10月31日からのダラス・ワシントン一人旅、感動と興奮の三日間を振り返ります。尚、事件関連の情報は別に纏めるとして、単なる思い出話だけですが、ワシントンの訪問記には各種写真のリンクが有ります。ロバートの墓やリンカーン暗殺関連の写真も写してきました。



ディリー広場にて

アメリカ合衆国テキサス州ダラス・ついに私はこの地に来ました。私にとってのダラスへの旅はキリスト者がイェルサレムの地を訪ね、イスラム者がメッカを目指すに似た巡礼の旅に他なりません。まさに数十年来の夢がかなった瞬間でした、ダラス・フォトワース空港に降り立ってタクシーに乗り約30分、ダウンタウンのビル群を望むと、なにか見慣れた景色の感すらありました。ステモンズハイウエイを降りるとそこはディリー広場になる筈と思っているとまさに見慣れた陸橋を潜り抜けて眼前に広がった景色は・・・・思わず息を呑む景色でした。車はメイン通りを東進中。初めての地なのに自分の位置がはっきりと解ってしまうのでした。夕闇迫る教科書ビルの姿は、今も目に焼き付いて離れません、ホテル到着後すぐその足でディリー広場に直行しました。

ユニオンタワーから望むダウンタウン


13時間の空の旅・ケチケチエコノミーは疲れる。それになんと言ってもヘビースモーカーの僕には全席禁煙は地獄の苦しみ!喫煙権はどうなっているのかしらん?持参した”イカゲソ”や柿の種をさかなにタダのウイスキーばっかり飲んでいたらスチワーデスさんににらまれちゃった!




買わされた?本






ディリー広場で最初に出会った人物は、町角に立つお土産やさん、側には小さなテレビが置いてありビデオを流している。側に寄ってみるとテレビ画面にはザプルータフィルムやマッチモアフィルムさらにはニックスフィルムを繋ぎあわせたビデオを映し出している。実にうまく編集してあり、モーターゲードがメイン通りからヒューストン通りに曲がる所から、陸橋を越えてパークランド病院に急行するシーンまでを流していた。それに銃声まで入っている、数は三発だった。聞いてみると自分で繋ぎあわせて音をダビングしたのだそうだ。テープのシーンについて二言三言質問や疑問を聞いてみたら、おじさん突然ニコニコして特別なカットの入ったカタログがあるので見せてあげようと言い出した、ただの観光客ではないと思ってくれたのであろう、チョッピリいい気持ち。見せてくれた本の開いたページには、ミッシングフレームとある、そうザプルータフィルムの切り取られた4フレームなのである。驚いて眼鏡を取り出してしまった。おじさん曰く「10ドルでどうだ?」薄っぺらい小冊子が10ドルはチョット高いと思ったが、即、財布に手をのばしたのでした。ケネディ関連最初の出費でした。 「又、あした合いましょう!」と言ったら「明日は雨だよ!」だって。「ギクッ!」

たった3泊5日の旅なのに色んな物が詰め込まれた旅行バッグの重たい事、中身は本やカメラ、ビデオカメラに日本酒、ウイスキー、おつまみ各種・・・重たくなる筈でした。 せめて空港までは、宅急便をお勧めします

小生いたって鈍感なのか、いわゆる時差ボケなるものをかつて経験した事が有りません、しかし今回は目が覚めて時計を見たらなんと午前3時・・・・・・つまり、興奮していただけなのです。これは3泊共、だいたいこの程度の起床でしたし、帰国した翌日は朝の起床が苦しかったことで証明されています。さて、かの土産屋のおじさんのご託宣はピッタリ!外は雷まじりの雨でした。通常の観光旅行ならば決して外に出ないような天候。でも今回はそう言う訳にはいかない、何度もダラス一人旅を繰り返していたら確実に家族の反乱にあうことは必定なのである、まずは腹ごしらえ、アメリカンタイプのホテルは朝食は付いていない、高いホテルの朝食は敬遠して昨日確認しておいた広場の側のマクドナルドへ・・・・・しかしマックも所変われば?で、ダウンタウンの朝のマックは女性だけでは行く所ではありません、客は全部が曰く因縁のありそうな人ばかり、中には注文もせずに人の食べているのを見つめていて、隙あらばおこぼれ頂戴を決め込んでいる人も見受けられるし、浮浪者風の人も入ってきて店の人に追い出されている。すなはちマックは低所得者層の労働者の格好の朝食場なのである。日 本の低所得者の小生には丁度いいか?腹ごしらえを済ませた僕は雨のディリー広場に出発したのでした。






