第四回ダラスオフ会のご報告をいたします。あれから半世紀、今年は没後50年の記念すべき年でした、日本では思いもかけず長女キャロラインの駐日大使就任と重なって、年の後半はケネディ一色になりました。クラブのメンバーが節目の年に訪れたダラスの街をレポートします。また、念願だったニューオリンズも訪問したオフ会です。あれもこれもの気分で書きました為、かなりの長文になりました事をお許し下さい。
プロローグ
2013年の年がやってきました。勿論、没後50年です。過去3回、区切りの年にダラスオフ会を開催しておきながら、50年の年は行きません、などと言う事は絶対に出来ません。どのような結果になろうとも2013年の11月22日はディリー広場に立たなくては!今回初めて結果無視のスタートでした。第一回はワシントン・ボストンとの組み合わせ、第二回はダラスのみでしたが第三回はワシントンとの組み合わせ。今度の組み合わせはニューオリンズと決め、計画はスタートしました。常連メンバーの気持ちも同じ!三島で開いたオフ会の報告書にも書きましたが、第10回国内オフ会は、さながら2013年ダラス・ニューオリンズオフ会の決起集会の様相でした。(この決起集会、決起!決起!で何と4回も決起しちゃいました。)そんな三島オフ会を終わって興奮さめやらぬ12月、早くも50周年集会の開催に関しての大きな動きが起きたのでした。『来年の50周年記念集会は「ダラス市」の主催で実施すると言うのです。』 没後50年にして初めての「公式追悼式」となります。「大統領を殺した町」と言う呪縛から解き放たれるのに50年かかった事になります。
何度も報告書に書きましたのでご承知かと思いますが、この49年間の11月22日は「COPA(政治的暗殺に関する連合)とJFKランサー社」が主体となって毎年ディリー広場で追悼集会が開かれていたのですが、2013年は、市の主催で実施するので、COPA・ランサー社に「2013年11月22日のディリー広場使用許可は出さない」との決定が下されたと言う報道です。記事によると、COPAを始めとして関係諸団体がこの決定に猛反発!万一使用許可を出さなかった場合は、各種「抗議行動を起こす」と言うのです。「ディリー広場の陣取り合戦」みたいなものです。当然、公共広場ですので「ダラス市側」が有利でしょう、結果的には「ダラス市の追悼集会」となる事は間違いないのでしょうが、無用なトラブルが起きなければ?と心配が先に立ってしまいました。40周年の当日でも同じような事があった位ですから。でも、いくら心配してもその日その時になってみなければ解らない事なのですが。
やはり「50年」と言う節目の年、国内外の参加者も多いでしょうから過去3回の「ダラスオフ会」の様な気持ちでいたら、えらい事になるのでは?と言った不安がよぎりました。年が明けてもその不安は募るばかり。とにかく「宿」だけは確保しなければと、ちょっと早すぎるかとは思いましたが「キャンセル手数料なし」のホテルを探しまわり、とりあえず12名分6部屋を確保したのです。(結果的には正解だったのですが)それに航空機の手配も!色々な旅行社のページを渡り歩き大まかな予算建てを開始しました。出国便と帰国便は心配いらないのですが、問題は米国々内線です。「民族大移動」とまでは言いませんが当日のダラス行きの便は結構な混雑が予想されます。しかし、格安航空券は予約即発券が原則、人数は未確定(当然、発券には搭乗者全員のフルネームが必要)そのうえ100万円を超す金額の「立て替え払い」にはさしもの私も二の足を踏んでしまいます、神に祈るしかありませんでした。
募集開始と追悼集会
毎年のオフ会開催・募集公告は、通常8月頃にアップしているのですが、今回は自分自身の「あせり」からか、4月の声を聞いてすぐにアップしてしまいました。しかし、さすがに50周年!我も我もと、あっと言う間に6名の参加希望。12名の参加者予定での予算建てでしたのでこのペースであれば全く問題なし。案の定、6月には11名の参加者が確定しました。そんな折も折、ダラスのバス会社よりの情報が飛び込んできました。50周年追悼集会の募集が開始されたとの連絡です。ダラスでのチャーターバスの手配と同時に「何か情報があったら連絡を!」と依頼していたのが奏功したのです。ネット上で「ダラス市」や「ダラス・モーニング・ニュース社」のページをチェックはしていたのですが、いつ掲載されるのか解らない情報ですしそうそう毎日チェックと言う訳にも行かず、やきもきしていた矢先の連絡でした。それによると、「ダラス市主催にて11月22日午前11時45分からディリー広場にて開催、入場可能総数は5,000名、内2.500名はダラス市民、あとの半分を外来者に割り当てる、参加者多数の場合には10月1日に抽選して連絡する。」との事、申し込みは7月31日までメールにて受け付ける。と言った内容でした。「外国人の場合の送付データにはパスポート番号」も要求している、これはおちおちしていられない、パスポート期限切れで、まだ申請していない人もいるはずと参加者全員に「緊急連絡」。案の定、まだまだ先に申請すれば良いと思っていた方が数名。どうにか「参加申込」だけは全員済ませる事ができました。(土田先生ご夫妻は奥様の健康上の都合でキャンセル)それにしても、5,000名か?この人数ではコマース通りまで埋め尽くされちゃうんじゃないかな?それに、どうやって広場をセパレートするのかしらん?抽選と言うけれど、入場者のチェックはどうやるのかしらん?これもまた、その日その時になってみなければ解らない事ですが。それにもう一つ問題が!現在ページ上で募集している内容は、参加申込期限が9月末になっている事、それに、案の定米国々内線の飛行機の予約が極めてタイトになっている事です。7月末日で申し込み〆切と言う事は、8月過ぎて『参加しま〜す』と言われても「追悼集会には参加できません!国内線も取れません」では話になりません。急遽「募集公告」を8月初旬で削除してしまいました。(まっ、募集人員12名は達成している事ですし)抽選発表の10月1日から遅れる事10日、10月11日になって当選者への結果報告のメールが届きました。我がクラブの申し込み者10名、当選連絡の有った者5名と言った結果でした。できれば、全員が!と淡い期待はしていたのですが、明暗分かれる結果となってしまいました。現場に行ってから対策を練る事にします。                        
マスコミ攻勢
昨年の三島オフ会の時には「50周年企画」として雑誌「PEN」の取材を受けたのですが、その頃よりくすぶり続けていた一つのニュースがこの時期を同じにして現実味を帯びてきたのです。そう「キャロライン・ケネディ次期駐日大使就任」のニュースです。まっ、50年の節目の年と重なったのも何かの因縁のような話ですが。「50周年とキャロライン」の二重奏で土田先生は大忙し、一時期はメディア各社を掛け持ちで出演され、50周年やキャロライン関連ニュース・報道特集の番組には必ずと言って良いほど出演されていました。
キャロラインの大使任命に関しては、お膝元アメリカ国内はもとより日本でも賛否両論、各メディアでも様々な意見が交わされました。まっ、色々ご意見もあるでしょうがJFKクラブとしてはここはすなおに歓迎の気持ちを表したいと思います。この二重奏の余波は我がクラブにも波及、最終的にはテレビ局から6件、新聞社から3件の取材申し込み!Los Angeles Times からは「キャロライン歓迎一色の日本」と言った記事を送りたいのでしょう、盛んに「取材の場を作って」と矢の催促、窓口になったサリンジャーさんお疲れ様でした。テレビ局からは「ケネディファンの集まり」を取材したい!との要望しきり。何かマスコミ攻勢に押し切られる形で、又しても「決起集会」を開くはめになってしまいました。(今年の新年会、暑気払い会も「決起集会」の名目でしたので都合4回目の決起?です)
思うのですが、この手の取材と言うのは何故「グッツ」にこだわるのでしょうかネ?集会には皆さんの思い出の品や「お宝品」などがあれば持ってきてとの要望しきり、私しゃ「グッツ収集には全く興味ないし、何も持っていない」急遽ナッキーさんの御出馬をお願いしました。やっぱり「何の肩書も無い庶民」の集まりでケネディに対する思いをいくら熱弁をふるっても「絵」にならないのかしらんネ?(「そりゃそうだ」の声が聞こえて来ますが 『笑』)後日のやりとりの中で「今回の映像の放映日は11月24日を予定しています」との事、なんじゃ、その時ゃ私しゃ日本にはおらんぞ!・・・・
