ケネディ暗殺事件は発生以来じつに数多くの研究者達が真実を求めて研究してきた。そして現在もなお止む事が無い。これはとりもなおさず、事件そのものの解決?が一方的であり、国民の疑問に十分に答えられなかった結果である。一種の判官びいき・英雄伝説にはつきものの現象といえるが、映画JFKで、最後に検事ギャリソンの国民の”事実を知る権利”を涙ながらに訴える感動的シーンをひけあいに出すまでもなく、アメリカ国民の権利に対する確固たる意思を垂涎の思いで見るのは、自分だけであろうか。
ここでは、現在まで公表された仮説の数々を紹介すると共に、あえてその諸説に対する批判を同時にしたい。中には、自分の信じる仮説も含まれているが、勿論これを批判する意見も記述した。これらの批判を乗り越えてこそ、はじめて真実が明らかになると信ずるからである。皆さんの信じる、又は、可能性として考えている仮説も多分含まれている事でしょう、皆さんも是非これらの批判を乗り越えていただきたい。また、これらの仮説には本当の黒幕にまで溯って記述していない。あくまで実行グループもしくは実行機関の推定仮説までにとどめている。

オズワルド単独犯行説

いわずと知れたウオーレン委員会の公式結論である。このホームページそのものがこの説に対する批判の固まりであるので、あえて詳しくは記述しない。リード文に書いた”一方的な解決”のイメージを世界に残してしまった理由は三点ある。一つは、この委員会が独立した捜査権を持っていなかった事、二点目として、委員会の証人尋問さらには証拠の検討作業の一切を非公開で行った事、最後にこの委員会の信頼性をいちじるしく損なったのは、検討された各種の重要証拠、オズワルドの単独犯行と結論ずけた全ての証拠を、2039年まで非公開と決定したことであった。しかし、これらの信頼性を損なう諸点に目をつぶり、かつ様々な批判を棚上げにして検討してみても次の点で単独犯行説は不自然である。それは、オズワルドの犯行動機である。アメリカ憲政史上には、もっとも古いリンカーンからレーガンまで、合計10回の暗殺事件が発生している。そのうち、4件の事例が成功し、残る6件が未遂に終わっているが、ケネディ暗殺以外の9件の事例はすべて動機がはっきりしているか、もしくは犯行声明を出している。それらは、大統領を国民の敵と思い込んだり、国家主義者であったり、有名 になりたい一心であったりと様々である。ただ一つの事例を除いて・・・・・
オズワルドは、アメリカの政治体制を十分に理解しており、単に大統領を殺害しても副大統領が昇格するだけで、何も変化しない事を知っていた。又、彼の過去の発言には、ケネディを敬愛しこそすれ、批判的な言動の形跡がまったく無いし、マスコミや警察に対して、何らかの主義主張らしき発言をした事実は一切無い。それでは、彼の精神状態が異常であったのかと言うと、そのような形跡が無い事は逮捕直後の発言や、自分の置かれている状況を正確に理解をして居た事で立証される。さらに、単に”有名になりたいとの犯行”とするには無理がある、彼は大統領殺害をハッキリと否定しているのである。ウオーレン委員会はオズワルドの単独犯行と結論したが、その動機を引き出す事はできなかったのである。

共産主義者犯行説

この説の理論は単純で、共産主義と言う我々アメリカの敵が、大統領を殺したと言うものである。この説では、犯行の動機を探すまでも無く、共産主義者はアメリカを憎んでいる、だから暗殺には共産主義者が関係しているに決まっている!と言うものである。これらの素地が、ソ連帰りのオズワルド犯行説を信じる人々にとって今も尚、最大の理由となっている。
この共産主義者犯行説は、オズワルド犯行説以外に次の三種類に分類して検討する必要がある。それは、ソ連人・キューバ人・アメリカ人である。

