ハノイ・北京・モスクワ
ケネデイ政権は基本的に、ヴェトナムでの戦いを共産主義との対決の場と捉えている。もちろん政権内部でも、単純な共産主義一枚岩神話への反証は数多くあげられていた。中ソ関係についてCIAは、公然たる対決でも純然たる和解でもない状態が今後も続くだろうと予測していた。しかし、こうした中ソ対立の認識は、むしろワシントンの懸念を増幅する結果を生んだ。それは中国がアジアで影響力を拡大するにあたって、ソ連の抑制を受けつけなくなることを意味していたからである。米ソ協調を推し進めたところで、アジア全域の安定にはつながらないかもしれない。このま
までは、たとえばいまから10年後には、問題は手に負えないほどになるのではないか。もっとも、中国のアメリカに対する姿勢は、必ずしも対決一点張りだったわけではない。中国は国連に加盟しておらず、アメリカとの国交もなかったから、ワルシャワで定期的に行われる米中大使級会談が、両国にとってほとんど唯一の接触の場であった。1961年夏、中国側はこの会談で、米中両国が共通の基盤を探求し、国際社会の平和維持のために責任ある行動をとらなければならないとした。中国ははっきりと、「全世界の平和に共通の責任を負っている二大国」の、一方としての自覚を示したのである。
それはとくに第三世界の安定を求めるケネディには、好ましい兆候だったはずである。しかし、ケネディが訪米した台湾の陳誠副総統に述べたように、アメリカが「1945年以来、ヨーロッパではなくアジアで戦ってきた」のも事実であった。中国の軟化をむやみに信じるわけにもいかなかった。ボウルズ国務次官はインドのネルー首相に、中国が「今後10年間のうちに」軍事行動に出る可能性を指摘した。ネルーも、中国には「傲慢な雰囲気」があると警戒していた。依然として反共主義に彩られた米国内世論への配慮もあって、アメリカと中国との和解はまだ遠い先の課題としか思えなかった。1961年7月、スタソフォード大学のユージン・ステーレーを団長とする使節団は、南ベトナムが直面する経済、財政問題の解決のためさまざまな勧告を行っている。それは、南で活動するヴェトコソが「ハノイをつうじて活動する国際共産主義組織から補給を受け、人員を供給され、中枢管理されている」という前提に立っていた。ワシントン全体が、そしてサイゴン政府も同じ発想にとらわれていた。8月半ば、CIAは、南ベトナムで展開されているのは「ハノイに指揮され、共産主義支配下でのヴェトナム再統一をめざす共産主義者の、ジェム政府に対する大規模な攻撃」だと断定した。ある雑誌などは、ヴェトコンヘの指令はすべてハノイからやってくると報じるほどであった。中ソ対立がヴェトナム問題に関係するとしても、ハノイがモスクワと北京のいずれの指揮と支援を受けているのか、という違いにすぎなかった。アメリカが南ヴェトナムの国境外からの脅威に備えなければならないことに変わりはない。それがワシントンの常識であった。捕獲したゲリラの武器、装備などや、ヴェトコンの捕虜や脱走者の尋問調書の検討も進んでいた。1954年の設立以来、現地で活動する国際監視委員会、ニューヨークの国連、ラオス中立化を協議中のジュネーブ会議といった場に、北の侵略を持ち出し、国際世論を味方につけるためであった。ロストウやテイラーは、アメリカが北ヴェトナムに対してどのような軍事行動をとるにしても、侵略として非難されないよう「基礎工事」を行っておく必要を強調し、ケネディ大統領もこれに同調した。国務省政策企画委員の一員となった元『ニューヨークタイムズ』記者ウィリアム・ジョ-デンが、さらに証拠を集めるため現地に飛んだ。
北への介入
