今回のテーマは、初めて会員の方からのリクエストにお答えするものです。ボビーさんから今年の6月メールを頂き”BEST AND BRIGHTEST”について知りたいとの事でした。小生あいにく”BEST AND BRIGHTEST”の意味を知らず、お問い合わせしたのですが、BEST AND BRIGHTEST とはニューフロンティアを掲げてスタートしたケネディキャビネットの事だそうです。必ずアップしますとお約束したのですが遅くなりましたがお約束を果たすことができました。

ケンブリッジ派

1960年11月8日ケネディは眠られぬうちに朝を迎えた。第35代合衆国大統領が決定する日が始まったのである。その日の選挙結果は歴代大統領選挙史上希に見る大激戦となった、ちなみに、9日のニューヨークタイムズ紙のトップ記事は”ケネディ当選”でありワシントンポスト紙のトップ記事は”当落不明”であった。選挙の結果は全国の投票総数六千八百八十三万八千五百六十五票で、結果的にニクソンとケネディの票差は、わずかに十一万二千八百八十一票の差でしかなかった。この事が大統領の就任までの73日間の組閣作業に、影響を与えたのかどうかについては意見の分かれる所である。研究者の中には、もし大統領選挙においてケネディが地滑り的な圧勝をしていたのであれば、ケネディは死なずに済んだとまで言う者まで存在する。それは組閣最初に問題となったCIAとFBIの長官人事であった、U2型偵察機撃墜事件の失態は譴責されてしかるべき事件であったし、アレン・ダレスは共和党政権のジョン・フォスター・ダレス国務長官の実弟であり、エドガー・フーバーはニクソンの片腕と言われた人物である。当然ケネディ側近たちは両長官の解任を進言したし、ケネディ自身も両長官解任を進言するスタッフの議論を煽っていたくらいであった。しかし、ケネディ内閣の中でもっとも初期の段階で両長官の留任が発表されている。この事についてケネディは何も語らなかったが、この事が共和党懐柔の為の産物であることは疑問の余地はないし、1960年当時はフーバー・ダレスは、依然として国民的偶像であった。ハイアニスからパーム・ビーチの別荘に移り、そこで組閣構想を練り始めたケネディは、フロリダのキイ・ビスケーンで静養中のニクソンをわざわざ訪ねている。これは、ケネディ側近だけでなく、ホワイトハウス記者団の意表を衝く行動であった。「共和党のする必要がなかった事で、民主党がしなければならない事もあるだろうからな。」と、ケネディはニクソン訪問の理由を冗談でごまかしてはいたが、彼は明らかに共和党への懐柔策を考えていたのである。簡単に言ってしまえば、51対49で勝った男が、49票の世論を無視できないとした民主主義のルールに忠実でありたいと願ったのかも知れない。

ケネディ側近の参謀集団はケネディ当選の時からすでに決定していたと言っても過言ではない。この集団こそが”ケンブリッジ派”と呼ばれたグル−プである。ケンブリッジとはマサチューセッツにある学園都市の名前で、そこには、ハーバード大学やMITと呼ばれるマサチューセッツ工科大学がある。ケネディ自身ハーバードの卒業でありその人脈から側近やスタッフにはケンブリッジに関連する人物が大多数を占めていた。ケネディの直属の側近を特別補佐官と呼んだが、これらの補佐官グループをあえて序列的に並べてみると、

シオドア・ソレンセン(ケネディ下院議員時代からの側近)
アーサー・シュレジンジャー(ハーバード大学歴史学教授)
マックジョージ・バンディ(ハーバード大学政治学教授)
ケネス・オドンネル(ハーバード大学出身・ロバート・ケネディ友人)
ローレンス・オブライエン(上院議員時代の秘書官・ハーバード大学出身)
ピエール・サリンジャー(選挙本部広報官・元新聞記者)
リチャード・グッドウイン
マイヤー・ヘルドマン
ラルフ・ダンカン

これらのブレーンがケネディの為のホワイトハウススタッフであった。全員がなんらかの形でハーバードとの関わりをもっていた為、これらの人選は極めて当然すぎるほど当然の人事でまったく意外性はなかった。しかし、ケネディの組閣に関してはまだまだ難問が山積していたのである。

