第四回ダラスオフ会のご報告をいたします。あれから半世紀、今年は没後50年の記念すべき年でした、日本では思いもかけず長女キャロラインの駐日大使就任と重なって、年の後半はケネディ一色になりました。クラブのメンバーが節目の年に訪れたダラスの街をレポートします。また、念願だったニューオリンズも訪問したオフ会です。あれもこれもの気分で書きました為、かなりの長文になりました事をお許し下さい。 |
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![]() 何度も報告書に書きましたのでご承知かと思いますが、この49年間の11月22日は「COPA(政治的暗殺に関する連合)とJFKランサー社」が主体となって毎年ディリー広場で追悼集会が開かれていたのですが、2013年は、市の主催で実施するので、COPA・ランサー社に「2013年11月22日のディリー広場使用許可は出さない」との決定が下されたと言う報道です。記事によると、COPAを始めとして関係諸団体がこの決定に猛反発!万一使用許可を出さなかった場合は、各種「抗議行動を起こす」と言うのです。「ディリー広場の陣取り合戦」みたいなものです。当然、公共広場ですので「ダラス市側」が有利でしょう、結果的には「ダラス市の追悼集会」となる事は間違いないのでしょうが、無用なトラブルが起きなければ?と心配が先に立ってしまいました。40周年の当日でも同じような事があった位 ![]() やはり「50年」と言う節目の年、国内外の参加者も多いでしょうから過去3回の「ダラスオフ会」の様な気持ちでいたら、えらい事になるのでは?と言った不安がよぎりました。年が明けてもその不安は募るばかり。とにかく「宿」だけは確保しなければと、ちょっと早すぎるかとは思いましたが「キャンセル手数料なし」のホテルを探しまわり、とりあえず12名分6部屋を確保したのです。(結果的には正解だったのですが)それに航空機の手配も!色々な旅行社のページを渡り歩き大まかな予算建てを開始しました。出国便と帰国便は心配いらないのですが、問題は米国々内線です。「民族大移動」とまでは言いませんが当日のダラス行きの便は結構な混雑が予想されます。しかし、格安航空券は予約即発券が原則、人数は未確定(当然、発券には搭乗者全員のフルネームが必要)そのうえ100万円を超す金額の「立て替え払い」にはさしもの私も二の足を踏んでしまいます、神に祈るしかありませんでした。 |
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毎年のオフ会開催・募集公告は、通常8月頃にアップしているのですが、今回は自分自身の「あせり」からか、4月の声を聞いてすぐにアップしてしまいました。しかし、さすがに50周年!我も我もと、あっと言う間に6名の参加希望。12名の参加者予定での予算建てでしたのでこのペースであれば全く問題なし。案の定、6月には11名の参加者が確定しました。そんな折も折、ダラスのバス会社よりの情報が飛び込んできました。50周年追悼集会の募集が開始されたとの連絡です。ダラスでのチャーターバスの手配と同時に「何か情報があったら連絡を!」と依頼していたのが奏功したのです。ネット上で「ダラス市」や「ダラス・モーニング・ニュース社」のページをチェックはしていたのですが、いつ掲載されるのか解らない情報ですしそうそう毎日チェックと言う訳にも行かず、やきもきしていた矢先の連絡でした。それによると、「ダラス市主催にて11月22日午前11時45分からディリー広場にて開催、入場可能総数は5,000名、内2.500名はダラス市民、あとの半分を外来者に割り当てる、参加者多数の場合には10月1日に抽選して連絡する。」との事、申し込みは7月31日までメールにて受け付ける。と言った内容でした。「外国人の場合の送付データにはパスポート番号」も要求している、これはおちおちしていられない、パスポート期限切れで、まだ申請していない人もいるはずと参加者全員に「緊急連絡」。案の定、まだまだ先に申請すれば良いと思っていた方が数名。どうにか「参加申込」だけは全員済ませる事ができました。(土田先生ご夫妻は奥様の健康上の都合でキャンセル)それにしても、5,000名か?この人数 |