8月初め、アメリカは、「ヴェトミンすなはち北ヴェトナムが公然と南ヴェトナムに介入した場合」に備えた計画を用意していた。それは、北ヴェトナムの首都ハノイや、重要な港湾都市ハイフォンを占領する作戦である。8月7日、ケネディはテイラーとロストウに、ラオス中部および南部での軍事行動と並行して、北ヴェトナムに軍事的圧力を加える計画を検討するよう指示した。ロストウの意見では、北ヴェトナムが今後ますますラオス、南ヴェトナム領内への越境を増大させる可能性があった。これを防ぐためにアメリカは、「北ベトナムヘの直接の圧力」を強めなければならない。ロストウの部下ロバート・ジョンソンによれば、ラオス南部掃討作戦プラス北ヴェトナム攻撃作戦は、投入される米軍の規模などの点で、「安上がりに東南アジアでの戦争を戦う方法を見つけようとする努力の表れ」にほかならなかった。ケネディは依然として、米軍を本格的に投入することにきわめて消極的であった。しかし、レムニツァー統合参謀本部議長はマクナマラ国防長官に、東南アジア全土で共産主義者の侵略が進行中だが、ことに北ベトナムからの物資補給が増えつつあると指摘した。レムニツァーにいわせれば、中ソの意を体したハノイ政府のおかげで、東南アジア全体が危地に陥ろうとしていた。こうした流れを首尾よく断ち切れさえすれば、ベトコンを軍事的に制圧し、東南アジア各地でも共産勢力との戦いを有利に展開できる。しかも米軍には、その能力がある。とすれば、アメリカが東南アジアで本当に勝利をおさめようとするなら、米軍を北ヴェトナムに送り込むしかない。アメリカが本気で軍事介入に踏み切るつもりだとハノイや北京、モスクワに納得させられれば、ラオスの中立も守られる。しかしいっぽうで、たとえ限定的規模であっても、アメリカの軍事行動が「北ベトナム征服の序曲」だと見られれば、共産側の過剰反応を呼び起こす危険があることを、ロバート・ジョンソンは懸念した。しかも、アメリカが「本気で北ヴェトナムを破壌し『汚染の源を根こそぎにする』つもり」だと敵が判断する可能性はかなり高い。そうなればアジア全域に戦争が拡大することも十分考えられる。もちろんアメリカ側としては、そこまでのつもりはないことを事前に十分根まわししなければならない。しかし米軍介入の脅しの信懸性と同様、軍事行動を極力限定するというアメリカの意図が伝わるかどうかを決めるのは、言葉ではなく具体的な行動であった。
共産側がもし従来どおりバテトラオやヴェトコンを隠密裏に支援する戦術を続けた場合、アメリカの軍事行動にはいっそう大きな制約が加わるはずであった。さらにアメリカは、ハノイやハイフォン付近の地理も十分把握しておらず、補給、通信などの困難もあった。現実には長期占領など不可能であった。北ヴェトナム攻撃をどれほど正当化しても、中立諸国の非難を招くことは避けられなかった。1956年、英仏両国はイスラエルとともに強引にスエズ運河を占領したものの、国際社会で孤立し不名誉な撤退を迫られた。同じ立場に、今度はアメリカが陥る恐れがある。また、南ヴェトナムのジェム大統
領にしても、少数の兵員による限定的な諜報活動、サボタージュ、妨害作戦を別にすれば、北ヴェトナムでの本格的な作戦行動には消極的であった。
ソ連核実験再開
8月30日、ケネディのもとに、ソ連が1958年以来自粛してきた、大気圏内核実験を再開したという知らせが飛び込んできた。ケネディは激怒もし落胆もしたが、フルシチョフにしても好きこのんで実験を再開したわげではなかった、その引き金を引いたのはそもそもケネディの大規模軍拡だった、とのちに批判されている。フルシチョフの決断の背後には、さまざまな事情があったという。核戦力の向上にはどうしても実験が必要で、また日ごとに対立を深める中国を牽制する意図もあった。実験2日後にベオグラード(旧ユーゴスラビア)で開幕を控えている第一回非同盟諸国会議の参加国に、ソ連の実力を思い知らせる無言の圧力でもあった。ケネディの懐刀、国家安全保障担当大統領特別補佐官のマクジョージ・バンディによれば、ソ連の核実験再開は「1961年最大の失望」であった。少したった頃、ケネディは、政権一年目についての本を書くつもりだとある作家が述べたとき、「災厄について書いた本など、誰が読みたいと思うものか」と答えたという。就任以来、ラオス、キューバ、コンゴ、ベルリンとフルシチョフに押しまくられ続けたケネディは、あらためて「モスクワの容赦ないやり口」を思い知らされた、と側近のアーサー・シュレジンガーはいう。