さらに攻勢は続きました。そのほとんどが「キャロライン関連」。やはり50周年とキャロラインを比較すると、日本でのニュースヴァリューはキャロラインに軍配が上がるのでしょう。「こちらTBSですが」「こちらNHKと申しますが」とひっきりなしに電話がかかってくる。初めて知ったのですが、テレビ番組の編集ってこんなにドタバタなのですね。ここに来ての取材申し込みはほとんど2日後の番組とか、ひどいのになると「今夜の番組での取材なのですが」と来る、番組担当者の方々は本当に大変だと思います。以前、別のテーマでテレビ取材を受けた時にはこんな事はなかったのに?やはり、特番とニュース番組の違いなのかしらん?キャロラインの来日は11月15日!それに合わせて各メディアが一斉に取材の為に三島に。在る日などはテレビクルーが自宅前で鉢合わせ。近所のあいだで「前田さん、何かやらかしたの?」と言った噂が出たとか出ないとか?「2〜3時間あれもこれも」と喋らされて放映は5〜6分「疲れがドット」出てしまいました。それに我がクラブの報道官である所の「サリンジャー氏」も出演!華々しい「マスコミデビュー」でした。
この伝でいくと50年の当日(日本時間では23日)直前になって各種取材申し込みが来る事が予想されます。実際に18日になってNHKから、22日放送予定の番組に関して「20日の日に取材にお邪魔したいのですが?」との連絡。「私しゃ、その日は日本におらんぞ!」と言ったら、「これからお邪魔します」と来たもんだ。少しでもクラブの名前が広まり仲間が増える事を期待する私、留守中の取材申し込みについては「ナッキーさん」に依頼する事にしました。
DALLAS CONFERENCE by JFK LANCER
日頃から、ネットサーフィン(この言葉って死語になったみたいですね)でJFK LANCER社のページを見ているのですが、飛び込んできたニュースが「ダラス・カンファレンス」の開催予告。毎年、JFK LANCER社の主催でディリー広場での追悼集会と一緒に記念イベントとして市内のホテルで開かれている集まりなのですが、今年も開催するとの公告!しかも、ディリー広場での追悼集会も予定に入っています。これでは当日のディリー広場はどうなっちゃうんでしょう?不安がいよいよ現実になっちゃうのでしょうか?悲しい限りです。心配しながら読み進むと、カンファレンス会場が「ダラス・アドルファスホテル」となっているのです。年明け早々に「取りあえず宿だけは!」と仮予約して確保しておいたホテルでの開催でした。まさか!と目を疑いましたが間違いなし。ある方の言葉を借りると「我々は集会の『選手村』に泊まる事になるのですネ!」との事、何の選手だか解りませんが、多分、ホテルは大変な混雑になるのではないでしょうか?ホテル内には出版社や収集家の方達のブースも開かれ、書籍やいわゆる「グッツ」の販売も行われるとの事、やっぱ、クレジットカードは持って行くのやめようかしらん!
いざ出発!
いよいよ出発の日がやって参りました。今回のオフ会の計画のスタートから10ケ月、長いようで短い時間であったような気がします。成田での皆さんのご様子はやはり特別な年への旅立ちの関係か「気持ちの高ぶり」を抑えきれない様子です。参加者12名の内、土田先生はニューオリンズにて新たな研究の取材がお有りとの事で、すでに18日には奥様とご先発、したがって10名でのフライトになります。私も前回のアクシデントの反省から、出発前のチェックは入念の上に入念に行いましたので万全の成田でした。今回初めてのアメリカとなる群馬の本橋さんも高揚した気分を抑えきれない様子、でも、初めてのアメリカが「ダラス」だなんてマニアック-!出発時刻も定刻発で快適な8時間でした。
順調なフライトで、ニューオリンズへの乗り継ぎ地ダラスに到着。問題ない旅を予感させた次の瞬間「オー・マイガーツ!」入国審査の行列は私がかつて見た事も無い程の長蛇の列!一応乗り継ぎ時間は2時間半を見て在ったのですが、心配になっちゃう位の列です。人の心配をよそに30か所近くもあるゲートの内、開いているのは7か所のみ、これだけの行列を見たなら職員を動員してでもお客の利便を考えるのが当たり前なのでしょうが全く気配なし。列は遅々として進まず、時間ばかりが過ぎて行く。やっと全員が通関したのが、なな何と!2時間後!「やばい」なんてものじゃない。DFW(ダラスフォトワース空港)は世界有数の広さの空港、空港全体の敷地面積は東京23区部の広さに匹敵します。そこに全部で4か所のターミナルが在るのですが、ターミナル間の移動は「電車」なのです。国際線の到着はターミナルA、国内線の出発ターミナルはDですので電車で10分位掛かってしまいます。電車の中でもうすでにニューオリンズ行き飛行機の出発時間は過ぎてしまっている。格安航空券の悲しさ、次のニューオリンズ行きの飛行機のチケットはどうなるのだろう?と思うと足が「ガタガタ」震える気分です。やっとの思いで出発ゲートに到着!案の定すでにニューオリンズ行きの飛行機は出発した後でした。こりゃ困った!頭の中が真っ白になっちゃいました。
ところが、少しでも早く行って後続のメンバーの為に出発を遅らせようと到着していた池田さん「次のニューオリンズ行きに変えてくれました!」との事。聞くところによると入国審査の遅れは承知していたようで、いわゆる「不可抗力」と言うやつで次の便に変更してもらえた訳です。約1時間後にターミナルCとの事、再び電車に揺られての移動でした。このドタバタの中で本橋さんいわく「うちの田舎じゃ次のバスが来るにゃ1時間じゃ来ないですよ!」だって、一同大笑いでした。事前の打ち合わせで土田先生との待ち合わせは今夜ではなく、明朝としていた事がせめてもの救いでした。ニューオリンズではタクシーでの分散乗車にはチョッピリ不安があったので若干の時間のロスは覚悟してシャトルバスを選択!一同揃ってのホテル入りでした。決着、当初の予定では9時半頃にはホテルに入ってニューオリンズジャズの店にでも行き夕食を!と思っていたのが到着が11時近く。精神的疲労感から「イカゲソパーティー」を夕食替わりにしてこの日を終わりにしたのでした。
ニューオリンズ散策
いよいよ旅の始まりです、私にとっては初めてのニューオリンズ。2005年例の「ハリケーン・カトリーヌ」の災害のおり、中出さんのご提案で救援資金の寄付を行った時の項目を読み返すと「いつの日にか、ニューオリンズを訪れた時・・・」と書いてありましたが8年後に実現したのです。一般的にはニューオリンズと言えば「ミシシッピー河クルーズ」や「ジャズ・ライブツアー」と言ったところでしょうが、我々の目的は「キャンプ街544番地」に「カナル街700番地」いまさらながらマニアックと言うか何の為の海外旅行じゃ!と言った感じです。朝9時。先発していた土田先生とホテルで合流、先生のご案内で朝食に向かいました、途中、ミシシピ河の畔を歩いたのですが、ニューオリンズ滞在二日間で最初で最後でした。(笑)ご案内頂いたのは「Cafe Du Monde」ニューオリンズっ子の良く利用する有名なカフェだそうで、メニューはひとつだけ、特産品のサトウキビから作った独特の砂糖をたっぷりかけた揚げパンです。食べた時「うん?どこかで食べた事のある食感?」そう「ベルリーナ」の「あんこ無し」そのものでした。ケネディと揚げパンの関連性について考えましたが、何もなかった。店の前では朝っぱらからジャズの音色が聞こえてくる、さすがジャズの町ニューオリンズです。食事後いよいよ「カナル街へ」途中、ここはアメリカか?と思わせる風情の街並みを歩くと「正確ではありませんが番地からいくと、この辺りがオズワルドが幼少期を過ごした所」とのご説明、早速写真をパチリ。
キャンプ街544番地
歩く事15分位だったでしょう「見慣れた風景が」見えてきました。初めてのくせにとの声が聞こえて来ますが、今は「グーグルアース」と言う超便利な品物があり仮想シーンで数十回となく見ていた風景なのです。
