このテーマに関しては、「遺体解析」項目で若干触れている。しかしながら今になってこの項目を読み直してみると言葉足らずの見本みたいに思えてくる。ここではウオーレン報告書の最大の疑惑”単発説”を批判すると共に「遺体解析」の弾道に関する疑問を全般に亘って補足する。したがって項目の内容は、相当詳細部分に立ち入らざるを得ない。また、単に弾道の問題のみにとらわれず、そこから派生する遺体の状況等にも言及が必要な為、かなり長文となることをご容赦いただきたい。さらには画像を見比べながら理解を深めて頂きたいので、ページ内部に画像を取り込むことにしました。その為、相当大きなファイルを含んでおりますので、皆さんの環境によっては相当ダウンロードに時間がかかる事をご了解ください。概要のみ知りたい方は”遺体解析”の弾道の項目をお読みください。
弾道と第三の狙撃者
ケネディ暗殺は巨大なパズルに似ている。数多くの情報と、玉石混合の意見の中から様々な事実を選り分けるには綿密な計画が必要である。私は、会員専用コンテンツ”私の推理”で「狙撃者は三人である。」と断じている。それは三人の狙撃者を配置する陰謀であったというよりは、最初はむしろこの考え方でしか狙撃に関する様々な医学や弾道論の資料や目撃者の証言を明確に説明できなかったからである。
ではなぜ、三人の狙撃者を想定する必要が有ったのであろうか?また、なぜグラシノールと教科書ビルの二個所ではいけないのだろうか。それはグラシノールとはまったく関係の無い資料によって導き出されたのである。その決め手となるのは、二発の銃弾が発射された間隔である。
ケネディの首の後ろから前に銃弾が貫通した、と言うのがウオーレン委員会(以下委員会)の採用した”ベセスタ検視報告”の結論である。また、コナリーが後ろから前の貫通銃創を受けていたことはまぎれもない事実である。しかし、発砲の間隔に関する問題は、ザプルータの撮っていた8ミリフィルムを委員会が証拠として採用したことから明らかになったのである。このフィルムは正に時計の役割を果たしたのである。「凶器解析」の項目の復習になるが、このベルハウエルの8ミリカメラは一秒間に18.3コマの速さで動くのである。したがって撮影された映像は正確に一コマについて18.3分の1秒ずつの時間を刻んでいるのである。
また凶器解析にもあるとうりさまざまな実験によって凶器とされるマリンカ・カルカノ銃は一発目を発射して二発目を発射できる体勢になるまでには、照準を合わせる時間を無視しても最低2.3秒かかることが解っているし、委員会も認めている。
つまり、ザプルータフィルムでは最低42コマ必要なのである。左図をご覧頂きたい。仮に第一弾が教科書ビルの六階から見て木陰から大統領の姿を捉えることのできたもっとも早い時期である210コマ目に発射されたと仮定する。(私は実際に初弾が発射された時期はもう少し後と思っている、なぜならば210コマ目で発射されたとするとケネディの反応が遅すぎるからである、しかしこの事は以下の推論を阻害するものではない。なぜならば、発射間隔はそのままずれるだけであり、むしろ仮定以上に時間がたりなくなる、それに大統領と知事の反応のズレも変わらないからである。)そしてコナリー知事が反応を示す時間は、もっとも遅く設定しても244コマ目にあたるのである。つまり、銃が発射可能となる252コマ目よりも早い時間にコナリーは反応しているのである。それでも委員会はコナリーが撃たれたのは240コマ目までの間であると主張するのである。ベセスタ検視報告によると大統領とコナリーは共に後ろから撃たれたという。しかし銃弾の間隔から見ると第二弾が発射可能となるのに必要な最小限の時間よりもずっと短い時間内で二人とも撃たれているのである。とすれば、考えられる事態は二つしかない!
