その頃日本は

ページを開設してから5年、本格的にケネディに関して情報提供を初めて2年。思いがけずにこのような大きなページになってしまい、数多くの方々から励ましのお便りを頂戴するようになりました。それらを拝見いたしますとケネディの時代を身を持って体験なさった50代以上の方も多いのですが、ほとんどの方々がケネディ以降に生まれた方が多いのです。40歳以下の方々は当然ケネディの時代を共有することはなかった世代にあたります。それらの方々は歴史上の人物としてケネディを捉え、そしてその”悲劇的な死”によって伝説的な人物になっています。しかし、考えて見て下さい、わずか40年前の出来事であったのです。人間はこの世に生をうけてから自分の世界では時は足早に流れ30年40年前の出来事でさえ、つい昨日のように思えてしまう事があります。ところが周りの世界も同様に足早に過ぎている事を、ついつい忘れ勝ちになってしまうのです。20代・30代の方々とお話する時、その方々も自分と同じ体験をしていると錯覚してしまうのです。お若い方とお話するたびに思い知らされてしまうのです。
この項目ではケネディの時代の日本はどのような時代であったのかに話を進めたいと思います。ケネディの時代は世界が大きく転換しようとした時代でした、そしてその大変換の時代の波は決してよその国の事だけでなく、この日本も例外ではなかったのです。是非みなさんも当時の日本の状況とアメリカいや世界の状況との歴史的整合性を頭にいれて見て下さい。

日本中が沖縄であった。

占領終了時の1952年にアメリカ軍の主要施設がどこにあったかを示した地図である、ほぼ全国をおおっておりこの状況は1960年にもほとんど変化していなかった。当然基地をめぐるトラブルも日常茶飯事であった。1957年には群馬県相馬が原の米軍演習場で、生計のたしにしようと薬莢を拾いにきていた農婦が、米軍兵士ジラードに射殺された。いわゆるジラード事件である。この時日本の司法当局は犯人が分かっていても日米地位協定によって逮捕はおろか手もだせなかったのである。同じ年政府が東京都砂川町(現在の立川市)の米軍基地拡張を計画し、地元住民が大規模な反対運動を展開。測量を阻もうとしたデモ隊が基地内部になだれ込み刑事特別法違反で起訴されている。砂川事件である。この舞台となった基地も1977年には返還されいまでは昭和記念公園として休日には家族ずれでにぎわっている。1952年3月末に208あった東京都内の米軍関連施設も現在では8個所を残すのみにまで減っている。この時代、本土に住む多くの人々にとっても、現在の沖縄のように安保や米軍は極めて身近な問題であった。

60年は政治の時代

「安保反対!」「岸内閣打倒!」。連日のようにデモ隊が国会議事堂を取り囲んだ。1960年1月19日に調印された現行の日米安全保障条約は、やがて国論を二分する大問題にふくれあがった。安保条約は当初から世論の反対が強かったわけではない。調印直前の朝日新聞の世論調査によると、条約改正への評価は「よい事だ」が29%で「よくない」の25%を上回っていた。条約改正のポイントは1951年の講和と同時に締結された旧安全保障条約の不平等性を改めることにあった。旧条約では米軍の日本防衛義務があいまいな上に、米軍が日本の内乱の際には出動すると言った独立国としてふさわしくない条項も含まれていたのである。改正によって安保と国連の関係を明確にしたり、アメリカとの事前協議制を導入したり、対等の関係にふさわしい体裁をつけていたのである。それでも安保が大問題になったのは、当時の岸内閣の政治路線の為であった。東条内閣の閣僚として開戦の詔書に副署している岸氏は戦後、A級戦犯容疑で逮捕されてもいた。公職追放解除後は右派の大物として首相の座についたが、憲法改正を目指す姿勢や権力政治的な手法は「反動」との批判を呼んだ。そに首相が条約の強行採決に踏み切ったのである。争点は単なる条約の是非ではなく、民主主義の危機と捉えられたのである。だから岸氏が退陣すると安保反対で盛り上がった世論はうそのように静まっていく。岸氏が後に回想したように自民党の方針転換で「憲法改正論は私で切れてしまった」。しかし安保は、それからの高度経済成長の時代に定着化が進んでいったのである。
この安保改定反対の動きの中で1960年6月10日、アイゼンハワー大統領訪日の打ち合わせの為に来日した大統領補佐官ハガティー氏が羽田空港に到着後数千人の市民・学生らに取り囲まれると言った事件も発生、ついにアイゼンハワー大統領の訪日が中止となる事態に発展した。さらには6月15日国会を取り囲んだ大デモ隊の中の全学連の部隊が国会南通用門から国会内に突入するといった事件も起こり、その混乱のなか東大生・樺 美智子さんが死亡する事件も発生している。



テロリズムの時代

1960年6月17日、国会で請願を受けていた社会党顧問・河上 丈太郎氏が右翼青年に刺され重傷をおった。岸首相も右翼青年に襲われ、翌61年の2月には中央公論の・嶋中 鵬二社長が自宅で右翼青年に襲われる事件も発生している。
「アメリカ帝国主義は日中両国人民共同の敵」。訪中した浅沼稲次郎社会党(現在の社民党)書記長がこう述べたのは条約改正前年の1959年3月9日、この発言がきっかけで浅沼氏は、委員長就任後の1960年10月12日、日比谷公会堂での各党首脳の演説会場で右翼青年によって暗殺された。このような事件が連続して発生、まさに日本は「白色テロ」の時代でもあったのである
米ソ冷戦が厳しかった当時、中国とはまだ国交がないばかりか、日中国交正常化と日米安保は原則的に相容れない問題だった。反安保は社会党の党是であり中国を含む社会主義圏との共通原則だった。70年代の米中和解、日中復交を受けて、中国の外交姿勢は日米安保容認へと転換したが、今、東南アジア諸国も、日米安保をアジアの安全保障の基軸とみなすようになった。現在では日米安保を敵視する国は朝鮮民主主義人民共和国ぐらいしか見当たらなくなった。国内政治国際環境と安保をめぐる情勢は、この60年代前半を境には大きく変化していった。そして、変わらないのは独立国家の中に別に国の軍隊が存在するという事実だけになっていったのである。今の在日米軍基地の4分の3が沖縄に集中すると言った異常な現象のみが取り残され、いまだに基地問題解決の糸口は見えていない。在日米軍の駐留経費への負担のあり方が議論に上っている。このように60年前半という時代、ケネディの時代を転機として日本や世界は大きく転換していったのである。

政治の時代から経済の時代へ

1960年6月大きな政治の盛り上がりを境に時代は大きく変化していった岸内閣の後に成立した池田内閣は,、いわゆる所得倍増計画を発表。日本は経済の時代へと進ん突き進んでいった。さらに1964年のオリンピック東京大会に向けて日本経済は飛躍的な発展を示した。東京では高速道路の建設や東海道新幹線の建設など、日本中に土木工事の鎚音が聞かれ、神武景気と呼ばれる好調な経済に後押しされ、人々は政治から経済にその目を向けるようになった。また、ケネディ以降大きな政策転換を遂げたベトナム戦争も日本に朝鮮戦争以来の特需景気をもたらした。時代はまさに経済の時代へと転換していったのである