洪水救援部隊
ジュネーブ協定は軍事要員の交代は認めている。しかしそこには、出国する兵員と入国する兵員が一対一で対応する事、事前に国際監視委員会に通知する事、定められた地点で入国する事、などの条件があり、軍需物資の搬入についても、古くなったもの、壊れたものの代替しか認めていない。しかし10月下旬、現地で活動する米軍事顧問の数は、まもなく1500人を超えようかという勢いであった。アメリカは軍事顧問の増派にあたって、ジュネーブ協定の手前を取り繕う工夫に余念がなかった。交代のため出国する軍事顧問の人数を水増しして報告したし、新たな人員を国際監視委員会の目の届かない場所に駐留させもした。たとえば乗員が七人を超えるヘリコプターの導入は、国際監視委員会に通告する義務があったが、アメリカは無視した。民問人パイロツトが操縦し、米軍の標識もつけないのだから軍用機ではない。南ベトナム政府が道路整備のためジャングルを切り開く計画の一環として、たとえば枯葉剤散布やゲリラ掃討に用いられるにすぎない。せいぜい三カ月、ごく一時的な駐留でしかない。こうした理屈を押し通したのである。アメリカはこうした涙ぐましい努力を払いながら、表面はあくまでもジュネーブ協定を尊重する姿勢を続けていた。真っ向から協定を否定すれば、北ベトナム側にも行動の自由を与えることになり、かえって不利になる恐れがあった。しかしアメリカの本音は、「協定によってわが国が物理的に必要な行動をとれなくなるようなことは認められない」というところにあった。軍事顧問の人数がジュネーブ協定の上限を超えたことについては、むしろ堂々と正当化すべきだという考えもあった。685人という枠は、1954年7月21日、第一次インドシナ戦争の終結時点の外国人軍事顧問の人数をもとにしていた。しかしアメリカが守るべき枠は、1954年当時ベトナムの大地に駐留していた外国軍隊の総数だ、という論法である。その数、およそ17万人。アメリカはさらに、北ベトナムが「ラオスと南ベトナムの両方で破廉恥にもジュネーブ協定を無視Lしていると声高に訴えた。国際法のもとでは、少なくとも北ベトナムが協定を躁欄しているのと同じ範囲までは、南ベトナム政府も協定を無視してよいはずであった。アメリカは、国際監視委員会議長国のインドを味方につけようと、南ベトナム領内でのベトコンの活動が「ハノイに指揮され、大部分北ベトナムから浸透した要員によって行われている」のだと訴えた。しかも、「ベトナムにつうじるラオスの安全な回廊を共産主義者が支配するようになった」ために、ベトコンの浸透や北ベトナム正規兵の攻撃がなおさらめだつようになった、と強調した。
またとない逃げ口上
10月末、ノルティング大使はワシントンに、ベトナムでの戦いは今後、ゲリラ戦争から「通常兵力による公然たる侵略」に向かう気配があると伝えた。とすれば必然的に、「米軍部隊が戦闘任務を果たすようになる可能性」があった。もはや派兵は時間の問題にすぎないように見えた。戦闘部隊派遣を検討中のテイラー将軍やノルティングは、1937年以来最大規模とまでいわれるメコンデルタの洪水を、舌なめずりで見ていた。洪水救援を看板にしさえすれば、ジュネーブ協定の制約など気にせずともよい、と考えられた。もっとも、上空から被災地域を視察したテイラーは、「ミシシッピ川あたりの洪水とはちっとも似ていないな」と漏らしている。米工兵部隊を送り込んだところで、ものの役に立つとは思えなかった。ウィリアム・トルーハート代理大使やノルティングがいうように、洪水救援は底の割れた「逃げ口上」にすぎなかった。それでもテイラーは、洪水救援の名目にすがりつこうとしていた。いつでも必要なとき、面目を失わずに撤収できる。そのまま駐留を続け、任務を変更、あるいは拡大してもよい。被災者救援と並行して、南ベトナム軍の作戦用道路を建設する手もある。米軍の存在は、南ベトナム軍首脳によるジェム転覆の陰謀を抑止する効果もあった。より多くのベトナム軍部隊を、実際の戦闘に投入できる。