キャンプ&ラファイエットの交差点、バニスター事務所とオズワルドが公称していたFPCCニューオリンズ支部の事務所が同居していた場所になります。町のメインストリート、カナル街から数ブロック離れた「中心街」と言っても良い場所にこの地はありました。当たり前と言ったら当たり前ですが、50年前のこの場所に建っていた石積みのビルは今は無くオフィス街の様相です。なぜかこのオフィス街の中心に小さな公園風の空き地がその場所になります。(写真中央木が生い茂る広場の位置)この辺りをバニスターやオズワルドがウロウロしていたと考えるとグーグルアースでは味わえない臨場感が感じられます。キャンプ街を挟んで反対側には郵便局。海軍情報部のあった建物です、さらに1ブロック北にはCIAなどの情報機関が点在します。映画「JFK」ではないですが雨傘片手にこれらの建物を指し示しながら歩いてみようかとも思いましたが様にならないので止めました。
次の訪問地は「ライリー社」ニューオリンズに現れたオズワルドが勤めていた会社です。現在もなお存在するその会社はキャンプ街の事務所から数ブロック南に行った所に在りました、当時、会社の隣には小さな印刷屋があり、オズワルドがカナル街で撒いたFPCCのチラシを注文した印刷屋であるが、さすがにその印刷屋は影も形も無かった。ニューオリンズにおけるオズワルドの行動範囲は極めて狭く、東西南北、数ブロックに限定されているので効率よく見て回る事が出来ました。残りの注目箇所はオズワルドの住んでいたマガジン街4907番地やギャリソン検事の勤務先である「郡検事局」位なものですが、その二つは中心街からかなり離れている場所になります。その他の場所は一般的な観光地めぐりになるかも知れないのでここで土田先生ご夫妻とお別れする事になりました。本当は残り3日間ご一緒にダラスを満喫する予定だったのですが、ある事情により先生は明日帰国と言う事になってしまったのです。残念ですが仕方が有りません、ここでお別れです。私と言えば(毎度のことですが)体力的ではなく精神的に疲労困憊、昨日のダラス入国事件?がかなり響いており、ホテルに戻る事にしました。
Orleans Parish Criminal District Court(報告者 中出 忍)
土田先生ご夫妻とお別れした後で、最近TVでも大活躍の我らがJFKクラブジャパン会長前田さんとニューオリンズ散策のつもりでしたが、昨夜のDFWの大ハプニングからだと思われますがお疲れの様子で、先にホテルへ引き上げるとのこと…いやお疲れ様でした。残された9名はまず昼食をとることに決め、ニューオリンズの旧市街であるフレンチクォーターに戻り、ロックフォードの友人ポッキーさんの友人から紹介されたお薦めのステーキ屋へ行きましたが残念ながらお休みだったので、適当に探して今回初めての食事らしい食事を済ませる。その後ミシシッピ川の船に乗る案も出ましたが、結論として全員で2台のタクシーに分乗してテューレンAv2700番地にある、ジム・ギャリソン検事の勤めていた地方検事局(Parish Criminal Court)へ行きました。ま〜こんな場所に来る観光客というか日本人はいないと思いますが、建物に入る人からは怪訝な顔で見られております…実際こんな場所でタムロしてる観光客は他には居ませんでしたからねッ(笑)。さて、ここからは、mike池田さんと、TEXAS JOEこと高橋さんが大活躍で何と1組はジム・ギャリソンの執務室だった場所に入ることが出来ました。ことの発端はFOX8TVのクルーに池田さんが取材されたことから始まったのですが、入館は出来るがカメラやビデオ、スマホも持ち込めないとのことで、所持品監視組と入館組に分かれて地方検事局のビル内に入りました…今オフ会初めての奇跡であります。但し建物内にはジム・ギャリソン検事に関する写真など一切なしで、中で働く方もほとんど知らないのでした。兎に角こんなコアな場所に入れた幸運にメンバー一同大感激でして、ニューオリンズ一番の収穫だったと思います。このニューオリンズ地方検事局(地域刑事裁判所)ビルは帰国後に映画「JFK」で確認しましたが、まさにこの建物でした…ラストでケビン・コスナーとシシー・スペイセクが歩く2階の廊下は正に我々も歩いた廊下でした(感)。尚、このニューオリンズ地方検事局での奇跡はmikeさん、TEXAS JOEさん、野田さん、猫太郎さん、サリンジャーさん、ハリーさん、うえぞうさん、本橋さんたちの感想文が楽しみです。この後再びタクシーでフレンチクォーターに戻ったのですが、6人乗りタクシーに9人が乗るという珍事となりましたが、もう一台呼べなかった運ちゃんに6人乗りに9人乗れるのかとの問いに「トライしてみろ!」という返答にコメディー映画よろしくズンズン車に乗り込むJFKクラブジャパンのメンバーでした(笑)しかしこの日の出来事は実に楽しい思い出となりました。
ニューオリンズ点描
ライリー社で皆さんとお別れしたホテルへの帰路、チョッピリ遠周りをして写してきた写真が左の二枚、建物の番地表示をたよりに「カナル街700番地」の前の通りを写してきました。そう、オズワルドが8月9日FPCCのビラを撒いていた場所にあたります、さすがの私も行きかう人にブリンギエールの店を尋ねる勇気はなく、確認は取れませんでした。ここから1ブロック西のコモン街に面した所が「ワールドトレードセンター」のあった所です。ミシシッピ河の畔に新しいトレードセンターの大きなビルも在るのですが、現在は全く使われていないようで入口は固く閉ざされていました。
夕刻皆さんと再度合流して行った所がニューオリンズ名物「牡蠣料理」の店、私の大好物ですので、かなり期待したのですが全然旨くなかった!やはり牡蠣は広島かな?前項目で紹介した検事局での出来事を肴に楽しい食事のひと時でした。食事後再度別れて散策。ジャズの街を満喫したメンバーでした。
いざ!ダラスへ
いよいよ50周年の当日、2013年11月22日を迎えました。ダラスでの記念式典には朝10時までに受け付けを済ます必要がある為、早朝の出発便となります。眠い目をこすりながらアームストロング空港へ、当初、同一行動をとる予定だった土田先生ご夫妻も同じ便でしたので空港で再会、先生たちはダラスでの乗継時間がきわめて短い為、ろくなご挨拶も出来ないと思いここでお別れのご挨拶をさせて頂きました。
ダラスまでは空路約1時間半、ダラス・フォトワース空港に降り立ちました。迎えてくれたのは今回のバスツアーガイドの「のりこ」さん。実は今回のツアーも「ゆきさん」をお願いしており、了解を取り付けていたのですがご主人の体調が思わしくなく、急遽「のりこ」さんに変更になったいきさつがあったのです。「ゆきさん」との再会は果せず残念でしたが、事情が事情だけに致し方ありません。「のりこ」さんの話では到着ゲートで「ウエルカムボード」を持って待っていると周りの人から「JFKクラブとは何だ」との質問攻めにあって困ったとの事、やはり50周年と言う事でケネディ関連の事に対しての注目度は大変なもののようです。バス乗車前の数分間の「のりこさん情報」によるとディリー広場周辺の厳戒態勢は大変なもので、ダウンタウン一帯は完全な交通マヒ状態、いわゆるVIPがかなり集まっておりケネディファミリーも来ているとの情報、お会いできる訳じゃありませんが気分の高揚は隠しようが有りませんでした。
50周年追悼式典
今回の記念式典の受付場所は「アメリカン航空センタービル」ディリー広場まではバスで数分の所に在るのですが、ここで抽選に当たった者と残念組と別れることになります。バスを降りる当選組5名を見送る方々の羨望と怨嗟の目線が背中を刺したように感じたのは私だけでしたでしょうか?空港を降り立った時から感じてはいたのですが、この寒さは何なんでしょうか?この時期(私がダラスを訪れるのはこの時期以外には無いのですが)過去5回の中では考えられないような寒さ、例の「半袖Tシャツ」だったら?と思うと背筋が氷ます。私は極めて寒さには強い方なのでお揃いTシャツだけで入場したのですが、寒さには慣れていない周りの方々は着ぐるみダルマのようないでたちです。
