1963年11月22日午後12時32分
この時テキサス教科書倉庫ビルでいったい何が起こったのか?この時刻、倉庫ビルの中では倉庫ビルの管理人ロイ・トルーリと、最も早くビルの中に足を踏み入れた警察官ベーカー巡査が2階の食堂でオズワルドと対峙していた。その時の状況をウオーレン報告書の記述をそのまま引用してみると次のようになる。
ベーカーがトルーリに向かってこの男を知っているかと聞いたのでトルーリは。「うん。この男はここで働いていると」答えた。ベーカーはのちに、その男が息切れしておらず、平静のようだったと述べ、さらに、「彼は一言もしゃべらず、表情を、ちっとも変えなかった」と証言している。トルーリはオズワルドについて次のように言っている。彼は興奮しているようにも、ひどくおびえているようにも見えなかった。誰かが目の前に立ちはだかったとき驚く程度には、彼も驚いていたかもしれない。しかし彼の表情に何らかの変化があったかは思い出せない。」トルーリは、その時ベーカーの短銃がオズワルドの体の真ん中にほとんど触れていたと思っていた。
次にオーククリフのテキサス劇場でオズワルドが逮捕された時の状況を同じくウオーレン報告書の記述をそのまま引用してみよう。
オズワルドは両手を挙げながらながら立ちあがった。マクドナルド巡査が、短銃の有無を調べるため、オズワルドの腰を検査し始めたとき、マクドナルドは「あ、みんなおしまいだ」とオズワルドが言うのを聞いた。すると、オズワルドはマクドナルド巡査の眉間を左のこぶしで殴りつけ、右手で腰から短銃を取り出した。マクドナルドは右手で殴り返し、左手でオズワルドの短銃をつかんだ。二人とも座席に倒れ落ちた。
一読してお分かりのように、同じ警察官に追いつめられた状況であるのにオズワルドの対応に雲泥の差が存在する事である。警察官に短銃を突き付けられても、方や何事もなかったように驚きもしなかった彼が、次の時には精一杯の抵抗を試みているのである。この事は教科書ビルにおける彼の立場とテキサス劇場での彼の立場に大きな変化が有った事を覗わせる。この変化を単純に「チピット巡査を殺害した後だから」と説明する事はできない。もし、オズワルドが狙撃犯とするならばベーカー巡査と向き合った時には「大統領を殺害した直後」であった筈である。
ついでながら次の一文を加えてみる、これはオズワルドが最重要容疑者として実名で浮上した時の状況を記述した部分である。
彼が居ない事がわかったのは、少なくとも30分経ってからである。ベーカー巡査と屋上から戻ってきたトルーリは、警官が倉庫の職員を尋問しているのを見た。約15名の職員が倉庫で働いており、トルーリは尋問を受けている職員の中に、オズワルドが居ないことに気ずいて、求職カードからオズワルドの住所、電話番号を選び出した。
職員の数に関しては様々な文献に記載されているがウオーレン報告書のそれが最も少なく、多い物では80名と記載された文献も存在する。又、従業員を集合させた時刻もウオーレン報告によれば30分後となっているがソーヤー警部がビルを封鎖した直後すなわち、銃撃後10分以内であるとする文献もある。どれが事実か知るよしもないが、兎に角、オズワルドがその場に居ないことが容疑者としての重要なファクターとなっている。しかし、これはおかしい、なぜかと言うと2階の食堂で警察官と対峙した時点では彼が倉庫ビルの従業員である事が放免のファクターであったはずである。犯行は外部の者と警察は判断していたのである。しかし次の瞬間、従業員である事が容疑者の重要ファクターに摩り替わってしまっているのである。又、従業員を集める時間に関しても警察官は誰が従業員であるのか知る由もないので、この混乱のなかどのようにして従業員を集めさらにオズワルドだけがその場に居ない事を確定させる事ができたのであろうか。群集とともにグラッシーノールに走った者もいるであろうし、知人にこの歴史的事件を伝える為に電話ボックスに走った者も居た筈である。その時間と従業員の数に関する正確な情報にもよるのではあるが。
倉庫ビルでのオズワルドの行動