一発の銃弾が二人に命中したか。もしくは、後ろから撃ったもう一人別の狙撃者がいたのかの二つにひとつである。ここで委員会は一発の銃弾が二人を傷つけたと結論する。(そうせざるを得なかった。)一発の銃弾がケネディの首の後ろから前に貫通し、コナリーに五つの傷を負わせた、とする。この結論こそが、今日でも議論の対象となる”単発説”である。委員会の顧問の一人、ノーマン・リドリッジはこういった。「二人が別々の銃弾で撃たれただなんて言ったら、まるで犯人が二人いたみたいではないか。」と。
いかに強力なライフルでも、一発で二人の人間にこんなに多くの傷を作れるはずは無いのに、委員会の誰一人としてこのことを主張しなかったのである。総合的にみると、単発説に反対する事は必然的に第三の狙撃者の存在を大きく浮き彫りにすることになる。単発説への反論は次の四つに分類できる。
ザプルータフィルムが銃弾は別個のものである事を示している。
上図をご覧ください。大統領が明らかに反応した225コマ目から、知事が反応する238コマ目まで、コマ数にして13コマ。時間にすると0.7秒間、仮に初弾が210コマ目に発射されたと仮定するならば、238コマ目まで、1.53秒間、また、210コマ目から道路標識から大統領の姿の見える224コマ目の中間の217コマ目に発射されたとすると1.15秒間はコナリーは表面上、まったく何の変化も見せていないのである。この議論には説得力がある。1966年の”ライフ誌”11月号の表紙を飾った写真がこのザプルータフィルムの230コマ目である、そして表題は「オズワルドの単独犯行か?根拠ある疑惑!」であった。大統領は首に顕著な反応を示しているのに知事は明らかに何事も無かったかのようにうつっているのである。この写真に対しての委員会の反論は、たった一言「コナリー知事の反応がにぶかっただけである。」であった。このことが委員会で話題になったとき、委員のマックロイはコナリー知事を治療したロバート・ショー医師に質問している。「銃弾の命中の瞬間と実際の反応との間には、明らかな反応が起こるまでには、多少の遅れが生じることもありえるのですね?」これに答えてショー医師は「はい、しかしコナリー知事のように、肋骨のような骨の組織に損傷を受けたとすると、反応はかなり早いのが普通です。」と答えている。
コナリー知事が実際に委員会に反論している。
コナリー知事は一発目の銃声を聞いて、暫くしてから衝撃を感じたと証言している。
コナリー知事の証言
「我々が角を曲がったところで私は銃声を聞きました、これはライフルの音だと思いました。銃声が私の右の肩越しに聞こえたようでしたので、私は本能的に右を向きましたが、群集以外特別なものは見えませんでした。その時、大統領の姿が見えませんでしたので、おやっ、と思いました。ライフルの銃声と判断しましたので、すぐに、これは暗殺だとピンときました。大統領の姿が見えませんでしたので、左の肩越しに後部座席を見ようと体を捻ろうとした瞬間ドスンと、誰かが背中を殴りでもしたような衝撃を感じたのです。私が第一弾で撃たれただなんて、考えられません、銃弾と思われる衝撃を感じたのは、明らかに銃声を聞いた後でしたから。」
銃弾は音速より早いので、彼は自分を撃った銃弾よりも一つ前の銃声を聞いていたはずである。したがって撃たれたのは音を聞いたのとは別の銃弾であったに違いない。とコナリーは証言している。さらにコナリー夫人も、ケネディは夫のとは別のもっと早い時期の一発に反応したのを見たと証言した。
「あの時、私は、大統領を振り向いて”大統領閣下、あなたはもう、ダラスの人たちが、あなたを好いていないなどとは、おっしゃらないでしょうね”と声をかけました。多分、その直後だったと思いますが、音が聞こえました、私はライフルについてはまったく知りませんでしたので、それが銃声で
あるとは気がつきませんでした。音はビックリするほど大きく、右の方向から聞こえました。私は、右の肩越しに後ろを振り返りました。そして、大統領が首にてを当てているのを見たのです。その後に、夫を撃った二発目の銃声を聞きました。」