さていよいよ入場!ここで事件発生、実は日本を出発した折、日本時間24日放送予定のBS朝日の番組の為にビデオカメラを持参、追悼集会の模様を撮影してストレージで送る約束をしてあったのですが、会場にはビデオカメラを持ち込む事は出来ないとの事、他のメンバー達のビデオカメラも全て没収されてしまいました。加えて、空港での搭乗検査なみのボディーチェック、しまいには取り外し不能のリストバンドまで付けさせられました。このボディーチェックは広場の入り口でも行われダラス市の緊張感を肌で感じました。以前から「どうやって?」と余計な心配をしていたディリー広場のセパレートの概略を説明しますと。封鎖された道路はアンダーパスの所で3本の道路を、ヒューストン通りの1ブロック東側で同じ3本の道路を、ヒューストン通りの北側は参加者のシャトルバスの駐車場専用に封鎖されていました。丁度ダウンタウンの東西を完全に封鎖した形になります。地元の方々は大変な迷惑となったでしょう。広場の中心を走るメイン通りは「馬鹿でっかいJFKの、のぼり旗」「演台」「貴賓席」「報道用のカメラ席」で完全に埋め尽くされています。(下写真、報道席から見たメイン通り東側)
その周りが一般の参加者の席となります。この状況と、此処かしこに配置された警官の数やパトカーの過剰とも思えるような警備状況からすると、とても他のグループが近くで集会を開ける状況では有りませんでした。さて、参加者の数と言うと、どんなに勘定しても五千人はいません、せいぜい三千人と言った所でしょうか?通路やメイン通りのスペースなどを差し引くと「40周年の集会」の時のほうが人数は多かったように感じました、確かにこの寒さと氷雨の状況からすると、うなずける事ではありますが。
開会時間まではざっと二時間ぐらいの時間が在る、「演台」を挟んだ二台の大スクリーンには様々なケネディの映像が流されている、私が見た事も無いような映像ばかり!聞くところによるとこの集会の為に「ケネディライブラリー」が特別に貸し出した未公開の映像が多かった!との事、これだけでも収穫でした。開式が近付くと貴賓席に次々と参加者が集まってくる、一段高い所に在る為に顔は見えないし、ただでさえ視界が悪い所にさらに見えなくなる。見えるのは周りの人たちの頭(みんなデカイ!!)と貴賓席の一部だけ、最悪!!!   正直なところ、寒さをこらえた「立ちん棒」3時間の中で、この場所に自分は立っているのだ!と言う満足感と、市内の教会の鐘が鳴り響く中での黙とうの心休まる一瞬だけが感想の全てと言った所です。セレモニー自体も何で「バグパイプ」なの?と言った演出やら、ローリングス・ダラス市長の演説も「ダラスの街はこれから変わって行こう!」等と叫んでいる。そこかしこに「ケネディの著名演説」の一部や「ダラスで行う予定であった演説の予定稿」を引用はしているものの、概意「ダラス市民に向けた集会」のニュアンスが色濃く出た演説でした。式典参加者の募集の時に感じた疑問?「半数はダラス市民」の意味が初めて解りました。
後で、集会に参加出来なかったメンバーの話を聞くと「そっちの方が良かった」と思えるような式典でした。負け惜しみでは有りませんが参加者のみに配られた式典プログラム(ちゃっちいもの)とリストバンドが記念に手元に残った位でしたでしょうか。

式典スライドショウ

50周年ストリートビュー報告者 中出 忍)
ニューオリンズを早朝の7時10分発のアメリカン航空 1273便で飛び立ちまして、ダラス着が8時30分。JFK暗殺50周年の今日11月22日は、奇しくも1963年のあの日と同じ金曜日だったと改めて感じて驚く。DFWからいつものJAPAN TOURS & TRAVEL,INC.のツアーバスでアメリカン航空センターへ向かいます。車窓は、5年前にも見た景色が広がっていますが、今回初参加の本橋さんは幾分興奮気味のようです。センター前着が9時20分頃で、ここで追悼式典参加のクジに当たった5名がバスから下ります。先頭の前田さんは、この寒いのに50周年バージョンのTシャツ1枚で出て行きます。その後から堀口さん、高橋さん、池田さん、植田さんが続きます…クジに外れてバスに残った5名が羨望の眼差しで見送りますが、実際は居残り組の方がよかったというか、それなりの収穫が待っているとはこの時点では分かりませんでした。残された5人組、中出、小澤さん、鈴木さん、野田さん、本橋さんの一行は今回のガイドノリコさんとツアーバスで追悼式典会場の裏手にあたるメインstのJFKの大きな垂れ幕の後ろに陣取りました…これが9時40分頃からですから、追悼式典開会まではだいぶ時間があるので我々はノリコさんの解説付きで、既に数回ココを訪れているメンバーにはお馴染みのケネディ記念堂やダラス最古の家なども見学します。しかし小降りではありますが雨が降ってきてとても寒い。Tシャツ1枚の前田さんが気になります。群衆の中には「L・Bジョンソンが殺した!」などと書かれたプラカードを掲げた軍団もいて目立ちます。もちろんダラス警察の車両も多い。小雨の中今回初めてビデオカメラを持参したサリンジャーさんは長時間バッテリーを駆使して、全ての場面を逃して堪るかという風情で撮りまくっていました。前田さんディレクターズノーカット版はサリンジャーさんにどうぞ(笑)私、ロックフォードはビデオカメラの予備のバッテリーをツアーバスに取りに行き、ホカロンを買い求めに来た野田さんも同行してコンビニへ行きトイレをすましたりしました。この寒さですからトイレも近い。追悼式典開始が11時45分でしたので、かなり長い待ち時間があり、前田さんらは大変だろうと居残り組は心配していました。その間に我々には思いがけないサプライズが起こりました。メインst内の式典会場に向かって右側に小さな人集りが出来ているので見ると、オリバー・ストーン監督「JFK」の原作者の1人であるジム・マースがおります。かなり小柄な人物ですが、ハットを被ったお馴染みのブレザー姿なので直ぐに分かりました…早速近寄って話し掛けると中々気さくなオジさんで、記念写真やサインも気軽にしてくれました。その他メディアもケッコー居て、我々の50周年Tシャツも見てはTVカメラに収められました。その中でKHOU11というヒューストンのTVクルーにロックフォードが取材されましたが、これはガイドのノリコさんが通訳してくれたからです。名前もスペルも聞かれまして…放送されるらしいですが、ヒューストンTVがダラスで見られるか知らないですが、ま〜悪い気分はしませんでした(笑)。追悼式典開始は厳かに開始されましてダラス市長のスピーチなどありましたが、それを映し出す大型のモニター画面の映像がアップから俯瞰になると何故か音声が出なくなるという不手際で…ハッキリ言って見ていてガッカリでした。追悼式典そのものの感想は前田さん始め参列したメンバーに委ねます。そうして寒くて冷たい雨の追悼式典が終了した後は皆、寒さでブルブルしながら待合場所のステーキハウスへ向かったのでした。
ダラス点描
集会終了後集合予定の「ステーキハウス」にたどり着いた時の店内の温かさは天国でした。無事全員が揃った時点で昼食となりましたが、例のボディチェックで没収された「ビデオカメラ」を回収にAAセンターに行かねばならず、がたがたした昼食になり申し訳ございませんでした。私も、どこに昼食が収まったのかも解らない食事でした。さてこれからはバスに揺られて事件関連の場所の見学です。パークランド病院では野田さんがケネディが運び込まれた手術室の前に記念のプレートがあるとの事で病院内部にまでもぐりこんだまでは良かったのですが、いまいちはっきりしない、周囲の患者さん?からは奇異の目で見られるし警備のおいちゃんが近付いてきたりしたので「ヤバ!」とばかり脱出する一幕もありました。次は事件当時オズワルドが下宿していた北ベックリー通り1026番地の「例の家」です。例の家と書きましたのは前回のダラスの折「室内を見せてやるから一人5ドル出せ」と言われたいきさつからです。ヒューストン通りの封鎖がまだ続いていたり、混雑から逃れるために、かなりの遠周りをして到着してびっくり!玄関前に堂々と二枚の看板が!この5年間の間にこの家がとてつもない価格で売りに出て居る事は知っていましたから「For Sele」の看板は納得できますが、もう一枚の看板に一同唖然!そこには「Oswald Rooming House Tours」の看板!前回は無かった看板ですが、我々が「中を見せて」と依頼した事がきっかけとは思いませんが完全に「商売」にしていたのです。家の売却価格が世界的なニュースになった位ですし、5ドル出せ!と言っていたのを堂々と看板を出して商売にしている現在の住人に全員「感嘆の声」しきりでした。次が「10th St. & Patton Ave.」の交差点、チピット殺害現場です。これまたビックリの風景が待っていました。わずか5年前と風景が様変わりしていたのでした。現場の前には駐車場、10th街は道が無くなり交差点では無くなっていました。それに「テキサス州ランドマーク」の看板が立っているのです、実はこの看板、至る所に立っています。ディリー広場のあちこちやテキサス劇場、事件のポイントになる場所にはすべて立っていました。「うーーん観光名所か?」確かに我々も関連施設や場所をツアーしている訳ですから偉そうな事は言えませんが、何か「しっくりこない」気分でした。そうこうしている内に数台のパトカーが集まってきました、聞いてみると、これからここでチィピット巡査の追悼式典が行われ
