ドイツへの旅


子供達が夫婦でのドイツ旅行をプレゼントしてくれました。家内の高校時代の親友がドイツに居り、彼女が来日した時には我が家に宿泊、娘のドイツ留学中に我々が訪独した折にも彼女の家に泊まったりと、何度か行き来していたのですが、何せ「ドイツ」。度々「ちょっと行って来る」という訳ににもいかなかったのです。そんな時、結婚?年にもなるので「二人で行ってきたら」と言う、まさに降って湧いたような「有難〜い」お話、喜んでお言葉に甘えさせていただきました。今回の訪独は2度目と言うことになりますが、前回行けなかったベルリンに「絶対行くぞ」と心に決めたのです。しかしながら何と言っても今回の主役は家内、家内の気持ちとしては、ずっと彼女と過ごしていたいはず、恐る恐る「あの〜、ベルリン一泊を、その〜」すると「ベルリンに行きたいのでしょ?目的が不純なんだから」一瞬「不純とは何だ!」と言い返したかったのですが、ここは抑えて抑えて。それにしても「ケネディサイトの管理者の妻が、夫がケネディの足跡を訪ねる旅を『不純』とは!」俺のことを何だと思っているんだ、確かに金にもならない事ではあるが・・・・トホホ
「でも私もブランデンブルグ門を通ってみたいしペルガモンにも行って見たい」という事で一件落着、彼女の住む「デュッセルドルフとベルリンの旅」という事になったのです

 百家争鳴


8月8日のプチオフ会。席上「今度ベルリンに行っちゃうんだもんネ」と話したところ、数日後、談話室に大阪のつとむさんが書き込みしてくれました。「近々ベルリンに行かれる方へ」と題した投稿でしたが、これからが大変!例の「Ich bin ein Berliner」の「揚げパン問題」から始まって、ドイツ語文法論に発展。さらにはケネディの共産主義に対するスタンス論にまで発展しました。久しぶりに「談話室」が活況を呈したのでした。基本的に私は「談話室は皆さんの自由意見交換の場」と考えており、私の独善的な意見は書き込まないようにしているのですがこの「禁」を何度破ろうと思ったことか?
或る程度静まった今日、この場を借りてチョッピリ私の意見を。たとえば、我が国が何らかの事情で危機的な状況(それも日常生活そのものに現実の危機が見える状況、すなはち当時のベルリンの状況)に陥ったと仮定します。この危機を回避できる力を持つ国は世界を見渡しても一国しかない状況で、その国の大統領が東京で演説をする!想像するに、全国から集まる聴衆は百万いや数百万にのぼることでしょう。(箱の問題ではありません)。それこそ集まった聴衆は大統領の演説の一言一句、聞き逃すまいと演説に聞き入るはずです。そのような時に、はたしてその場で「あれは文法的におかしい」などと思う人がはたして居るでしょうか。何を言おうとしているのか!意味さえ通じればいいのです。 ましてや「私は揚げパンです!」などと理解した人は絶対に皆無であったと思います(今流に言えば「空気が読めない人」です)。その時々の状況、背景を無視した議論は、極論ですが無意味です。このベルリン演説は「その時の状況・情勢」や「聴衆の差し迫った危機的日常」を演説の中に読み込んで理解する必要があるのではないでしょうか(この事は、別にベルリン演説に限った事ではないのですが)。いつか土田先生とお話をしていた時、「アメリカ政治」を語るときに「キリスト教的社会背景を無視して語ることは無意味」という話をされた事があります、まったく同感です。国際政治を語るとき「宗教」を無視して語ることが出来ないのと同列上にあるのではないでしょうか。
また、わずか一週間ちょっと前の平和共存演説とベルリン演説の乖離についてですが、今、現実に目の前で共産主義の脅威(イデオロギーの脅威と言った漠然としたものではなく、目の前に壁が存在し、脱走者が撃ち殺されているという現実的な脅威)にさらされている人々の目の前で「自由主義と共産主義、共通の利益とこれらの相違点を解消することのできる方策に注意をむけようではないか。」などと言えるでしょうか?彼だって政治家であり、現実を忘れない理想主義者なのです。私はこう考えます、ベルリンの現実に対する怒りの矛先をイデオロギーではなく「壁」に向けているのです、自己のイデオロギーを守るため「人を壁の中に閉じ込めるとは何事!」「ベルリンに来てこの現実を見よ」と言っているのです。そして後半にこう呼びかけます「壁を超越して、正義ある平和の日を」と・・・・その後のキューバ危機の際「封鎖」と言う言葉を使わず「隔離」としたケネディの政治家としてのもどかしさは、小生涙を禁じえません。まさに、つとむさんのおっしゃる通りです。その意味で、もしケネディが現職大統領であったら「イスラエルの壁」にどう反応したであろうか興味津々です。たぶんベルリンの時のような演説は出来ないでしょう、それが政治力学の現実だからです。

