発端
1945年4月30日、ナチスドイツ統治下のベルリンにソ連軍が突入、アドルフ・ヒトラーは自殺した。実質的なヨーロッパにおける第二次大戦の終結の瞬間であった。正式調印は5月7日にフランス・パリにおいて連合軍司令長官ドワイト・アイゼンハワー将軍とドイツ国防軍作戦部長アルフレート・ヨードル将軍との間で署名されたのであった。しかし、首都ベルリンを占領し戦闘状態にあったソ連軍はこの連合軍との降伏文書の調印を認めず、戦闘状態は継続していた。そして、5月9日になって、ソ連軍ジューコフ元帥とドイツ軍カイテル元帥との間で、ドイツにとっては二度目の降伏文書の調印がなされたのである。その後のベルリンのたどる数奇な運命を象徴する出来事であった。
ドイツ降伏前に米・英・仏・ソ四カ国によって、戦後ドイツの処理をめぐって協定がむすばれている。いわゆるベルリン協定である。この協定では、戦後ドイツは四カ国によって分割占領され、さらに首都ベルリンも同様に分割占領する事になっていた。すなはち、国全体が分割され、その中のベルリンだけをさらに分割すると言った形である。さらに、この協定では、占領政策の策定・施行は四大国司令長官によって構成する管理理事会が、これを行い、決定は全会一致を条件としたものである。この協定に基ずき米英仏の三カ国軍が7月1日にベルリンに進駐した。ベルリン四カ国統治の始まりである。まさにベルリンは東西両陣営の修羅場と化し、その後の東西対立の焦点となったのである。この東西対立はチャーチルの”フルトン演説”いわゆる、鉄のカーテン演説でその悪化の一途をたどっていった。1948年3月20日、東西の対立は、管理理事会からのソ連代表団の総引き揚げによる統治機能の停止、さらに6月18日、ソ連のベルリン封鎖によって、その頂点を迎えたのであった。
このベルリン封鎖という兵糧攻めによってソ連はベルリンからの三カ国軍の撤退を期待した。しかし米英仏三カ国は、ベルリン堅持を確認し、ここに有名な”大空輸(ビッグ・リフト)”作戦、別名”空の架け橋作戦”を展開したのであった。このベルリン封鎖は、結果的にドイツのソ連軍占領地域(ドイツ民主共和国)と米英仏三カ国占領地域(ドイツ連邦共和国)の相互単独国家の樹立といった悲劇を招いた、1949年9月から10月のことであった。ここに東西ドイツという二つのドイツがほぼ恒久的な形で出現したのである。東西ドイツ両国とも”ベルリン”を首都と規定した。しかし、現実にはベルリンは東ドイツの真っ只中にポツンと残された町に過ぎなかったのである。さらにその半分の”西ベルリン”は、さながら共産主義の海原に浮かぶ孤島となったのである。
一方、東ヨーロッパ共産圏の固定化に執心するソ連の側から見れば西ベルリンは「喉に刺さったトゲ」のように変化していくのである。西ドイツ経済の奇跡的な復興、再軍備とNATOへの加盟によって西ドイツが東西分極を揺るがす要素になってきたからである。
さらに戦後西ドイツ保守政権は一貫してドイツ再統一路線を追求するが、ソ連、東ドイツは西側からのドイツ再統一を拒否し、東ドイツの承認、ひいては東ヨーロッパの現状承認に固執するのであった。
ここで、ケネディにとって最初の試練となった1961年のベルリン危機に至る、必然性が生じたのである。
ウイーン会談
1961年6月3日就任後まもない、ケネディとフルシチョフの頂上会談(当時はこう言った)が、ウイーンで開かれた。この会談は結果的にはベルリン情勢がすべての会談であった。ここに、両首脳のやりとりがある。
フルシチョフ:第二次大戦を終結してもよい時期だと考える。もしアメリカが侵略的な西ドイツのやつらと共に、この事を無視するなら、ソ連は東ドイツとだけ平和条約に調印するつもりだ。その時は、戦争状態は終わりを告げ、ドイツ降伏の際の東西の取り決めであるベルリン占領権、通行権などは、効力を失うだろう。
ケネディ:それは、アメリカ最大の関心事だ。もし、アメリカがベルリンにおける権利の放棄を承認するなら、アメリカの約束を誰も信用しなくなるだろう。西ベルリンを放棄すればアメリカは孤立する。それは西ベルリン市民を見殺しにし、ドイツ再統一のすべての希望と、同盟国を失う事に成る。
フルシチョフ:ソ連が本年末までに平和条約に調印する事は誰にも止める事はできない。東ドイツの主権は尊重されるべきだ。その主権が侵されれば、ソ連はそれを平和国家に対する侵略行為とみなすであろう。
ケネディ:その条約は西側の西ベルリンへの通行を阻害するのか?
