数年前、コンテンツ「一般的疑問」の中で、一体いつの時点で後に「暗殺者の巣」「狙撃手の巣」と呼ばれることになる六階東南角のスペースが出来上がったのか。また、このスペースをオズワルド一人で、限られた時間と他の従業員達の目を避けて、はたして作り得るのであろうか。と言う疑問を提示させていただいた。今回はこのスペースのその後について述べることによってダラス警察やウオーレン委員会の証拠に対する対応に目を向けて見たい。

公式写真に見る「暗殺者の巣」

ウオーレン委員会は「委員会証拠番号1301番」「証拠番号1302番」で「暗殺者の巣」を証拠として提示しています。これらの写真は「暗殺者の巣」の事件直後の状態であることをわざわざキャプションにて説明したうえで、段ボール箱に残されたオズワルドの掌紋や指紋の位置を説明している。ある程度事件の概要に関して興味を持たれたことのある方にとっては見慣れた写真であり何の疑問も持たずにご覧になっていらっしゃった方も多いと思われます。ところが、この事件の究明にさして多大な影響を及ぼすとは思えないような一枚の写真にも、大きな疑問点が存在して居ること、そしてそれは、はからずもダラス警察の杜撰な捜査と、提出された「偏った証拠」を盲目的に採用していったウオーレン委員会の体質を端的に示す証拠になってしまった事をご存知の方は少ないのではないでしょうか。
ウオーレン委員会はこの「暗殺者の巣」について「段ボール箱や紙袋に残された掌紋と指紋」という一節を設けてその状況を説明している。「六階の東南隅にある窓の下には大きさ18インチ×12インチ×14インチの大きな段ボール箱一個が置いてあったが、これは南端の壁ぎわにあった段ボール箱の中かからもってきたものだった。またこの箱の上には大きさ13インチ×9インチ×8インチの”ローリング・リーダーズ”と書かれた小さな段ポール箱がのせてあった。この小箱の前、窓枠の上に、同じく”ローリング・リーダーズ”と書かれたもう一つの小さい段ボール箱が置いてあった。この二つの小箱はここから三つ目の廊下から運ぼれたもので、銃を構えるのに都合がよいよう並べられたものらしかった。これらの箱のうしろの床にはもう一つの段ボール箱が置いてあったが、これに坐れば窓辺の段ボール箱ごしにエルム通りを見下すことができる。これらの箱の近くに手製の紙袋が置かれていたが、この袋にはオズワルドの左人差指の指紋と右手掌紋が残されていた」と記す。現場状況を解説すると以下のようになるはずである。
”まず大きめの段ボール箱を床に置き、その直上に少し小さい段ボール箱を置き、同じ大きさの段ボール箱をその前(窓枠側)に窓枠に乗せた形で置いてあった、さらにその三個の段ボール箱の後ろ(位置的には三個の段ボール箱の東北側)にもう一つの段ボール箱があって犯人はその箱に座り三個の段ボール箱を銃架に代用して犯行に及んだ。”
「証拠番号1301番」の写真を見ながら読んでいただくとまさに写真の通りの説明であり、間違ってはいない事を納得していただけるであろう。委員会も全く疑問の余地無く文章を書いたものと思われる。ところが、この事が大きな齟齬をきたすことになる。

最初の日の証拠

1993年に一冊の本が出版された「JFK First day Evidence」と言う本である。この本はグレイ・サヴァジと言う人物が上梓したものであるが、実は彼の叔父が事件当時ダラス警察の鑑識課に勤務し、大統領暗殺事件の鑑識業務にあたっていた人物なのである。叔父の名前はラスティ・リヴィングストン。彼の持ち物の中から数多くの鑑識関係写真が発見されたのである、その中にはウオーレン委員会の報告書や付属文書のどこにも載っていない写真が数多く存在していたので当時大ニュースになったのである。(今回のテーマに関連のあることのみに限定するが)その写真の中に二枚の写真が含まれていた。右の写真である。一見してお分かりのようにウオーレン委員会によって「事件直後」の写真として公開されたものと全く同じ状況であることがおわかりになるかと思います。サヴァジがリヴィングストンに訊ねると、”この写真は事件の三日後「11月25日」に行われた現場検証の時に撮影したものであること、現場検証時に段ボール箱を積み直しして撮影したもの”との証言であったと言う。この事は、リヴィングストンの当時の同僚鑑識課員の証言によっても裏付けられたのである。したがってウオーレン委員会の言う証拠写真は「事件直後」の写真でもなく「どこにあった段ボール箱」か正確でもなかったことになるのである。

