1963年11月22日、ケネディを迎えたダラスは熱狂的な歓迎振りであった。事件直前、コナリー・テキサス州知事夫人は誇らしげにケネディに「大統領、テキサスが貴方を好いていないなんて、もうおっしゃらないでしょうネ」と語りかけている。それほどの熱狂的な歓迎ぶりであった。しかし、事件はそのテキサスで起こった。事件後ダラス市民達は、前日来の事件の兆候に愕然としたのであった。大統領を迎えるダラスでいったいどの様な兆候があったのか。今回はケネディに対する挑戦状とも言うべきダラスでの出来事にスポットをあてる。

黒枠の挑戦状

1963年11月22日の地元有力新聞ダラス・モーニング・ニューズの第14面に全段ぶち抜きの広告が掲載された。それは黒枠で囲まれ「ダラスへようこそケネディさん」と題したいわゆる「意見広告」と呼ばれる種類のものであった、しかし、ここに書かれた「意見」は単に意見を述べるのではなく特定のグループが大統領の政策や人物に対する挑戦とも読み取れる過激な内容であった。この広告はケネディの内外政策を12項目にわたって難詰し「問答無用」の雰囲気のなかで政治のコースを180度転換する事を要求する内容であった。この中にはアメリカ政府が、何千人ものアメリカ亡命キューバ人を投獄し、飢えさせ、迫害していること。ヴェトナムでアメリカ人を殺している共産主義者たちに食料を売っていること。アメリカ共産党と秘密の取引をしていること。共産主義者には寛容であるのに政府や大統領個人を批判する忠実なアメリカ人を迫害するよう弟の司法長官に許していること。などの項目があった。広告のスポンサーは自称「アメリカ真相調査委員会」となっていたが、背後にいるのは極右団体のジョン・バーチ協会のテキサス支部、さらに全米切っての裕福な石油業者の一人であるH・L・ハントの息子であるネルソン・ハントであることは町中の人誰もが知っていた。掲載された12の項目をチラリと眺めただけでも、ケネディが当時進めていた政策が亡命キューバ組織やその支援者達、ヴェトナム政策に不満な人々、内外の反共政策の不徹底さに激しい怒りをもつ人たち、ロバート・ケネディ司法長官の厳しいマフィア根絶作戦に音を上げる暗黒街のボスたちから恨まれていたことが手に取るようにわかる。ケネディ大統領が、これらの主張に耳を傾ける可能性のまったく無いことを熟知している広告のスポンサー達は、この全ページ広告を、まるで予告された死亡通知のように大きな黒枠で囲んでいた。1960年代初めのこの時代のダラスが南部諸都市の中でもズバ抜けて保守的空気の強い町であることを割り引いて考えても、アメリカ国内のあちこちにくすぶり始めた反ケネディ・ムードの不気味さを象徴するような記事であった。念のため付け加えておくと、暗殺直前のケネディ大統領は、国民一般から支持を失っていたわけではまったく無い、暗殺事件の直前に実施され発表された生前最後の世論調査の数字は、支持率59%の高さで、翌年に控えた大統領選挙において共和党がいかなる候補者を立てて戦おうとも、大差での再選は間違いないとみられていた。問題はケネディ大統領の政策や政治スタイルに反対する人たちが、数こそ少ないものの、幅広い分野にわたっており、しかも大統領やロバート司法長官に対する執拗な怨念を抱いていることである。生まれつき楽観主義者の傾向のあったケネディは「話せばわかる」といった姿勢をとり続けており、南部保守派の牙城とも言えるダラスに乗り込んだのも、反ソ・反共・反黒人といったイデオロギーに固まるテキサス財界人とヒザを交えて話し合い、あわよくば民主党政権への財政的テコ入れをしてもらうためであった。

攻撃

右の写真は当日、街のそこかしこに張り出されていたポスターであるが、これらのポスターやダラス・モーニング・ニューズの「意見広告」に話を戻そう。そこでケネディに対して訴える彼らの主張や恐怖はおおむね以下の9点に要約される。

  1. ソ連と妥協し、平和共存をめざす政策。典型的な例が1963年7月に締結したモスクワ部分的核実験停止条約である。
  2. ソ連の強い影響下にあるカストロ首相のキューバに対する姿勢の軟化。63年4月にはアメリカに亡命しているキューバ人グループの行動を弾圧し、9月にはフロリダとルイジアナにあるCIAの亡命キューバ人訓練基地をFBIに命じて急襲崩壊させた。
  3. ハイチを先頭とする七つの中南米独裁政権への軍事、経済援助を停止、ナショナリズムへの理解を示した。
  4. ソ連、中国に支援される北ヴェトナムおよび解放戦線と戦っている南ヴェトナム政権を見限り、米軍事顧問団の撤収を計画し始めた。
  5. 同じく共産主義者が強い発言力を持つヴェトナムの隣国ラオスを中立化する1962年のジュネーブ協定に調印した。
  6. 62年4月、USスティール以下の米大手鉄鋼会社の値上げ、物価抑制政策の美名のもと強い政治的圧力によって取り消させた。
  7. 63年1月に、国内の大手石油会社に対する減価償却費の税控除規定の見直しを提案した。(注・テキサスなど南西部の独立系石油会社は、所得の27.5%に達する分を「減価償却引き当て金」として所得税から控除される仕組みとなっており、これが石油業界を太らせていた。ケネディ提案が実施されれば、石油業界は年間三億ドルもの巨額の収入を失うこととなる。)
  8. ケネディは政権の半ばごろから、南部黒人に対する公民権拡大に理解と支持を示すようになった。63年6月には、アメリカ史上最も進歩的な公民権法案を議会に提出するとともに、同年8月にワシントンで行われた黒人指導者マーチン・ルーサー・キング牧師の黒人大行進を公然と支持した。このままでは南部諸州の白人保守派の影響力が大きく後退する恐れがあった。
  9. ロバート・ケネディ司法長官が最前線で指揮する組織犯罪退治の槍玉には、全米各地のマフィア勢力とこれと連携する悪名高いジェームス・ホッファー率いる全米運輸一般労組らが上がっていた。これを見て、これら組織犯罪から直接的にも間接的にも資金援助を受けていた政界のボスたちの間で危機感が急速に広まっていた。


挑戦状全般に流れる主張は、強いアメリカ、反共主義、白人至上主義が脈々と流れている。ケネディは強いアメリカを放棄し共産主義に屈服した弱い大統領であると主張するのである。はたしてそうであろうか?

「愛国者」ケネディ

米ソ冷戦が終わり、事件から40年近くなった今、明らかになっているケネディの大統領としての事跡を冷静に振り返ってみると、ケネディ外交は当時声高に叫ばれ、その時代以降進歩的理想主義の典型として歌われた「世界主義」の美名によって美化されてきたような単純な「ハト派外交」ではなかったことがわかる。それは、アメリカの国力(軍事力の分野においても経済力の分野においても)を冷徹に見定め、世界政治の中、長期的なバランスを読んで展開された現実主義的な外交であったのである。その中で、ハト派勢力の主張に見合う部分が「ハト派外交」に見えただけであって、本質はアメリカの国益を守り、西側陣営のリーダーとしての強い発言力を確保する最も合理的な外交路線であった。ある意味では、アメリカの国益を最優先し、武力をもってパックス・アメリカーナを具現化する「タカ派外交」であったのかもしれない。こうしたケネディの戦略を理解しえない保守派勢力の反乱によって、暗殺された可能性も決して否定できないのである。60年代のアメリカにとって、ケネディは軍産複合体や保守派が標榜する愛国者達が足元にも及ばない「真の愛国者」であったのである。