 ドイツへ


9月4日いよいよドイツに向かって出発、友人の待つデュセルドルフに到着しました。楽しい3日間、歓迎ムード一色で「あっちも行こう、こっちも行こうで」そこらじゅうを連れまわされましたが「ケネディ」とは全く関係ないので省略!
9月7日デュセルドルフからベルリンへ機上の人となりました。到着後早速ベルリン探訪、訪れたのが「チェックポイントチャーリー」60才台以上の方であればこの名前を聞いただけでピンと来るはず。分断時の東西ベルリンを結ぶ、当時唯一開かれた場所です。本や映画で評判を博した「寒い国から来たスパイ」(個人的に好きな本なので)のメイン舞台となった場所、現在は通りの真ん中に急ごしらえの掘っ立て小屋みたいな「観光用の建物」が建っているだけじゃん?と思っていたら当時の建物を忠実に再現したものとの事、今では誰もが自由に往来できる場所ですが、当時に思いをはせれば、このゲートをくぐるのにどれほどの労苦が必要だったか。感慨無量の一瞬でした。その建物の側面に「壁博物館」と称した建物がありました、出発前に和田さんから「ケネディ関連の展示物」があったと聞いていましたので早速入館!館内では東西分割の経緯から紐解いてベルリン市民の苦難の日々が所狭しと展示されていました。「勝てば官軍」と言うことでは無いでしょうが共産主義国家に対する憎悪むき出しのエピソードばかり、見ていると東ベルリンの住民達は全員が西への脱出を考えていたような表現でした、まっ当たり前と言えば当たり前でしょうが。脱出時に銃撃を受けた自動車、子供を隠した旅行かばん、熱気球を使って脱出を試みたエピソードの映画や実際に使用された熱気球の実物、等など「これでもか」と言った感じです。後半の展示は「壁崩壊」の感動的な描写です、崩壊時ロストロボービッチが壁の前で演奏しているフィルムも繰り返し映し出されていました。この展示室を最後に出口となってしまいました。ムム、展示写真や展示物はもれなく見てきたつもりなのですが、肝心の?ケネディは出番なし「こりゃ見落としたかな?」と人を掻き分けて最初の展示室まで逆戻り「ケネディ?ケネディ?」と探し回りましたが決着発見できず。狭い会場ですので撤去されたのかしらん?「壁博物館」と言うからにはケネディの「ベルリン演説」は欠かすことの出来ないエポックである筈なのに?
写真スライドショウ