数多くの写真

実は、本当の意味での「事件直後」の写真は多数存在していた。事件後の6階のフロアーには驚くべきことに数多くの報道陣も自由に入り込み、写真を撮りまくったりして混乱していたのである。現代では考えられないことではあるが、当時のダラス警察には「現場保持」と言う初歩的な捜査手順すら守られていなかったのである。左の上二枚の写真は少なくとも当時、教科書倉庫ビルの6階で撮影されたものであることは疑い様がないが、はたしていつの時点で撮影されたものであるのかの証明は無い、驚いたことに、この二枚の写真でも段ボール箱は動かされていることにお気づきでしょうか。最上段の箱の角度が明らかに違います。勿論、積み方に関しては論外でしょう。では事件のあった12時30分にはどう言う状態であったのか、この事は同じ頃倉庫ビルの外部から撮影されたビルの外観写真から判明することになりました。この右写真は銃撃の30秒後に撮影されたとされるビルの外観写真であるがこの写真の「暗殺者の巣」の部分を拡大した写真がこの写真である。この拡大写真を見ると左の二枚の写真も何だか変に見えてくるのでは有るが、少なくともウオーレン委員会の言うところの証拠写真が「事件直後の証拠写真」という説明には納得できないことになるであろう。これらの写真に加えてさらにもう一枚の異なった現場写真が存在する。と言ったら読者の皆様はいったい何を信じたら、といった気分になられる事と思います。左の三枚の写真の下の写真がそれですが、キャプションにはこうあります。「事件当日の午後遅くに撮影された」と、日光の角度や明るさから(ダラスの11月22日を勘案して)そんなに遅くない4時前後の時間帯と推定しますが、窓際の三個の段ボール箱が無い事にお気づきかと思います。このように私が現在入手している「暗殺者の巣」の写真は大まかにくくっても3種類存在する事になるのです。厳密に微妙な配置の違いを加えればその数はもっと多くなってしまうのです。これが「アメリカ合衆国大統領暗殺事件」の捜査の実態なのです。ダラス警察の捜査の杜撰さにはあきれるばかりではないでしょうか。
それでは、各写真のキャプションや証言をすべて信用したとして、この「暗殺者の巣」はどのような経緯をたどったのでしょうか。
”事件発生時には段ボール箱は三段に積まれていました。その後、捜査が一段落した後、積まれていた段ボール箱は取り払われてしまった事になります。そして三日後の25日になって現場検証をするにあたって、さしたる検証もすることなく「都合の良いように」現場が作られた。と言うことになりはしないでしょうか?「都合の良いように」とはどう言う意味でしょうか、ウオーレン報告書にある通り「銃を構えるのに都合がよいよう」すなはち犯人が「撃ちやすいように」さらに「現場の状況に適合するように」と言う意味なのです。”


創作された巣

1964年5月24日、この場所で再びこの現場からライフルが発射された。ウオーレン委員会が実施した実弾による現場検証である。(右写真)正確を期することが要求される検証なのですから「どうせだったら段ボール箱を積んで構えろよな」と言った声も聞こえてきますが、ここでは実験者が段ボール箱に「座っている」ことにご注目ください。これはオズワルドがこの段ボール箱に「座った」が為に押されたであろう”掌紋”の存在を証拠の一つとしているからです。それでは、もし段ボール箱を三段に積み、銃架にして照準をあわせたらどうなるでしょうか。右下写真のようになります(黒矢印が最後の致命傷時の専用車の位置)一見して問題なさそうに見えるかと思いますが、初弾が発射されたとされる時間の専用車の位置はもっと手前の位置になるのです。そうすると、はたして座った状態でうまく照準を合わせることができるのでしょうか。ウオーレン報告書の箱のサイズで計算しますと座っていた箱の高さが35Cm、大小の箱の高さを三段分合計しますと76Cmとなります。実際にその高さの箱を作って構えてみました。(本物の銃で!とはいっても散弾銃ですが)これはそんなに無理はありませんでした、しかし窓の開口部分の高さと初弾位置の俯角が解りませんのでなんとも言えませんが少なくとも二段の高さ56Cmの方が自由度は高いことは私の実験結果からは言えます。すなはち、二段積みのほうが遥かに撃ちやすい事だけは確かなのです。

疑問の波及

前述のように段ボール箱が片付けられたり、積み直されたりしたとするのであれば、オズワルドが発射したとされる銃弾の数の問題で最重要証拠となった「暗殺者の巣」で発見された三発の薬莢についても疑惑が波及してしまうことも無しとは言えないのです。なぜならば、三発の薬莢が発見された証拠として提示された現場写真が左の写真だからです。もうすでにお分かりのようにこの写真は11月25日の時点の写真です。段ボール箱だけは片付けたり積み直したけれど、薬莢だけはそのままにしておいたとは常識的に有り得ないのではないでしょうか、しかもこの薬莢の飛散状況はライフルを連射した時に飛び出す薬莢の位置にしては「あまりにも整然としすぎている」という批判は当時からあったのです。もし25日の現場検証の時に暗殺者の巣が創作されたとするならば、逆の意味で、連射した時に自然な形で飛散した状況を再現することの方がかえって難しいことではなかったのでしょうか。


SOURCES
"JFK First day Evidence" Gary Savagec 1993