック」に、この時の会見の記録を公表した、その中でジョンソンは10年前のケネディ暗殺事件にふれてこう述べている。
「自分としては、オズワルドが(ケネディ大統領を撃ったライフルの)引き金を引いた事までは承服できる。だが、委員会が暗殺事件を徹底的に掘り下げたかどうかには確信がない。私のカンだが、オズワルドはキューバ侵攻作戦(ビックス湾事件)への報復を狙う親カストロ派のキューバ人達と関連があったのではあるまいか?」
1975年になると、アメリカテレビ界の大御所ウオルター・クロンカイトが、すでに故人となっているジョンソン大統領をブラウン管に登場させた。1975年4月25日の夕方のCBSニュース番組でクロンカイトは6年前の1969年9月に収録した故ジョンソン大統領との単独インタビューのフィルムを初めて公開した。この中でジョンソンは、ケネディ暗殺には一人以上の人物が関係していると述べ、さらには、自分としてはオズワルドが単独でケネディ大統領を暗殺したと考えた事は一度もない。と驚くべき発言をしている。ジョンソンは一歩進めて、ケネディ暗殺にはCIAが関与していたと証言する責任ある地位にいた人物もいる。ジョンソン大統領の長年の腹心で郵政長官を勤めたアービン・ワトソンがその人である。1977年に公表されたFBIの文書によると、ワトソン郵政長官はFBIに対し「ケネディ暗殺事件に関してジョンソン大統領は、陰謀が存在したと現在では確信している・・・・・・・。この陰謀にはCIAが何らかの形で関与していたと大統領は感じている」旨を連絡してきたと言う。この連絡の日時は明らかではないが、肝心のワトソン郵政長官はこれについて何も語らずに世を去った。
このようにあらゆる分野、なかんずく身内からも信用されていない報告書が現在でもなおアメリカ合衆国政府の唯一無二の結論であり続けている。そして「起訴状・ウオーレン報告書」はいまや満身創痍であり事件研究者と言う名の弁護士達の攻撃にさらされているのである。
ウオーレン報告書の問題点
このウオーレン報告書には、アメリカの政、財、官、さらには言論界のエリート層が、歴史上最大の民主主義国家、法治国家としてのアメリカ合衆国のメンツを守ろうとする渾身の努力が凝縮されていると言って過言ではないであろう。まず最初に意図があり、これを太い一本のタテ糸に、これに適合するあれこれの事実をヨコ糸に組み立てられた結果が「ウオーレン報告書」である。このような建前からすると現代の世界で民主国家のモデルとしてのアメリカで国民の手で選ばれた現職の大統領を暴力で抹殺するための陰謀など存在するはずも無かった。さらには、憲法に忠誠を誓う連邦政府の組織であるCIAやFBI、軍の情報機関やSSなどが、組織としては勿論のこと、個人としてもこの陰謀に加わったり、暗黙のうちに手を貸したりすることは考えられもしなかった。犯人はアメリカン・ドリームに背をむけ、共産主義国ソ連や社会主義国キューバに対しゆがんだ関心を持つ世をすねた一匹狼的存在でなければならなかったのである。そうであれば、アメリカ国民の大半は今後とも民主主義社会の繁栄の中で安心して暮らしていく事ができるのである。「ウオーレン報告」のこの筋書きは、暗殺者の銃声が鳴り止んだ瞬間に早くも作り上げられていたのである。1964年9月24日、委員会発足の日から数えて丁度300日目、ウオーレン報告書はジョンソン大統領に提出された。一般国民への公表はこの三日後に行われた、さらに二ヶ月後には何のまえぶれもなく全部で二十六巻を数える膨大な資料集が発表されたのである。この資料集には委員会での各種の証言の詳しい内容、種々の証拠品や展示物の説明資料が載せられていた。そのくせ、事件に関連した人物、組織、問題別の索引が一切無く、膨大なナマの資料がアメリカ国民の目の前にドンと投げ出された形となっている。この資料集を見て事件研究家のシルビア・ミーガーが「これでは、大英百科事典につまっている山のような情報を、アルファベット順、問題別に分類せずに放り出して、さあ、必要な情報を探しなさいと読む人に言っているようなものだ。」と嘆いた事は有名な話である。そんな批判を受けたウオーレン委員会はその索引すら作ろうともせず、サッサと解散してしまい、国民の間から殺到する苦情や批判、問い合わせは宙に浮いてしまったのである。(後に前述のミーガー女史は独力でその索引を作り上げた。)これほど膨大で、ある意味では退屈極まりない資料を一つ一つ読み進んでいくのはほとんど生理的に苦痛を伴うので、大抵の国民は関心を示さないであろうと委員会が計算したとしたら大きな誤算であった。全米で何百、何千と膨れ上がった事件研究者達は、丹念に資料を読んで分析し、その結果、これらの証言や資料の間に大きな矛盾が数多く存在すること、それどころか「ウオーレン報告書」に書かれている説明や分析と「資料集」に書かれているそれとの間に、埋める事のできない大きな矛盾がいくつも存在する事が明らかになってきたのである。
ミーガー女史によると
@ 付属文書を検討してみて不正確であると解った事柄が「報告書」には事実として記載されている。
A 報告書に記載されているのに資料集ではその裏ずけが不十分な事柄が多数存在する。
B 証言の趣旨を歪めて報告書に記載したものが存在する。
C 報告書の結論にはっきりと反対する証言は一切取り上げていない。
D オズワルドに有利な資料を報告書では、ほとんど没にしている。
E 疑問のある状況を徹底的に調査していない。
F 極めて重要な一部の証人からの証言が資料集には出てこない。
G 証言や証拠品から合理的に導き出されるであろう推論と正反対の結論を報告書が出している。
などが重大な欠陥として指摘できると言う。
すでに書いたように、歴代のアメリカ政府は「ウオーレン報告書」を全面的に支持し、その結論を何一つ修正していない。だが今日、大半の事件研究者によれば、ウオーレン報告書の柱となる結論のうち疑問なしに受け入れることのできるのは、たった一つ「オズワルドはジャック・ルビーによって殺害された」事だけであると指摘している。
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