ここで11月22日の教科書ビルでのオズワルドの動きを追いかけてみよう。この日の朝出勤してきたオズワルドはライフルを入れたとされる紙包を持って出勤してきた事になっている。しかし、この日の朝、教科書ビルでオズワルドが言葉を交わしたビルの管理人ロイ・トルーリの記憶ははっきりしていない。トルーリが「おはよう、リー」と声をかけると、オズワルドは「おはようございます」といつものように返事をしたと言う。だが、トルーリの記憶はぼんやりしていて、オズワルドが紙包を持っていたのかどうかはハッキリしていないと言う。この日、教科書ビルの六階では、ある工事が行われていた、数日前から古くなった床材から油が染み出していて、そこに置いた本がしばしば汚れてしまっていたのでトルーリは、ベニア板で床を張りかえるように指示していた。一度に全体の半分ずつやる事になっていたので、その準備の為に、エレベーター側つまり、北半分のフロアーには、ほとんどダンボール箱は無かった。その為、通常フロアー全体に置かれていたダンボール箱や運搬車はすべて南側に集められ雑然としてジャングルのようであったと言う。この床の張り替え作業は午前中ずっと続けられていた、そして、午前11時45分、教科書倉庫ビルは昼の休憩時間に入った。作業の指揮をとっていた古参従業員のチャールズ・ギブソンは六階から下に降りるエレベーターに乗った。下りの途中ギブソンは、5階のエレベーター前で降りて行く彼らを見ているオズワルドを目撃している。一階に戻ったギブソンは、六階にタバコを置き忘れたことに気ずきふたたび六階に戻っていった、そして六階でオズワルドに会っている。時間は11時55分頃とギブソンは記憶している。ギブソンの”下に降りるのか?もう昼飯時だよ”という問に”いいえ、行きません”と礼儀正しく応えている。そして「下に降りたら、エレベーターの扉を閉めておいて下さい。」と頼んでいる。このビルの北西側の二基のエレベーターは東西に背中合わせで設置されており扉が閉まっていないと他の階で呼び出す事のできないタイプのものであった。ギブソンは東側のエレベーターで上ってきたのでこのエレベーターで一階に降り扉を閉めた、さらに西側のエレベーターの扉を閉めようとしたが何処か他の階で扉が開いた状態になっていたのか一階にはなく、何処か上に上がったままになっていたと証言している。当然その階は六階では無かったはずである、なぜならば、六階に西側のエレベーターが止まっていたならばオズワルドが扉を閉めるように依頼する事は考えられない。後程触れるが、この時西側エレベーターは五階にあった、五階でパレードを見学しようとして西側エレベーターで上がったジェームス・ジャーマンとハロルド・ノーマンの証言があるのである。この11時55分の時点で、六階にはもう一人の人物が南側のダンボール箱の所で食事を摂っていた。床の張り替え作業をしていたポニー・ウイリアムズという従業員である、ウイリアムズは6階でのんびりと昼食を摂っていたが、重要な点は、彼は6階には誰もいなかったと供述しているのである。そしてウイリアムズは食べ終わった時、周囲に誰も居ないので東側のエレベーターで五階に降りジャーマンとノーマンと合流している、この時点で二基のエレベーターは、二基共、五階にあった事になる。時刻は12時20分頃としている。すると北側半分は工事の為なにも置かれていない見通しの良い所(エレベーターは北側にある)で、しかも南側のダンボールの上でのんびり食事を摂っていたウイリアムズは、誰一人目撃していないのである。11時55分にギブソンと六階のエレベーター前で会ったとされるオズワルドは、遅くとも12時15分頃までの間にはビルの東南の角、すなはち暗殺者の巣と呼ばれた場所に移動する事は不可能であった事になる。しかし現実には狙撃は六階の東南の角から行われている。(六階の東南の角の窓から狙撃は行われなかったとする研究者は居ない。)
倉庫ビルの五階で
ダラス・モーニング・ニューズ紙の写真部長トーマス・ジラードはパレードの9台目の車両に乗っていた。ヒューストン通りに入った時に一枚の写真を撮っている。それは銃撃の行われた直前の教科書倉庫ビルの写真である。この写真に写された3人の倉庫従業員は射撃が行われた時、倉庫の5階にいた。34歳になるジェームス・ジャーマン。前述の22歳のポニー・ウイリアムズ。36歳のハロルド・ノーマンの3名である。ノーマンは目撃者たちがライフルをみたとされる窓のすぐ真下、5階東南角の窓のそばにいた。パレードが近づいてきたとき彼は大統領が手を振ってあいさつしているのだと思った。彼は次のように証言している。「正確な時間は思いだせませんが、私は1発の銃声を聞きました。それを聞いた後、そうです大統領がガクンと倒れたようで、そしてまたもう1発の銃声が聞こえました。確かジャーマンか誰かが話しかけ、何者かが大統領を撃ったに違いないと言いました。私も誰かが大統領を撃っている。しかも、われわれの上の方から撃ったに違いない。と答えたと思います。そのとき、私は何も見ませんでしたが、3発の銃声を聞きました。そして、さらに薬莢が床に落ちる音とライフルから薬莢を弾きだす音のようなものを聞きました。」ウイリアムズは「実際のところ、1発目の銃声は気にしませんでした」と次のように述べた。「というのは、私は何が起こっているのかわからなかったのですが、2発目も3発目も確かに倉庫の中で起こったように響きました。音が聞こえた時、われわれのいたあたりは建物が揺れていました。