るとの事でした。これまた「うーん」の感じがしたのは自分だけでしょうか?つぎはテキサス劇場です。40周年の時には偶然にも工事中の内部に入れたのですが、45周年の時には館内ツアーは設定していないと言う事で外からの見学となった所ですが「今回は50周年と言う事で内部を開放している」と言う情報を事前に得て居ましたので楽しみにしていた所です。バスを降りて最初に感激したのが劇場で上映中の映画看板でした。かなりマニアックで恐縮ですが、「CRY OF BATTLE」と「WAR IS HELL」の看板です。解る人には解ることなのですが、オズワルドが劇場に入った時上映していた映画を50年後の今日上映していたのです。まさにオズワルドが目にしたであろうテキサス劇場がそこにありました。改装なったテキサス劇場のロビーで早速カメラに収まったメンバー。あちらこちらと見て回りました。その中でも秀逸は野田さんの一枚。確か劇場内では映画が上映されていて入場は禁止されていたと思うのですが、なぜか下の一枚の写真が有りました。どうやって撮ったのかは不明ですが、皆に声をかけてくれれば良かったのに!内部の座席は当時の物は全て撤去され、新しいものに取り換えられているとは言えやっぱり見てみたいシーンではありますよネ!ロビーの中をうろついていた中出さんに声をかけてきた女性が一人。我々のTシャツを見て飛んできたようです。「我々の事を覚えている!」と握手攻め。そういえば何となくですが記
憶にあるお方。そう10年前にここを訪ねた時に工事中の館内に招き入れてくれた女性の一人でした。当時、とても感激したそうでTシャツを見てすぐに解ったと申しておりました。(隣のおじちゃんは何者か不明)ロビーには事件関連の写真やら当時の館内の写真などが展示されている。皆、初めての館内で在る為かあちこちを興味深そうに歩き回っておりました。
最後は西ニーリー街のアパートメント、ひょっとして朽ち果てて無くなっているかも?などと想像したのですが、どっこい、まだ健在でした。しかし、いつ崩れてもおかしくない位の状態です。まず、あと5年は無理でしょう。ここでも驚いた事に壁に張り紙が!「タバコの火には気をつけて!」と書いてある。もちろん過去2回の訪問時には無かったしろもの、相当な人数の来訪者に、あきらめきってせめてもの用心のために住人が貼ったのでしょう、確かにマッチ一本で全焼させる事が出来そうな建物ではありますから。建物を囲む「塀」も隙間だらけの状態、入り込もうと思えば簡単に入り込めるような状態でしたがやっぱり住居侵入は怖いですから塀の隙間からパチリ!ひょっとして最後の一枚になってしまうのかしらん?
塀の隙間から各々がカメラを向けている風景はチョッピリ異常な光景でした。この場所を最後に本日の予定は終了となります。ホテルにチェックインした後全員揃って夕食にウエストエンドに繰り出しました。もう、おなじみになった「フライデー」に馬鹿の一つ覚えのように入って行きました。さすがに今日の天気では屋外のテラスでの食事は無理ですので初めて室内での食事となりました。でもアルコールを注文した時の「パスポート見せろ!」には驚きましたネ。
50年後のディリー広場
興奮の一日が明けて静けさの帰ってきたディリー広場に戻ってきました。ホテル出発時に準備しておいた「献花」の花束がホテルに届いていないと言うハプニングが有りましたが、取りあえず時間の無駄とばかりに出発致しました。近くのマクドナルドで腹ごしらえをしてメモリアルプラザから広場へと進みました。メモリアルプラザで見かけた「ジヨンジョン」のモニュメント、広場の記念プレートにも置いて在りましたが今回の旅の中で最も気に入ったものでした。昨日は人と警官に埋め尽くされていた広場もいつもの静かなたたずまいを取り戻しています。やはり50周年の公式追悼式を意識したのか、そこかしこが整備?されています。広場を望むグラッシノールにはケネディをたたえる記念プレートが新たに埋め込まれ、さらにはそこかしこに昨日みかけた解説?プレートが新設されて観光名所の趣です、一つ気付いた事は、エルム通りの中心にペイントされた×印が無くなっている事です。丁度、致命傷となった最後の銃弾を浴びた場所に付けられていたものなのですが消えて無くなっています。聞くところによると、昨日の式典に「ケネディファミリー」が来ると言う事で、あまりに刺激的すぎるとして、消されたもののようです。何か、ここにも「暗殺事件」と言う悲劇に対してのダラス市の立ち位置を感じさせる出来事でした。現場百回では有りませんが、広場のあちこちを私の
つたない解説を聞きながら散策したメンバーです。この場所は4回目3回目と言う方もおれば、初めてという方々のグループですので解説も難しく、チョッピリ苦労しましたが皆さんご満足頂けましたでしょうか?

広場視察スライドショウ

昼食後再びホテルに戻ります。献花のための花束を取りに戻ったのですが、予定通り朝に届いていれば、何度も往復する必要が無かったのにと思うと「クソー」の気分でしたが無事我々の手元に届きました。聞く所によると、お届け先に「JFK CLUB 」の名前が入っていた事が原因でした。ホテル側はJFKと見た瞬間にホテルで開催されている「CONFERENCE」の関係と思いこみ、そちらの会場に運んでしまったとの事。良かれと思った親切が仇になった典型のアクシデントでありました。でも、この花の手配をしてくれた「ゆきさん」と電話でお話しが出来た事は幸いでした。再び献花用の花をたずさえて広場に戻ります。花束を囲んでメイン通り、エルム通りを進む我々の行進に、周囲の人々の温かい視線に最高の気分であったのは私だけでしたでしょうか?無事、献花を終え皆さんの思いを込めた祈りの時間を過ごしました。そんな折、ここにも置かれていた「ジョンジョン」のモニュメント、高橋さんが近くにいた子供を捕まえて「敬礼」をさせた写真です。今回の写真集の中で一番の秀逸作です!昨日からの滞在者たちでしょうかかなりの人たちが余韻を楽しんでいるかのようでした。残す所の見学先は「6階ミュージアム」のみとなりました。ここは、ほとんどのメンバーが数回訪れて居る場所、見学は自由としました。入場希望者に「特に注意して見て頂きたい個所」の解説をして解散としました。
私は以前訪ねて掘り出し物の「ライフ誌」をゲットした古書店を再訪しようと、店に向かいました。ところが残念な事にその古書店は今は無く、シャッターが閉まっていました特別な日でもあるので大量のケネディ関連図書を!と狙っていたのですが空ぶりの一瞬でした。
JFK Dallas Conference
我々の宿泊した「アドルファスホテル」はエリザベス女王も宿泊したダラスでは名門中の名門ホテルなのです。一月の段階で万一宿が取れなくては大変とばかり「キャンセル手数料なし」のホテルを物色して予約しておいたホテルですが前述のようにJFK LANCER社の「ダラス・カンファレンス」が開かれていました。ランサー社の募集の中で「ディナーパーティ」やら「講演会」の募集などもあったのですが申し込まなくて本当に良かったです。何と!これらの催しに参加される方々の服装は「タキシード」に「イブニングドレス」!エレベーターの中で鉢合わせした事も何度も有ったのですが「浮く事・浮く事」本当に場違いの極みでした。そんな催会場を横目に見て我々の行く所は併設されていた「出版社や古書店」の部屋です。相当な数の関連図書が販売れていました。皆さん色々ゲットされていたようですが、私の購入したのがこの写真「飾り額」は別として「ベストエビデンス」と「誰がケネディを殺したか」の二冊の本です。勿論、日本に帰れば本棚に置かれている本なのですが「だぶり」を承知で購入しました。「二冊とも初版本なのであります!」 たぶん?
