経済問題
ケネディ就任後の4年間、アメリカはその近代史上かつてない長期かつ強力な経済拡大を経験した。1960年における経済成長率は3%に達せず、ケネディも選挙戦でこれを主要な争点に取り上げたが、61年から63年まで三年間の経済成長率はその二倍近くまで上昇した。ニクソンは選挙戦で、ケネディが経済成長率が低い事を問題にしたのを嘲笑し、ケネディの一部顧問達もそんな数字を問題にしたからと言って有権者は関心を持たないと思ったほどである。しかし63年末までにアメリカの国内総生産額は16%増えて記録的な一千億ドルに達し、それによって雇用は五十万ないし七十五万ふえ、労働所得は記録的な伸びを示したのである。遊休生産能力は半分に減少、七千万の雇用数の壁は史上初めて破られたのであった。戦後しばしば起きた景気後退の傾向は打ち破られ、統計的にみて訪れるはずの63年の不況も乗り越えた、アメリカ経済はほとんどあらゆる点から見て記録的レベルに達していたのである。
失業と貧困への挑戦
しかしケネディはこの様な成長に満足するどころではなかった、職の無い人々はまだあまりにも多く、全国の貧困地帯には希望のない家庭が、まだあまりにも多かった。そこでケネディは、先々にもっと拡大する計画を立てこれまで拡大できなかったことを残念に思った。だが、彼の在任中に経済拡大をもっとやってほしい、即刻やってほしいと要求した人々は、ケネディという人物を誤解し当時の議会と社会のムードを誤解していたのである。大統領が慎重に動き注意深く検討し、控えめに話し、共和党員の財務長官を相談役としたからこそ多数の画期的な経済処置を議会に可決させることができたのである。勿論、大統領は、連邦政府の活動だけで経済成長がなしとげられたなどと誇るような人物ではなかった。ケネディがすべての経済政策を策定したなどと思う人はいない。
ケネディは経済学を正式に習ったことはなかった、選挙中ニクソンはケネディを”高校程度の経済学でさえ解らない、経済的には無知の徒”と非難したほどであった。ケネディ少年は、高校で経済学をあまり習わなかった、ほとんどの高校生とその点は一緒であった。ハーバード大学では、ラス・ニクソン講師の経済学入門の講義の成績はCであった。蛇足ながら、このニクソン先生はのちに共産系団体との関係を追及され下院の聴聞会に喚問されたが、その時の委員がケネディ下院議員であった。ロンドン大学時代もケネディは、病気の為ハロルド・ラスキ教授の授業もほとんど受けなかった。ケネディは父親の商売にも周囲の経済的環境にもほとんど関心を持たず、経済理論にもまったく興味がなく、議員としての活動でも経済分野をいやがっていた。大統領としては、共和党が考えるより一般に支出に対して慎重であったが予算の扱い方が厳しい割には支出は大まかであったと言う。政府の計画を社会主義とは見なかったし、政府予算は決して収支均衡するものではないとも考えなかった。なんでもやる”強大な政府”の考え方にも限界が有る事を知っていたが、反対に失業と貧困を無くす為には限界はないとも考えていた。
ケネディは負債経営と通貨補給の技術に関する不思議を最後まで理解しなかったが、大統領になってからは卓越した知識吸収力によって経済知識の不足を補ってあまりあったのである。アメリカ史上、彼ほど明晰な経済学者のブレーンを持った大統領も初めてであったろう。彼はあらゆる決定で経済が果たす役割を十分に認識し、あらゆる会議や勉強会にもウオルター・ヘラー大統領経済顧問を同席させていた。
ケネディの経済政策の特徴は、大統領が本来法制上持っていないところの力を、いっそうの工夫と努力によって補おうとした所にある、その最たるものは彼の物価抑制政策である。ケネディの物価抑制政策の大部分は、法的措置によらないものであった。大統領は労使双方に一般的にも個々の場合にも警告を出し、大統領教書や記者会見や演説で警告し、労使双方の大会に足を運び演説し警告した。この工夫の大部分は二つの新しい技術にあった、一つは労使政策諮問委員会をホワイトハウスに作ったことである、二つ目は賃金物価のガイドラインを示したことである、ガイドラインは賃金、物価の上昇が国家利益にかなうものかどうか、国民が判断するおおざっぱな基準を、連邦政府がはじめて示したのである。これらの連邦政府の施策は経済界にとっては”介入”と映った。
経済界との対決
1962年、大統領のインフレ対策、ひいては大統領府と大統領の信用にたいして真っ向からの挑戦が起こった、アメリカの最も基幹となる産業の一つ鉄鋼業界の挑戦であった。ケネディと鉄鋼業界なかでもUSスティール社との対決は1962年4月に最高潮に達したが、大統領はその一年以上前から心配していた。大統領就任直後、元鉄鋼労組顧問弁護士であったゴールドバーグ労働長官と話し合った際、鉄鋼価格が上がると収支のバランスが崩れ、インフレ対策が駄目になる事が心配されていたのである。大統領が心配するのも無理はなかった。鉄鋼はアメリカ最大の産業であるばかりでなく、その価格は直接間接に他のほとんどあらゆる物資のコストになっている、長年、鉄鋼価格の動きはすべての産業の先導役をはたしてきた、「鉄鋼が動けば、インフレも動く」とまでいわれていたのである。
