克服できぬ反共政策
ケネディが最初に東南アジアで直面したのは、ヴェトナムではなくラオスの危機であった。前大統領ドワイト・アイゼンハワーがそれまで支援してきた右派勢力は、ほとんど崩壌の淵に追いつめられてていた。ケネディは就任後ほどなく、「ラオスでは支えるべきものはほとんどない」という結論に到達した。そこで次善の策として、左右両派に中立勢力を加えた連合政府の樹立と、国際的な保証による中立化の方針を固めたのである。同じ方式をヴェトナムにも適用できないかと考える者はいた。ガルブレイス駐インド大使は、中立化という解決こそ、「南ヴェトナムの放棄にも、われわれの大規模な軍事介入にもつながらない第三の道だ」と信じていた。ポウルズ国務次官や、ジュネーブ会議のハリマン米代表(のち極東担当国務次官補)も、ラオスで可能だったことが、ヴェトナムやそれ以外の東南アジアでできないはずはない、と考えていた。しかしそこには二つの問題があった。第一は、ラオスにせよヴェトナムにせよ、ソ連がカギを握っているという大前提が正しいかどうかであった。たとえばラオス内戦が「たんにその土地で発生した争いではなく国外からソ連と、(ソ連の援助を受けている)北ヴェトナムに支援された戦争」だと本当にいえるのかという問題である。たしかにソ連側はラオス中立化をめざす交渉のなかで、非公式ながら、「北ヴェトナムを抑制できるし、そうするつもり」だと伝えていた。ロストウはのちに、自分たちはロシア人から、北ヴェトナムにラオス経由の南への浸透をやめさせる約束をはっきり得ていた、と述懐している。もしそうなら、クレムリンを説得できさえすれば、即座にラオスでもヴェトナムでも和平は可能なはずであった。しかし、じつはフルシチョフ自身、1961年6月のウィーン会談でケネディに、たとえ米ソがラオス交渉で合意しても、「戦いに加わって いる勢力どうしの問で合意が成立しなければ、なんの役にも立たないだろう」と率直に認めていた。ワシントンでも、ラオスで「フルシチヨフがケネディに行った保証が無意味だとはっきりした場合」に備えて、SEAT0による軍事行動の可能性が検討され続けていた。仮に、アメリカがヴェトナムなり東南アジアなりの中立化を選択したとしても、その現実の可能性には疑問があった。だからこそ、ラオス中立化という合意が本当に成立するか、休戦監視が長期にわたって実効性を持つかどうかが、将来に向けての重大な試金石だったのである。アメリカは、平和と安定を回復したこの内陸国が、共産中国および北ヴェトナムと、南ヴェトナム、カンボジア、タイとの緩衝地帯として本当に機能するよう、祈るような気持ちで見ていた。ところが、スバンナ・プーマの連合政府樹立にソ連が同意したことじたい、疑いの目で見られてもいた。それは、ラオスから米軍事顧問たちを追い出し、バテトラオを可能な限り現状のまま維持し、破壊活動、浸透、宣伝活動をさらに続けさせ、選挙をつうじて合法的に政府を左傾化させるという意図の表れだとされたのである。これでは、1954年のジュネーブ会議のように、大国の主導権と合意のもとで、たとえ一時的にでも地域の平和と安定が買えるかどうかは、どうにもあやしかった。
米国への脅威・真の源泉
東南アジア中立化にともなう第二の問題は、ラオスで妥協の道を選んだアメリカに向けられた同盟国の疑念であった。ラオスの右派指導者ノサバン将軍は、「アメリカはラオスを見捨てるつもりなのかと迫った。」SEATO司令部を首都バンコクに置き、「東南アジアにおける自由世界の集団安全保障体制の基石」とされるタイの不安も大きかった。ラオスと国境を接するだけでなく、その存続をアメリカの力と意志に依存する南ヴェトナムもまた、隣国の事態にますます懸念を強めていた。ヴェトナム人は「自分たちの番が来れば、ラオスと同じような扱いを受けるのだろうか?」という疑問を口に出した。チャン.バン・チュオン駐米大使はラスク国務長官に、「昨年共産主義者達は、自分たちにはなんの危険も及ばぬままにラオス奪取の戦いを行った。今年はベトナムの番だ」と断言したほどである。ワシントンの常識では、ラオス人愛国者の名をかたるバテトラオとは、「北ベトナム共産党の支配下にあり、指導と支援をハノイに仰いで」活動を続けている組織であった。当然、ヴェトコンが南ヴェトナム領内で自然発生した反政府の革命運動だというのも、まったくの虚偽でしかない。ヴェトコンは、「北ヴェトナム共産党の不可分な一部であり、政治面でも軍事面でもハノイに指導を仰ぎ、さまざまな形での支援を受けている」としか見えなかった。1961年秋、ケネディはフルシチョフに書簡を送り「暴力によって南ヴェトナムの正統政府の転覆を図る、ヴェトナム民主共和国の計画的かつ恒常的な努力」をきびしく糾弾した。ハノイの背後にはさらに恐ろしい敵がいた。ケネディは大統領就任後最初の一般教書で、「アジアでは、中国共産主義者の容赦ない圧力が、地域全体の安全に・・・手に入れたばかりの独立を守ろうと戦っているインドや南ベトナムの国境から、ラオスのジャングルにまで、脅 威を与えている」と警鐘を鳴らした。ソ連と手を携えようと、袂を分かとうと、北京政権と毛沢東こそ、アメリカとケネディが東南アジアで立ち向かうべき本当の相手なのであった。ケネディ政権発足直前、中国の指導する革命戦争は、東南アジアでも極東でも「ことに印象的な」成果をおさめているように見えた。アジアの反共指導者たちの間にさえ、「赤色中国が急速に東アジアで一目置かれる国になろうとしている」という考えが拡大していた。この状態を放置すれば、地域全体の力の均衡が回復不能な打撃を受けることは目に見えていた。ケネディ政権に参集した人々の問に、北ヴェトナム人もまた民族主義者なのだ、ヴェトコンも南ヴェトナム人も同じだと考える者が皆無だったわけではない。しかしそれ以上に、ホー・チ・ミンとその仲間たちが共産主義者でもある、という事実が大事だった」と、ウィリアム・バンディ国防次官補は述懐する。
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