旅の終わり
楽しかった5日間もあっという間に終わりを迎えました。今回のダラス発はいつもと違って昼の便でしたのでゆっくりとしたチェックアウトです。最後にホテルの前で記念写真、良い思い出作りができた事と思います。のり子さんのお迎えバスに乗ってダラス空港へ、皆さん名残惜しげな顔で車窓を眺めています「寒さ」と言うアクシデントは有ったものの事故も無く、無事ツアーを終えた事が何よりでした。5年後再び訪れる事になるのか?それとも、誰かさんが今からはしゃいでいる4年後のボストンになるのか?(4年後の2017年はケネディ生誕100周年にあたります。)ねっ!鈴木さん!

  今回お世話になったのりこさんと
                        







成田空港でのお別れの一枚、
近いうちに新年会でお会いしましょう。





後列左から、堀口さん、池田さん、小澤さん、高橋さん、中出さん、本橋さん、植田さん、前列左から、鈴木さん、私、野田さん のメンバーです。
マスコミ攻勢その後
帰国後、録画予約しておいた一連の特集番組を確認再生しましたら「NHKのおはよう日本」で中北さんのケネディグッツがオンエアされていました。50周年とキャロライン来日のダブルイベントで、我が「JFKクラブジャパン」の認知度もかなり上がったようです。中北さんに帰国の連絡をすると「20日以降三つのメディアからの取材申し込みがあった」との報告。いずれも新聞社のようでしたが・・・・その後我が家にも突然の電話が沢山入るようになりました、マスコミの力!特にNHKのゴールデンタイムの力は驚くばかりです。

まっ新しいメンバーがどしどし参加してもらえるように頑張りましょう。



旅行後の皆さんの感想です。 到着順
高橋清治さん
第4回 ダラス・オフ会に参加の皆様、お疲れ様でした。ニュー・オリンズではやはりフレンチ・クォーターが圧巻でした。キャンプST544 G・バニスターの事務所は土田先生が記されたように跡形も有りませんでしたが、彼等が暗躍していた当時を偲びました。当時は「あまり評判の良くない場所」との事でしたが、現在は夜間を除き、普通の街になっていたと思います。それからJ・ギャリスンが在籍した地方裁判所は何としても行きたかった場所ですが、やっと思いが叶い、ギャリスンの匂いと雰囲気を感じて参りました。それでも先発の5名と異なり、ギャリスンの部屋で執務机に触れる事が出来、更に欲が出てギャリスンの椅子にも座って見たかったのですが、現職の検事が戻られ座る事は叶いませんでした。残念!映画の冒頭でのK・コスナーの第一声・・「Oh No,!」とやりたかった・・。又 何と言われても小生はギャリスンの正義感、調査の真実性を疑うものではありません。見学を終えても、まだ裁判所前にFOX−TVの取材者が居ましたので最後に、持参したFPCCビラを手にカメラの前で「Join The FPCC」「Everyone Welcome」「Fee Is Free」とやりました。(感想は周りの方々がご承知です。これ以上 小生の口からはとても・・・)ダラスでの50Thメモリアル・セレモニーはCity Of Hateと呼ばれたダラス市が「言わないでくれ、もう忘れてくれヨ」とばかりに執り行われましたが、言葉の判らない小生にも市長の歯切れの良い演説、若い海軍兵の力強い合唱に「グッ」ときました。滅多に英語での演説・合唱をナマで聴くチャンスが無く、新鮮で今も耳に残っています。献花時の暗殺現場には、JFKの葬儀時のジョン・ジョンの敬礼姿を模った小さな手作りのパネルが立ててあり、「彼も生きていればナァ」と思わずには居られませんでした。きっと大統領になっていただろうと思うと残念でなりません。献花から戻りホテルの中2階を覗くと、J・マーズとインタビュアーが討論の真っ最中で、終わるのを待ちかね、すぐ傍に居た若い米人にカメラを渡し、記念写真を撮りました。マーズは盛んに話しかけて来るのですが、サッパリ判りません。ミーハーな私は写真で満足して階下に下りたところ、他のメンバーに見つかり、この事実を隠そうか否か迷いましたが、気の弱い私は教えてしまいました。(残念)帰りの機内で野田さんが買われた本の中に、ディーリー広場の工事履歴が載っており、立体交差のアンダー・パスは思った通り後付け(後堀り・・先にレールありき)で、暗殺現場付近はアメリカでは珍しく無理な勾配、曲げRでせせこましくなっており、メインからステモンス・フリーウェイへの取付けも現在まで無理が生じているのではないかと思われます。斯様に箱庭的な取付け道路、インターチェンジは国土の狭いイギリス、又は日本でよく見られますが、「やっぱり・・」の瞬間でした。当時の掘削技術が低いせいもあり、アンダーパスの横幅を広く取ることが出来なかったのではないかと思いますが、西側にトリニティ川があり、更に線路との間に南北に走るフリー・ウェイがあれば、行き詰まってはおります。エルム、メイン、コマースStが各々直線的で、かつ分岐が可能なものとしてあれば、現在地が暗殺現場にならなかったのでは・・と思います。その場合 暗殺者はメインを西へ向い直進してくるパレード車を、レール・ロード側から正面狙い撃ち、又は他の場所を探したかと思いますが・・。最初から最後まで大変楽しいオフ会になり、前田様 土田ご夫妻を始め参加されました皆様に深く感謝申し上げます。大変有難う御座いました。   TEXAS JOE 改め TEXAS 冗
池田元彦さん 一部抜粋させて頂きました
11月22日、JFKを称える50周年記念大会が、暗殺現場でもあるダラス・デーリー広場で開催された。式典参加者は、事前の身分証明(パスポート番号)等が求められ、1人1人参加承諾書のバーコード検査、リストバンド装着、そして人数制限等が課せられていた。JFKクラブ会員である私も、10名程の仲間とダラスに飛んだ。ダラスは当日朝から気温5℃前後の氷雨の中、開始前を含め3時間程震えながら参加した。結論を先に言えば、JFKを称えると言うよりも、ダラス市の汚名を雪ぐ為のダラス市お手製の茶番劇だった。確かにローリング市長は、JFKの演説から名句を引用しつつJFKの後を継ごうと言っているが、同時に歴代ダラスの功労者や成果等ダラスの素晴らしさを裏で聴衆に訴えていたし、その対象は数千名の一般参加者ではなく、市の招待した数百名のゲストだったようだ。要するに陰謀説を主張する一般市民にデーリー広場を占領させないための工作でもあったのだ。式典散会後は、広場にはプロアマ問わず、JFK暗殺の真相に関心が有る老若男女が暗殺地点や狙撃場所等のあちこちでガイドや専門家の話を熱心に聞いていた。我々も重要拠点毎に前田リーダーの解説と相互の質疑応答を交えて、各種情報の理論上の想定と実際の現場の確認を午後一杯かけて行った。ダラスには20年以上前に仕事で何度も行ったが、本格的な検証は初めてで、想定通り或は想定外の新しい発見も多々あった。大統領暗殺の大胆かつ緻密さを要する計画なら、狙撃場所とされる教科書ビル6階等絶対に選ばない。寧ろ隣のダルテックスビルやレコードビルの方が余程、狙い撃ちがし易い。フェンスの後がもっとよい。教科書ビル、オズワルド等は、捜査撹乱と囮の為だ。ウオーレン報告は、必要な証人を喚問せず、重要な証人・証拠を意図的に見逃している。当初の2039年迄の情報非公開は、1992年に2017年迄に全公開と決定した。しかし大した情報は出て来ないと思われる。L.B.ジョンソンが焙り出されることは、まずないだろう。
我々は、翌日暗殺現場の脇の道路傍の芝生に献花し(私1人は事情により皆と一緒に出来なかったが)、JFKの冥福を祈った。ニューオリンズにはこの2日前に飛び、所謂暗殺陰謀者達と思われる被疑者の活動場所を辿った。ガリソン検事の勤務していた刑事裁判所では、ガリソン検事の部屋も見せて頂けた。地元の多くの人がガリソンの裁判手法はエキセントリックで強引・独善的だったという。筆者は偶々ガリソンについてある検事にインタビューに来ていたFOX8に捕まり、あれこれと聞かれたが、ガリソンの評価が低いことが良く判った。JFKは、勝海舟、上杉鷹山と共に筆者が尊敬する人物であり、ロバートが引用したのも上杉鷹山の次の言葉だった。「国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして我私すべき物にはこれなく候、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれなく候、国家人民のために立たる君にして君のために立たる国家人民にはこれなく候」。JFKの冥福を祈る。