 旅のハイライト

あまり自分の興味の場所ばかりを連れ回すと女房にしかられますので適当な時間を見計らって「後ろ髪惹かれる思いで「壁博物館」を後に、通常の観光名所めぐりへ、「ウンターデンリンデン」を通って「ブランデンブルグ門」「議事堂」「戦勝記念塔」等を見て周りました。これ等もまた省略(笑)9月8日の朝を迎えました。本来は午前中の時間を頂戴して今回の旅の目的地?「JFK広場」だけに行くつもりだったのですがホテルに備え付けられたガイドブックを見ていて急遽予定変更をしなければならなくなりました。何とガイドブックに「Museum the Kennedys」と言う紹介を見つけてしまったのです。(笑)事前にベルリンでの予定を話していなかった事をこれ幸いに、当初から予定に入っていた素振りを見せるのが大変でした。この「Museum the Kennedys」は日本のどのガイドブックにも載っていない!これを機会に宣伝しちゃおっと!
さて朝一番で旧ベルリン市庁舎「シェーネベルグ」へ一直線!左の写真が歴史的なベルリン演説に市役所前に集まった人々の写真ですが、マウスを乗せて頂くとロールオーバーで現在のJFK広場となります。広さはディリー広場の半分位、どうでも良い 事ですがとても百万人は集まれないでしょう。でもこの神聖であるべき広場は物売りの屋台
で埋め尽くされていました。心の奥で「この野郎」と叫んでしまいました。市庁舎に到着した私は物陰に隠れて着替えを始めました。そう、せっかくシェーネベルグに来た以上「JFKクラブジャパン」メンバーである事を誇示しようとひそかに持参した「鈴木さん特製Tシャツ」に着替えたのでした。(なぜか着替えた私を見て女房は離れて行きました)結果このTシャツが威力を見せた(たぶん)のは数分後の事です。まずは持参したパソコンを取り出し、ベルリン演説のファイルを大音量で流したのです。周りの人は「何事」と私を注視、館内の職員もホールから覗いています、でもこの服装と音の内容ですぐに理解したのか微笑みを送ってくれました。現場に行かなくては解らないことの一つが右の記念レリーフ、写真では何度も見ていたのですが正直こんなに大きなものとは思いませんでした。高さ4メートル位の立派なレリーフ、実に堂々としたものでした。このレリーフ前から何枚かの広場の写真を収めたのですが何かしっくりこない、加えて前の屋台が邪魔になって広場の全容が納まらないのです。やはり有名な広場全景写真は玄関前にせり出した車寄せの屋上から撮ったものに違いないと思いつつ是非そのアングルから撮りたい一心で受付のお兄ちゃんにその旨を伝えたのです。私の服装を一瞥してから電話で「どうたらビッヒ、こうたらレンゲン」と話している。「ケネディ」の単語だけは解ったけれど私の希望を伝えるのに「ケネディ」は出てこない筈、ひょっとして私のTシャツから連想して話しているのかしらん?なんて思っていたら「屋上は無理だけど、隣の部屋を開けてくれる」との事、お互いブロークンな英語同士なのですぐに理解できた!出てきたおいちゃんの後をついていくと二階の会議室風の部屋を開けてくれた、窓から覗くと「おおー、これぞあのアングル!ここだけで数十枚の写真を撮っちゃいました。(ロールオーバーの写真がそれです)案内してくれたおいちゃんにお礼を言ってホール内部を探訪(ホール内部は自由に入れる)したら一枚のプレートが眼に飛び込んできました。「J.F.KENNEDY SAAL」とある「SAAL」とは何じゃ?早速簡易独和辞典で引いてみる。”SAAL=控え室”とあるではないか、さっき案内してくれたおいちゃんはもう居ない、又、受付に行って「今度は控え室に入れろ」とはさすがの私も言えず、入り口の写真で我慢したのでした。  写真スライドショウ







 Museum the Kennedys

二時間近くの時間をシェーネベルグで過ごした私は女房サービスで名所見物に「シャルロッテン宮殿」などを見学、最後にポツダムに移動して、かのポツダム宣言が発せられた「ツェツィーリエンホーフ宮殿」へこちらも若干私の興味が優先していますが、詳細はまたしても省略。実はこれら観光施設を見学していても時間が気になって仕方が無かったのです、理由はMuseum the Kennedysの閉館時間が午後6時となっていたから。そうそう、ここドイツの9月は夜9時ごろまで昼間のような明るさ,、夏時間ですから日本の8時ごろになるのでしょうが。時間制限のある施設を先に回って散策は6時以降でも十分なのです。
ご参考までに、この「Museum the Kennedys」はブランデンブルグ門を旧東独側から間近に見て丁度右手の角にあります。到着したのが5時30分!間に合った・・・・早速Tシャツに着替えて(このTシャツ今回の旅では大活躍でした、鈴木さん!)入館、入るなり受付嬢が感嘆の声をあげました(ドイツ語なので何と言ったか不明)奥から職員も数人出てきて握手攻めに会いました。正直言って、お客さんは我々夫婦だけ(さみしい〜)そんな時、はるばる日本から明らかにケネディファンと解る人間が入ってきたので喜びもひとしおだったんじゃないかしらん?(たぶん)。ふと見ると「館内撮影禁止」の表示、そんな訳には絶対行かないので撮影の許可をお願いすると「オブコース」と来たもんだ。鈴木さんありがとう!館内の写真類はボストンのJFKライブラリーの時と同様目新しいものは無く特別な収穫はありませんでしたがケネディのボストンバックやブリーフケースが証拠写真と並べて展示してありました。それに例の「Ich Bin Ein Berliner」と「Civis Romanus sum」のメモ書きも展示されていました。「本物かいな?」などと思ったりしましたがそこは別にどうでも良いことで、私としてはベルリンの街にこんな形でケネディが記憶されている事に最大の喜びを感じたひと時でした。館内にある映写室ではベルリン訪問時の全記録が繰り返し上映されています。最後の展示室には、ここでもオバマ氏登場。表題は「Prasident Obama .Auf Den Spuren Der Kennedys?」勿論ドイツ語。早速簡易独和辞典の登場で概意「オバマ大統領はケネディの足跡をたどるのか?」と言ったところでしょうか(正確ではありませんよ)時間は6時をとっくに回っている、閉館時間は過ぎているのに職員さんは何も言わない。これもTシャツのご利益かしらんと思いつつ出口に向かいました。お土産ショップでも在るのか知らんと思って周りを見渡しても何の表示もない、気分的には非常にスマートで良いなと思ったのですがやはり何か無いかなと思っていると出口周辺に展示物かと思われるようなレイアウトの展示棚。そこに小さく値札がついている。何ともスマート!女房の目は一切無視して品物選び、最高の品は「KENNEDY IN BERLIN」のDVD。リージョンの相違も知っていましたが購入してきました。(帰国後日本のプレーヤでは見る事が出来ませんでしたがパソコン上では見る事が出来ました)それに、それこそ簡単な品物ですがクラブの常連さんへのお土産も入手してきましたのでお楽しみに。  写真スライドショウ