ブレナンの座っていた場所
服はしわくちゃでビショビショ





丸一日かけてウロウロした範囲がたったこれだけこれでは家族と一緒の観光旅行の雰囲気では有りません確実に愛想をつかれてしまうでしょう。でも僕にとってはもっともっと時間が欲しかったのです。

雨のディリー広場・午前7時30分、朝も早く雨も降っている為人っ子一人居ない、ある意味では幸いである。車の量も少なく道路の真ん中から写真を撮ったりエルム通からコマース通へ直接横切ったり、陸橋の下を行ったりきたり(当然歩行禁止)やりたい放題、ありとあらゆる場所から現場を見て回りました、すると自分の脳裏にありありと事件当日の景色が蘇ってくるような気がしたのです。ザプルータの立っていた所に座っていると、突然けたたましいパトカーのサイレンの音に”ビクッ”として我に返りました。時計を見るとなんと30分以上もこの場所に座っていました。雨の降りしきる中、見た人は何と思ったでしょうか・・・・でも、確かに僕は、この場所でケネディと話しをしていたのです。
すでに時間は10時を回っていました、すでに6階ミュージアムも開いています。ゆっくりと腰を上げて、ミュージアムに入っていきました。6階ミュージアムは旧教科書ビルの例のフロアーをJFK記念の写真で埋め尽くしたミュージアムです、そこには自分にとっては見なれた写真が数多く陳列されてケネディの業績や事件の解説に使われていました。このミュージアムに関しては、ケネディ研究者の一部には極めて批判的な意見を述べる人々がいます。いわゆる、JFKや事件の商業化といった批判です、さらには開設にあたってチョットしたゴタゴタのあった因縁も有るのですが、事件を風化させない為の施設と割り切って見れば、それなりの効用は有るのではないかと思います。さて、写真をざっと見た僕は持参した巻尺を持ち出し壁面の採寸やら、階段周りのスケッチ、窓からのエルム通のスケッチ(樹木の位置等)を始めました、そしたら警備のおばさんが寄ってきて「何をしているか?」と聞かれてしまいました。説明するのに一苦労してしまいました。最後の記帳コーナーに行き、自分のダラスへの思いをページいっぱいに書いてミュージアムを後にしたのでした。



この場所で数々の事件関連の新発見(勿論自分にとっての)をしましたし、自分の想像の修正を迫られる事実を眼のあたりにしました。事件関連の報告は”ダラスレポート”として別途アップしてあります。是非お読み下さい。


そろそろ昼食と思い教科書ビルの北東にあるウエストエンド(ダラスのちょっとした繁華街)のレストランに飛び込みました。せっかくアメリカに来たのだから分厚いステーキでもと思ってメニューを見たらステーキの項目欄だけでも二十種類位あります。ニューヨークだとかテキサスだとか書いてある、どんなステーキなのかさっぱり解らない。牛肉には間違いないだろうと思い適当に注文、格好をつけてスープとサラダも数ある中から適当に”これ”、バドワイザーを飲みながら待つ事少々、スープとサラダがやってきた?????なんじゃこれ、俺の事を馬と間違えているのかしらん?馬鹿でかい皿に、こらしょと盛ってある、ビックリしながら食べてみた。味はまあまあ、そしたらメインのステーキが出てきた、”モーイヤ”(洒落じゃなく)なんと、どデカい肉の固まり、日本ではこう言うのステーキとは言わない・・・小生、日本人としては大食漢の部類に入ると思っているのですが、とてもじゃないけど食べきれない量なのです、しかも添え物にサラダが付いている、このサラダが、丁度日本で言う所の単品注文のサラダの量である。人生初めて食事に恐怖感を覚えた瞬間でした。これでは日本は 負ける筈、などと時代錯誤の思いを抱きつつ、格闘すること数十分とうとうギブアップ。やっと三分の二を平らげるのが精一杯でした。









貴方は食べられますか?




