終章 エピローグ

1963年11月23日朝。ハイアニスポートにあるケネディ家の別荘で一人の老人がベットの中でその日の朝を迎えた。老人は二年前にわずらった心臓発作のために、それ以来、ほぼ全身麻痺のためベットと車椅子の生活が続いていたのである。老人の名前はジョセフ・パトリック・ケネディ、75歳の晩秋であった。その夜ジョセフは眠れなかったようである。付き添いの看護婦リタ・ダラスがいつものようにジュースと朝刊を持って寝室に入っていくとジョセフはまず新聞を要求した。見出しを見た。数分間、じっと新聞を見詰めていた,
一面には跳ねるような大見出しの下に、黒ワクの大統領の写真が掲載されていた、とつぜん、ジョセフは新聞を床に落とした。リタには一言も語らなかった。白いシーツを固く握り締め、仰臥したまま、両眼を閉じた。二条の太い涙が頬を伝うのをリタははっきりと見た。
「ミスター・ケネディ!」とリタは声をかけた。両眼はかすかに開かれたが、まばたきせず、前方を見詰めたまま動かなかった。リタは静かに部屋を出た。
しばらくすると、呼び出しのブザーが鳴った。リタが急いで部屋にゆくと老人は手を動かして車椅子を求めた。階下へ降りるとテッドが茫然とサンルームに座っていた。
「ダッド!」
父親はなにも答えず、指だけを動かして、ハイアニス空港へ連れて行け!キャロライン号に乗せろ!と命じていたのである。

1968年6月5日、ロバートがロサンゼルスで災禍にあった時、ジョセフは眠っていた。母親のローズは教会のミサで悲報を聞いた。ローズはジョセフには知らせないようにと命じた。リタは寝室に入っていった。その寝室のテレビはついていた。ベットに仰臥していたジョセフは、両手で顔を覆っていた。リタは再び、ジョセフの顔を伝う二条の太い涙を見た。あの時と同じように・・・涙はゆっくりと生き物のように頬を流れていた。ローズの泣き叫ぶ声が外からも聞こえた。しかし、ジョセフの目は無言のまま、じっとテレビの画像を追っていた。
ロバートの葬儀のあと、家族がジョセフに葬儀の模様を語って聞かせたが、ジョセフは黙って家族の報告を聞いていた、老人は一言も言葉を発さなかった、それだけでなく表情も変えなかった。その夜遅く、ベットのかたわらにジャクリーヌが座って語り掛けたが、老人は目を閉じたままだった。「二人とも死にましたわね。おやすみなさい、お父さん」・・・ジャクリーヌが声をかけた時、初めて静かにうなずいただけであった。

1969年7月。エドワード・ケネディが、自動車事故で秘書コペクニー嬢を溺死させてしまった時、テッドは錯乱状態に陥ったが、父親の前ではまるで子供であった。「お父さん、一生懸命やったんだよ。だけど・・・・・・お父さん、すみません」
リタ・ダラスの記録によると、この事件がジョセフの命とりになったと書いている。急に食欲がとまり、みるみる力を失った。1969年11月15日。ジャクリーヌ・オナシスが駆けつけ「グラン・パア! 私ですよ」と耳元で叫んだ時、かすかにうなずいただけであったと言う。

1969年11月18日、彼は波乱に富んだ人生の幕を閉じる。まさか、三人の息子の後を追うような人生の最期となるとは思ってもいなかったはずである。・・・・・・・・
享年 81歳であった。




大統領期間中のケネディについては”ケネディの遺産シリーズ’をご覧下さい。