植田浩司さん
10年前の第2回ダラスオフ会、5年前のワシントン・ダラスオフ会に続いて、3回目の海外オフ会の参加となりました。10年前はJFKクラブのオフ会すら初参加で、前田さんをはじめ、他の参加者とは成田空港で初めてお会いする状態でしたが、今回は参加者全員と面識があり、旧知の仲間との旅行という感じになりました。今回は、以前からリクエストしていたニューオリンズも訪問。初めて訪れたニューオリンズは、さすが観光地という感じ。今回はJFK関連の場所を中心に回っていたので、いわゆる観光はあまりできなかったのですが、機会があればゆっくり滞在してみたいですね。一方、ダラスは肝心な追悼式典は、えらい寒いうえに雨も降りだす始末。式典自体もほとんど見えないという状態。内容もダラス市民向けっていう感じで…という状況でしたね。楽しみにしていただけにちょっと残念でした。 ダラスの街は10年前、5年前に比べて綺麗になっていました。50周年にあわせて整備したのかもしれませんね。10年前は改装中で、5年前は入れなかったテキサス劇場の中にも入ることができました。しかし、5年前、入る直前までいったオズワルドの下宿先が観光ツアーが組まれていたり、売りに出てたり、テイピット巡査が殺害された場所がきれいに整備されていたのにはちょっと驚きました。観光地化するのはいかがなもんなんだろうとはおもいますけどね。それにしても、前田さん、鈴木さんに作成していただいたTシャツの効果は抜群でしたね。多くの人に声をかけられたのはあのTシャツのおかげだってことは自覚していますよ。
鈴木克美さん
50周忌第4回聖地ダラスオフ会にご参加の皆様、大変お疲れ様でした!今回のオフ会は、ダラス市主催の追悼式には落選(トホホ)と先行き心配な思いでしたが、前田さんと夜なべして作製した名誉挽回作“長袖Tシャツ”を作成している内に、その心配を払拭されました!小生にとって待ちに待ったオフ会でもあり、軍資金万全(笑)気合が入りすぎ?ていたのですが、ケネディ大統領が凶弾に倒れた同い年に聖地ダラスに皆さんとお祈りできたことはとても感慨深い思いでおります。ありがとうございました。聖地ダラス、フォートワース国際空港に到着するや否や、入国審査に待つ長蛇の列!(汗)「もっと係員を増やせばいいのに…」とつぶやきながらニューオーリンズへの乗り継ぎ便の出発時刻が迫ってくる!「なんだこの対応は、許さーん!」ですね?ナッキーさん!(笑)
待ち時間の間、一人困っていた上野から来たお年をめした女性に手を差し伸ばしたのでした。でも、前田さんお手製のバッジとパスポートケースは効き目抜群!!いつもの厳しい質問は全く無く、スルーパスでした!(笑)初日はオズワルドの故郷、ニューオーリンズです。ここでは、土田先生と落合い縁の地をご案内頂く予定だったのですが、今年は50周忌、土田先生はTV各局の取材で超多忙、結果、午前中のみで別れることに。行きたかったライリーコーヒーと、そして、cafe du mondeのカフェオレとベニエに舌鼓を打ちました。ベニエは噂通り美味しかったです!真向かいのギフトショップでチコリコーヒー等を購入したのでした。午後は皆とジム・ギャリソンの事務所へ、Mikeさんがダメ元で受付に見学交渉をしたところカメラ類持ち込みはNGだがOKとのこと、二班に分かれて見学したのですが、私達先遣隊はジム・ギャリソンの部屋までは辿りつけず、くーっ!(涙)映画「JFK」の世界そのものでした!次回来る機会があれば、今度はジャズと遊覧船を堪能したいと思います。そして、22日はいよいよ聖地ダラスです!
予報では寒いと聞いていたのですが、体感的には恐らく氷点下!しかし心は燃えております。前田さんは着ていたジャケットを脱ぎ捨て、50周忌Tシャツの薄着でバスを飛び降り会場に向かいました。スキーも薄着で出かけると言っていましたが、でも…。風邪を引かないか心配でした。小生は落選したのでレッドハウスの後ろの大型スクリーンで“その時”を静かに待っていたのですが、ふと後ろを振り向くと、どこかで見かけた髭の叔父さんが!ジム・マース氏でした。皆にその旨を伝え、記念撮影とサインをゲット!そうこうしていると、オハイオ州から来たまたまたご年配の婦人が小生のバッジに気付き写真を撮らせて、と近寄より、いろいろ質問してくる。(汗)ケネディファミリーを愛している方で意気投合!とっても感じが良い方でした!!その後、デイリー広場やSixth Floor Museumでも、係員やお客さんからもTシャツに気付き写真撮らせてとか質問攻めに!これで5年前の汚名は返上したでしょうか?(爆)聖地二日目は、前田さんのご案内、聖地は今回で3回目になりますが、デイリー広場、ノースベックリー、ティピット巡査、テキサス劇場、バックヤードフォトをご案内頂きました。前田さんにピッタリ取材させて頂いたのですが、印象的だったのは、初参加の本橋さんです。熱心に聞き入っていて、凶弾に倒れた場所に立っていると感極まったのか涙涙、その心を大切にね!本橋さん!今回も連夜の「恒例イカゲソパーティ〜」楽しかったですね。そのイカゲソパーティーで、先のTBS番組での神様発言の話題になり、小生に疑いの目が!(汗)土田先生を「神様と崇められている」と言ったというのですが、小生まったく記憶にないのです。この時、初めてオズワルドの気持ちが分かった瞬間でもありました!(爆)“I'm just a patsy!”雑誌やグッズ等をガッチリ買い込んで、ずっしり重くなったケースを引きずり聖地を後に。初日ハプニングがありましたが、今回もとても素晴らしいオフ会になりました!土田先生、今村様、前田さん、皆様、大変お世話になりました。
次は生誕100周年です!4年後はGo to the BOSTON!ですね?前田さん?(笑)
中出 忍さん
ロックフォードです。第4回ダラスオフ会に参加した皆さんお疲れ様でした。そしていつもながら諸々の準備をしてくれた前田さんご苦労様でした。今回はケネディ暗殺50周年とキャロラインさんの駐日大使就任というビッグニュースが重なりまして、我々JFKクラブジャパンも土田先生はお馴染みですが、前田さんからメンバー各氏もマスコミに登場するというJFKクラブジャパンの歴史始まって以来の大ニュースの連続となりました…やはり実績の積み重ねは無駄ではなかったと実感したロックフォードでした(涙)さて、その50周年の追悼式典参加について7月に前田さんからメールが届きました。内容は、追悼式典参加は切符はインターネットで申し込み、一般の入場者5000人分(半分はダラス市民用)の切符を無作為に選んで配布するということでした。結果としてはダラスオフ会参加者10名中5名が当選するということになりました。当然半分の5名はハズレでして、奇しくもダラスオフ会皆勤賞の猫太郎さんとロックフォードはハズレ組となりました(笑)前述しましたが、JFK暗殺50周年に加えてキャロラインさんの大使就任とJFKクラブジャパンのマスコミ登場などさまざまな思いを乗せて、11月20日成田発アメリカン航空060便はダラス/フォートワースへ向けて飛び立ったのでありました。なが〜い飛行時間を耐えてようやくDFWへ到着して「入国審査」の長蛇の列には驚きました。結局この時の時間超過が予定していたニューオリンズ行きの便に乗れなくなり、2時間遅れで乗れた便で初めてのニューオリンズ入りが22時。シャトルバスでホテルに着いたら23時でしたか…この時間から夕飯を食べに行くということも出来ずに、ニューオリンズの最初の晩はいきなり“イカゲソパーティ”となりました。いや空腹でしたから何でも食べましたが、さすがに最初の晩にイカゲソや柿ピーが夕飯とは参りましたが、だだっ広いDFW内を走り回ったので直ぐ酔が廻りぐっすり眠れたのでした。翌21日は9時過ぎにホテルを出て、土田先生ご夫妻と落ち合いニューオリンズ初の食事と散策になりました。この朝に生まれて初めて見たミシシッピ川は古い映画などで何度も見て来た川だったので感激でした。