セメントの粉が頭の上に落ちてきました。」ジャーマンはノーマンが「俺は昔、銃に慣れていたので射撃がこのビルの内部でやられていると思う、遠くからの音ではない。」と言ったと証言している。3人はパレードに何が起こったかを見ようと陸橋の方向を見渡すことのできる倉庫の西寄りに走っていった。西側に開いた窓に走りよってから、ジャーマンはウイリアムズの頭に埃が落ちているのに気付き、射撃は多分われわれの上の階から行われたのだといった。彼はノーマンが「俺もそう思うよ、遊底をを動かす音が聞こえたし、薬莢の落ちる音も聞いたからな」と言っていた、と証言している。数分後、3人は一階に走り降りた。ノーマンとジャーマンは倉庫の表口から走り出したが、そこで2人は窓から銃を撃つ男を見たというブレナンが警官に話しかけているのに会い、自分たちの体験を報告した。
本項目の論旨からははずれますが、この写真に関連して、一応確認しておきたい事柄がある。ハワード・ブレナンは証言のなかで、六階の狙撃者と共に、五階にも三人の人物が立っていた。と証言している。この三人が存在した事は事実であり、ブレナンの証言の信憑性を確認する一つではあるのであるが、問題は「立っていた」と言う部分である、実際に教科書倉庫ビルの中に入ったことのある方であれば、この写真の人物が「立っている」とは絶対に思えない筈である。彼らは中腰か、もしくは座っているのである。内部構造を知らないブレナンや読者の皆さんにはこの写真の人物は「立っている」ように見える筈である。このブレナンの錯覚はウオーレン報告書でもハッキリと認めている。しかし、立っているか座っているか解らない人物の身長を、ほとんど正確に判断できる人物がこの世に存在するとは、自分には絶対に思えないのであるが、いかがでしょうか。
倉庫ビルからの脱出
二階の食堂でベーカー巡査と別れたオズワルドは、食堂に隣り合う事務所に入っていった。この時の状況をウオーレン報告書は次のように記す。
オズワルドは、奥の廊下からオフィスの中に歩いてきたもので、手にはベーカーおよびトルーリと会ったとき、買ったとみられる、口のつけていない
コカ・コーラの瓶を持っていた。彼女はオズワルドとすれ違ったとき「大統領が撃たれたわよ。でも当たらなかったでしょうね」と言ったが、オズワルドは何かブツブツ言いながら行きすぎた。この方角でオズワルドがオフィスから出ていくには正面階段のドアを通るほかはなかった。
ここに出てくる「彼女」とは教科書倉庫ビルの事務主任 R・レイド夫人であるが、彼女はパレードを見学する為に正面入口の階段の所で倉庫ビルの副社長
O・キャンベルと共に居た。事件直後、彼女は二階の事務所にかけ上がった、そして事務所の中でオズワルドが食堂の方角から歩いてくるのに出会ったのである。その時間は彼女の証言や実地調査で12時32分頃、すなはちオズワルドがベーカー巡査と別れた直後と推定されている。そしてオズワルドはレイド夫人の表現を借りると「何かブツブツ言いながら」東南角にある階段方向に歩いて行ったとされているのである。すると、オズワルドが教科書ビルの正面階段に姿を現した時間は、ほぼ、12時33分頃と言う事になる。
別項目の復習になるが、ダラス警察のハーバート・ソーヤー刑事部長が現場に到着して現場に「司令部」を設置したのが12時35分とされている。しかし実際にはそれ以前にこの教科書ビルの正面入口階段には警察官が配備されていたのである。ヒューストン通りとエルム通りの角にいたバーネット巡査は「狙撃が教科書ビルから行われた」との証言(多分、状況から言ってハワード・ブレナンもしくはエイモス・ユインスの証言と思われる)をもとに教科書ビルの正面入口に立ってビルから誰も出ないように警戒態勢をしいている。この指示は、同じくビルの前にいたD・Vハークネス巡査部長の指示によるものであるが、バーネット巡査の推定では、彼が銃声を聞いてから、警戒にあたるまでの時間は約3分、すなはち、12時33分であると証言している。まさに、危機一髪、映画でもこううまく行かないのではないかと思わせるような時間との競争である。このような状況下で様々な推測がおこなわれる事になった、一説には警察官のなかに共犯者がおりオズワルド(共犯者にとっては囮としての)を「彼はここの従業員だから問題はない」と言って他の警察官から逃がした。という説である、この事も事実であったのかどうか確認する術を持たないが、しかし、確実に言える事は、最低でもバーネット巡査とハークネス巡査部長の二名の警察官がまさにビルの封鎖を実施しようとしているその時にオズワルドはその前を通り過ぎて行った事だけは間違い無いのである。
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