Berlinerの正体

デュセルドルフに到着した夜、友人と夕食をしたのですが彼女の旦那は生粋のゲルマン・ドイツ人。例の”Berliner”について聞いてみました。「”Berliner”と言うパンはあるの?」答え「あるよ、明日の朝、パンを買いに行くから一緒に行こう」
明朝つれだって近くのパン屋さんに、早朝なのにたくさんの人、ドイツの方々は、その日の朝食用のパンをその朝買いに行くのが普通なんだそうで、並んでいるパンはすべて焼き上がりのホカホカ、この時間帯に売り切ってしまわないと残ったものは絶対に売れないんだそうです。並んでいるパンの種類の多い事!日本の「食パン」らしいものは在りませんでした。さて商品棚を探すと、ありましたありました!何たらかんたら”Berliner”まさにジャム入りの揚げパンでした。彼曰く「”Berliner”と呼ぶのは地方だけで、ベルリンのパン屋で”Berliner”と言ってもたぶん解らない、ベルリンで同じもを買うときには”Kraphen(カップフェン)”と言うんだ」との事。ベルリンの日本的に言うスーパーマーケットの入口で「”Berliner”をくれと言ったら”何のBerlinerなんだ?”と聞かれだろうね、あらゆる品にBerlinerの名前がついている、まっ多分今ならビールを持ってくるだろうネ」との事。
ベルリンの街で散策していた時、パン屋さんらしき店を見つけたので”Kraphen”と言ったら確かに同じものが出てきた!残念ながらスーパーマーケットは見つからなかったので”Berliner”の検証は出来なかったけれど酒屋で”Berliner ビール”を買って来て数本たいらげました、それにしてもビールの種類の多さ(銘柄は勿論、醸造方法の違い)と値段の安さにはびっくり、さすがビール天国ドイツでした。
ベルリン市内では、広告やら落書きに「Ich Bin Ein Berliner」のフレーズはそこいら中に氾濫しています。これにはケネディも苦笑しているかも?最後につとむさんお勧めの「カレーソーセージ」。デュセルドルフで聞いたドイツ一おいしいと評判のカレーソーセージ店に行ってきました。正直な感想「チットモ美味くなかった!」でした。

ベルリン演説とプラハ演説


2009年4月5日、チェコ共和国、プラハ、フラッチャニ広場にてオバマ大統領が歴史に残るであろう大演説をした事は皆さんご存知の通りです。ここで内容には触れませんが、いつの日にかプラハの街を訪ねた人々が「ここが2009年にオバマが演説したオバマ広場だよ」と囁きあえる日が来る事を願ってやみません、正直"シェーネベルグ"の広場に立って、私がふと感じた感想でした。そして私が何としても”シェーネベルグへ行きたい”と思う気持ちと同じように”フラッチャニへ行きたい”と思う人々が増えますように、出来得るならば私が生きている間に・・・・・・・