ニューオリンズ最初の食事となったカフェ・デュ・モンドのベニエというドーナッツはボストンのポッキーさんからも薦められていたので、この場面で食せるとは思っていなかったので嬉しかったです…土田先生、奥様有難う御座いました。またご馳走様でした。その後行動は他のメンバーにお任せしてというか、土田先生とお別れした後で前日の疲れからホテルへ戻られた前田さんの代わりに「報告書」レポート書かせて頂いたので省きます。翌日は朝早い便でダラスへ戻りました。5年振り4度目のダラスであります。毎回お世話になっているJAPAN TOURS & TRAVELのツアーバスで50周年追悼式典会場のデイリープラザへ向かいました。今回初めてのダラス入りを果たした本橋さんは、さぞかし感無量だったと思います。尚、今回お世話になるハズだったユキさんの都合が悪くなり代打でノリコさんがガイドをしてくれました。この後も「報告書」にレポート書きましたから省きますが、私がヒューストンTVの取材を受けた時にノリコさんには通訳をして頂きました…お陰でキチンと受け答え出来ました(笑)…追悼式典の後ですが、40周年の時に廃屋同然だったテキサス劇場が当時と同じヴァン・ヘフリン主演の戦争映画「WAR IS HELL」を上映していて、劇場内へははいれませんでしたが中へ入って10年前にJFKクラブで財団に寄付した時の背の高いお姉さんと記念撮影出来たのは嬉しかったです。このテキサス劇場は現在中々いい趣で営業していて、中に喫茶店もあり上映予定映画も50〜60年代の旧作ばかりで、私なら通うな〜。10年前の状態と比べると本当に感無量でありました…ネッ前田さん。他にもイロイロあり本当に参加して良かったと思って居ります。一応私のダラスは今回で終わったと感じました。サリンジャー君は4年後のJFK生誕100周年をボストンでとか企てているようですが、どうなるかな〜(笑)実は今回のダラスオフ会ではニューオリンズのホテルに鍵束を忘れて来たのですが、ダラスのホテルから電話して鍵の存在を確認してくれた池田さんとその後のニューオリンズのホテルとの対応をしてくれたJAPAN TOURS & TRAVELのノリコさんとヒューストン本社のミチコ・ガードナーさんにこの場を借りてお礼申し上げます。有難う御座いました。12月1日(日)現在既にニューオリンズからFedEx便で届いております。今回参加の皆さん新年会で会いましょう。前田さん本当に有難う御座いました。また土田先生今回はダラスでご一緒出来なくて残念でしたが、来年もJFKクラブジャパンをよろしくお願いいたします。
本橋敦志さん

私にとっては初めてのアメリカ、そしてダラス、ずっと行ってみたいなぁとの思いを持ちつつも英語を話せない、ダラス行きのツアーを探すもそんなマニアックなツアーなどなく、私にとってはなかなか1人で行く事が出来ずにいました。そんな中、去年の三島オフ会時に、次のオフ会はダラスだよ、とのお話を聞いた時に、この機会を逃したら私にとって次はあるか分からないとの衝動にかられました。こんな絶好の機会、必ず行くと心に決め1年間を過ごしました。その間幾つかの問題もありました。一週間も仕事休めるだろうか?義父の一周忌も丁度重なるので、一周忌の日にちをずらしてもらえるだろうか?などでした。結果的には、仕事も職場仲間の協力で一週間休める環境にしてもらえ、一周忌も少し早目に行うとの事で解決しました。大変ありがたい気持ちで、アメリカ行きへ漕ぎ着ける事が出来ました。そしていよいよ当日になり、気持ちは頂点に向かいました。アメリカまで12時間のフライトは私にとってはワクワクドキドキの気持ちでしたので何の苦もなく、むしろ楽しく過ごしていました。このペースで書いていたら凄く長い文書になってしまうので、1番思い出に残った出来事のみにさせてもらいます。それは何と言ってもデイリープラザに私自身が行けた事です。ずっと本や映像などで見てきた場所です。ある程度の地形も頭に入っていましたが、その場所に実際行ってみると私自身が想像していたデイリープラザとは少し違っていました。勿論見慣れた光景もあり、たまらなく色々な感情が湧いてきました。前田さんから頂いた資料を見ながら、その現場へ行き、説明をしてもらいながらの現場検証は、凄く貴重な体験であり贅沢な事でした。それと同時に事件に対して疑問も幾つか出てきました。皆さんと疑問について会話をしながらデイリープラザにいるなんて、私にとって感動的でした。その後、私は1人デイリープラザを歩いてみると色々な感情が湧いてきてしまい、気付けば涙が流れていました。ケネディへの思いと、私自身がケネディに興味を持ち、今日ここに立っているまでの人生が頭をよぎっていました。デイリープラザに行くと、言葉には言い表せない様々な感情が溢れてきた事が私にとっては大きな思い出です。また、ホテルの部屋で皆さんとケネディ談議をしている事も素晴らしい時間でした。私にとって、生涯忘れる事のない5日間でした。前田さんには、ただただ感謝の気持ちでいっぱいです。また参加された皆様、楽しい時間をありがとうございました。

堀口春夫さん

前田さんそして参加の皆さん今回の海外オフ会、大変お疲れ様でした。また土田先生そして奥様、ニューオリンズではお疲れ様でした。米国に着いて翌日21日のニューオリンズでは先生ご夫妻にいろいろ名所やオズワルドの足跡等案内して頂きましたが私自身当初はそれ程見る箇所は少ないのではと思っていたのですが、何の何の結構数多く見て回りました。それと今思うとミシシッピー川の船にも乗ってみたかったと言う気がします。それにしても先生のタフさには驚かされました。同様に先生と一緒に歩かれる奥様にもですが。歩いた距離も相当なものだと思われます。私など付いて行くのがやっとと言う感じで、普段の運動不足がたたりホテルに戻った頃には情けない事に足の筋肉が痛くなる程でした。でもお蔭様をもちまして初めてのニューオリンズの町を充分堪能できました。有難うございました。一通り見学後、一足お先に帰国の先生ご夫妻とお別れし、前田さんは一人ホテルへ戻られ、その後フリー行動になったものの結局皆で車2台に分乗してジム・ギャリスンの事務所があった地方裁判所へ行くことになりました。着くと建物の前にFOX局のカメラマンとマイク片手のスタッフがたまたま取材に来ており早速池田さんが何やら話しかけ、結局最後は胸のバッジやTシャツ、そして全員並んでしっかりカメラに収まる事に。ここでもバッジとTシャツの効果絶大を認識した次第。その後折角ここまで来たのだから中も見ようという事になり、2つにグループ分けして入るが我々のグループはギャリスンのいた2階の入り口受付までは入れたが、別グループは受け付けから更にギャリスンのいた奥の部屋まで入り机まで見れたという、ちょとした運の違いが現れた様だ。そこで分かった事は、事務所の人さえ殆どギャリスンの名前を知らないと言う返事でちょっと驚きであった。また彼は人々から異端視されていた事も分かり非常に興味深かった。そして今回の最大イベントである22日のダラスでの追悼式への参加、この参加の為に抽選に運良く当選したのは嬉しかったが予想外にも厳しい入場制限でビデオカメラは取り上げられ雨と風と寒さで震えながら式典が始まる前から2時間位立ちっ放しで始まってからも周りに背の高い人垣で何も見えずの最悪の状況下ではあったがスピーチの声は聞こえ、たとえ内容は全部理解できなくても正に追悼式の真っ只中に臨場しているという感慨は何よりであった。後で追悼式典のTVニュースを見てどんな人がどんな様子でと分かった次第。翌23日はこれも今回のビッグイベントで皆で献花を行った。配送に不手際があったものの無事花を受け取ることが出来、皆揃ってデイリープラザのプレート箇所まで運び、我々以外の大勢の人達も見守る中で厳かに設置する事が出来ました。その前でメンバー一人一人が順番にお祈りを捧げました。我々の泊まっていたアドルファスホテルでJFK LANCERのカンファレンスが開催されており併設のBOOK販売もあり、新 刊のみと思っていたが古本も多数出ていると前田さんから聞き慌てて見に行くが既にクローズでガッカリ。それで出発日の朝ちょっと15分位見ることが出来数冊手に入れたがもっと時間があればと残念至極であった。でも気に入った3冊を入手でき満足するのでした。今回の海外オフ会もあっという間に終わり今思うと行って来たのがウソの様ですが、自分なりに本当に楽しいまたまた思い出深い海外オフ会となりました。