序章
1960年始め、アイゼンハワー政権は、CIA指揮のもとにキューバ亡命者による解放軍の訓練と武装を許可した。この少し前、この解放軍をゲリラ部隊ではなく通常の戦闘部隊に編成することが決定され、兵力も大幅に増やされた。
大統領就任にともないケネディは、この計画と計画者、そして、困った事にグアテマラの秘密基地で高度の訓練を受けているこの亡命者軍をも継承したのである。通常の製作や大統領命令と違い、このようなものの引き継ぎは簡単に取り消す事のできる性格のものではない。パームビーチでCIAの計画説明を受けたケネディは事の重大さ、規模の大きさ、そして大胆さに驚愕したと伝えられている。
CIAの計画者達は、その計画を新大統領に提出しただけでなく、当然熱心に売り込んだ、要するにケネディは,CIAから「共和党政権と同じように亡命者軍に祖国解放を許し、その援助をする意思があるのか。それとも、立派な準備を解消し、キューバに西半球の破壊活動をほしいままにさせ、惨めな条件下で一年近くも訓練を受けてきた軍隊を解散し、大統領が彼らのカストロ打倒計画を裏切ったと彼らに触れまわさせるつもりなのか・・・」と詰め寄られたのである。そのうえ、この計画は今をおいては絶対に実行できないと迫ったのである。理由は三つある、第一に亡命者軍はすでに十分な訓練をつみ、戦闘をしたくてムズムズしており、手綱を押さえ切れないほどである。第二に、訓練キャンプはしだいに評判になり、政治的にも物議をかもしだしているので、グアテマラとしては閉鎖するように圧力をかけてきている。第三に、ソ連がまもなくカストロ軍を強化し、共産圏で訓練を受けたキューバ人飛行士達が、ミグ戦闘機の操縦士として帰国しはじめる、すでにキューバには多数のミグ戦闘機の梱包が到着し操縦者をまっている。と・・・・・
アレン・ダレスはケネディに対して「私は今のようにアイクの机の前に立ち”グアテマラ作戦は、絶対に成功します。”と申し上げたのですが、大統領閣下。今度の計画は、あのときよりももっと成功の見込みがあります。」とぶち上げた。(このグァテマラ作戦とは、1945年グァテマラ左翼政権をCIAが打倒した作戦を言う。
計画実施の一週間前になって、統合参謀本部の代表として、レムニッツアー将軍とバーク提督の保証文書とラスク国務長官・マクナマラ国防長官による同意を受け、最終許可を出した。計画を承認する前提条件として、大統領は、米軍を直接、公然とキューバに出動させないことを繰り返し主張した。これは、CIAの従来の方針を変更したことになったのかどうかは明らかではないが、この決定はある意味では災禍をひきおこす原因になったものの、別の意味ではもっと大きな災禍をふせぐことに役立ったといえる。というのは、米海空軍が公然と攻撃に参加すれば、負けるなどということは許されないし、最終的には全面攻撃が必要になろう、よしんばソ連との全面戦争を避けられるとしても、はじめからキューバ人部隊など使う必要はない訳である。さらに、空海で公然と介入すれば、ケネディとしても亡命者軍を地上で敗北させる訳にはゆかない。このような公然たる一方的な軍事介入はアメリカの伝統にも国際義務にも反する事であり、その結果はカストロの存在よりももっとマイナスになったはずである。
米軍不投入の決定は、キューバ亡命者軍だけで勝てるという仮定の上にたつものである。ところがCIA、国防省、亡命者団体のいずれもこの決定に反対はしなかった。それは、大統領もいざとなったら、前言をひるがえさざるを得なくなると、仮定してかかったのであろう。のちに判明したことであるが、彼らの計画は米軍の直接介入を前提としているかのように推し進められ、しかも大統領が具体的に質問すると、そんな事はないと答えるのであった。
「亡命者軍は米軍が参加しなくても目標を達成できるであろうか。彼らは米軍の参加がなくても、さくせんを決行したがっているのか、作戦が失敗しても米軍は介入しなくてもいいのか。」と大統領は質問した、大丈夫です。との答えであった。ひどい誤解で、少なくともCIA連絡将校側の連絡不備によるものであった。いずれにせよ、このような保証の結果、ケネディは、四月十二日の記者会見でアメリカは直接介入しないと、公然と約束したのであった。曰く”いかなる情勢のもとにも、米国軍隊がキューバでどのような介入をも行うことはない、キューバ国内のどのような戦争にもアメリカ人を関係させないよう政府は全力をつくすつもりであり、政府はその責任を果たしうると思う。キューバにおける根本的問題は米国・キューバ間にあるのではなく、キューバ国民自身の間にあるのである、私はその原則が厳守されるようにしたい。政府の態度は米国内の反カストロ・キューバ避難民にもよく理解され、共感されている。”と、
