外交問題


ケネディは、内政問題よりも外交問題にはるかに興味を持ちかつその職務の時間を費やした。ある人々は、ケネディが外交政策で超党派性を重んじたのは大統領選挙での僅差の勝利の結果だと言う。しかし、選挙で圧勝していたとしても、彼の外交政策の”方法”はともかく、”目的”は共和党のアイゼンハワーのとは根本的に違わなかったであろうと思われる。圧勝していたとしても、両党の対立を少なくする為、国防関係のおおくのポストを共和党にあてがっていたであろう。大統領としてのケネディは、表面的な相似点を一つのレッテルでくくることをしなかった。たとえば、共産圏国家でもさまざまな種類があり、後進国でも開発段階にいろいろな違いが在り、それらを注意深く区別しなければならないと主張している。

防衛と外交

1961年秋、ワシントン大学で演説した際にケネディは一年前の選挙戦当時に比べてはるかに低姿勢で語っている。
「われわれはアメリカが万能でも全知でもないこと、全人類の94%の人々に、6%の我々の意見を押し付けることはできないこと、あらゆる誤りを正し、あらゆる逆境を覆すことはできないこと、したがって、どんな世界問題もアメリカが解決できるわけでは無いと言う事実を直視しなければならない。」と
それに、なによりも選択権を持たなければならないと考えた。それは「共産化か死か!」とか「大惨害か屈辱か!」といったものではなく、侵略に対してさまざまな軍事的選択できること、外交手段において時間と操作のチャンスを持つこと、あらゆる危機にたいして防衛と外交を結合したバランスのとれた扱い方をすることであった。
ケネディは通常戦争の醜悪な面を見たが、核戦争は同じ単位で計ることができないことを良く知っていた。彼は米ソが互いに相手をまさに”分”単位の時間で破壊できる世界で統治することの責任を痛感していた。彼は言った「これはあらゆる答えとあらゆる問いを変えることである。多くの人がこのことを本当に知っているとはおもえない、その日がきたら、大破壊のやり取りが在り、それで終わり。というのは最初の18時間で一億五千万人が死ぬ事柄だからである。」ケネディがよく口にした言葉は”誤算”という言葉であった。「ヒトラーは、ドイツがポーランドを取ってもイギリスは出てこないし、出てきてもポーランドが負ければ戦闘を続けないだろうと考えたのだ。北朝鮮もアメリカが出てこないと考えたに違いないし、アメリカも中国が出てこないと考えた。」と言っていた。ベルリン危機に際して、全国民にむけ演説してこう言った。「私のいままでの生涯で、アメリカとヨーロッパは三回大戦争に関係した。三回とも双方が相手側の意図について重大な誤算を行い、大破壊を招いた。いまや、熱核時代にあって、相手の意思に対する双方の誤算により、人類史上の戦争の被害よりも大きな破壊を数時間のうちにもたらすようになった。」と、ケネディは”無条件降伏”だとか”勝利にかわるもの無し”といった従来のスローガンは無意味であると考えていた。「核時代には全面的解決は不可能である。」とも述べている。彼は、冷戦という戦いに’勝てる’とも言わなかったし’負ける’とも考えていなかった。ただ、冷戦を下火にさせ、冷戦から生き延び、自由と真実の長期的な力が自然に平和的に働けるようにし、冷戦の為に国家の全エネルギーが奪われないようにすることを期待したのである。
ケネディはソ連政権の対外拡張を阻止しようとしたが、ソ連国内の思想や発展を阻止しようとは考え無かった。共産主義者の侵略や転覆活動を非難はしたが、共産主義そのものについては理解をしていた。1961年のフルシチョフへの手紙の中で「あなたの政府が何を信じられようと、それはあなたの政府自身の問題です。しかし、あなたの政府が世界で何をするかは、これは世界の問題なのです。」と言っている。1963年のアメリカン大学の演説では、こう述べている。「共産主義は、個人の自由と尊厳を否定するものとして、われわれは強い反発を覚える。しかし、ロシア人がなしとげてきた多くの成果については賞賛できよう。その国民に長所がないとみなさねばならないほど邪悪な政府とか制度というものはない。また世界平和とは、各人が隣人を愛さなければならないというものでもない。」
1961年ケネディは、私信を当時のソ連共産党機関紙イズベスチャの編集長であったアジュベー氏に送っている。その中で彼は大胆にも、こうも述べているのである。「一国において、多くの政見が発表される公正な機会があり、自由選挙で国民が共産制度を選ぶのであれば、アメリカはそれを受け入れるでしょう。私たちは、小人数の戦闘的グループが破壊活動によって一つの制度を押し付けることに反対なのです。」と
彼は、北京と同様、モスクワも世界における共産主義の勝利を信じており、フルシチョフもスターリンと同様に、この野心の為にあらゆる手段を利用するよう期待されていることを知っていた。しかし、アメリカとその同盟国の力と政策が、いつかはモスクワとフルシチョフに、世界支配には安全安価な道はないこと、交渉の道はいくらでも開けていること、ソ連のもつ不安の根拠はどれもが平和的に取り除くことができること、そして何よりも、現実的・効果的な和解の歩みによって、ソ連は国内的にもっとエネルギーをつぎこめることを説得できると考えていたのである。

