特別寄稿


エドワード・ケネディほど人によって評価が分かれる政治家はいないだろう。この小論では、
彼の政治生活の考察を試みていきたい。エドワード・ケネディは、1962年のマサチューセッツ州上院議員補欠選挙で当選した時から、「ケネディ家の3人目の息子」という目でみられていた。ハーバード大学時代のカンニング事件も当時から知れていた。しかし、1964年の「公民権法案」成立では若手ながら中心的な役割を果たし、兄・ロバートと違い当時の大統領・ジョンソンや同僚議員との折り合いもよかった。1968年6月に民主党有力大統領候補だった兄・ロバートが暗殺されてからは、「民主党の希望の星」として、1972年大統領選挙でニクソン大統領に対抗出来る候補とみなされるようになった。1969年1月には院内幹事に就き階段を登っていくように見えたが、同年7月18日にロバートの選挙スタッフだったメアリー・コペクニー嬢を乗せて運転していた車が川に転落・死亡させてしまい報告が大きく遅れた「チャパディッキ事件」によって大統領としての資質が問われ政治家として決定的なダメージとなり、結果的にこれが原因で大統領への道が閉ざされる事になった。議員辞職もあったが、エドワードは上院議員に留まる道を選択し、マサチューセッツ州民は彼を信任した。しかし、その後もリベラル派の代表格として活躍はするものの、アルコール中毒や女性問題を起こし絶えず悪いイメージがつきまとう。「チャパキディッキ事件」のほとぼりがさめた1979年11月7日に「ケネディ待望論」から現職のカーター大統領に異例の挑戦を表明したが、「なぜ大統領を目指すのか」との質問にも対応できず、「チャパキディッキ事件」や女性スキャンダル・アルコール中毒の問題蒸し返され支持率が急落し敗退する。それでも、大統領選挙の鍵を握るカリフォルニア・ニューヨーク・ペンシルベニア等の大州で勝利し、党大会まで指名を争い党綱領に主張を盛り込ませ侮りがたい力量を発揮、「夢は決して死なない」という政治生活の中で最も出色の出来とされる名演説で大きな存在感を示し4年後をにらみ、民主党の最有力者の1人として認知された。しかし84年の予備選挙は、家族の反対で断念し最終的に大統領への道を諦めざるを得なかった。そして、ここがターニングポイントとなり、上院議員の立場に専念して国家に貢献する道を選んだのである。私生活では、1982年ジョーン夫人と離婚、1990年のパームビーチでの一族のウィリアム・スミスの不祥事でまたもや大きなイメージダウンになったが、1992年ビクトリア・レイジーと再婚してからは落ち着いた。1994年の上院議員選挙では、ロムニー前マサチューセッツ州知事の挑戦を受け落選確実という下馬評もあったが、「兄たちは国家の為に命を捧げた」という演説で彼の選挙の中で最も低い58%という得票率ながらも議席を守り抜く。エドワードは、常に社会的弱者の救済・平和の為に尽くしてきた。全米屈指の資産家の出という理由もあるが、議員歳費は受け取らず自前の資金と「奉仕の精神」で政治活動を行ってきた信念の政治家であった。「税金のバラまき」という批判があっても、常に女性・少数民族・黒人・貧しい人の立場に立った法案を実現させ、イラク戦争にも反対した数少ない上院議員だった。また、マサチューセッツ州民に対してのサービスはずば抜けて質が高く、保守化の嵐の中、共和党が選挙で民主党リベラル派議員を狙い打ちした時も、他の議員は落とせても、彼だけは固い地盤もあってどうしても落とす事が出来なかった。2006年4月にはタイムの尊敬される上院議員10人に選ばれるまでになった。エドワードは法案を通す為の特別な粘り強い忍耐力・卓越した交渉力を持ち、民主党と共和党との重要なパイプ役を果たしていた。これが、ケネディ一族で最も政治家向けと言われた所以でもある。1962年の補欠選挙も含め9回連続当選を重ね歴代3位だった46年間の上院議員生活の中で2500本以上の法案を提出し、300本以上の法案を成立させたアメリカ議会史上最も影響力がある上院議員であった。この事は誰もが認めざるを得ないだろう。委員長を務めた人的資源、保険・労働・厚生・年金、司法の他様々な分野に精通し、公民権法(64)・投票権法(65).育児介護法(90)・障害者法(93)・休業法(93)・遺伝子情報差別禁止法(08)などでは大きな役割をはたした。2009年8月28日のケネディライブラリーでのお通夜の席で、共和党保守派重鎮のマケイン・ハッチ両上院議員が揃って「どんなに議会で激しくやり合っても、終われば仲良く遊びに行った」というエピソードを語った。「ケネディ」という偉大な名前だけでなく、ある意味では、兄たち以上の素質が備わっており、「長年に渡り政治的立場は違ったが、公務に対する真摯な姿勢は常に尊敬していた」とブッシュ父元大統領も談話の中で述べた。民主党内でも大きな影響力を持ち、大統領予備選挙において、1988年にはマサチューセッツ州知事だったデュカキス氏、2004年には同じマサチューセッツ州上院議員のケリー氏の「応援団長」を務めた。2008年民主党大統領予備選においては、個人的に親交のあるビル クリントン元大統領が、妻・ヒラリー上院議員を支援する為、オバマ上院議員への過剰な個人攻撃をするのを見て、民主党リベラル派最重鎮として医療改革で一致するオバマ氏への支持をいち早く表明し、後見人として指名への決定的な流れを作った。このことは、クリントン元大統領夫妻にとっては非常に大きな打撃となった。