ソ連人共産主義者犯行説

たしかに1962年末までは、東西冷戦状態は続き、ベルリンには壁が築かれ、アメリカがキューバにソ連製核弾頭のもちこみを阻止したことから核兵器競争は激化しアメリカ人は戦争の恐怖に怯えていた。しかし、1963年を迎えてこの米ソ関係は急速に回復の兆しが見えていた、ホワイトハウスとクレムリンにはホットラインが敷設され、夏には部分的核実験停止条約がこの両大国によって署名され批准されている、共産ソ連が喉から手がでるほど欲しがっていた食料の輸出が開始され、同様に原油の輸出も解禁される状況も垣間見えていた。ソ連国内でも1963年夏以降ヨーロッパのラジオ放送がソ連国内で聞けるようになり、ケネディの演説内容が新聞に掲載されるようになっていた。まさに両国の間には、友好関係が発展しかけていた時期でもある。このような状況下でソ連がケネディ暗殺を計画するとは思えない。このような危険をおかすことは、ソ連にとってのマイナス要素のほうがあまりにも多すぎる冒険としか思えない。それに決定的な事は、つぎの点からも明らかである。暗殺後、ソ連はいかなる工作、いかなる行動も起こさなかった!誰かが襲われた訳でもなく、アメリカ国内にソ連 の工作員や戦闘部隊が上陸した訳でもなく、ミサイルを積んだソ連の船がキューバに入港した訳でもない。世界中の何処にも、誰にも、ソ連は何もしなかったのである。実際、ソ連がケネディの暗殺を望んでいたとしたら、ソ連と直接関係のある人物(オズワルド)をいかなる場面でも使うような事はしなかったはずである。ソ連にとっては、1963年11月の時点のケネディは、間違いなく助っ人であったのである。

キューバ人共産主義者犯行説

1963年のキューバの同盟国は唯一ソ連であった。ソ連はキューバに食料や武器など重要な経済援助を実施していた。また、キューバ兵を訓練しキューバ人エリートをソ連の士官学校に受け入れていた。1963年初には、キューバは東方のその同盟国に完全に依存し、ソ連の衛星国になっていた。キューバはソ連に従いクレムリンがカストロに命令をくだしていたのであった。カストロにとってアメリカはキューバ国内の反革命勢力の庇護者であり、自分の命を狙う国でもあった。また、革命直後、通商禁止処置をとって、キューバ経済を壊滅的に疲弊させたうえに、軍隊まで送ってきて自分の革命政権打倒を図ってきた国でもあるのである、カストロの怒りはもっともと思われる。自分の国に敵対し自分自身の身が危ないと感じた人物が自分の未を守る為に暗殺を企てたとしてもおかしくはない。カストロは総ての指示は大統領から出ているものと信じていた。しかし、彼はその計画を実行することが出来なかった。理由は三つある。
ひとつは、当時のカストロには、もし暗殺計画を実行しようとした場合、絶対にソ連の許可を必要としたであろうことである。前項の理由で、クレムリンはその計画を承認する事はなかった。ふたつめは、もしカストロがソ連の承諾なしに、計画を実行していたならば、キューバは世界の孤児となったであろうことである。ソ連の怒りをかえば、経済援助は止まり、カストロ政権は数週間のうちに崩壊したであろう。また、アメリカがカストロの手先が大統領を暗殺した事実を知った場合には、まさに赤子の手をひねるよりたやすくキューバと言う国を抹殺してしまう事は、あきらかであった。しかも、このような状況では世界の世論はカストロにとって有利に働くとは思えないのである。みっつめはソ連の場合同様、オズワルドがメキシコのキューバ大使館と接触をもったり、キューバ支援の活動をしたりしていた事実である。この事は逆説的にキューバが事件に関わっていなかった証左となるであろう。

国内の共産主義者犯行説

1963年当時アメリカ国内の保守派層はケネディを自由主義者と呼ぶにとどまらず、共産主義者と非難していた。したがって、政治的には極めて少数派であったが、アメリカ共産党にはケネディを殺す理由がまったく無かった。さらに、マッカーシズムの嵐は、数少ない共産党組織の周辺を完全にカバーし、かれらの内部に入り込んでいた。万一、アメリカ共産党が大統領暗殺計画を立案しようものなら、その日のうちに漏れていたであろう事は明らかである。