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昨年の三島オフ会の時には「50周年企画」として雑誌「PEN」の取材を受けたのですが、その頃よりくすぶり続けていた一つのニュースがこの時期を同じにして現実味を帯びてきたのです。そう「キャロライン・ケネディ次期駐日大使就任」のニュースです。まっ、50年の節目の年と重なったのも何かの因縁のような話ですが。「50周年とキャロライン」の二重奏で土田先生は大忙し、一時期はメディア各社を掛け持ちで出演され、50周年やキャロライン関連ニュース・報道特集の番組には必ずと言って良いほど出演されていました。 キャロラインの大使任命に関しては、お膝元アメリカ国内はもとより日本でも賛否両論、各メディアでも様々な意見が交わされました。まっ、色々ご意見もあるでしょうがJFKクラブとしてはここはすなおに歓迎の気持ちを表したいと思います。この二重奏の余波は我がクラブにも波及、最終的にはテレビ局から6件、新聞社から3件の取材申し込み!Los Angeles Times からは「キャロライン ![]() |
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思うのですが、この手の取材と言うのは何故「グッツ」にこだわるのでしょうかネ?集会には皆さんの思い出の品や「お宝品」などがあれば持ってきてとの要望しきり、私しゃ「グッツ収集には全く興味ないし、何も持っていない」急遽ナッキーさんの御出馬をお願いしました。やっぱり「何の肩書も無い庶民」の集まりでケネディに対する思いをいくら熱弁をふるっても「絵」にならないのかしらんネ?(「そりゃそうだ」の声が聞こえて来ますが 『笑』)後日のやりとりの中で「今回の映像の放映日は11月24日を予定しています」との事、なんじゃ、その時ゃ私しゃ日本にはおらんぞ!・・・・ さらに攻勢は続きました。そのほとんどが「キャロライン関連」。やはり50周年とキャロラインを比較すると、日本でのニュースヴァリューはキャロラインに軍配が上がるのでしょう。「こちらTBSですが」「こちらNHKと申しますが」とひっきりなしに電話がかかってくる。初めて知ったのですが、テレビ番組の編集ってこんなにドタバタなのですね。ここに来ての取材申し込みはほとんど2日後の番組とか、ひどいのになると「今夜の番組での取材なのですが」と来る、番組担当者の方々は本当に大変だと思います。以前、別のテーマでテレビ取材を受けた時にはこんな事はなかったのに?やはり、特番とニュース番組の違いなのかしらん?キャロラインの来日は11月15日!それに合わせて各メディアが一斉に取材の為に三島に。在る日などはテレビクルーが自宅前で鉢合わせ。近所のあいだで「前田さん、何かやらかしたの?」と言った噂が出たとか出ないとか?「2〜3時間あれもこれも」と喋らされて放映は5〜6分「疲れがドット」出てしまいました。それに我がクラブの報道官である所の「サリンジャー氏」も出演!華々しい「マスコミデビュー」でした。 |
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この伝でいくと50年の当日(日本時間では23日)直前になって各種取材申し込みが来る事が予想されます。実際に18日になってNHKから、22日放送予定の番組に関して「20日の日に取材にお邪魔したいのですが?」との連絡。「私しゃ、その日は日本におらんぞ!」と言ったら、「これからお邪魔します」と来たもんだ。少しでもクラブの名前が広まり仲間が増える事を期待する私、留守中の取材申し込みについては「ナッキーさん」に依頼する事にしました。 |
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日頃から、ネットサーフィン(この言葉って死語になったみたいですね)でJFK LANCER社のページを見ているのですが、飛び込んできたニュースが「ダラス・カンファレンス」の開催予告。毎年、JFK LANCER社の主催でディリー広場での追悼集会と一緒に記念イベントとして市内のホテルで開かれている集まりなのですが、今年も開催するとの公告!しかも、ディリー広場での追悼集会も予定に入っています。これでは当日のディリー広場はどうなっちゃうんでしょう?