1961年10月1日に鉄鋼労組は、前年の争議で獲得した賃上げを受ける事になっていたが、新聞報道は、鉄鋼業界では賃上げと同時に鉄鋼価格も引き上げる話を報じた。大統領はこれを心配して9月6日、大手鉄鋼13社の社長宛に親書を送り、10月1日、及びそれ以降も値上げをしない様に要請している。返事のうちには慎重な物も無礼なものもあったが、値上げをしないと約束した物は一通も無かった。しかし、値上げは行われなかった。一週間後、大統領は労働側にも親書を送り、62年の労使交渉では賃上げを生産性の伸び以下に押さえる事を要請した。鉄鋼の値上げを招くような賃上げを、大統領が望んでいない事を明確にうちだしたのである。
1962年3月の労使交渉は、一時間あたり約10セントの賃上げで妥結した。これは生産性の伸び率以下に押さえられたものであり、この労使交渉に連邦政府は積極的なリード役をはたしたのである。結局、最初17セントを要求していた労働側が「政府の物価安定の為」と言う説得に妥協した結果であった。交渉妥結後、大統領は労使双方の責任者に直接電話をかけて「今度の妥結が責任あるものであり、産業界における高いステーッマンシップを発揮したものであり、明らかにインフレ防止に役立ち、おかげで今後の物価安定に多大な貢献をしたものである。私はアメリカ全国民を代表して感謝する。」と最大級の賛辞をおくったのであった。
1962年4月10日、大統領は、この日の予定の中にUSスティール社のロジャー・ブラウ会長のアポイントメントが入っている事をいぶかった。ゴールドバーグ労働長官は面会の趣旨に関して心当たりはないと述べたが、一応役所で待機していた。ブラウ会長の目的はじきに明らかになった。大統領の揺り椅子の横のソファーに座ったブラウは、”トン当たり6ドルの値上げをする”と言う新聞発表用の書類を大統領に手渡したのである。大統領は色を失った、インフレ防止のすべての努力が水の泡になると思われた。なによりも、ケネディは馬鹿にされたと感じた。前に座っている男は、わずか数日前、値上げしなくて済むような賃上げ契約を、大統領の斡旋と言う形をとって受け入れたばかりではないか。それなのに、新契約が締結されるやいなや、全製品に亘って大幅な値上げを発表すると言うのである。「私は、あなたが間違っていると思う。」と大統領は冷ややかにブラウに言った。ブラウは残念ながら株主のために値上げが必要だと説明して辞去していったのである。
大統領対鉄鋼業界
大統領の怒りは激しかった。彼の信用が悪用され、彼の地位が利用されたのである。物価維持のために労働側に泣いてもらうということで鉄鋼業界の同意があったからこそ、大統領は調停したのである。それが、今や労働側にも国民にも馬鹿げた行為に映ることになった。「父はいつも鉄鋼界の人間は悪い奴等だと言っていたが、いまこそわかった。」と大統領は言葉を投げ捨てたのである。過去半世紀以上に亘って鉄鋼業界は大統領に反抗する事に成功してきた。ケネディは武器も前例も無い分野で挑戦を受けたのである。考えられたのは、他の鉄鋼会社が値上げに同調せず、USスティールを孤立させ、値上げを引っ込めざるを得ない環境を作る事、さらには、独占禁止法違反の適用の可能性の検討であった。この計画を念頭に大統領は、司法長官、両院のアンチトラスト委員会の責任者に連絡して新聞声明を準備させ、財務長官、国防長官には、USスティールにどのような仕事を発注しているのかをリストアップさせている。そして、明日午後の定例記者会見で大統領声明を発表する事にしたのである、彼はアメリカ世論の動員を考えていたのであった。そして歴史に残る大統領声明が発表されたのである。声明文を読み上げる大統領の声は、氷のように冷ややかであり、日本の真珠湾攻撃を非難したルーズベルト大統領の声明に似た響きがあった。
「USスティール及び他の有力鉄鋼会社が、トンあたり約6ドルの値上げを同時に発表しようとしていることは、公共利益に対するまったく不当で無責任な反抗行為である。我が国がベルリンと東南アジアで重大な危機に直面し、精力を経済の回復と安定に集中し、予備役の国民諸君には応召をお願いしているこの時期に、また、この二日間にベトナムで四人のアメリカ軍人が死んだが、将兵には命を賭けるようにお願いし、労働組合員諸君には賃上げ要求を控えるようお願いしているこのアメリカ史上もっとも重大なときにおいて、一握りの鉄鋼会社重役どもが、社会的責任を逸脱してまで個人的権力と利益を追求し、一億八千五百万のアメリカ国民の利益をこのようにまったく侮辱することは、私にとってもアメリカ国民にとっても、まったく受け入れがたいことである。」