ベトナム犯人説

この説は一時、かなりの範囲で信じられた説である。理由は、1963年11月1日南ベトナムの大統領ゴ・ジン・ジェムがCIAによって暗殺されている。これに対する報復であり又、アメリカの軍事支援停止を主張する、ケネディの政策を止める為の一石二鳥の犯行と言うものである。11月1日にジェム大統領が暗殺されたのは事実である。又この暗殺がCIAの仕業であり、ケネディもこの計画を黙認していたと言うことは当時も現在も信じられている。しかしながら、報復の為の暗殺にしては、あまりにも時間がなさすぎる、僅か20日間である。ある程度、治安体制の整った国で、一国の大統領を暗殺する計画がこの期間内で計画され実行されたとはとうてい思えない。また、1963年から溯って10年間に南ベトナムでは政治的指導者が8人も変わっている。その全員が殺害や政変によるものである、ジェム大統領に限ってベトナムが特別に怒りをあらわにして報復処置を実行したとも思えないのである。そして、後段の援助停止に関しての政策転換の為との理由は、結果論である。確かにジョンソンはケネディのベトナム政策を180度転換した。しかし、副大統領時代彼は一度たりともベト ナム問題に関して見解を述べた事が無いのである。大統領が死ねば副大統領が就任する事は誰もが知っている、そして一般的には後任の大統領は前大統領の施策を踏襲するのが通常であるし、ましてや暗殺の元凶が南ベトナムと解っても援助を拡大するとでも思ったのであろうか?それとも、ベトナムの暗殺機関は、事前に副大統領の胸のうちを打診でもしたのであろうか?

保守派層犯人説

この説も三つのグループに大別される。共通するのはケネディが死ぬ事によって様々な利益が転がり込んでくる事である。さらには、これらのグループの二つもしくは三つが大同団結して計画を推進した、と言う説も存在します。いわゆる”シークレット・チーム”である。映画”ダラスの熱い日”という映画を記憶されている方もいらっしゃると思いますが、(ケネディ暗殺を主題にした最初の映画)この映画はこの説にのっとって発表されています。

キューバ亡命人犯人説

合衆国内にいる反カストロキューバ人グループとその支援者達は動機の面で極めて有力な犯人グループと考えられる。彼らはキューバ革命中、あるいは革命後、アメリカに亡命してきた人々である。こうした人々はキューバ国外で暮しながら、いつか祖国をカストロの手から取り戻す事を夢見てきた。1961年4月のピッグス湾事件はそんな彼らにとって最大のチャンスであった。この事件の詳細については、他のコンテンツで再三取り上げているのでここでは再録しないが、この事件で彼らのケネディに対する憎しみは最高潮に達し、口を極めて報復をとなえる人々が現実にあった。さらに、1963年に入ってのデタントが、キューバに対しても適用される気配に及んで後戻りできない状況下にあったとしても、決して可笑しくはない。しかし、ピッグス湾事件以降、ケネディが彼ら亡命キューバ人に対してとった誠意を忘れてはいけない、ケネディは事件の責任を対外的に自分一人で引き受けたし、さらに、彼はカストロに莫大な身の代金を払って捕虜となったキューバ人亡命者を釈放させている。この処置は反カストロ勢力のケネディに対する信頼をいくぶんか回復させている。そして決定的な事件は 1962年のキューバ危機であった。彼のソ連さらにはキューバに対する毅然とした態度は、亡命者達にとって、ケネディは我々の味方であるといった認識を再構築させるのには十分であった。ビックス湾事件からキューバ危機までの間は確かにケネディは亡命人グループの標的になる可能性はあったが、以降は彼は亡命者グループの英雄となっていたのである。

石油事業者犯人説

1962年ケネディは一つの法案を議会に送っている。それは、連邦の石油減耗控除撤廃に関する法案である。この議案によれば、連邦政府には税収が数百万ドル増え、石油業者には同額の減収になるはずであった。この法案の提出は当時南部石油業者の猛反発をひきおこしている。そして、一部石油業者グループが、資金力に物を言わせて暗殺を実行したと言う説である。この説は、一時陰謀の存在がリークされ極めて大きな可能性として論議されている。しかし、この説には重大な欠陥が存在する、1962年に提出された、この議案は議会で否決されそれ以降同種の議案が議会に提出される事はなかったし、新しい形で石油業者に負担を求めるような議案は準備されていないのである。