この誓約によって直接介入は避けられ、国際法違反は防ぐ事ができ、CIAや軍部が圧力をかけたにもかかわらず大統領は絶対にこの誓約をひっこめることはしなかったし、また、後悔もしなかった。
ビッグス湾事件の映像
敗北
1961年4月17日未明、約千五百人の訓練も武装もゆきとどいたキューバ亡命者2506部隊がキューバ・コスチノス湾(アメリカ名・ビックス湾)に上陸、弾薬の続く限り戦い、カストロ軍に重大な損害を与えたが、カストロ軍は二万であった、後に、マクスウエル・テーラー将軍を委員長とした調査によると、敗北の原因は主として弾薬の不足にあった。そして、なぜ弾薬が欠乏したかというと、そこにこの作戦の欠点がむきだしになってくる。
上陸軍は弾薬は豊富に持っていた、が、初めて戦場にでたかれらは、むやみやたらに撃ちまくって極端に弾薬を消費した、とテーラー将軍は報告している。特に、上陸直後に予想以上に手強い敵に遭遇した為なおさらであった。
貨物船リオ・エスコンヂッド号に通信機器と食料、医薬品のほか、十日分の弾薬が積んであったが、上陸当日の朝、カストロ空軍によって撃沈されてしまった。さらに、補給品を積んだもう一隻のヒューストン号も同様に撃沈されたのであった。同行していた、アトランチコ号とカベリ号にも予備の補給品や弾薬を積んでいたが、これら二隻の残った貨物船は沖合いはるかに避難し、さらに南方へ待避してしまった、カベリ号にいたってはあまりに遠方へ避難した為、救援にも間に合わない距離まで離れてしまった。ただ一隻アトランチコ号だけが翌日18日の夜になってコスチノス湾沖50マイルに到着したがすでにその時には海岸まで弾薬を運べる状況にはなかったのであった。浜辺では上陸軍が弾薬をくれとせっついているし、19日の朝を迎えれば再びカストロ空軍の攻撃を受ける事はハッキリしている。ここにきてCIAと統合参謀本部は大統領に対してアメリカ空軍の出動を要請したのであった、大統領は、全面介入に発展する恐れのある空軍の援護には消極的であったが、亡命者軍のB26型機部隊が現地上空を飛んでいる間に限って、アメリカの標識を消したジェット戦闘機を援護作戦に限って
投入する事を渋々同意した。
ところが、このB26は第二次大戦の遺物と言われるガタガタの飛行機であり、なおかつ、秘密保持の観点から距離の短いフロリダやプエルトリコの飛行場は使わず、ニカラガから飛んでくる、したがって一時間と現地上空を飛行できないのに、こともあろうに戦闘機が飛来する予定時刻の一時間以上前に現地に到着してしまったのであった、この誤りが時差のせいか、指示のミスかはともかくB26はたちまちのうちに撃墜されるか、逃走し戦闘機が飛び立たないうちに壊滅してしまった。弾薬がつきた上陸部隊は、ほぼ全滅の状態になったのである。
現在も尚ケネディは壊滅寸前の亡命者軍をみすてて、空軍の援護飛行を取り消した。といわれているが、事件発生前から、米軍機の投入は計画されていなかったのであるから、取り消すなどということはありえないし、また、由一、同意した援護飛行も彼は取り消してはいない。
この様に、キューバ上空の制空権を保持していなかったことが弾薬不足をひきおこし、直接の敗因になった訳であるが、制空権の確保を忘れていた訳ではない。地上戦闘の開始される17日以前に亡命者空軍は二回にわたっての空襲を計画していた、第一回目は4月15日の早朝実施された、しかし、この空襲はカストロ空軍から逃亡した飛行士がやったと見せかける為にアメリカ製弾薬は使わずなおかつ前述のようにはるかニカラガからの飛行であり滞空時間はわずか1時間である、このため効果ははかばかしくなく、さらに24機の保有機の約半数が撃墜されてしまったのである。さらに悪い事に、第一回の空襲を実施した時点で、早くもキューバ亡命者の軍隊がキューバ奪回の為に独自に引き起こしたというシナリオは、キューバ代表だけでなく報道陣によって、徹底的にあばかれてしまった、空襲を行った飛行士が何処からやってきたのかはだれにも解らないし、その日キューバから寝返った飛行士でわないという証拠は何もないのだから大丈夫だと大統領は安心させられていたし、その日の午後、国連でもスチブンソン大使が米機によるものではないと否認したが、24時間とたたぬうちに、証拠写真