不安がいよいよ現実になっちゃうのでしょうか?悲しい限りです。心配しながら読み進むと、カンファレンス会場が「ダラス・アドルファスホテル」となっているのです。年明け早々に「取りあえず宿だけは!」と仮予約して確保しておいたホテルでの開催でした。まさか!と目を疑いましたが間違いなし。ある方の言葉を借りると「我々は集会の『選手村』に泊まる事になるのですネ!」との事、何の選手だか解りませんが、多分、ホテルは大変な混雑になるのではないでしょうか?ホテル内には出版社や収集家の方達のブースも開かれ、書籍やいわゆる「グッツ」の販売も行われるとの事、やっぱ、クレジットカードは持って行くのやめようかしらん! |
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いよいよ出発の日がやって参りました。今回のオフ会の計画のスタートから10ケ月、長いようで短い時間であったような気がします。成田での皆さんのご様子はやはり特別な年への旅立ちの関係か「気持ちの高ぶり」を抑えきれない様子です。参加者12名の内、土田先生はニューオリンズにて新たな研究の取材がお有りとの事で、すでに18日には奥様とご先発、したがって10名でのフライトになります。私も前回のアクシデントの反省から、出発前のチェックは入念の上に入念に行いましたので万全の成田でした。今回初めてのアメリカとなる群馬の本橋さんも高揚した気分を抑えきれない様子、でも、初めてのアメリカが「ダラス」だなんてマニアック-!出発時刻も定刻発で快適な8時間でした。 順調なフライトで、ニューオリンズへの乗り継ぎ地ダラスに到着。問題ない旅を予感させた次の瞬間「オー・マイガーツ!」入国審査の行列は私がかつて見た事も無い程の長蛇の列!一応乗り継ぎ時間は2時間半を見て在ったのですが、心配になっちゃう位の列です。人の心配をよそに30か所近くもあるゲートの内、開いているのは7か所のみ、これだけの行列を見たなら職員を動員してでもお客の利便を考えるのが当たり前なのでしょうが全く気配なし。列は遅々として進まず、時間ばかりが過ぎて行く。やっと全員が通関したのが、なな何と!2時間後!「やばい」なんてものじゃない。DFW(ダラスフォトワース空港)は世界有数の広さの空港、空港全体の敷地面積は東京23区部の広さに匹敵します。そこに全部で4か所のターミナルが在るのですが、ターミナル間の移動は「電車」なのです。国際線の到着はターミナルA、国内線の出発ターミナルはDですので電車で10分位掛かってしまいます。電車の中でもうすでにニューオリンズ行き飛行機の出発時間は過ぎてしまっている。格安航空券の悲しさ、次のニューオリンズ行きの飛行機のチケットはどうなるのだろう?と思うと足が「ガタガタ」震える気分です。やっとの思いで出発ゲートに到着!案の定すでにニューオリンズ行きの飛行機は出発した後でした。こりゃ困った!頭の中が真っ白になっちゃいました。 |
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ところが、少しでも早く行って後続のメンバーの為に出発を遅らせようと到着してい |
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いよいよ旅の始まりです、私にとっては初めてのニューオリンズ。2005年例の「ハリケーン・カトリーヌ」の災害のおり、中出さんのご提案で救援資金の寄付を行った時の項目を読み返すと「いつの日にか、ニューオリンズを訪れた時・・・」と書いてありましたが8年後に実現したのです。一般的にはニューオリンズと言えば「ミシシッピー河クルーズ」や「ジャズ・ライブツアー」と言ったところでしょうが、我々の目的は「キャンプ街544番地」に「カナル街700番地」いまさらながらマニアックと言うか何の為の海外旅行じゃ!と言った感じです。朝9時。先発していた土田先生とホテルで合流、先生のご案内で朝食に向かいました、途中、ミシシピ河の畔を歩いたのですが、ニューオリンズ滞在二日間で最初で最後でした。(笑)ご案内頂いたのは「Cafe Du Monde」ニューオリンズっ子の良く利用する有名なカフェだそうで、メニューはひとつだけ、特産品のサトウキビから作った独特の砂糖をたっぷりかけた揚げパンです。食べた時「うん?どこかで食べた事 |