組閣

人選の問題は切迫していた、わずか73日間しか時間は存在しなかった日本のように上意下達のピラミッドで人事が決定する訳ではない。ケネディが自分の意志で自由に決定できる人事は1200名の”法令集C級職以上”の人事であるし、しかも今回は共和党から民主党への政権移譲である。上院郵政公務員委員会の作成した分厚い緑色の官職リストは”買い物案内”と呼ばれてしばらくの間スタッフの愛読書となった。ケネディはあまりにも人脈が偏りすぎていた、彼は政治家や公務員さらには報道関係や労働運動の指導者達の人脈はすぐれていたが経済界や法曹界・ハーバードを除く大学関係者・各種財団関係・科学技術者たちの人脈はほとんど皆無に等しかった、ケネディは悲鳴を上げてこう叫んだという。「人、人、人!!私はまるで人を知らない。私の知っているのは選挙民だけだ。どうやってこの1200名の官職を埋めたらいいのだ!・・・・皆、ジム・パーキンズの名前を言うが、ジム・パーキンズとはいったい何者だ?」。ジム・パーキンズとは当時カーネギー財団の副会長で後にコーネル大学の学長となった人物でこの時期の政治的万能選手と言われ、どのような官職が議論された時でも自然と人の口にのぼっていた。ケネディの人脈的最大の欠点はニューヨークの財界や法曹界にはまったく知人がいなかった事である、しかも、このニューヨークの社会こそが共和党、民主党を問わず、つねに正統派の、そして、しばしば有能な人物を送り出してきたアメリカ政界の人材の兵器庫であった。この社会こそが東部既成社会(東部エスタブリッシュメント)と呼ばれる世界の、心臓部にあたるのである。当時の指導者はロバート・ロベットとジョン・マクロイ(ウオーレン委員会委員となる)であり、その先頭に立つ組織はロックフェラー・フォード・カーネギーの各財団、その機関紙は”ニューヨーク・タイムズ”と”フォーリン・アフェアーズ”である。しかし基本的に彼らの政策は圧倒的に共和党的であった。
ニューヨーク既成社会は、疑いの目でケネディを見ていた、その多くはケネディの父親が原因であったジョセフは長い間、財界では無所属であり、外交政策においては孤立主義者として排斥されてきた。これに加えてケネディの主な協力者が、民主党政治家と大学知識人であったことも原因に数えられよう。この二つのグループに対して既成社会は不信の念を持っていたのである。また、ケネディのアルジェリア問題におけるフランス政府の政策を攻撃した1957年の演説や反NATO的な諸発言がそれに輪をかけていた。
そんな既成社会との連絡窓口となった人物こそ既成社会の指導者の一人ロバート・ロベットであった。ケネディは彼との数回の会談で彼のとりこになり、残り少ない人生の相談者とした。(キューバ危機の際、決定的な助言をケネディに与えた人物こそ、このロベットであった。キューバ危機参照)ロベットもケネディの為に新しい人材の分野を切り開き、ケネディの考えに多くの影響を与えていったのである。ケネディはロベットに対し閣僚の最重要ポストの国務・国防・財務のどれでもいいから受諾してもらいたい旨ロベットに提案している。しかし、ロベットは健康上の理由でその提案を断っている。しかしケネディは諦めなかった、ケネディは弟ロバートを次官にするという条件で国防長官を引き受けてくれるよう説得し、それがだめなら、同様にロバートを次官にする条件で、事もあろうに、アイゼンハワー政権の国防長官トーマス・ゲイツを一年間留任させたいとまで言ったのである。このことはニューヨーク既成社会へに最大限の妥協を意味する。いずれの場合でもケネディは一年後にはロバートを長官に昇格させる腹であったのであろうが、彼の側近達からの猛反発を受けて断念したのであった。ケネディのこの時期の最大の人事問題は、国務・国防・財務の人事であった。彼は語っている「国務・財務および国防の人選が、最も困難だ。私としては新顔が欲しいのだが、手にするのは、相も変わらぬ古い名前ばかりだ。実際ガッカリするよ。しかし、今から新しい人材を育てるとなると、しばらく時間がかかるだろう。」
この時期ケネディは四つの閣僚については心をきめていた。すなはち、ルーサー・ホッジスの商務長官、エイブラハム・リビコフの保健教育厚生長官、スチアート・ユードル内政長官、アーサー・ゴールドバーグ労働長官である。ホッジスとリビコフの人事は明らかに財界懐柔政策と一致していた。
ホッジスは、かなりの年寄りで大統領より20歳年上であり、愛想がよく、しかも押し出しのきく人物であった。彼の指名は連邦議会と経済界の気に入るものであった、リビコフも又魅力的な、分別ある人物でありケネディは党大会の時期に彼から援助を受けた事に恩義を感じていた。
ユードルの指名はケネディ政権の一方の目玉であった、若くて活発で教養があるユードルは、敬虔なモルモン教徒で自然環境保護論者として全米で知らない人はいないと言われた人物である。この人事は全米に歓迎と共感を得たのであった。最後のゴールドバーグは、疑いもなく有能で実行力に富んだ人物で、1958年から59年にかけての労働立法をめぐる上院での論戦の時に労働者の代表として目覚しい活躍を見せて以来のケネディの数少ない労働界の知人であった。