ともども話しのつじつまがあわないため、嘘とばれてしまった。
予想したよりも、大きなニュースになってしまった。アメリカがインチキをやっているというので世界中が沸き立った、第二回目の空襲は17日未明亡命者軍の上陸直後実施される予定であったが、挑発も受けないのに、アメリカが小さな隣国を公然と攻撃したと受け取らぬものはだれもいないだろう。ソ連はアメリカの介入が反撃を受けずにはおかないだろうと発言し、中南米の国々は激怒した。
その結果、ケネディは外交関係者達の意見をいれて、軍部、CIAとの相談もなく17日の空襲を中止した。アメリカの介入はしないというもうしあわせにしたがって。その時点で軍部・CIAの反発は意外に少なかった、理由は15日の一回目の空襲の成果が過大に評価されていたからであった。
敗北の孤児
大統領が、17日の空襲を中止させたことは、敗北の決定的な要因ではない。作戦全体は15日の空襲の後に惨めな結末をとげ、17日の上陸以前から失敗に終わる運命にあったのである。ケネディは後に計画の基本的前提条件(制空権の確保)が崩れた以上、二回目の空襲だけでなく作戦全体を放棄していたら、もっと賢明だった。と述べている。というのは、当初思い込まされていた計画とは、にてもにつかない計画を実際には承認していたことが15日の時点でハッキリしてきたのである。ここに、コスチノス湾上陸作戦を、なぜ、ケネディが承認したかのカギがある。後に振り返ってみると、ケネディが承認した計画は数々の点で実行された作戦と相違があった、第一に大統領は1400人のキューバ亡命人が静かに故国へ帰っていくものだと思っていた。第二に亡命軍は橋頭堡の構築に失敗した場合、山中に進軍してゲリラ活動にうつると教えられていた。第三に、亡命者達は米軍の支援がなくても決行したいと言っていると報告を受けていた、逆に亡命者軍は米軍が公然と支援してくれるとの印象を持っていた。第四に、キューバ本国の地下運動家、脱走軍人、国民の決定により成功確実と計算され
た作戦を承認しているものと思っていた、実際にはキューバ軍からの内部呼応もなかったし、国民の蜂起もなかった。第五に、いま決行しなければカストロ軍は強力になり成功が難しくなると、教えられていたが実際にはすでにカストロ軍は上陸軍を撃退するだけの能力も装備もそなえていた。ではこれらの作戦と現実との相違の食い違いはいったいどこから生れたのであろうか?
第一に、大統領とその政府がまだ新米であったこと、ケネディはいろいろな助言者の強さと弱さを十分に知らなかった。その当時定評のあった専門家達に反対してまで自分自身の勘をしんじるまでに至っていなかった。第二に、時間的に差し迫り、秘密保持の建前から、計画立案者とその推進者以外には計画を十分に検討することができなかった、さらに最大のポイントは、計画立案から実行までの作業全体が大統領に指導権を握らせないようににして、内密に、仮借なく進められていった。第三にCIAという中間指導機関が介在した為大統領と、亡命者達が互いに双方の考えを知らされていなかった。
これらのことは、ジョン・フィッツジェラルド・ケネディの罪を覆す事ではない。彼が銃を買って弾を込め、撃ったわけではないが、発砲に同意したのは彼であり行政責任の信念から彼は自身にたいして「有罪」を宣告したのである。
後日、ケネディは記者会見の席上、このように述べた。
「諺に、勝利は百人の生みの親を持つが、敗北は、ひとりの孤児しか持たないという。私は、政府の責任者であり、それで万事明白である。」と・・・
彼の、忠実な補佐官であり、友人でもあったシオドア・ソレンセンは、すべてが終わった20日の朝、ケネディのつぶやきを聞いている。「二人で芝生を歩いている時、時々辛辣な口調で私に敗北の生みの親達のことを話し、そしてこうつぶやいた、”どうして、しっかりしなかったのだろう。これまで、専門家に頼るより自分のほうが良く知っていたのに。何と言うバカなことをしたもんだろう、連中にまかせるなんて・・・・”」