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キャンプ&ラファイエットの交差点、バニスター事務所と 次の訪問地は「ライリー社」ニューオリンズに現れたオズワルドが勤めていた会社です。現在もなお存在するその会社はキャンプ街の事務所から数ブロック南に行った所に在りました、当時、会社の隣には小さな印刷屋があり、オズワルドがカナル街で撒いたFPCCのチラシを注文した印刷屋であるが、さすがにその印刷屋は影も形も無かった。ニューオリンズにおけるオズワルドの行動範囲は極めて狭く、東西南北、数ブロックに限定されているので効率よく見て回る事が出来ました。残りの注目箇所はオズワルドの住んでいたマガジン街4907番地やギャリソン検事の勤務先である「郡検事局」位なものですが、その二つは中心街からかなり離れている場所になります。その他の場所は一般的な観光地めぐりになるかも知れないのでここで土田先生ご夫妻とお別れする事になりました。本当は残り3日間ご一緒にダラスを満喫する予定だったのですが、ある事情により先生は明日帰国と言う事になってしまったのです。残念ですが仕方が有りません、ここでお別れです。私と言えば(毎度のことですが)体力的ではなく精神的に疲労困憊、昨日のダラス入国事件?がかなり響いており、ホテルに戻る事にしました。 |
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ライリー社で皆さんとお別れしたホテルへの帰路、チョッピリ遠周りをして写してきた写真が左の二枚、建物の番地表示をたよりに「カナル街700番地」の前の通りを写してきました。そう、オズワルドが8月9日FPCCのビラを撒いていた場所にあたります、さすがの私も行きかう人にブリンギエールの店を尋ねる勇気はなく、確認は取れませんでした。ここから1ブロック西のコモン街に面した所が「ワールドトレードセンター」のあった所です。ミシシッピ河の畔に新しいトレードセンターの大きなビルも在るのですが、現在は全く使われていないようで入口は固く閉ざされていました。 夕刻皆さんと再度合流して行った所がニューオリンズ名物「牡蠣料理」の店、私の大好物ですので、かなり期待したのですが全然旨くなかった!やはり牡蠣は広島かな?前項目で紹介した検事局での出来事を肴に楽しい食事のひと時でした。食事後再度別れて散策。ジャズの街を満喫したメンバーでした。 |
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ダラスまでは空路約1時間半、ダラス・フォトワース空港に降り立ちました。迎えてくれたのは今回のバスツアーガイドの「のりこ」さん。実は今回のツアーも「ゆきさん」をお願いしており、了解を取り付けていたのですがご主人の体調が思わしくなく、急遽「のりこ」さんに変更になったいきさつがあったのです。「ゆきさん」との再会は果せず残念でしたが、事情が事情だけに致し方ありません。「のりこ」さんの話では到着ゲートで「ウエルカムボード」を持って待っていると周りの人から「JFKクラブとは何だ」との質問攻めにあって困ったとの事、やはり50周年と言う事でケネディ関連の事に対しての注目度は大変なもののようです。バス乗車前の数分間の「のりこさん情報」によるとディリー広場周辺の厳戒態勢は大変なもので、ダウンタウン一帯は完全な交通マヒ状態、いわゆるVIPがかなり集まっておりケネディファミリーも来ているとの情報、お会いできる訳じゃありませんが気分の高揚は隠しようが有りませんでした。 |
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今回の記念式典の受付場所は「アメリカン航空センタービル」ディリー広場まではバスで数分の所に在るのですが、ここで抽選に当たった者と残念組と別れることになります。バスを降りる当選組5名を見送る方々の羨望と怨嗟の目線が背中を刺したように感じたのは私だけでしたでしょうか?空港を降り立った時から感じてはいたのですが、この寒さは何なんでしょうか?この時期(私がダラスを訪れるのはこの時期以外には無いのですが)過去5回の中では考えられないような寒さ、例の「半袖Tシャツ」だったら?と思うと背筋が氷ます。