国防・財務

マクナマラの名前を最初に口に出して推薦したのは、ロベットであった。「第二次大戦中、(ロベットが)ルーズベルトの下で国防次官をしていた時、ハーバードの経営専門グループを招いて国防省の運営にタッチさせた事があったが、その中で抜群の切れ者がいた。ロバート・マクナマラと言う人物だ。」マクナマラはこの時期、希に見る人材であった、1937年カリフォルニア大学を主席で卒業、ハーバード大学の経営学部に進んだ。ここで優秀な彼は卒業と同時にハーバードの経営学部助教授に任命されている。空軍大尉として終戦を迎えた彼は戦後フォード社に入社、頭角を現し44歳の若さで、この年にフォードの最高経営責任者いわゆる社長に就任したばかりであった。
この時期、ケネディの手となり足となって活躍した人物はケネディの義弟にあたるサージェント・シュライバー(ジョセフの三女・ユーニスの夫であり、ケネディ政権時代、平和部隊の長官として活躍、1976年、ジミー・カーターと民主党大統領候補を争った)であった。彼はケネディの依頼を受けてマクナマラとの会談に向かった。デトロイトに飛んだシュライバーは開口一番「自分は大統領当選者(就任までの期間アメリカではこのように呼ぶ)から、貴方を国防長官もしくは財務長官に任命する事を一任されてきた。」と述べたのである。マクナマラはびっくり仰天した。「財務長官?とんでもない、僕は銀行や財政に関しては素人だし、国防に関してだって時代遅れの知識しかない、現代の核の時代にはとてもついていけない。それに自分はフオードの社長に就任したばかりだ。」と固辞した。シュライバーはせめてケネディと個人的に会ってくれないかと頼んだが、マクナマラは、純粋に儀礼的な意味で、翌日ワシントンに行く事には同意したのであった。翌日ワシントンを訪ねたマクナマラは、再度自分の考えを話すとケネディは「君は素人だと言うが、大統領や閣僚を玄人に仕立て上げる養成所など聞いた事が無い、誰でも、やるまでは皆素人だよ。」と説得した。即答を避けたマクナマラはデトロイトに戻り考えた、マクナマラ自身ケネディの魅力の虜になっていたのである、マクナマラは二度目の会談で、部下の人選、任命の自由をまかせるといったかなり厳しい条件をケネディが認めた事によって国防長官を引き受けたのであった。この関に逸話がある、同席したロバートが、マクナマラに「フォードの持ち株を売却せずにすむ方法もあるのではないか。」と助言するとマクナマラは「自分の持ち株はすべて売却して、ワシントンにやってくる。」と怒ったように答えたと言う。実はこれには前例があるのである。アイゼンハワーの初期政権で国防長官にGMのウイルソン社長を据えた時、国防省がGMに発注した戦車をめぐって議会が紛糾した、この時ウイルソンの持ち株が問題になったのである。この時ウイルソンが吐いたのが有名な「GMは国家なり!」であった。こうして年収400万ドルの職を捨ててその身一つになってマクナマラはワシントンに乗り込んだのであった。