その結果ケネディは、次の外交課題はアジアであり、そこでアメリカが後退すれば全世界で力の均衡が失われてしまうと感じたのである。アメリカも核実験を再開すべきだという圧力が急速に高まった。ケネディ自身は、核実験の実施や、核軍縮交渉拒否か、自分が断固たる姿勢を保てるかどうかのリトマス試験紙となっていることに不安な気持ちを抱いていた。実験再開には反対の声もあったし、国連決議によってソ連の実験をやめさせてはどうかという案もあった。しかしケネディが信頼する大統領軍事顧問テイラー将軍はすでに8月7日、アメリカはソ連の軍事的優位を打ち消さねばならないと主張していた。ラスク国務長官も31日、「大統領が優柔不断だという印象を避けるために」、すぐに核実験を再開するよう提言した。9月5日になって、マクジョージ・バンディはラスクに、大統領が「堪忍袋の緒を切らしている」と伝えた。その言葉どおり、ケネデイはこの日、9月15日に地下核実験を再開すると声明した。実験再開、軍拡競争再燃を躊躇する気持ちよりも、「もしフルシチョフが、私の鼻づらを泥のなかにこすりっけようとするのなら、すべては終わり」だという懸念がまさっていた。だから東南アジアでも、絶対にフルシチョフに対して弱腰を見せてはならなかった。
ヴェトナムに迫る危険
ロストウによれば1961年8月、アメリカは東南アジアで、共産主義者に答えを与えねばならない基本問題に直面していた。もし共産側が西側に満足のゆく解決を提示しなければ、アメリカとSEATOはどのような行動をとるのか、ということである。ラオスであろうとヴェトナムであろうと、米軍ないしSEATO軍の大規模介入を確信しない限り、共産側が譲歩などするはずはなかった。いっぽうタイ、カンボジア、ピルマ、インドネシア、フィリピン、台湾といった諸国は、ラオスをアメリカの意志と能力を示す「物差し」とみなしていた。ヴェトナムもまた、共産主義者による民族解放運動に抵抗する反共政府を助けるという「アメリカの意志と能力の重大な試練」の場である。ここで踏みとどまれるかどうかは、ケネディの外交政策はむろん、国内の立法計画にも影響を与えずにはいない、とロストウは強調した。アメリカがそうした決定的な段階を迎えようとする頃、国務省情報調査局は南ベトナムの治安悪化、とくにそれが経済成長を阻害していることに懸念を強めていた。この国が長期的に生き延び繁栄するには、経済の近代化、工業化が重要な意味を持っていたが、「今後数年問に南ヴェトナムの経済状況が改善されるかどうかは、治安および国防分野での展開しだい」であった。南ベヴェトナム政府は利益率の低下を理由に、サイゴンとロクニンを結ぶ鉄道の運行を中止したが、本当の理由は治安悪化にあった。ゲリラがいたるところで橋や道路などを破壌し、コメの輸送が滞ったため、米価上昇の恐れが出てきた。実際に街では食料品が不足し始めていた。外貨獲得の重要手段であるコメやゴムの輸出も思うにまかせなくなった。ヴェトコンは大隊規模で作戦行動をとり、農村を政府から切り離し政府の権威をますます低落させていた。そこで兵士を訓練し、休養を与え、部隊の再編を行い、近隣の都市などに攻撃をかけ、軍や政府の内部にも要員を送り込んでいた。
彼らはメコンデルタのほぼ半分を支配し、南ヴェトナムの中、北部諸省へ、そして都市部へと活動範囲を広げつつあった。サイゴンから離れた地方の半分以上は、少なくとも夜問はヴェトコン支配下にあり、カマウ半島の一部や湖沼地帯などには昼夜を問わず政府の権力がまったく及んでいない。もともとジェム大統領とその側近たちは、自分たちが直面する困難の責めを、国内の破壌活動と国外からの侵略という「二重の脅威」にばかり負わせる傾向があった。いよいよ本物の危機が近づきつつあった1961年の晩夏から初秋にかけて、それにますます拍車がかかり、それがワシントンにも少なからぬ影響を与えようとしていた。
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