声明は、草稿の文章から何度もはずれ、ケネディの怒りの大きさを物語っていた。(文中、太文字部分は原稿には無かった部分である。)
会場の記者団は、唖然としてこの声明を聞いていた、まさに前代未聞の大統領声明であった。大統領は戦う決意をかためたのであった。
ケネディの勝利
ブラウ、USスティール会長は「報復攻撃だ!アメリカ史上、このように多くの連邦政府の権力が、一つの企業に対して投入されたことはない。」と語った。しかし、戦端は開かれたとしても、政府のとれる、4月12日の時点での実行可能な対抗処置は具体的には、次の二つの方法しか無かったのである。
一つは、国防省が最低価格で鉄鋼を発注するという納税者に対する義務を履行する態度に出ることである。マクナマラ国防長官は、鉄鋼値上げによる諸物価の値上がりも考慮すれば、防衛費は十億ドル以上増加すると報告、国防省内では鉄鋼の代替物の使用の検討に入り、鉄鋼の発注は値上げをしていない会社にすべて変更する旨、指示した。もう一つは、コスト高騰にもよらず需要増大にもよらないのに、経営がまったく別々の会社がいっせいに値上げした事は、正常で自由な市場行為といえるか?それとも、偶然の一致か、それとも、独占行為かについて司法省に調査を開始させる事であった。その中で政府が特に関心を持ったのは、ベスレヘム・スティール社のマーティン社長がUSスティールの値上げ発表前には「今は、値上げの時期ではない。」と言明していたにもかかわらず、USスティールが値上げ発表すると直ちにその後を追って、値上げの発表をしたことである。これは陰謀か、独占力か、周到な欺瞞行為なのか・・・。現代では極めて当然の調査であるが、鉄鋼界の価格操作に関する共同謀議の長い歴史のなかで初めての調査であった。
しかし、これらの処置は国民的関心を呼ぶには違いないが、値上げを撤回させる拘束力を持つ物ではなかった。他にも、”緊急鉄鋼価格法案”のようなものを議会に可決させる方法や、大統領行政命令の発動なども検討されたが、いずれも弱すぎるか強すぎるか手遅れか、もしくは大統領の法制上の権限ではなかった。時間的余裕はない、前回の鉄鋼値上げのときには、最初の会社が値上げを発表した日から、わずか二日目には、すべての鉄鋼会社が値上げに同調してしまったのである。しかし、まだ望みはあった、4月12日の時点で、まだ大手鉄鋼会社の中でも値上げを発表していない会社があったのである。これらの会社に値上げを踏みとどませ、USスティールに撤回させることにかかっていた、この分裂征服戦略が成功するかどうかの焦点は、まだ値上げを発表していない会社の最大手”インランド・スティール社”にかかってきたのである。この時期、政府のほとんどの省庁が緊急記者会見を行い、鉄鋼値上げが国防、国際収支、農業、中小企業などあらゆる分野に亘っての影響について発表している。また、マスコミへの協力を依頼し友好的な記者にブラウ会長の記者会見に出席してもらい、適切な質問をしてもらうようにも要請している。また、民主党の州知事には鉄鋼値上げを遺憾とする声明を出させ、各地の鉄鋼会社に、値上げに同調しないように呼びかけさせた、さらに、政府のスポークスマンを、各メディアのインタビュー番組に出席させて鉄鋼会社の横暴を非難させたりもしている。まさに、1960年の大統領選挙のときに見られた”ケネディマシン”の”連邦政府版”の様相を呈したのである。
当時、インランド・スティール社のジョゼフ・ブロック社長は日本訪問中であったが、13日の朝ついに「インランド・スティールは値上げをしない。」との声明を出したのである。さらに、カイザー・スティール社も値上げしないと発表。続いて、アメリカ中部ではインランド・スティール社と、西部ではカイザー・スティール社と競争関係にあり、アメリカ国防総省から大口の契約を貰っていたアメリカ第二位の鉄鋼会社ベスレヘム・スティール社が値上げを撤回したのである。
大統領は、消費者と実業人のために値上げに同調しなかった会社に対して感謝の声明を発表、さらには大統領声明を発表することになった。その草稿を起草している時、ホワイトハウスのテレタイプが至急報を打ち出していた。
「緊急・至急。ニューヨーク発AP。USスティールは本日、鉄鋼価格の値上げを取り消した!」
ブラウ会長がホワイトハウスを訪問してから72時間後であった。
大統領のインフレ対策のうち、この鉄鋼値上げ事件は大きな戦いであったが、ケネディの勝利は大鉄鋼会社にたいする勝利というよりはむしろ、アメリカ合衆国大統領の職権の勝利であったし、ケネディの強力な指導力と国民のケネディに対する信頼であった。付け加えるならば、この様な方法で経済問題に対応した大統領は、過去にもそして現在までも居ない。ましてや、日本には・・・・・
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