ケネディ暗殺事件の議論のなかで、ケネディ以後に関する論議はある意味ではもっとも重要な議論である。この事の解明は大統領暗殺を単純な殺人事件と見た場合、事件によっていったい何が変わり、誰が得をしたか?といった捜査の基本的な命題に結論をだすものに等しい。したがってこの議論に関して言えばオズワルド単独犯行説の論旨は何も変わらなかったと言い、陰謀説の論者は劇的に変化した、と主張する。”政治は生き物”であり自分の思うとうりには事は進まない事も事実であり、各人の思惑が複雑に絡み合い思わぬ方向に事態が推移することも事実であろう。ケネディが生きていたなら何をしていたか?あるいは、何をしなかったか?は勿論推測の域を越えない。しかし、暗殺当時の彼の政策は数々の記録である。このはなはだしく抑制された記録の中から、はたしてケネディの死によって何が変化し、何が変化しなかったのかを、ケネディ以後のアメリカ史上最大の悲劇ヴェトナム問題を主題に据えて考えていきたい。このことは、とりもなおさず、ケネディの死が歴史上どの様な意味があったのかを探る事に成り、事件そのものの解明に近ずく最も早い道筋であると確信する。

注:以後の記述の中で”覚書第何号”と言う語彙が頻繁に出てきますが、これは国家安全保障行動覚書(NSAM)の略である。NSAMとはアメリカ合衆国最高の意思決定であり、概ね国家安全保障会議の席上策定される。時として大統領の意志によって発表もしくは極秘裏に通達される場合もあるものである。

JFKとヴェトナム政策

ここでは年代記風にケネディとヴェトナムとの関わりを記述してみる。

1961年4月 ケネディはラオス問題に介入しない事を決定。記者発表する。
1961年11月15日 覚書111号発表、本覚書にはヴェトナムへの軍事顧問団の増派を決定しているが、あくまでヴェトナムに送る人員は軍事顧問であって戦闘要員の派遣に関しては拒否の姿勢を明確にしている。さらに、キューバ問題を解決できない現在のアメリカにヴェトナムに介入するなどと言った事を正当化できない。と言明。
1962年4月4日 ガルブレイス駐越米大使は南ヴェトナムのゴ・ジン・ジェム政権に関する政策の変更を進言。ケネディは近い将来には不可能かもしれないが、現状では、南ヴェトナムにおけるアメリカの介入は好機を見計らい停止すべきであると言明。
1962年4月13日 統合参謀本部は前述のガルブレイス大使の進言に対し、以下のように回答。”アメリカのいかなる政策転換も多大な影響を及ぼす可能性が高く、その影響は南ヴェトナムとアメリカの関係のみならず、他のアジア諸国、その他の同盟国との関係にも及ぶと考えられる”と回答
1962年10月 キューバ危機
1963年6月 アメリカン大学演説
1963年10月2日 ホワイトハウス声明発表。この中でヴェトナム撤退に関する第三パラグラフ。
国防長官マクナマラと統合参謀本部議長テイラー将軍は、アメリカの軍事行動の主要な部分は、ある程度の米軍訓練要員を引き続き必要とするかもしれないが、基本的には1965年の末までには撤退を完了すると報告した。本年の末までには、ヴェトナム軍を訓練するアメリカの計画は、南ヴェトナムに派遣されている1000名の米軍人員の引き上げが可能となる水準に達するはずであると報告。
1963年10月11日 覚書263号公布、「大統領はマクナマラ・テイラー報告のセクション1Bに含まれる軍事的な勧告を承認したが、1963年末までに1000人の米国人員を撤退させる計画を実施する事を、公式には声明しないよう指示した。」
ケネディは撤退を始めようとしているが、おそらく大衆からの抗議を懸念して、これを公にする事を控えた、と言う事なのである。覚書263はホワイトハウス声明とは異なり、「最高機密」文書として一般には公開されなかった。
1963年11月21日 暗殺事件前日、ホノルルにて政府・軍の連絡会議いわゆるホノルル会議がひらかれる。この会議の結果を纏めた覚書273号が特別補佐官マックジョージ・バンディによって起草される。しかし、この草稿は日の目を見る事はなかった、決済すべき大統領はワシントンには戻ってこなかったのである。そして、覚書273を決済したのは、ケネディではなくリンドン・ジョンソンであった。
1963年11月26日 新大統領リンドン・ジョンソンは覚書273号に署名、この中で、アメリカ政府の基本的姿勢は、1963年10月2日付のホワイトハウス声明に述べられたままにしておく事が再確認されている。すなはち覚書263に言及される1000名の撤退計画に触れずに、ホワイトハウス声明の「事態がある点まで進展したら」という部分を蒸し返したのである。「事態がその点」に達していない事は明らかであった。実際1963年末の米軍軍事顧問団ね撤退を決めた覚書263号は実施され、1000名の顧問団がヴェトナムから撤退した、しかし同時に1000名の軍事要員がヴェトナムに旅立つ事に成ったのである。