平和への手段

世界で初めて軍縮を大規模かつ専門的に調査計画する政府機関”軍縮管理軍縮局”を作ったのはケネディである。1961年共和党のジョン・マックロイによってスタートし、ウイリアム・フォスターが後を継いだ軍縮局は、議会の反対にも耐え、具体的な軍縮提案を作り出すのに科学・法律・外交の能力を結集して花開いて行った。ケネディが軍縮に興味をもったのは、主として中立国と”世界世論”に影響を与えたいという宣伝目的からであった、1962年春のジュネーブ軍縮会議の準備をしていた専門家たちに、ケネディは「ソ連案は恐ろしく単純だから、それに対抗する当方の案が複雑、慎重すぎて説得力と魅力を失わないように。」と注意している。しかし、大統領はどこまで軍備を進めても絶対的な安全はないこと、核兵器のストックが増えるにつれて緊張と危険が増大することをしだいに認識してきた。徐々に、そして懐疑的ではあるが、軍縮が本当に達成可能なこと、いま、軍拡競争につぎこんでいる金もいつの日にか、公共の福祉に振り向けられうること、軍縮局がつくりあげたケネディ軍縮案は、大統領任期中には実現しないが、よい出発点になりうることを信じたのである。
1961年9月18日、ケネディはハマーショルド国連事務総長の非業の死を知った。大統領は総長を良く知らなかったが、彼の勇気と手腕を尊敬していた。事務総長の死の三日前、ケネディは9月25日の国連総会開会日に演説することを決めていた。当時の国連はソ連のトロイカ方式の主張によってガタガタになっていたが、ケネディ演説で幕を開けた第十六回総会は成功であった。これは主としてスチーブンソン国連大使が展開した巧妙な交渉が大きな役割を果たしたのであるが、ケネディ演説が新しい刺激を与えたからでも在った。
一方、アメリカ議会には国連に対する批判も多かった。国連のさまざまな活動に対する不満、一国一票制度によってアメリカの影響力が損なわれていることに対する不満、国連に対する拠出金が高すぎると言った不満とさまざまであった。大統領はアメリカの安全保障にかんする事柄に関して国連に行動してもらおうとは思ってはいなかった。小国、中立国は、いつも戦争を回避するのに必死なので、たとえ国連が裁判権を持つにしても、重大な紛争を解決するうえでは頼りにならないと言うのが彼の意見であった。大国は大国自身の対決を解決しなければならない。国連は共産主義の破壊行為や浸透工作には、たいした手は打てず、効果的な軍縮を課すことができず、大きな侵略行為を軍事的に阻止することはできない。”しかし、国連は主として小国、弱国の保護者であり、強国にとっては安全弁である。”と考えていた。小国が国連で熱弁をふるうのは、小さないざこざを起こすよりましである、事務総長の行動によって小国間のトラブルを止め、大事にいたらないようにすることができよう。これが第三者の政府だったら国連ほど安全に偏見なく効果的に介入することはできないとも思っていた。当時の地域紛争に国連が介入したとき、ケネディがあらゆる国連に対する援助を惜しまなかったのは、このような考えからである。そして、大統領は、あまり大きな期待を持たずに、国連がいつかは本当に世界の安全保障組織に発展するであろう事を望みかつ期待していた。

平和部隊

ケネディ大統領にとって、平和ということは、単に戦争が無いことではなかった。彼は新興の開発途上にある国々たいする政策を最優先にしてホワイトハウスに入った。彼は言う、「今日、自由の防衛と拡大の為の偉大な戦場は新興国民の国々、地球の南半分にあるアジア、中南米、アフリカ、中近東の国々である。彼らの革命は人類史上最大のものである。彼らは不正義、暴虐、搾取に終止符をうとうとしている。」ケネディが選挙戦で売り込んだ独特な制度に平和部隊がある。平和部隊は始め数百人だったが、のちに数千人になった。まもなく開発途上の国々で、平和部隊はケネディの希望と約束の最も生き生きとしたシンボルとなったのである。しかし、部隊の結成が円滑にいったわけではない。進歩主義者たちはトリックと批判し、保守主義者たちは、夢想主義のナンセンスな遊び場と馬鹿にした。共産主義諸国は偽装のスパイ部隊だと非難したし、平和部隊を最も必要としている多くの中立諸国の指導者たちも、きらって笑い者にした。議会においても共和党の反対も大きかった。しかし、大統領とその精力的で理想主義的な義弟サージェント・R・シュライバー平和部隊長官(ケネディの妹ユーニス・ケネディの夫)は、慎重に辛抱強く部隊を築き上げて行った。二人は、平和部隊は国内問題でも世界においても、政治には一切無関係だと誓約した。そして、特に招かれた国にだけ部隊を派遣することをあきらかにした。特にCIAが平和部隊を利用すべく、部隊に浸透しようとした事件に対して二人は断固としてこれをはねつけることに成功してその非政治性を確固たる者にしたのである。さらにシュライバーは家族の一員だからこそ持てる説得力で大統領を動かし、部隊を人気の無い政府機関の国際開発局のもとに置くといった決定を覆させ、独自性を確立した。
平和部隊はすくすくと成長し、予算も年々増加し反対の声も低くなった。部隊を迎え入れた国々は、増派を要請するようになった。隊員たちは驚くほど失敗も無く事件も起こさなかったので、派遣国の首都以外ではアメリカ大使の名前より有名となり、最も効果的な理想主義のアメリカ大使となった。隊員はまた、世界の辺境における生活について実に確かな理解力を持って帰国したのである。大統領と平和部隊隊員のあいだに特別なきずなができた。今日、いまだに部隊を”ケネディの子供達”と呼んでいるところもある。確かにお互いが感じ合っている気持ちをうまく表現した言葉である。
大統領も機会ある毎に隊員たちと会ったが、大統領に言わせると、隊員たちこそ彼の就任演説の「国がなにをやってくれるかと尋ねるのでなく、国のために何ができるか尋ねてもらいたい」との自分の呼びかけに応じた最高の反響であったのである。