フルシチョフ:そうだ。アメリカはどうして西ベルリンにとどまるのを望むのか?
ケネディ:我々はアメリカが過去15年も留まっていたベルリンに、これからも留まる事について話し合っているのだ。
フルシチョフ:条約によって戦争状態が終結した後に、西側が東ドイツ領内に留まるのは合法ではない。東ドイツを侵犯した事に成る。ソ連はその侵犯を東ドイツの国境で守らなければならない。アメリカが戦争を望むのであれば、ソ連は受けて立つ。
ケネディ:もし、それが本当なら、今年は寒い冬になるだろう。
会談は実質的に何の収穫もないまま終わった。
双方の首脳は帰国後、自国民に対して会談の報告を行っている。
ケネディ
最も暗い話し合いがおこなわれたのは、ベルリン問題であった。私はフルシチョフ氏に、我々はどんな危険を冒してでも西ベルリン市民に対するわれわれの義務を果たすと共に、自己の将来を選択する西ベルリン市民の権利を守りきる決意であることを明らかにした。
フルシチョフ
ヨーロッパにおける平和的解決は本年中に達成されなければならない。ドイツと戦ったすべての国々は平和条約調印のための会議に参加してほしい。ドイツの現在の国境線は変えられない。境界線を変えようとすれば戦争、すなわち、核戦争になるであろう。平和条約調印後、西側が東ドイツの許可をえずに西ベルリンに到達しようとすれば、軍事的紛争を意味することになるであろう。
老獪なフルシチョフは若いケネディをしばしば揺さ振りにかけた、ケネディは反発しながらも抑制し、よく耐えた。このことは、フルシチョフから見れば、ケネディ組し易しの感触をえたのであった。そしてベルリンで、さらにはキューバでケネディに対する攻勢をかけたのである。
ベルリン危機
1961年7月の段階で、東ベルリンから西ベルリンへの逃亡者は週に400人から500人に達していた。逃亡者は年齢的に若く、医師、技術者などインテリ層の人間が多かった。その為東ドイツ政府は危機感を強めた、ウルブリヒト東ドイツ統一社会党第一書記は、「東ドイツは今、爆発的危機状態にある。人民の流失で、ソヴィエトへの輸出義務も果たせないし、反乱すら起る危険性もある。」と訴えている。ベルリン問題に関するフルシチョフの高姿勢は世界中に危機感を強めていた、これは彼にとって思惑通りの進展であったが、逆に大きなジレンマを抱える事に成った。それは、危機感が高まるに連れて、人口流出も激しさを増し、東ドイツの危機も高まる、と言うジレンマである。フルシチョフは問題打開の行動に出た。
1961年8月13日早朝、東ドイツ軍は、東西ベルリンの境界線に沿って、鉄条網を敷設、後を追う様に壁を構築しはじめたのである。
東ベルリン市民の間にパニックが起った、食料の買い溜めが起り、車をいつでも発車できるように、しかもすべての車は西の方角に向けて駐車していた、と言われる。逃亡者はピークに達し、この日一日だけで、400人以上の市民が西ベルリンに逃れた、警戒中の東ドイツ軍兵士も例外ではなかった。
鉄条網を越え逃亡する市民
ベルリン駐留の米英仏三カ国軍司令官はソ連軍司令官ソロビヨフ大佐にたいして、この”不法措置”に抗議した。これに対し東ドイツ内務省は布告を出し、東西境界線で西側の敵対行為があれば、対抗措置をとるよに命じ、東ベルリン市内で反共分子と思われる市民一万人以上を拘引した。
ソ連と東ドイツが壁構築に踏み切った背景には、人口の流出阻止もさることながら、「二つのドイツ」と言う既成事実承認による東ドイツの安定という究極的かつ最大の目標があった。西ベルリンがスパイ、逆宣伝の基地である事は許されない事であったし、西ドイツの経済発展、再軍備は不安の種であった。そして、西側主導、特にアデナウワー西ドイツ首相主導のドイツ統一などは絶対に受け入れられる物ではなかった。しかし、この時点で西側にとっては、この壁構築が単にそれだけに止まるのか。これが、本気で力ずくの西ベルリン奪取にでる第一歩なのかの、見極めがつかなかった。