私は極めて寒さには強い方なのでお揃いTシャツだけで入場したのですが、寒さには慣れていない周りの方々は着ぐるみダルマのようないでたちです。 さていよいよ入場!ここで事件発生、実は日本を出発した折、日本時間24日放送予定のBS朝日の番組の為にビデオカメラを持参、追悼集会の模様を撮影してストレージで送る約束をしてあったのですが、会場にはビデオカメラを持ち込む事は出来ないとの事、他のメンバー達のビデオカメラも全て没収されてしまいました。加えて、空港での搭乗検査なみのボディーチェック、しまいには取り外し不能のリストバンドまで付けさせられました。このボディーチェックは広場の入り口でも行われダラス市の緊張感を肌で感じました。以前から「どうやって?」と余計な心配をしていたディリー広場のセパレートの概略を説明しますと。封鎖された道路はアンダーパスの所で3本の道路を、ヒューストン通りの1ブロック東側で同じ3本の道路を、ヒューストン通りの北側は参加者のシャトルバスの駐車場専用に封鎖されていました。丁度ダウンタウンの東西を完全に封鎖した形になります。地元の方々は大変な迷惑となったでしょう。広場の中心を走るメイン通りは「馬鹿でっかいJFKの、のぼり旗」「演台」「貴賓席」「報道用のカメラ席」で完全に埋め尽くされています。(下写真、報道席から見たメイン通り東側) |
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開会時間まではざっと二時間ぐらいの時間が在る、「演台」を挟んだ二台の大スクリーンには様々なケネディの映像が流されている、私が見た事も無いような映像ばかり!聞くところによるとこの集会の為に「ケネディライブラリー」が特別に貸し出した未公開の映像が多かった!との事、これだけでも収穫でした。開式が近付くと貴賓席に次々と参加者が集まってくる、一段高い所に在る為に顔 ![]() 後で、集会に参加出来なかったメンバーの話を聞くと「そっちの方が良かった」と思えるような式典でした。負け惜しみでは有りませんが参加者のみに配られた式典プログラム(ちゃっちいもの)とリストバンドが記念に手元に残った位でしたでしょうか。 |
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集会終了後集合予定の「ステーキハウス」にたどり着いた時の店内の温かさは天国でした。無事全員が揃った時点で昼食となりましたが、例のボディチェックで没収された「ビデオカメラ」を回収にAAセンターに行かねばならず、がたがたした昼食になり申し訳ございませんでした。私も、どこに昼食が収まったのかも解らない食事でした。さてこれからはバスに揺られて事件関連の場所の見学です。パークランド病院では野田さんがケネディが運び込まれた手術室の前に記念のプレートがあるとの事で病院内部にまでもぐりこんだまでは良かったのですが、いまいちはっきりしない、周囲の患者さん?からは奇異の目で見られるし警備のおいちゃんが近付いてきたりしたので「ヤバ!」とばかり脱出する一幕もありました。次は事件当時オズワルドが下宿していた北ベックリー通り1026番地の「例の家」です。例の家と書きましたのは前回のダラスの折「室内を見せてやるから一人5ドル出せ」と言われたいきさつからです。ヒューストン通りの封鎖がまだ続いていたり、混雑から逃れるために、かなりの遠周りをして到着してびっくり!玄関前に堂々と二枚の看板が!この5年間の間にこの家がとてつもない価格で売りに出て居る事は知っていましたから「For
Sele」の看板は納得できますが、もう一枚の看板に一同唖然!そこには「Oswald
Rooming House Tours」の看板!前回は無かった看板ですが、我々が「中を見せて」と依頼した事がきっかけとは思いません |
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最後は西ニーリー街のアパートメント、ひょっとして朽ち果てて無くなっているかも?などと想像したのですが、どっこい、まだ健在でした。しかし、いつ崩れてもおかしくない位の状態です。まず、あと5年は無理でしょう。ここでも驚いた事に壁に張り紙が!「タバコの火には気をつけて!」と書いてある。もちろん過去2回の訪問時には無かったしろもの、相当な人数の来訪者に、あきらめきってせめてもの用心のために住人が貼ったのでしょう、確かにマッチ一本で全焼させる事が出来そうな建物ではありますから。建物を囲む「塀」も隙間だらけの状態、入り込もうと思えば簡単に入り込めるような状態でしたがやっぱり住居侵入は怖いですから塀の隙間からパチリ!ひょっとして最後の一枚になってしまうのかしらん? 塀の隙間から各々がカメラを向けている風景はチョッピリ異常な |