財務長官の人選は依然未解決であった。この時期のアメリカの経済的最重要問題は国際収支の悪化と金の流失問題であった。この問題の為には新しい財務長官には国際金融界において深く尊敬され信頼されている人物の任命が最も好ましい事とされていた。それに伝統的にアメリカ政府は財務長官は財界から選ぶ事が一般的であった。前述のように財界とくに東部既成社会は共和党員が多く保守的であった、ケネディは悩んだ上で一つの妥協をした、前アイゼンハワー政権で国務次官であったダグラス・ディロンの起用である。勿論ディロンは共和党員であるが国務省出身である。「財務長官は外交政策上でも重要なポストであるから、国務省での経験を持った人をあてることは、有利なことになる」といった考えである。しかし問題は内部から起こった、11月21日民主党の有力議員のアルバート・ゴア上院議員はケネディに対して、財務長官の任命こそケネディ政権の成功を決する鍵であると主張して「現在の国際収支上の問題は、現政権が、アメリカを常に前進させることに失敗していることを現実に示している。・・・・にもかかわらず。この最も重要な課題に失敗した政権の一員であったということだけで有名になっている人物を、財務長官と言う重要ポストに任じようなど、たとえほんの瞬間にせよ、なぜあなたは考えなければならないのか?このことは、愛想のよいのんき者のディロン氏のみならず、これまで名前の上がっているほかの保守的な共和党員達にもあてはまる事である。その様な任命は、貴方が真正の民主党政権の目標を放棄したというしるしになるであろう。」と口を極めて非難したのである。ケンブリッジ派の補佐官達にも動揺が走った。共和党員である彼は多分、共和党的経済政策の代表者であろうと疑っていた。加えて重要な閣僚ポストを、選挙で敗れた政府の閣僚以下の官吏に与えるなどといった前例もないし、ことに、ニクソンの選挙運動に献金し、ニクソンが当選した場合でも同様のポストに任命したであろう人物を任命するなどと言った事はもってのほかである、といった論法である。これらの非難に対してケネディは答えた「そうか、私はそういうことは気にしないよ、私の知りたい事はたった一つ!彼は有能か?われわれに協力してくれるのか?それだけだ!」と・・・・
ディロン財務長官の決定への最後の問題は実はロバート・ケネディであった。彼は兄の政権が揺らぐ事をもっとも恐れていた、もしディロンが就任後ケネディ政権の経済政策に反対して数ヶ月で辞任したらそれはケネディ政権の大失態すなはち兄ケネディに傷がつくと思ったのであった。ロバートはディロンがケネディと共に記者会見の為に待機していた時突然現れて、もし貴方がケネディの政策に賛成できない事が判った時にはどうするのか?とぶっきらぼうに尋ねた、ディロンは少しばかり驚いた様子であったが、落ち着いて「もしやめねばならぬと感じたら、私はいさぎよく去るつもりである。」と答えた。ケネディの判断は正しかった、実際その後数年間に、ディロンとロバートほど親しい親友になったものはいなかったし、補佐官達にとっても、彼がケネディ政権に快く参加したことよりも、むしろアイゼンハワー政権のもとで良く我慢できたと思うようになったのである。