ベトコンが被災地域に戻るのを阻むこともできる。アメリカの支援の確かな証を求めて騒ぎたてるジェムも、満足させられるはずであった。医療、補給、輸送、建設、飲料水確保などを目的とする部隊に、彼らを守るための戦闘部隊を加えると、6000人から8000人規模となった。事前に国際監視委員会に通告したうえで、彼らは早ければ11月11日には現地に送り込むことができるはずであった。ただしそれには、.6日までにケネディ大統領が、「必要とあらば仕事をなしとげるのに十分な兵力を派遣する」つもりかどうか、つまり際限のない介入になりかねない危険を冒すかどうか、はっきりと決断しなければならなかった。もちろん将兵に損害が生じる覚悟は必要である。植民地主義的介入への非難は避けられなかったし、共産側がこれを機にベトナムと東南アジア全域で侵略を一挙に激化させる可能性もあった。だからフェルト米太平洋軍司令官は、ほかにジェムを援助する手段が尽きないうちは、米戦闘部隊の導入には消極的であった。ケネディ政権の文官たちにも、介入にともなう危険はわかっていた。ベトナム特別作業班長のコットレルは10月27日、師団規模の米戦闘部隊を送れば、短期的には南ベトナム政府を心理面で高揚させるかもしれないと認めたが、それでも現段階では思いとどまるべきだとテイラーに警告した。
いまこそ派兵の好機
洪水救援部隊の投入は、南ベトナム情勢の「下降傾向を逆転するのに絶対必要な行動」だとテイラーは確信していた。大洪水からの復興が成功すれば、南部諸省で南ベトナム政府と民衆との絆を強化し、ベトコンが再びここに入り込めないような条件をつくりあげ、反共勢力を政府の側に動員できる。洪水被災地域の救援にあたるだけでなく、その後、被災しなかった地域でも南ベトナム軍を支援することになっている。南ベトナムの軍組織、民間防衛隊などとの協力体制を打ち立て、彼らに攻撃精神やすぐれた戦術を授けることもできるだろう。それはベトナム人にとってはむろん、「アメリカとベトナムのバートナーシップ」にとっても、またとない機会であった。行動計画は次のように決められた。11月第二週に、ジョーデンが待望のベトナム白書を完成させる。北ベトナムの侵略を国連に提訴する準備を進める。第三週には、ケネディ大統領がジェム大統領に、南ベトナム政府の援助要請があれば受け入れる用意ありと伝える。SEATOを含む同盟諸国、米議会指導者との協議を行う。第四週、介入計画はいよいよ正念場を迎えるはずであった。ケネディ、ジェムの往復書簡を公表する。洪水救援部隊、ヘリコプター部隊などの第一陣を移動させる。ベトナム白書を公刊し、国連への提訴を行う。議会を特別招集して軍事行動に同意する決議を求める。モスクワヘの「静かな伝言」によって、ソ連に、「ホー・チ・ミンが犬ども[ベトコン〕を坪び返し、自分のことに専念し、国民を食わせるよう、影響力を行使」させる。こうした手順であった。米軍投入には、五つの目的があった。第一にベトナム国民の士気を高揚させ、東南アジア防衛に賭けるアメリカの決意を誇示するのに必要な、「アメリカの軍事的存在」を確立。第二に、南ベトナム軍の軍事作戦、洪水救援作戦を支援しながら、補給活動を担当。第三に、「自衛と、駐留地域の安全確保のため必要な範囲内」で、戦闘作戦に従事。第四に、危機の高まりに備え、南ベトナム軍支援のための「緊急予備兵力」として待機。第五に、もし太平洋軍司令部なりSEATOなりの軍事介入計画が現実のものとなった場合、その「先乗り部隊」として行動。とくに重要だったのが、「ベトナム人の士気を維持し、アメリカヘの信頼、つまりわが国がラオスで柔弱に見えたために揺らいだ信頼を回復する」ということである。それにはもはや言葉ではなく、アメリカの意図がどれほど真剣かを示す「目に見える形での象徴」がどうしても必要であった。それにはどうやら「少数の米軍部隊の導入ほど効果的なものはなさそう」だ、というのがテイラー使節団の判断であった。大規模な兵力は不必要だが、まったくの形ばかりの部隊では意味がないとして、6000人ないし8000人、という数字がはじき出された。