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興奮の一日が明けて静けさの帰ってきたディリー広場に戻ってきました。ホテル出発時に準備しておいた「献花」の花束がホテルに届いていないと言うハプニングが有りましたが、取りあえず時間の無駄とばかりに出発致しました。近くのマクドナルドで腹ごしらえをしてメモリアルプラザから広場へと進みました。メモリアルプラザで見かけた「ジヨンジョン」のモニュメント、広場の記念プレートにも置いて在りましたが今回の旅の中で最も気に入ったものでした。昨日は人と警官に埋め尽くされていた広場もいつもの静かなたたずまいを取り戻しています。やはり50周年の公式 |
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つたない解説を聞きながら散策したメンバーです。この場所は4回目3回目と言う方もおれば、初めてという方々のグループですので解説も難しく、チョッピリ苦労しましたが皆さんご満足頂けましたでしょうか? |
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私は以前訪ねて掘り出し物の「ライフ誌」をゲットした古書店を再訪しようと、店に向かいました。ところが残念な事にその古書店は今は無く、シャッターが閉まっていました特別な日でもあるので大量のケネディ関連図書を!と狙っていたのですが空ぶりの一瞬でした。 |
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成田空港でのお別れの一枚、 近いうちに新年会でお会いしましょう。
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まっ新しいメンバーがどしどし参加してもらえるように頑張りましょう。 |
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高橋清治さん | |
池田元彦さん | 一部抜粋させて頂きました |
我々は、翌日暗殺現場の脇の道路傍の芝生に献花し(私1人は事情により皆と一緒に出来なかったが)、JFKの冥福を祈った。ニューオリンズにはこの2日前に飛び、所謂暗殺陰謀者達と思われる被疑者の活動場所を辿った。ガリソン検事の勤務していた刑事裁判所では、ガリソン検事の部屋も見せて頂けた。地元の多くの人がガリソンの裁判手法はエキセントリックで強引・独善的だったという。筆者は偶々ガリソンについてある検事にインタビューに来ていたFOX8に捕まり、あれこれと聞かれたが、ガリソンの評価が低いことが良く判った。JFKは、勝海舟、上杉鷹山と共に筆者が尊敬する人物であり、ロバートが引用したのも上杉鷹山の次の言葉だった。「国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして我私すべき物にはこれなく候、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれなく候、国家人民のために立たる君にして君のために立たる国家人民にはこれなく候」。JFKの冥福を祈る。 |
植田浩司さん |
鈴木克美さん |