現場の反対側から見た陸橋。はたして、メイン通からエルム通への移動は可能なのか?

レストランを出るとさしもの雨も小降りになり傘なしでもなんとかなりそう、ディリー広場から2ブロック東に移ると重厚な旧裁判所ビルの裏手にケネディのお墓がある、アレッ、ケネディの墓はアーリントンじゃなかった?そうですここはケネディの空のお墓なのです。1970年にダラス市民の寄付によりフィリップ・ジョンソンの設計によって造られたケネディ記念堂。以前はここでダラス市民によって毎年11月22日に追悼慰霊祭が行われていたのですが、確かケネディ家の要請によって中止になったと記憶しているのですが今はどうなっているのかしらん?横道にそれますが、このケネディ家の11月22日に対する嫌悪と言うかこだわりは異常とも思えるほどです。この事が、ケネディ家は何かを知っていると言う憶測を生んでいるのです。事実事件直後、ケネディ家は当時最高の私立探偵集団を組織し事件を調査しています。その報告書は、今もケネディ家の金庫に門外不出文書として、しまわれているのです。この記念碑の裏にダラス最初の家と言うのが立っています。かつての西部開拓時代の建物だそうで石造りの小さな家でした。



ケネディ記念堂の碑文



ダラス最古の家


さすがインターネット発祥の国アメリカ!
夜テレビを見ていて気が付いたのですが
テレビコマーシャルの全部に電話番号よ
り大きくURLアドレスが載っています。
それにメールアドレスが載っているコマー
シャルもありました。さすが!

ホテルに戻って服の着替え、実は今回ダラスに来た目的のもうひとつがダラスで開かれたあるシンポジュームに参加する事だったのです、勿論JFK関連のシンポです。開会は夜7時、着替えは良かったのですが、ふと靴を見て唖然!なんと安物の靴の為か雨のなかを一日中歩き回り水溜まりもおかまいなしに歩いた為、靴底がはげちゃった前のほうがパカパカと開いている。格好悪いもいいとこ、靴屋を探してみたけれど日曜日の為閉まっている。仕方なくそのまま会場へ行ってしまいました。できるだけ気が付かれない様に歩いたら、ぎこちない歩き方になってしまい、なおさら格好わるーーー・・・


今回利用した航空会社はアメリカン航空
ダラス直行便を持つ唯一の航空会社です
ダラスツアーにはやはり一番便利な様で
す、国内連絡もスムーズにいきました。










11月2日感動のダラスを後にワシントンに向かう。朝ダラス空港へ行く時の笑話を一つ、タクシーの運ちゃん「これからどこへ行くのか?」小生「ワシントン」運ちゃん「ダラスか?」何言ってんだこいつ「ワシントン!」運ちゃん「だから、ダラスか???」運ちゃんは、フライトのターミナルを調べてくれていて、ワシントンの空港は”ダレスか?”と聞いていたのである。「ダラス」と「ダレス」日本人の最も不得手とする発音からくる漫才である。やっと解った小生「ダレスは嫌いだから、レーガンだ!」と言ったら、とっても受けた!!!