 だが、5月に悪性脳腫瘍に倒れ手術を受ける。亡くなるちょうど1年前の2008年8月25日には医師の反対を押し切りデンバーでの民主党大会に出席、熱烈な拍手の中でオバマ氏への支持を力強く訴えた。兄たちから受けついだ、リベラル派本流の「たいまつ」をオバマ氏に渡そうとしたのである。特に、4600万の国民が未加入の医療保険の問題は、長男が1973年にガンで足を切断しなければならなかった事がきっかけにもなり「国民皆保険」を唱え続け、長年熱心に取り組んできた。不治の病に倒れなければ保険・労働・厚生・年金委員長として当然先頭に立ち最後の晴れ舞台となる筈だったが叶わず、オバマ大統領への遺言で託す事になった。それでも、勇敢に病と戦いながら上院議員としての活動を懸命に続けた姿勢は高く評価された。 しかし、病は次第に彼を蝕み2009年6月からは議会に出席出来なくなった。長年の功績により、2009年5月にはエリザベス女王から北アイルランドの平和解決の件で「ナイト」の称号が贈られ、7月にはオバマ大統領から「自由勲章」が贈られた。2009年8月25日深夜、マサチューセッツ州・ハイアニスポートの自宅で「挫折と復活」という波乱万丈な77歳の生涯を閉じた。一般弔問の8月27日と28日は、何時間もかけて、50000人の人々が「ケネディライブラリー」にエドワードとの最後の別れを告げるために訪れた。首都・ワシントンでは半旗が掲げられ、ワシントンやマサチューセッツの沿道で は多くの人々が葬列を見送り、国民的人気の高さが証明された。8月29日にボストンの教会で行われた葬儀には、オバマ・バイデン正副大統領をはじめ、ブッシュ・クリントン・カーターの元大統領、ゴア氏ら3名の元副大統領、58名の上院議員・21名の元上院議員、アイルランドのコーエン首相ら選ばれた招待客1500名が参列した。オバマ大統領は、弔辞の中で「大統領選挙予備選を戦っていた時の彼の力強い支えが心に残っている。」・「何も持たざる者たちの王であり、上院の獅子であり、民主党の魂であった。現代における最も偉大な上院議員であった。」と述べた。この後、棺はワシントンに運ばれ、兄たちの眠る「アーリントン国立墓地」に 埋葬された。「ケネディ家の栄光と悲劇」を見守ってきた彼の死によって、1952年兄・ジョン・ケネディが名門ロッジ家のヘンリー・ギャボット・ロッジを破って以来守り続けてきたマサチューセッツ州上院議員の議席がなくなり「ケネディ王朝」の幕が降ろされた。ひとつの時代は終わった。兄たちと同じように大統領を目指したが「チャパキディッキ事件」という払拭出来ない過ちのため評価が一変し大統領への道を断念、上院議員として公僕に徹し長年アメリカ・マサチューセッツ州・国民の為に尽くした功績で誰もが一目置く存在となり復活したのである。上院議員といういわば「天職」で多大な実績を積み上げてきて「史上最高の名議員」とも評されるまでになった。兄たちは短い間で大きな実績を残したのに対し、彼は天寿を全うできた事で長さを以って国家に貢献したのである。ある意味、過ちを補ってあまりある国家に対する貢献をしたとも言えるのではないだろうか?「デモクラテック・アイコン」とまでも言われた彼のようなタイプの「政治家」はもう出現しないかもしれない。医療改革法案は、エドワードの意向でマサチューセッツ州法を改正し暫定上院議員の選任を可能にし審議を進めたが、その後の上院議員補欠選挙を金城湯池であるにもかかわらず民主党が落とすという番狂わせがあり、エドワードが訴え続けたように「国民皆保険」とまではいかなかったが、3200万が新規加入できる形で2010年3月23日に成立した。過去の民主党政権が出来なかった事を実現させたオバマ大統領の手腕は評価に値するだろう。オバマ大統領は、エドワードとの約束を守ったのである。エドワード・ケネディは、一族のシュワルツネッガー前カリフォルニア州知事が述べたように「社会正義のチャンピオン」だった。社会的弱者を救済していく為に彼が約半世紀にわたって成立させてきたさまざまな法案こそ、エドワード・ケネディのアメリカへの「レガシィ」であろう。

森田 龍