![]() 待ち時間の間、一人困っていた上野から来たお年をめした女性に手を差し伸ばしたのでした。でも、前田さんお手製のバッジとパスポートケースは効き目抜群!!いつもの厳しい質問は全く無く、スルーパスでした!(笑)初日はオズワルドの故郷、ニューオーリンズです。ここでは、土田先生と落合い縁の地をご案内頂く予定だったのですが、今年は50周忌、土田先生はTV各局の取材で超多忙、結果、午前中のみで別れることに。行きたかったライリーコーヒーと、そして、cafe du mondeのカフェオレとベニエに舌鼓を打ちました。ベニエは噂通り美味しかったです!真向かいのギフトショップでチコリコーヒー等を購入したのでした。午後は皆とジム・ギャリソンの事務所へ、Mikeさんがダメ元で受付に見学交渉をしたところカメラ類持ち込みはNGだがOKとのこと、二班に分かれて見学したのですが、私達先遣隊はジム・ギャリソンの部屋までは辿りつけず、くーっ!(涙)映画「JFK」の世界そのものでした!次回来る機会があれば、今度はジャズと遊覧船を堪能したいと思います。そして、22日はいよいよ聖地ダラスです! 予報では寒いと聞いていたのですが、体感的には恐らく氷点下!しかし心は燃えております。前田さんは着ていたジャケットを脱ぎ捨て、50周忌Tシャツの薄着でバスを飛び降り会場に向かいました。スキーも薄着で出かけると言っていましたが、でも…。風邪を引かないか心配でした。小生は落選したのでレッドハウスの後ろの大型スクリーンで“その時”を静かに待っていたのですが、ふと後ろを振り向くと、どこかで見かけた髭の叔父さんが!ジム・マース氏でした。皆にその旨を伝え、記念撮影とサインをゲット!そうこうしていると、オハイオ州から来たまたまたご年配の婦人が小生のバッジに気付き写真を撮らせて、と近寄より、いろいろ質問してくる。(汗)ケネディファミリーを愛している方で意気投合!とっても感じが良い方でした!!その後、デイリー広場やSixth Floor Museumでも、係員やお客さんからもTシャツに気付き写真撮らせてとか質問攻めに!これで5年前の汚名は返上したでしょうか?(爆)聖地二日目は、前田さんのご案内、聖地は今回で3回目になりますが、デイリー広場、ノースベックリー、ティピット巡査、テキサス劇場、バックヤードフォトをご案内頂きました。前田さんにピッタリ取材させて頂いたのですが、印象的だったのは、初参加の本橋さんです。熱心に聞き入っていて、凶弾に倒れた場所に立っていると感極まったのか涙涙、その心を大切にね!本橋さん!今回も連夜の「恒例イカゲソパーティ〜」楽しかったですね。そのイカゲソパーティーで、先のTBS番組での神様発言の話題になり、小生に疑いの目が!(汗)土田先生を「神様と崇められている」と言ったというのですが、小生まったく記憶にないのです。この時、初めてオズワルドの気持ちが分かった瞬間でもありました!(爆)“I'm just a patsy!”雑誌やグッズ等をガッチリ買い込んで、ずっしり重くなったケースを引きずり聖地を後に。初日ハプニングがありましたが、今回もとても素晴らしいオフ会になりました!土田先生、今村様、前田さん、皆様、大変お世話になりました。 次は生誕100周年です!4年後はGo to the BOSTON!ですね?前田さん?(笑) |
中出 忍さん |
本橋敦志さん |
私にとっては初めてのアメリカ、そしてダラス、ずっと行ってみたいなぁとの思いを持ちつつも英語を話せない、ダラス行きのツアーを探すもそんなマニアックなツアーなどなく、私にとってはなかなか1人で行く事が出来ずにいました。そんな中、去年の三島オフ会時に、次のオフ会はダラスだよ、とのお話を聞いた時に、この機会を逃したら私にとって次はあるか分からないとの衝動にかられました。こんな絶好の機会、必ず行くと心に決め1年間を過ごしました。その間幾つかの問題もありました。一週間も仕事休めるだろうか?義父の一周忌も丁度重なるので、一周忌の日にちをずらしてもらえるだろうか?などでした。結果的には、仕事も職場仲間の協力で一週間休める環境にしてもらえ、一周忌も少し早目に行うとの事で解決しました。大変ありがたい気持ちで、アメリカ行きへ漕ぎ着ける事が出来ました。そしていよいよ当日になり、気持ちは頂点に向かいました。アメリカまで12時間のフライトは私にとってはワクワクドキドキの気持ちでしたので何の苦もなく、むしろ楽しく過ごしていました。このペースで書いていたら凄く長い文書になってしまうので、1番思い出に残った出来事のみにさせてもらいます。それは何と言ってもデイリープラザに私自身が行けた事です。ずっと本や映像などで見てきた場所です。ある程度の地形も頭に入っていましたが、その場所に実際行ってみると私自身が想像していたデイリープラザとは少し違っていました。勿論見慣れた光景もあり、たまらなく色々な感情が湧いてきました。