さてワシントン着、早速その足でアーリントン墓地へ、レーガン国際空港からは地下鉄でわずか2駅。案内所で墓所の位置を確認してケネディの墓へ向かう。荘厳な雰囲気の径を歩くとそこかしこから”リス”が顔を出す、食べ物をやるまねをすると、立って両手をもじもじしている、可愛い仕草、このリスはワシントンの町中で見掛ける事になる。石段を登ると永遠の炎が見えた。ついに彼の墓参がかなった瞬間である。私はクリスチャンではないが、見よう見まねでクルスを切って長い祈りを捧げた、壮途半ばで倒れた悔しさを慰め、危ういながらも平和が続いている事を報告したのである。
墓石に寄り添うようにジャクリーンの墓石が並んでいる、”ジャクリーン・ブーヴイエ・ケネディ・オナシス”ケネディは草葉の陰で喜んでいるのかしらん?振り返るとケネディの就任演説の一部を彫った石碑からアーリントン記念橋その彼方にリンカーン記念館・ワシントン記念塔が一直線に見渡せる、多分この墓地のなかでは最高の場所になるのであろう。この場所で小一時間ほど思いにふけった後、彼の墓所を離れてロバートの墓へ、彼の墓は大統領のすぐ隣にあるのだが、急に人っ気が無くなる。兄と同様演説の記念碑を前に、ロバートは静かに眠っていた。大統領職にあって死亡した兄と同等に、とまではいかないだろうが兄の墓所に比べて際立って質素な墓所である、そこには墓碑と白いクルスが立つだけのものであった。ここにも僕は、兄同様壮途半ばで倒れた無念を慰めて、そっと聞いてみた。「貴方はなにか知っていたのではないですか?」と・・・・無論、返事はなかった。

今回初めて知った事であるが、この墓地,実は南軍のリー将軍の住んでいた所で、彼の持物だったのだそうである。


ケネディの墓の映像

アーリントン・セメトリーのパンフ
広大な敷地に何万基もの墓標が続く荘厳の雰囲気の場所、しかもDCの中心のすぐ側、日本では考えられぬ施設、国家に対する考えの違いが浮彫りになります。

今回の旅の目的地は、ケネディ・センターを残して全部終了。さて何処へ行こうか、まったく考えていなかったのでガイドブックを開いて考えた。時間はすでに2時を回っている、5時を過ぎると暗くなるのでポイントを選んで回ろうと選んだ所が「フォード劇場」「FBI本部」「国立公文書館」そして「リンカーン記念館」である。帰国後妻に旅の話をしたら妻曰く「あんた、何しに行ったの?」ときた。確かに普通の観光地はリンカーン記念館位だけである。さてフォード劇場・リンカーンが暗殺された所である。さすがに観光客らしき集団はまったく無く、中学生くらいの集団が数組、教師の説明に聞き入っている。町並みの中にいかにも古い赤レンガの建物がポツンと並んでいる、外観、内部共に、ほぼ当時のままなのだそうだ、現場のすぐ近くまで寄って見ることができる、有名な絵の様な広さを想像していたがせいぜい3帖位の狭い場所。これではリンカーンもひとたまりも無かっただろう。狭すぎて写真も撮れなかった。小さな博物館には暗殺で有名になった拳銃”デリンジャー”や大統領が 履いていたブーツが展示してある、すべて本物だそうである。

ワシントン観光にはこれ!乗り放題
で14ドルの観光バスチケット








フォード劇場の真ん前に、同じような赤レンガの古い建物がある。ピータセン・ハウス。すなわち当時ピーターセンと言う人物が住んでいたただの家であるが。リンカーンが運び込まれ死亡した家として残されている。劇場同様、当時のままである。リンカーンが狙撃された時ホワイトハウスまで運ぼうとしたが、当時は未舗装の砂利道の為、体にさわる事を愁いてここに運び込んだのだそうである。奥まった8帖位の部屋がリンカーンの息を引き取った寝室で間近かに見ることができる。説明員によると、ベットそのものは当時の物ではないが、置かれている枕は本物で、黒いしみ状になったものがリンカーン大統領の血痕だそうである。