極右富裕層犯人説

暗殺の陰謀の首謀者として常に指摘されるグループに、ケネディの自由主義的政策に反発する、富裕な南部超保守派グループがある。こうした極右派の動機として指摘されるのは、保守主義の推進と言う彼らの目的である。ケネディは、連邦政府を介入させて国内問題(特に黒人問題)を解決する東部の自由主義者であり、共産主義国と国際的な対話への道を開き、多くの保守派から自由主義者というだけでなく露骨に共産主義者呼ばわりされていた。こうした事情を考慮すれば、この説には信憑性がある。しかし、この場合、暗殺の時期の点で疑問が残る。つまり、1964年の大統領選挙を考えた場合、最大限の効果をひきだすには1963年の時点でケネディを殺害してしまっては時期尚早だったということである。もし、これら保守派層が暗殺を保守改革を進める際の最高の手段と考えていたなら、暗殺の実行は、1964年の晩春もしくはさらに遅い時期のほうがずっと効果的であったはずである。ケネディが民主党の次期大統領候補になる事は確実であり、その彼が1964年の中盤で死亡したなら、民主党は党大会の大統領指名候補者もいないまま大混乱に陥る事は火を見るよりあきらかである。 わずか数ヶ月のあいだに新しい候補者を選出することは不可能である。さらに重要な事は、もし暗殺者が共産主義者オズワルドとされれば、共和党の大統領候補者ゴールドウオーターは保守派の指名候補として有権者の同情という反動を恐れる事無く、反共の波に乗って政権をとれた可能性が十分であった。

シークレットサービス犯人説

この説はホームページを開設してからケネディ談話室で指摘され急遽いろいろなサイトから情報を収集したものです。この説を取り上げていたのは一つのサイトだけでしたので、批判は私の個人的な批判である事を事前にお断りします。この説の根拠はザプルータフィルムの映像の中にありました。大統領が致命傷を負った313コマ目以前の、304コマから311コマまでの間の運転手の動きを指摘しています。専用車の運転手ウイリアム・グーリアはこの時、完全に後部座席のケネディの方を見てその手を上に挙げた姿勢をとっています。その手に握られていたのが拳銃であると言うのです。事実、シークレットサービスはこのダラス遊説の旅に限ってミスを何度か犯しています。それは、事前調査の段階でのダラス市内不審者調査でオズワルドの存在に気ずかなかった事(ソ連帰りの親カストロ派の人物は十分調査対象になりうる)、コース変更に関してなんら主導権を発揮しなかったこと(パレードコースの決定はシークレットサービスの専権事項である)、さらには前日の夜遅くまでの酒を飲んでいた事(パレード護衛車勤務の者まで)等々、数々指摘されている。もっ とも重要な指摘は発砲時点の専用車と護衛車の間隔である、通常このようなパレードのさいの車両間隔は、ほとんどバンパーがくっつく位に接近していなければならない。しかし、発砲時点ではその間隔が約10フィート離れていた、(ヒル護衛官の証言では約5フィート)これは意図的なものであり専用車の車内での犯行を秘匿する為のものである、と言うのである。この場合シークレットサービスには何の動機も無い事が指摘されよう、CIAのように組織の危機が存在した訳でもなく、個人的な恨みをグーリア護衛官もしくは助手席のケラーマン護衛官が持っていた兆候も無い。さらには、フィルムでも解る通りグーリア護衛官とコナリー州知事夫人との間隔はわずか数十センチしか離れていないこのような状況で拳銃を発射する事が可能であろうか。