前田さんから頂いた資料を見ながら、その現場へ行き、説明をしてもらいながらの現場検証は、凄く貴重な体験であり贅沢な事でした。それと同時に事件に対して疑問も幾つか出てきました。皆さんと疑問について会話をしながらデイリープラザにいるなんて、私にとって感動的でした。その後、私は1人デイリープラザを歩いてみると色々な感情が湧いてきてしまい、気付けば涙が流れていました。ケネディへの思いと、私自身がケネディに興味を持ち、今日ここに立っているまでの人生が頭をよぎっていました。デイリープラザに行くと、言葉には言い表せない様々な感情が溢れてきた事が私にとっては大きな思い出です。また、ホテルの部屋で皆さんとケネディ談議をしている事も素晴らしい時間でした。私にとって、生涯忘れる事のない5日間でした。前田さんには、ただただ感謝の気持ちでいっぱいです。また参加された皆様、楽しい時間をありがとうございました。 |
堀口春夫さん | |
前田さんそして参加の皆さん今回の海外オフ会、大変お疲れ様でした。また土田先生そして奥様、ニューオリンズではお疲れ様でした。米国に着いて翌日21日のニューオリンズでは先生ご夫妻にいろいろ名所やオズワルドの足跡等案内して頂きましたが私自身当初はそれ程見る箇所は少ないのではと思っていたのですが、何の何の結構数多く見て回りました。それと今思うとミシシッピー川の船にも乗ってみたかったと言う気がします。それにしても先生のタフさには驚かされました。同様に先生と一緒に歩かれる奥様にもですが。歩いた距離も相当なものだと思われます。私など付いて行くのがやっとと言う感じで、普段の運動不足がたたりホテルに戻った頃には情けない事に足の筋肉が痛くなる程でした。でもお蔭様をもちまして初めてのニューオリンズの町を充分堪能できました。有難うございました。一通り見学後、一足お先に帰国の先生ご夫妻とお別れし、前田さんは一人ホテルへ戻られ、その後フリー行動になったものの結局皆で車2台に分乗してジム・ギャリスンの事務所があった地方裁判所へ行くことになりました。着くと建物の前にFOX局のカメラマンとマイク片手のスタッフがたまたま取材に来ており早速池田さんが何やら話しかけ、結局最後は胸のバッジやTシャツ、そして全員並んでしっかりカメラに収まる事に。ここでもバッジとTシャツの効果絶大を認識した次第。その後折角ここまで来たのだから中も見ようという事になり、2つにグループ分けして入るが我々のグループはギャリスンのいた2階の入り口受付までは入れたが、別グループは受け付けから更にギャリスンのいた奥の部屋まで入り机まで見れたという、ちょとした運の違いが現れた様だ。そこで分かった事は、事務所の人さえ殆どギャリスンの名前を知らないと言う返事でちょっと驚きであった。また彼は人々から異端視されていた事も分かり非常に興味深かった。そして今回の最大イベントである22日のダラスでの追悼式への参加、この参加の為に抽選に運良く当選したのは嬉しかったが予想外にも厳しい入場制限でビデオカメラは取り上げられ雨と風と寒さで震えながら式典が始まる前から2時間位立ちっ放しで始まってからも周りに背の高い人垣で何も見えずの最悪の状況下ではあったがスピーチの声は聞こえ、たとえ内容は全部理解できなくても正に追悼式の真っ只中に臨場しているという感慨は何よりであった。後で追悼式典のTVニュースを見てどんな人がどんな様子でと分かった次第。翌23日はこれも今回のビッグイベントで皆で献花を行った。配送に不手際があったものの無事花を受け取ることが出来、皆揃ってデイリープラザのプレート箇所まで運び、我々以外の大勢の人達も見守る中で厳かに設置する事が出来ました。その前でメンバー一人一人が順番にお祈りを捧げました。我々の泊まっていたアドルファスホテルでJFK LANCERのカンファレンスが開催されており併設のBOOK販売もあり、新 刊のみと思っていたが古本も多数出ていると前田さんから聞き慌てて見に行くが既にクローズでガッカリ。それで出発日の朝ちょっと15分位見ることが出来数冊手に入れたがもっと時間があればと残念至極であった。でも気に入った3冊を入手でき満足するのでした。今回の海外オフ会もあっという間に終わり今思うと行って来たのがウソの様ですが、自分なりに本当に楽しいまたまた思い出深い海外オフ会となりました。 |