ケネディの驚愕
経済担当国務次官ジョージ・ボールは、洪水救援部隊の派遣という勧告に驚きを禁じえなかった。彼はマクナマラ国防長官とギルバトリツク国防次官を相手に、テイラー勧告は、アメリカを大戦争に巻き込みかねない「危険きわまりない文書」で、もしそれに従えば、「問違った場所で、問違った種類の戦争」をすることになる、と警告した。ヒルズマン国務省情報調査局長(のちに国務省極東担当国務次官補)には、アメリカが南ベトナムに送り込む工兵部隊は、被災者救援と復興支援という当初の任務を終えてしまえば「ほとんど無価値」になると思われた。もしその後も駐留を続ければ、外交的にも軍事的にもアメリカの立場がまずくなると危慎される。それでもテイラー勧告は、人道的任務のために派遣した兵力が、そのまま特殊部隊や正規軍部隊導入の呼び水にもなる、という点で魅力たっぶりであった。まさにそれは、「戦略的考慮と社会福祉的考慮の、めったにない避遁」だった。ヒルズマンはのちに、テイラー勧告を受け入れることは「大規模なアメリカの介入」を意味していた、しかし問題は代案がなにもなかったことだった、と述懐している。これに対して、同じ国務省でも極東局のサリバンは、勧告の真意は、「必要とあらば介入の用意を整えておかなければならないという意味」にすぎなかった、と解釈している。テイラー自身、のちになって、自分が提案したのは戦闘部隊ではなく工兵を支援するための予備兵力にすぎなかった、と弁明している。しかし1961年11月早々、戦闘部隊の派遣という思わぬ勧告に接したケネディの驚きは大きなものであった。すぐさま勧告を機密文書に指定、すべてのコピーの回収を命じた。ケネディはテイラーについて、「たとえどれほど有能で上品な人問だとはいえ、結局は軍人であるということを軽く見すぎていた」と、大統領の側近シュレジンガーは述懐している。ワシントンではそれまで、テイラーは東南アジアのゲリラ戦争の特徴を十分理解していると思われていた。しかし肝心なこのとき、彼の勧告は朝鮮戦争型の通常戦争に、強く傾斜したものであった。テイラーは二重の意味で、ケネディの期待を裏切り、アメリカを問違った方向に導く勧告を行ったのである。テイラー将軍はのちに、その後に事態がどうなるかあらかじめわかっていたら、せめて洪水救援部隊の派遣勧告の部分だけは修正したかった、と後悔している。しかし別の機会には、「1961年秋の時点でケネディはむしろ強力な戦闘部隊を送るべきだった」とも述べている。二律背反のこうした言葉は、ベトナムを失いたくはないが大規模介入もしたくない、というケネディ政権の、そして大統領自身の揺れ動く心の反映でもあったろう。しかも、当時の彼らには、「ベトコンの攻勢がどこまで行くのかさえわかっていなかった」のである。テイラーが回顧するように、当時は少数の米軍を送り込むことは「分別あるふるまい」だと思えたかもしれない。しかし、肝心の勧告は、「どれほどの兵力が必要になるものなのか、私が勧告しているのが数千人規模なのか数万人なのか、まったく考えていなかった」という程度の前提に立っていた。これ以降のアメリカが命運を賭すには、それはあまりにもあやふやな根拠にもとづいた策にすぎなかった。ワシントンの皮算用では、戦闘部隊派遣の結果、ジェム大統領が改革に本腰を入れ、ハノイがアメリカの警告を真剣に受け止め、南ベトナムもラオスも確保されるということになれば、それが一番望ましかった。しかし、「ただ一つ問題がある-------まったく可能性がないことだ!」と、ウィリアム・バンディ国防次官補は嘆息している。それどころか、ジェムに不利なまま戦いが続き、改革も不十分な結果に終わる危険も大きかった。
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