最大の試練・国務長官

問題は、閣僚序列トップの国務長官人事であった。外交政策に力点を置きたかったケネディとしても重要な選択でもあったし、民主党内でも自薦他薦の人物が大勢いたのである、これは洋の東西を問わず政治力学が多分に働く。そんななかで民主党のなかにあって最大の適任者が存在した、アドレイ・スチーブンソンである。政治経験はケネディよりも深くケネディが下院議員に初当選した時にはすでに民主党の大物であり、何と言っても前回の1956年の大統領選挙の民主党の候補者でもあった。彼自身も当然このポストを提供されるものと思っていた。ケネディはスチーブンソンをパームビーチに招き、こう説明した。すなはち、貴方はこれまでに様々な厄介な問題に関して、あまりにも多くの公職についてきたので、その結果議会にとってはあまりに「問題が多すぎる」ということになる。なによりもまず議会とうまくやっていける国務長官が必要なのだ、とケネディは付け加えた。ケネディはスチーブンソンの決断力や協調性に疑いを持っていたことに疑問の余地はない。ケネディは付け加えた、貴方は民主党内の誰よりも国際的な信望を得ているから「国連大使」として最大の貢献ができるものと信ずると述べたのである。(アメリカでは国連大使は閣僚扱いである)スチーブンソンにとってこれは大衝撃であった、しかし彼はこれを現実的な立場から受諾したのであるが条件を付けた。国務長官が誰になるか判るまで諾否を保留するというものである。確かに国務長官と国連大使は綿密な連携を必要とするし信頼関係が要求される事は事実である、この時スチーブンソンには一つの情報が入っていた。ケネディは国務長官にマックジョージ・バンディが選ばれるのではないかと言った情報である、事実ケネディはこの事を検討している。スチーブンソンとバンディは犬猿の仲であり、もしバンディが国務長官になったならば国連大使の職を引き受けない為の伏線であった。こうしたスティーブンソンの態度はケネディを苛立たせ、優柔不断な人間であるとの人物評価を深めてしまう結果となったのである。
国務長官は政権の顔である、したがってケネディの追いかける「ニューフロンティア精神」を体現できる人物でなければならない。ケネディはこの職にはいわゆる「進歩派」と呼ばれる人物の中から選びたかったのである。最終的に残った有力候補は、デビット・ブルース元駐仏大使、ウイリアム・フルブライト上院議員、そしてロベットの推薦するロックフェラー財団のディーン・ラスクの三名に絞られていた。この中でケネディがフルブライトに傾いていたことは誰の目にも明らかであった、ケネディはフルブライトが気に入っていた。彼の洗練された心の動き、鋭い言葉、外交問題に関する彼の思考形態を好んでいたし、そして何よりも民主党内きっての進歩派であった。(フルブライトの名前は”フルウライト奨学金”として日本人にはなじみの深い人物である)さらに彼は上院外交委員会の委員として議会にはかなりの影響力を持っていたのである。しかし問題が無いわけではなかった、フルブライトには黒人問題で傷があった、1957年の有名なリトルロック事件の時政府に反対して黒人差別派に同調して意見書を出した経歴があった。さらに、中東問題においては徹底的な反ナセル政策に反対しており、ナセル擁護の立場をとっていた、この事がアメリカ・ユダヤ人社会では問題になっていたのである。これらの事はケネディの外交政策上、新興諸国との関係を必要以上に難しくする恐れが有ったのである、ケネディの心は”フルブライト国務長官”に心をきめてしまっていたが、ここに来てフルブライトの名前を名簿からはずさざるおえなくなった。こうなると、デビット・ブルースが第一候補となってきた。彼はアメリカのどの外交官と比較しても引けをとらない経験と経歴を持ち、トルーマン政権の末期には国務次官を勤めていた、しかも、有能な若者を惹きつけ、使いこなす才能を持っていた。しかし、彼はすでに62歳であり、彼の基本的な目はヨーロッパにむいていた、また、ブルースは議会内で尊敬はされていたが、これと言った支持者を議会内に持っている訳ではなかった。ロベットはブルースの替わりにディーン・ラスクを熱心に主張しはじめた。
ディーン・ラスク、51歳、戦前はローズ奨学金の受領者であり、大学で政治学の助教授を務めていた、戦後、国務省に入り国連局の局長を務め最後には極東担当国務次官補になった、転じてロックフェラー財団の理事となり低開発国の援助を担当していた。
ケネディの指示でスタッフたちが、ラスクの経歴と論文をしらみつぶしに調べていたときであった、一冊の雑誌にラスクの小論文が見つかった1960年の春、外交協会機関紙”フォーリン・アフェアーズ”に寄稿された小論文は、題名も「大統領」であった、ここにはラスクの大統領感が書かれていた。「外交政策のリーダーシップは大統領にあり、事態の進展に対して、影響を与え政策を決定する権限は大統領にある。」と論じていたのである。12月4日バージニアのウイリアムズバーグでロックフェラー財団の理事会が開かれていた、ロヴェット、マクロイ、ポールズ、パンチそしてラスクが出席していた。まさに全員が一度は国務長官の候補者として名前の上がった人物ばかりである。その時ラスク宛にケネディの電話がかかった、そして12月8日の会談が設定されたのである。当日ケネディのラスクに対する態度は冷たかった。「大統領」の論文や行政府の機構上の問題について話し合われたが、国務長官の椅子に関する話は一切でなかったと言われている。ラスクは「自分とケネディとは波長がかみあわず、会談からは何も得るところが無かったと確信した。」と述懐している。しかし、ケネディはラスクの明快な物の考え方、穏やかな物腰、堅実な判断力に引かれていた。翌日、ラスクはケネディから国務長官への就任を要請されたのであった。大統領の権力集中論者であったラスクは、国務長官就任後のあらゆる声明や指示の冒頭に必ず「大統領の許しを得て・・・・・を決定した。」と書いている、その為イエスマン長官と陰口をたたかれたのであった。