これに対する委員会の反論は、彼ら二人が聞いた銃声は完全に標的をはずれて誰にも命中しなかった銃弾の発射音であった、と言うものである。
コナリーとケネディの位置関係から単発説は無理だ。
ベセスタの検視報告によると、ケネディの首に命中した銃弾の角度は17度であったのに、コナリーが受けた貫通銃創の下向きの角度は、25度もあったという批判があった。しかし、そのほかにも、例えば右図のように水平面で見ても同じように不適当な点があった。ケネディを貫通した傷はほんの少し右から左だったのに対して、コナリーの傷の入口は右の端、脇の下の辺りで出口は右乳首の真下であったからだ、したがって、ごく普通の姿勢だった事を考えると、二つの弾道は全く合致しないのである。しかもザプルータのフィルムによって、二人は一つの弾道を想定できるような位置関係には座っていなかったこともあきらかであった。これに対しての委員会の反論は、二人は道路標識の陰になった時に、同じ一発で撃たれたために、フィルムには映らなかったのである、といっている。すなはち道路標識の陰となっていた207コマから225コマ目の18コマの間だけその前後とは比較にならない姿勢を取っていたといっているのである。委員会の調査で法律顧問アーレン・スペクターはFBIの武器専門官ロバート・フレイザーに対して次のような質問をしている。「フレイザーさん、真実として受け入れてくださるようにお願いします。銃弾と大統領の体を貫通した直線に関して、つまり、207コマ目と225コマ目との間にいったい何がおきたのか、大統領の首を貫通した銃弾がはたしてコナリーの背中に命中したかどうかに関して何かお考えがありますか?」この質問にフレイザーは「多くの可能性があると思います。まず、実際には不可能でしょうし物理的に言っても有り得ないことですが、仮に銃弾が弾倉を出てから、知事の体を貫通するまでの間全く歪まなかったとしなければ・・・しかし、私として、専門家として私の考えを述べるには、必要な証拠を持っていません。ただ、可能性はあるとだけは申し上げられますが、しかし、恐らく実際に起きた事とは言えません。なぜなら、そうした決断をする証拠を持っていないからです。」さらにフレイザーは注意深くこう言った。「これは余りにも大きな仮定の上での話です。・・・・それでも。おそらく実際に起きたことだと言わせようとするならば、それは私が具体的に説明できない仮説にもとずいて、私の考えをまとめろと、おっしゃっていることになると思います。」と。
報告書はこのように記述する。「専門官フレイザーは、おそらく(ケネディを貫通した銃弾が)コナリーを撃ったと証言した。」・・・・・
ケネディの首を貫通した銃弾は下向きの弾道ではなかった。
ベセスタの検視報告にもとずいて、委員会はケネディを撃った最初の一発は「彼の首から入り、喉の下から出て、そしてネクタイの結び目に孔を開けた。」と結論した。銃弾がケネディを貫通したとする、この結論は重要である。なぜならば、ケネディに命中した銃弾は彼の体を通り抜けない限り、コナリーに当たるはずはないからである。したがって、ケネディの首を貫通したとされた弾道こそが「単発説」の法医学的な基礎となっているのである。結果的に、貫通しなかった、もしくは、銃弾は後ろからではなかったと言う証拠はすべて「単発説」をも批判することになる。第一に、「遺体解析」の項目でも述べたとうり、ダラスの医師たちの意見は始め喉の傷は銃弾の入口だというものだった。もし喉の傷が、ダラスの医師のいったように入口だったとするならば、ケネディが両手を喉に当てる格好をして道路標識の陰から現れたとき、彼はどこか前方に隠れていた犯人の撃った銃弾に反応していたことになる。さらに、喉の傷は入口だったとする議論はケネディとコナリーの銃弾に対する反応のずれや、第二弾の発射可能になる以前のコナリーの反応と言った議論をまったく無意味にするのである。第二に背中の傷は喉の傷よりも下にあった、したがって仮に喉の傷が出口であった場合、弾道は上向きになってしまいオズワルドがいたとされる位置から撃ったとすれば当然できるはずの下向きの弾道とはならない。すなわち、コナリーの背中の傷の位置は明らかにケネディの喉の位置より上ではないので、ケネディの首を貫通した弾道が下向きの場合にのみ「単発説」は成り立つのである。