マフィア犯人説

暗部解析で述べたように、マフィアはキューバにおける権益を一夜にして失った。亡命キューバ人同様キューバの島に極めて愛着を持っていても可笑しくはない、金のなる島はいつの時代でも自分の手元においておきたい物である。さらに司法長官ロバート・ケネディの犯罪組織に対する聖戦が、組織の怒りをかったことも事実であろう。その個人的な聖戦が大統領の絶対的な支持と支援のもとに行われたことも、また事実である。これらの一連のケネディ一族の組織にたいする仕打ちが、結果的に大統領の暗殺といった行動に走らせたと言うのである。だが、マフィアは行動を起こさなかったと批判する意見も多い。いまではほとんどのアメリカ人が知っているように、マフィアがこうも重要な殺しを行うには、アメリカ全土に散らばる犯罪組織を含むマフィアのコミッションから承認をとる必要がある。1963年当時、国内の犯罪組織は東部、中西部、そして西部にあるいくつかのファミリーの支配下にあり、コミッションに所属するメンバーには、有名なシカゴのボス、サム・ジアンカーナもいた。大統領を殺すには他の誰よりもとりわけジアンカーナの承諾が必要であったであろう。マルセロのような 勢力の弱い下役が独断で行動できたとは思えない。また犯罪組織のファミリーに属していなかったジミー・ホッファーの場合、彼の行動はマフィアとは無関係だったかも知れない。この犯罪組織がケネディ殺しを承認したとは、思えない。それはケネディのマフィア上層部との取り引きまたは癒着である、1960年の大統領選挙でニクソンに極めて僅差で勝利できたのもマフィアの力によるところが多かったことは現在では周知の事実である。さらに両者の関係はカストロ暗殺計画にマフィアを使ったり、ジュデス・エグスナーといったメッセンジャーを常時大統領の側に置き、関係を持ちつずけた。司法長官のロバートも彼の聖戦の生け贄にしたのは、ジミー・ホッファーやカルロス・マルセロなどの小物に限られ、ジアンカーナなどの大物には一切手を付けなかった。彼らは大統領を政治的に暗殺する事は極めてたやすかった、彼らが握る何らかの情報の一つを新聞に流すだけでよかったのである。大統領予備選での贈収賄事件、シカゴにおける投票不正事件、カストロ暗殺に関するマフィアの関与、大統領の女性関係、現在では周知の事実を、当時握っていたのはマフィアのトップ達であったのである。

CIA犯人説

当時のCIAが置かれていた状況は、中央情報局解析の項を参照していただきたいが、要約すると、CIAは1963年の時点で存亡の危機に直面していたといえる、これらの状況に危機感を抱いた組織が謀議して暗殺を実行したと言うのである。この説の基本的な疑問は、プロの集団であるCIAが、囮とは言え、なぜオズワルドに安物のライフルしか持たせなかったか、と言う点にある。将来的に凶器の検討で問題が発生するであろう事は、プロ集団であるCIAには解ったはずである。そして事実そのようになった。欠陥はさらにある、連邦法の規定によりCIAは大統領にじかに報告する事になっており、これはつまり大統領を殺す組織が直接ケネディに報告することを意味する。CIAにしろ、他の組織の長官にしろ、大統領に反目する者が暗殺を実行したかもしれないと考えるのは自然である。しかし1962年にケネディがアレン・ダレスを辞任させて自分に忠実な人物を長官に据えたのちに、CIA内部から暗殺計画が生じたとは考えにくい。さらに1963年時点ではビックス湾事件に関連して大統領に不満を持っていた分子はすでにCIAの組織から排除されていたのである。最後に、CI Aの誰かが暗殺を命じて利益を得るかと言う事である。新任の長官にしろCIA内の人物にしろ、暗殺から個人的な利益を得る者はいないし、CIAがこれと言った明確な目的も無く殺人を犯すとは考えにくい。ケネディの自由主義的な対ソ緊張緩和政策と冷戦終結への一歩に対して、CIA内部には批判的な者がいたかもしれないが、それなら世界的規模を誇る組織力を利用しないはずがない。

真の標的はコナリー知事であったと言う説

この説は陰謀の存在を否定している。そして犯行はオズワルドによるものであり単独の犯行と主張する。しかしオズワルドには大統領を殺害する意思はなく、彼が狙っていたのはコナリー知事であったとする。この説の基盤は事件の直前、オズワルドがコナリー知事に接触していた事実である。オズワルドは海兵隊除隊のさいに降格させられているが、その時の海軍長官がコナリーであった。この事でオズワルドは、当時のコナリー海軍長官を憎んでいたと言う、そして、オズワルドは軍にその降格決定をとりさげるようにコナリーに要求していた。オズワルドが除隊の際に降格処分を受けたことにショックを受けていたことは事実である。このような事実をオズワルドがケネディについてよく口にしていた好意的評価と重ねあわせると、誤って大統領を殺害してしまったという説が導き出される。しかし、事実と常識からみてこの説には無理がある。それは、あえてと言うかなぜコナリー知事を殺害するのに、アメリカでもっとも警備の厳重な大統領と一緒の時に、犯行時間を選んだのかと言う事である。知事の警備は、大統領のそれに比較すれば、数段緩やかなはずである。事実コナリーの住む、フォートワ ースのコナリーの自宅には、ホワイトハウスのような警備は一切行われていない。オズワルドはいつでもコナリーを殺害する事はできたはずである。