地下鉄のキップ

日本で言うJRカードみたいな物が通常の切符です。区間料金などあまり気にせずに乗車できる。極めて合理的、少なくとも切符売り場の前の混雑は解消されます。

次の訪問地はFBI本部。といってもフォード劇場から数分の所にある。もっと重厚な建物を想像していたが意外と近代的な建物。時間的な余裕があれば内部の見学ツアーもあり見学する事もできるそうである。しかし、今回の訪問は外からで充分、この建物のどこかに、真実が隠されている、その建物をこの眼で見ておきたかった為である。しかし、FBIにおけるフーバー長官の権威はいまだもって健在なのであろう。ビルの名称からしてフーバービル。至る所にフーバーの名前が記されている。

ムム!フーバービル?
一応政府の公的機関の建物に個人名?

FBIに対する隠然たる影響力を象徴するネーミングですね。彼の風貌から来る多少の嫌悪感を感じるのは僕の先入観かしらん?



次はアメリカ合衆国国立公文書館。いわずとしれたウオーレン報告書の隠された部分が保管されている建物である。2039年の公開日には世界中の研究者達がこの階段を登っていく事であろう。もし自分が生きていたならば92歳、多分この階段を登ることもできないであろう。しかし万一の奇跡に期待する僕なのです。ここは、何と言ってもアメリカ合衆国憲法の原本・独立宣言の原本そして人権宣言の原本とアメリカが誇る三大文書の原本を間近かに見ることができる事で有名である、自分もその列に加わり拝見させてもらった。しかし、それらを見て自分は、なにか空しさすら感じたのでした。この偉大な民主主義の精華をはたしてアメリカの歴史は正しく歩んできたのであろうか?これら文書に高らかに謳われた精神をアメリカは自己の物に昇華させてきたのであろうか?多いに疑問である。

これらの精華を自己のものにし続けなければならなかったが故に、”国家安全保障上の理由から”という言葉が出てきた事は、ダラスを逍遥してきた今の自分にとってもはや確信に近くなっているのです。まさに、ケネディ暗殺事件はアメリカ民主主義の歴史上最大の汚点以外のなにものでもないのでしょう。

アメリカ合衆国憲法原本



合衆国憲法・人権宣言・独立宣言これらの文章に歌われた理想と精神が十分に発揮されていたならば、ケネディは死ぬ事はなかったはずです。











すでに外は日も落ちかけ夕闇がせまっていました。短い時間のワシントンの街でしたが、それなりに感慨深い物がありました。ホワイトハウス・キャピタル・スミソニアン博物館群・ジェファーソン記念堂その他数々の所はすべておはしょり。そこいら辺は家族連れでも充分可能な所・・・いつになるか解らない次の機会に回しました。モールの中心に出てワシントン記念塔からリンカーン記念堂まで一直線の道を歩き始めました。リフレクティングプールのほとりに立ってリンカーン記念堂を望む広大な敷地を見ていると、自然と”ウイシャルオーバーカム”の歌を口ずさんでいました。この広大な敷地を埋め尽くした100万人ワシントン大行進の地響きにも似た足音と共に歩んだのです。プールにライトアップされた記念堂が映るころ、遥か彼方から”アイハブアドリーム”の演説が聞こえてきました。私の子供たちが平等な世界に生まれ来る事を、私は夢みる。それからまだ40年近くの歳月しか流れていないのです。アメリカ200年の歴史はいったい何だったのでしょうか?階段を登りながら、リンカーンに聞いてみたのでした。”貴方の夢みた真の民主主義は、この地上でいつになったら実現でき るのでしょうか?あなたの夢を実現しようとした貴方の再来は結局貴方と同じ運命をたどりました。そして貴方の時と同様真相は恣意的な秘密のヴェールの中に隠されてしまったのです。貴方の生きた時代と同じように・・・・・・・・

1998年11月没後35年目のこの年巡礼の旅に出掛けられたのもなにかの因縁すら感じました。自分の人生の中でも最も充実した3日間でした。 こんな我が侭を許してくれた、妻に感謝します・・・・