ベセスタ検視報告を書いたヒュームズ医師が委員会で証言したときにケネディの傷を説明する為使用した絵がこの写真である。この絵はレントゲンなどの代わりに証拠として委員会に受け入れられ、証拠物件番号385号とされた。この絵には、首の後ろから前に約17度の角度で下に向かう大きな矢印が画がかれていた。この証拠によると銃弾の入口は首の筋肉と右の肩の線とが交わったあたりとされていたのである。委員会は報告書の中でこの絵と一致するように、背中の傷は「大統領の首の後ろ側の付け根」で「脊椎の少し右側」にあった。と記載されている。そして実際の現場検証にあたって大統領役の被験者が背中につけた銃弾の入口の印もこの証拠にもとずいた位置にあったのである。もし、この現場検証に当たって背中の入口がそれ本来の正確な位置でなかったとすると、ケネディの首を貫通した弾道、すなわち「単発説」はまったく別の結論に到達していたはずである。事実、同じ報告書の付属文書の中に多くの証拠がヒュームズの証言で提示した絵と食い違っていたのである。それらの証拠は大統領の背中の傷は、彼の首の後ろ側ではなく、もっとずっと下のほう、ヒュームズの指摘した位置の約15センチ下、つまり肩の線と首の交わるところから15センチ下にあった事を示していた。
右の写真が検視検案図である。この図は検視の間に医師が書き込みをしたままのコピーとして報告書にも掲載されているものである。体の前面図には気管切開の跡が丁度ワイシャツの襟がくるあたりにはっきりと示されている。そして体の背面図には一つの黒点で背中の傷の位置が記されている。この点は明らかにヒュームズの提示した絵の位置よりずっと下の位置に記入されているのである。さらには、この検視検案図の記載が正確であることを他の証言が証明しているのである。
シークレットサービスのグレン・ベネットは大統領専用車のすぐ後ろの随行車の右後ろの席に座っていた。「私は、大統領の背中を見ていました。二度目の花火のような音を聞いたとき、大統領の右肩の10センチほど下のところに何かが当たるのを見ました。」と証言したのである。委員会はこの証言をかなり重要視して、次のように付け加えている。「彼のメモは11月22日の5時20分に、自分が見たものを記録したものであり検視結果を知る前、しかも、大統領が背中を撃たれたことが公表される以前のことである。」と強調している。実はこの証言は、致命傷とならなかった最初の傷は後ろからだったことを証明する為の証言として利用されているのであるが、はからずも、傷の位置の矛盾を披瀝する結果となったのである。しかしこの件に関するもっとも重要な証言は、同じシークレットサービスのクリント・ヒルによってもたらされた。彼は、事件当日の深夜、ロイ・ケラーマン、ウイリアム・グーリアと共に大統領の傷を調べるという特定の目的の為遺体安置所に入っていった。委員会でその理由を尋ねられて彼はこう答えている。「証人は多いほうがいいですからね、不幸な出来事の目撃者は一人でも多い方が良いと思ったので・・・・・」クリント・ヒルは委員会で委員のヘイル・ボックスの質問に、こう答えている。「頭の傷の他に何か別の傷をみませんでしたか?」「はい、背中に一つ。そう、背骨の右側でネックラインの15センチほど下でした。」このヒルの証言は同様に質問された、ケラーマンやグーリアによっても確認されている。