弟、ボビーの処遇

司法長官についてもケネディは国務長官と同様困難に直面していた、しかし、その理由はまったく別のものであった。父ジョセフはロバートを閣僚の中に送り込むことを主張していた、しかし当の本人は国防次官か国務次官を考えていたのである、父の主張によればボビーが従属的な立場につけば、彼と大統領の間に立つ人間の立場が難しくなる、したがってボビーはどうしても大統領に直接報告する立場につかなければならない、と言うものであった。ボビー自身はホワイトハウスで働く意志はまったく無かったから、結局閣僚になる以外に道はなかった。にもかかわらず、しばらくしてボビーは閣僚にはならないと決意した。マサチューセッツに戻って、1962年の知事選挙に出馬しようと考えたのである。しかしケネディは、弟にワシントンにいて欲しかったし、同時に絶対的に信頼できる司法長官を臨んでいた。周囲の助言はすべてロバート・ケネディ司法長官に反対であったが、ある朝、ケネディはボビーを朝食に呼び、どうしても、司法長官を引き受けてもらわねばならないと言った。後日談であるが、弟の任命をどんな風に発表するのかと尋ねられたケネディは「そうだな、まずある朝の午前2時頃、家の玄関を開けて通りを見回して、人影が見えなかったら、そっとささやこう、ボビーに決めた。とね」
ロバートの考えは新司法長官の名前に”ケネディ”の名前がついていると、司法長官につきものの各種の不評がそのまま、大統領に及んでしまう事を恐れていたのであった。ロバートの考えは、兄、ケネディの不利もしくは悪評につながるありとあらゆる問題を回避することが自分に課せられた仕事であると思っていたし、事実、終生変わらなかった。そんな自分の考えと現に今、兄の苦悩との矛盾に悩んだロバートはついに司法長官への就任を受諾した。ロバート・ケネディ司法長官の任命発表の時、記者会見に臨むロバートにむかってケネディはこういった「おい、ボビー、髪をとかせよ。それから、あまり、ニコニコするなよ。さもないと、我々がこの任命をいかにも喜んでいると思われてしまうぞ。」・・・・・・・
ボビーの任命が終わると残るは、農務長官と郵政長官の二つのポストになった。この頃民主党進歩派と呼ばれる人々の間には、ゴールドバーグを除いて閣僚の中心になれなかった事に対する不満が広がっていた。この事の報告を受けたケネディは「その事は知っている。進歩派も他の連中と一緒で、目に見える保証を望んでいるのだ。しかし、心配する必要はない。問題は政策なのだ。我々は彼らの考えにそって政策を形作っていくつもりだ。」と述べたといわれる。紆余曲折があって農務長官には強力な進歩派の候補者オーヴィル・フリーマンに決定した。事実ケネディのような都会生活しか知らない人間にとって農業政策は苦手であった、ケネディはだれか知的でタフな人間、できればこの問題を自分から肩がわりして、あわよくばその解決策まで見つけ出してくれるような人間を探していた。フリーマンはその条件にピッタリの人物であった。かれの後ろには農業経済学者のガルブレイスがついていたし、ガルブレイスの強力な推薦も受けていた、さらに彼の指名が不満の広がりつつあった進歩派から歓迎されることは明らかであった。フリーマンは農務長官の申し出でを受けた時、貴方が農務長官に推薦されたのはなぜですか?との記者の質問に、こう答えたという「確信はないが、おそらくハーバード大学には農学部が無い事と、何か関係があるんじゃないかな?」と。
後は郵政長官だけであった、この任命にあたって一騒動あった。黒人で、シカゴの政治的指導者である下院議員のウイリアム・ドーソンが任命されるのではないかと、新聞が推測したのである。ケネディはドーソンに申し入れた事もなかったし、その意図もなかったが、この新聞記事はたちまち話題となり、複雑な喜劇の様相を呈した、郵政公務委員会の議長であったオリン・ジョンストンが、このもくろみは、黒人の郵政長官と共に彼が写真に写される事を狙った、政敵の陰謀だと非難すれば、ダレイ・シカゴ市長はこの報道が完全に否定されれば、ドーソンと彼自身が否定されたも同然であると非難するありさまであった。当時の政界の黒人に対する認識はまだまだこの程度であった。もし、ケネディが黒人閣僚を選任していたとすれば、史上初めてのことであり、また、新聞報道もケネディであればやりかねないと思っていたことの証拠となる事件であった。最終的にエドワード・デイが任命された。今回の閣僚の中には西部地区からの起用が全くなかったので主に西部地区からの起用が検討され、カリフォルニアの実業家であり、プルデンシャル保険会社の社長を務めていた。快活なユーモアに富んだデイは西部に移る前にはイリノイで保険局長として働いていた事が有った。身元調査の結果も問題がなかったので任命がおこなわれた。
こうして、ケネディ政権の全閣僚の任命が終了したのであった。