壁構築から四日立った8月16日の時点で米英仏の三カ国はなんの対抗手段も起こさなかった。同日開かれた西ベルリンのシェーネブルグ市庁舎前で開かれた西ベルリン市民の抗議集会は悲壮感すら漂う集会となった、市民達に13年前のベルリン封鎖の悪夢が再びよみがえった。市庁舎前に集まった市民達には希望がなかった、西側、特にアメリカがどう出るのかまだ解らなかったからである。集会は不安と、アメリカへの不満が噴出した集会へと発展した。そしてウイリー・ブラント西ベルリン市長は「ベルリンは言葉だけでなく、政治的な行為を期待する。」と強くアメリカを非難したのである。
8月18日ケネディは動いた、声明を発表してアメリカ軍部隊1500名の増派とリンドン・ジョンソン副大統領の派遣を決定した、さらに「大空輸作戦」のヒーロー、クレー退役将軍をジョンソンに同行させたのである。しかし、当時西ベルリンに駐留するアメリカ軍は5000名、そこに1500名の部隊を増派しても軍事的には、なんの意味もなかった。ケネディは、共産側の意図を試すためにこの処置を取ったとされている。はたして、西ドイツからアウトバーンを通って西ベルリンに行くこの増派部隊を東側がどのように扱うのか。もし、部隊がアウトバーンで阻止されるような事に成ったら、米ソはのっぴきならない対決に陥るのである。ケネディは米ソ対決を覚悟した。
1961年8月20日、西ドイツ・サンドホーフェン基地から、アメリカ増派部隊1500、イギリス装甲車部隊34、フランス歩兵部隊1個大隊が西ベルリンに向かった。ケネディはまんじりともせず、現地からの報告を待った。はたして、部隊は無事西ベルリンに到着できるのか。ベルリン危機はその絶頂を迎えたのである。
同日夜、部隊は西ベルリンに入った。米ソの衝突はなかった。この日を境に危機の潮は引き始め、フルシチョフの「西側がベルリン問題を解決する用意がある限り、ドイツ講和条約調印は、もはやそれほど重要ではない。我々は、1961年12月31日までに調印しなければならないということに固執しない。」と言う後退声明で、危機は去った。しかし、フルシチョフは名を捨てて実を取ったのである、境界線の現状固定と、東西ベルリンの分離は確定的となり、西側がイメージする「ドイツ再統一」は空文化したのである。フルシチョフは「平和条約なしに、ドイツ民主共和国の境界線支配の目的を達成し、その主権を確保した。」と自賛したのである。事実、壁の構築でベルリンは西側のショーウインドウとしての価値は失い、亡命路としても役立たなくなった。このことは、米ソにとってベルリンはホットな問題としての優先権をうしなったのである。そしてベルリンが再び世界の注目をあびるには、28年の歳月を必要としたのである。
ベルリンその後
1963年6月24日、ケネディはベルリンを訪れた。危機から2年を迎えようとしていた。市民は熱狂的に大統領を迎えた、大統領自身ベルリンの壁の間近かまで足を運んだ。その時シークレットサービスは万一、狙撃兵に狙われたら我々は防ぐ手段を持たないと強硬に反対したと伝えられている。そして2年前ベルリン市民が抗議の為に集まった同じ市庁舎前で数十万のベルリン市民にむかって大演説を行った。自由と平和の為に、最前線で戦い続けたベルリン市民をたたえ、最後に”私自身も、ベルリン市民である”と宣言したのである。現在この市庁舎前には、勇気と希望を与えたケネディ大統領をたたえて、一枚のレリーフが置かれている。
時代は流れ、1989年11月9日のベルリンの壁の崩壊、翌、1990年10月3日のドイツ民主共和国(東ドイツ)の崩壊による東西ドイツの統一までのドラマは、ソ連、ゴルバチョフ大統領の変革路線とともに、ソヴィエト社会主義連邦共和国の崩壊にまで進んでいったのである。
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