さらに、銃撃を受けた際に当然残った着衣への損傷があるはずである。事実、大統領の上着とワイシャツには銃弾の通過した孔が存在する、その位置はそれぞれの襟の上端から、13.4センチと14.4センチの位置にあった。襟からこれだけ下の部分の孔が「首の後ろ」にあったとされる体の孔と同一の銃弾で作られたとは考えにくい。しかし、委員会はこの事を大統領が人々に手を振っていた為に衣服がたくし上がってしまったので衣服の孔と、首の後ろの孔とが一致しなくなった為であると説明している。上着は確かにかなり皺になっていたことは事実であるが、狂喜乱舞して手を振っていたわけでもあるまいし、たかだか儀礼的に手をあげただけで、10センチや15センチも、しかも襟の部分にまで上着が持ち上げられるなど、考えられないのではないだろうか、
これらの証拠によれば、背中の傷は襟の上端から15センチほど下がったところにあったことになる。したがって、大統領のネクタイの結び目を突き破った弾丸が作った喉の傷の位置よりもずっと低い位置で銃弾が命中して、たとえ17度という浅い角度であったとしても、そのまま下向きに進んで体外に出たとすれば、その位置はおそらく胸の下あたりになったはずである。もし、銃弾に何か別の力が加わって体内で上向きにになって、喉の傷口から外に出たとしたら、今度はコナリー知事の頭の上の方を飛んでいったはずである。だとしたならば、コナリー知事の「明らかに、後ろ高方から下向き」の傷とは別のものであるはずなのである。
背中の傷は低いところにあったとする説は「単発説」を否定するものである。しかも、ザプルータフィルムの時間差の問題と照らし合わせて考えてみると、大統領の後ろにはもう一人の犯人がいたことを強力に証明することとなるのである。
非貫通の銃弾
背中の傷の正確な位置は別として、もしケネディに後ろから命中した銃弾が、彼の体を貫通していなかったら、その同じ銃弾がコナリー知事に命中することなど決して有り得なくなる。驚くべき事にその事を暗示する証言や証拠が委員会の付属文書の中に存在するのである。もし、実際にケネディの背中に命中した銃弾が貫通していなかったら、この事を銃弾に対する反応時間の差と言う例の「時間差」の問題と絡めて考えると、この「非貫通の証拠」からも第三の狙撃者の存在の補強となってくるのである。
付属文書の中で最初に出てくる「非貫通の証拠」は、検視に立ち会ったシークレットサービスのロイ・ケラーマンの証言のなかにあった。「この検視を実施したのは三名だ。フィンク大佐(ベセスタ検視のスタッフの一人)は大統領の体、特に肩のところにあった孔を探り棒で調べていましたが、その間、我々は大佐の横に立っていました。肩の傷を丁寧に見ているので、私は”大佐、その孔はどうなっているのですか?”と尋ねてみたのです。すると、大佐は”この孔には出口がないなア”と彼が答えました。」ケラーマンの述べていることが信じられるとすれば、この傷はどこにも続いていないのである。したがって、この傷を作った銃弾はコナリーに当たるはずがないのである。しかも、ケラーマンと共に検視に立ち会ったウイリアム・グーリアの委員会での証言とも一致する。「銃弾が貫通した大統領の体に付いて、何か話をされましたか?」との委員会顧問スペクターの問いに対して、グーリアは「いいえ、何も聞いていません。貫通したという話は何も・・・・・」
1969年、フィンク大佐は、かのクレイ・ショー裁判に証人として出廷して大統領の背中の傷の深さは、「2.5センチ」程であったと証言している。
1963年12月の段階でFBIは”調査概要報告書”を委員会に提出している。もしウオーレン委員会が設置されなかったとしたら、この報告書が正式の事件報告書となるはずであったものである、さらに翌64年1月にはFBIの”補足報告書”も提出されている。これら二つの公式文書の中にも、銃弾が貫通していなかった事実が記載されているのである。
概要報告書の中の記述
「大統領の体を医学的に調べた結果、一発の銃弾が背骨の右側の肩の下の部分に、45度から60度の下向きの角度で命中していたことが判明した。さらに、この傷には、対応する出口が無く、同時に銃弾も体内に残っていないことが明らかになった。」
