克服できぬ反共政策 |
松岡 完著「ケネディの戦争」より |
膠着する戦線 1962年を迎えて戦線は完全な膠着状態に陥った。ケネディの苦悩は続く、しかしケネディはいかなる状況に陥ろうとも決して「戦闘部隊」の派遣には首を縦に振らなかった。そこに、ある決意を感じた人々も存在していたし、実際にケネディの極秘の任務をおびてヴェトナムに向かった人物も多数存在している。大統領の周辺からは「ケネディの一大決心」をささやく声が聞こえてくる、この時期、ヴェトナムからの早期撤退を進言したフルブライト上院議員などにケネディが漏らした言葉に「すべては1964年の再選以降に決着をつける、それまでは動けない」と話したと言う。合衆国大統領にとってはヴェトナム問題は大きな問題であることには違いないが、国際情勢、特に共産主義の大津波は世界中に広まりつつあった。その全てに立ち向かわねばならないケネディにとってその最大の危機となった「キューバ危機」を偶然の所産とはいえ何とか乗り切った自信は大きかった。キューバ危機以降、ケネディは大きくその舵を切ることになる。「お互いの多様性を認め合う世界の構築」を歌い上げていったのである。そして「ヴェトナム撤退」のサインを送り始める。国防省の高官であったフレッチャー・ブラウディはケネディから「ヴェトナムからの米国顧問団撤退の影響」を具体的に研究すると言う密命を受けてヴェトナムにとんだ。しかし運命の女神はその成果をケネディに託すことは無かった。それ以上に「ひょっとして、この舵取り自体が彼の人生を縮めてしまった」のかも知れない。一方ヴェトナムの暗雲は実にケネディ以降4期3名の大統領の手足を縛りつづけ1975年にいたってようやく終息を向かえるのである。この15年間に受けたアメリカの痛手は大きく、国民は疲労の極に達し経済面・社会面の両面にわたって悪影響を及ぼしていった。その影響の余韻はいまだもって続くと指摘する者もいる。 ケネディの系譜 ケネディの1000日間をその一面のみを捉えて評価することは不可能であろう、彼の持つ”幻想を持たない理想主義者”としての資質は歴代大統領の評価の中にあっては特異な存在である。歴史家はこの資質を解き明かすことに、今もって困惑の表現を隠そうとしない。ボストン大学アンドリュー・ベースビッチは言う。現実的にケネディは「冷戦リベラル」と呼ばれる左翼の系譜に位置すると言えるであろう。国内政治では「大きな政府」を唱え、進歩的ではあるが外交面ではソ連と力で対決し介入主義を取った。これはトルーマンを含めた戦後二代の民主党大統領の典型であったと言えよう。しかしヴェトナム戦争後半、70年代の民主党に代表される「米国リベラル」は、冷戦に背をむけ介入主義への反対を強めていった。これらの考えに「米国の力」を信ずる部分、特にヘンリー・ジャクソン上院議員に代表される民主党右派の潮流は、アメリカンパワーの崩壊に対する危機感から民主党を分派していった。この潮流が現代アメリカ政治の潮流となった感のある新保守主義・ネオコンサーバティブ(ネオコン)に収斂してきたのではないか。ある一面のみを捕らえればネオコンの潮流の原点はトルーマン・ケネディの二人にあると言っても大きな誤りではないのではと言える。ネオコンは保守と革新、力の信仰とユートピアこれらの思想の奇妙な混合体とも言えるであろう。本当の保守は、歴史に対する悲劇的な感覚を持っている、歴史の進歩を簡単には信じない。人間は誤りやすい存在で、その誤りをどうやって防ぐかということを考える。しかし「新保守主義」を標榜するネオコンのやっていることは、米国的価値観を外国に押し付けていることである。これは過激思想でありユートピア思想だ、保守ではなく左翼だと言える。共和党右派の論客で評論家のパット・ブキャナンはこうも言う「ネオコンの目指すのは外国に介入する「帝国主義」だ、アメリカが目指してきたのは中央政府の力を限定した「共和国」であったはずだ。冷戦時代に民主党からの転向者を歓迎していたら連中に共和党を乗っ取られてしまった。」と嘆く。私は今後のアメリカ外交はもっともっと軍事力を使うようになり、野心的に介入するようになり、最後には自らの力を使い果たしてしまうのではないかと恐れる、失敗するように運命づけられているようにも思う。外国からの反発は避けられない。同時多発テロ自体がアメリカへの反発の一種であった側面も決して忘れてはならないのだ。だが、アメリカ人は成功や勝つことが大好きだ、現在の政策がうまくいっているように見える限り、現在の単独行動主義や軍事力偏重の路線は続くであろう。将来大きな障害にぶつかって失敗をしない限り、その意味で「ヴェトナム戦争の歴史」は繰り返されようとしているのかも知れない。そして又近いのかも・・・・・・・・ (完) |