若くて実行力のあったケネディにとっても閣僚の任命は厳しい選択に終始した、あるいは妥協し、あるいは初志を貫徹した73日間であった。ある日シュレジンジャーがケネディに対してこう尋ねた。「あなたの考えている事は、保守的な人々を使って進歩的な政策を実行する政権を考えているのですか?」と、ケネディは深く考えてこう言った。
「1.2年はこういう形でやっていかなければならないだろう。しかしその後で、幾人か新しい人物を迎え入れていきたい。もっとも、一度こういう連中を登用すると、あとで追い出そうとしてもなかなか難しいかも知れないな」

これが現実であった。

ケネディ政権発足時の閣僚及び準閣僚名簿

国務長官 ディーン・ラスク (ロックフェラー財団理事)
国防長官 ロバート・マクナマラ (フォード自動車社長・ハーバード大学出身)
財務長官 ダグラス・ディロン (前国務次官・共和党員・ハーバード大学出身)
商務長官 ルーサー・ホッジス (ノース・カロライナ州知事)
保健教育厚生長官 エイブラハム・リビコフ (コネチカット州知事)
郵政長官 エドワード・デイ(プルデンシャル保険会社社長)
司法長官 ロバート・ケネディ(大統領実弟・ハーバード大学出身)
労働長官 アーサー・ゴールドバーグ (労働運動指導者)
農務長官 オーヴィル・フリーマン(民主党上院議員)
内政長官 スチアート・ユードル(アリゾナ州選出下院議員)
国連大使 アドレイ・スティーブンソン(民主党上院議員)
予算局長官 ディビット・ベル (トルーマン政権補佐官・ハーバード大学教授}
経済諮問委員会議長 ウオルター・ヘラー(ミネソタ大学教授)
中央情報局長官 アレン・ダレス(留任)
連邦捜査局長官 エドガー・フーバー(留任)