補足説明書の記述
「大統領の体を医学的に調べた結果、背中に命中した銃弾は、人差し指の長さほどしか体にくいこまなかった事が明らかになった。」
貫通の問題に関するいくつかの不明な点は別として、この二つの報告書は大統領の背後の傷は、貫通していなかったと明言すると共に、委員会の結論する背後の傷の位置よりも[低い」事も述べているのである。概要では”肩の下”と述べているし、補足では”背中”とはっきりと述べているのである。FBIの書類によれば、これらの事は「大統領の体を医学的に調べた結果」であるとしている。常識的に言えば、検視報告のことであろうと思われる。しかし、ウオーレン委員会報告書に付属文書として記載されている「大統領の体を医学的に調べた結果」とは、いちじるしく異なる記載であることに注目していただきたい。と言うことは、まったく別の、おそらくは、もっと早い時期に書かれた検視報告書があったのであろうか?ベセスタの検視以外にいったいどのような「医学的」な調査があったというのであろうか。FBIの捜査官が検視をしたわけではないのだから、これらの記述は当然ベセスタ検視の報告書からの記述とするのが極めて自然な結論であろう、FBIはベセスタ検視報告のコピーをもっていたはずである。とするならば、委員会報告にあるベセスタ検視報告書とはいったい何なのであろうか?
変えられた検視報告書
ウオーレン委員会の報告書は、”高い”位置からの銃弾の傷と、貫通した首の傷ということが絶対的な必要条件であり、その裏ずけとしてのベセスタ検視報告書が十分条件として成り立っている。そのため、ウオーレン委員会の付属文書の中に存在する、これらの相容れない[事実」は注目に値する。これらの事実はすべて”ベセスタ検視報告書は書きかえられていた。”という推論を否定することができないのである。この書き換えられたかもしれない検視報告の考え方は、事件直後の新聞記事とウオーレン報告書自体の中にあった。1963年12月18日のワシントンポスト及びニューヨークタイムズは、ベセスタにおける検視に詳しい「政府筋」の話として次のような記事を掲載した。ポスト紙には検視の結果、後ろからの銃弾が「大統領の肩のずっと下」に命中したと書き、さらにその場所は「襟から13から18センチ下のところであった。」と付け加えている。また、タイムズ紙は、「最初の銃弾は背中に小さくてきれいな傷を作り、しかも5センチから8センチだけ体内に食い込んだ」と報じている、さらに同紙は1月に入っても、最初の一撃は「大統領の右肩の、襟より数センチ下がったところに命中し、その銃弾はそのまま肩に食い込んでいた。」としている。
通常であれば、新聞記事などよりも検視報告書のほうが検視結果に関しては、ずっと信頼できるはずである。しかしベセスタの検視報告はそれ自体で発表されたことは無く、ウオーレン報告書の付属文書として発表されただけであり、さらにはその発表の時期は事件から10ヶ月も経過した時期であった。通常新聞記事のなかで「・・・筋」という表現を使う場合はかなり確度の高い情報の慣用句である、しかも、ゴシップ専門のタブロイド紙などではなく「タイムズ」「ポスト」である。両紙の持つ高い信頼性からみて両紙とも公式書類を見ることのできる人物の取材にもとずいて報道したと考えてよいであろう。
前述のケラーマンの証言や新聞記事の内容との一致から見て、おそらく事件直後に記載された検視報告書は10ヶ月後の発表までの間に書き換えられていた(ウオーレン報告書の内容に添う形に)のではないかと、疑うことができるのである。
ウオーレン報告書自体に目を移してみよう。報告書によるとベセスタで検視をおこなった医師団は「大統領がパークランド病院に運び込まれた時に、喉のところに銃弾の孔が開いていたことを全く知らなかったのだ。なぜなら気管切開の施術がこの傷痕を完全に消し去ってしまったからである。」と述べる。この文章からすると。”ヒュームズは銃弾が貫通したとは考えていなかったから、喉にあった傷を銃弾の出口とは思わなかった。だからこそ喉の傷を気管切開の為のものと考えたのである。気管切開が銃弾による傷痕の上に施されたことを知らなかったのであるから当然である。”となる。しかも、検視の最中にダラスから「大統領のストレッチャーの上に一発の銃弾が見つかった」と知らされたのである。しかし、報告書はヒュームズ自身が、銃弾は貫通しなかったと結論したわけではないとし銃弾は浅かったという考えは、「検視の間」に否定された、と主張している。報告書はさらにヒュームズが検視を続けていくと、銃弾は確かに大統領の首を貫通していたことが判明したと述べている。「検視担当医は銃弾は首の太い筋肉の間を通り、しかも弾道の跡を残さずに、筋肉だけをいためただけにとどまったのだ。」と結論した。こうして、報告は体を貫通したことをほのめかしたけれども、その弾道については明らかにしなかったのである。
報告書は、ヒュームズがパークランドのペリー医師に電話を入れたその翌朝までには、ヒュームズは、銃弾は首を貫通して気管切開のメスを入れたところから出ていったという結論に達していた。とわざわざ断っている。そしてヒュームズは、銃弾の傷のところから切開したことを直接ペリー医師から聞いて、この事を「確認」したとしている。法的にみると、この「確認」したということは、非常に重要なことになる。なぜなら、もし、ヒュームズがペリーと話し、そこで初めてもう一つの銃弾の傷口について知ったとしたならば、証拠としての検視報告の力は相当弱められてしまうからである。「貫通した」という重大な結論は遺体を直接調べた結果ではなく、検視後になされた「当て推量」にすぎなくなってしまうからである。
ヒュームズがそれぞれの傷に関して何を知り、またいつ「貫通」という結論をしたかに関してヒュームズと委員会がだした結論については、多くの疑問と疑惑が表明されている。「きっと何かある。」と・・・・その何かとは、ウオーレン委員会の命令によって検視結果が改ざんされていたということであった。そして、この隠蔽工作は次のように起こったと考えられた。第一に委員会は「時間差」の問題に気ずいたのである、第二に、そのために、ヒュームズに要請して単発説に合致するように検視結果を「貫通した」に変えさせたのではないか。そうしないと、大統領の後方にもう一人の狙撃者が居たことになってしまうのである。
検視にあたっては、数々の所見を検視の途中にメモしておくのが普通である。しかも、検視対象者は大統領である、ちょっとした記憶の間違いも許されないのである。委員会はヒュームズに対して、その様なメモの存在の有無を確認している。答えは「あった。」である。そして続ける。「そのメモ及び報告書の下書きは、報告書作成後、焼却してしまった。」と述べるのであった。
こうした数多くの疑問があるにもかかわらず、この事を証明することは不可能に近かった。ケラーマンの証言だけでは、銃弾は大統領の首を貫通したという委員会の結論をひっくり返すのは難しいのである。しかも、衣服の孔の位置が「低い」ことと、首の傷の位置が「高い」ことの食い違いは、疑えばきりがないし第三の狙撃者の存在をかなりの確度で推測することはできたとしても、検視報告書が変えられたことの証明にはならないのである。
しかし、たった一つだけ道はある、国立公文書館に納められた委員会の未公開の書類いわゆる”2039年の証拠”のなかに「初期の検視報告書」といった類のもの、つまり、公刊されたどの記録よりもずっと信頼性が高いものがあるのではないだろうか、ということである。
気が付いてみると、あまりにも長文になってしまいました。弾道に関する疑問はまだまだあります。そこで今回はここまでとし、次回”続・弾道解析・・証拠物件399号”としてアップします。お楽しみに・・・・・
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