ヴェトナム政策の詳細検討

ケネディとジョンソンのヴェトナム政策に基本的な相違があるのか否かに関しては詳細な検討を必要とする。ケネディは、1963年6月のアメリカン大学の演説の中で、冷戦と軍備拡大競争の存在しない世界構想を発表した。アイゼンハワーの作り出した言葉「軍産複合体」なるものを公然と否定し、デタントのお膳立てをしたのであった。ケネディとフルシチョフはすでにその第一段階の取り決めをしていた。キューバ問題の暫定秘密協定の締結である。1963年7月、二人は米ソホットラインを設置し、8月には初の部分的核実験停止条約の締結にまで進んでいた。この時フランスのドゴール大統領はヴェトナムの再統合と中立化を提案して翌年1964年2月の訪米を計画していた。
9月、ケネディは戦争を解決するのはアメリカではなくヴェトナム自身であるとの見解を表明している。ケネディのヴェトナムへの疑念は、1962年、当時の上院院内総務、マイク・マンスフィールド上院議員(元駐日米大使)のヴェトナム派遣によって強められた、マンスフィールドは帰国後大統領にヴェトナムからアメリカは手を引くべきだと忠告。この見解に大きく傾いたと言われている。しかし、同時に大統領は、全面撤退が正しい道筋ではあるが、1964年の選挙が終わるまでは実行に移す事はできないと議員に告げている。1952年の選挙で台湾を失った為に民主党を共和党が打ち負かしたように、1964年ヴェトナムを失った為に、再度共和党に打ち負かされるかもしれないと案じたのである。ケネディは、対ヴェトナム政策を1964年の再選時をゴールに見立てて、穏やかに進める事にした。1962年のある時期。おそらくはキューバ危機の後の時期にケネディはヴェトナムからの完全撤退を企図し始めたと思われる。公の席では強固な反共姿勢を維持しながら、1963年には、次の年の大統領再選を手中に収めさえすれば、権力を強化して冷戦終結に効果的な駒を動かす事ができると確信していたであろう。 その為の布石として、対外的には1963年10月のホワイトハウス声明によって、さらに政府部内にたいしては極秘文書’覚書263号によって本気で取り組んでいる事をしめしたのである。
注意深くこのページをお読み頂いている方には、一点”アレッ”と思われる部分がある事にお気付きのことと思います。それは、ヴェトナムからの顧問団撤退の提案がなされたのは、反戦主義者のマンスフィールドやウエイン・モースの提案したことでなく、国防長官マクナマラと統合参謀本部議長テイラー将軍の報告に基ずくものであった、と言う記述である。確かにホワイトハウス声明のヴェトナムに関するパラグラフ3はマクナマラ・テイラーの国防関係筋からの報告によって上梓されたものであり、覚書263号は、この勧告を承認する、と言った形で策定されているのである。それでは、この撤退提案はケネディ自身の企図ではなかったのか?答えは、この時までの彼の施策・行動・発言から類推してノーである、この1963年10月の時点でのヴェトナム情勢は圧倒的に南ヴェトナム軍の優勢な時期にあたり、現地のアメリカ軍からの報告はこの戦争の成果が実を結びつずけるのならば撤退は起りうる。と述べているにすぎない。この報告をケネディはうまく利用した形跡がある。再三述べてきたように翌1964年は自分自身の再選を期する選挙の年である、この時点ではケネディは公には反共 主義を維持しなければならなかった、そして本来の政策を推し進める時期は権力の安定期にはいるに第二期目に照準をあわせていたのである。この漸進策のなかにあって、この報告は国防筋からのものであると言う利点があった、そしてケネディはこの報告を一気に大統領命令(覚書)の水準まで引き上げたのである。ヴェトナム情勢は1963年11月1日のゴ・ジンジェムに対するクーデターによって一気に悪化の方向に向かう、国防報告に言うところの”撤退可能な水準”からは程遠くなった、この時点でケネディには究極の選択をしなければならない情勢になった”筈”であった、しかし彼には永遠にこの選択の答えを出す機会はなかったのである。(もしケネディがこの選択を行っていたならば、この様な論議は起らなかったであろう。)
不運にも、ケネディの余命は6週間しかなかった。ケネディが殺害されたわずか4日後、1963年11月26日ケネディの国葬の余韻がまだ漂う中でジョンソンは覚書273号に署名した。その時点でヴェトナム政策に変化が生じた。(と、私は思う。)覚書273は1000名撤退に関して、故意に誤解させるのではなくとも非常に曖昧である、顧問団撤退と言うホワイトハウス声明の当初の目標の継続は示唆しているが、撤退計画を発効させた”覚書263の再確認はされていない。口先だけで1000名の撤退に同意し、ホワイトハウス声明の”可能な水準”に達していない事を理由に、同数の部隊の派遣がおこなわれたのである。すなはち、「ペンタゴン・ペーパーズ」に記されている通り、”1000名が書類上は撤退したが、米軍兵力の実質的な削減は行われなかった。”のである。ジョンソン政権下のアメリカ政府には撤兵の意志はまったくなかった。スタンリー・カーナウは、その著書「ヴェトナム/ある歴史」のなかで、1963年のクリスマスのパーティの席上ジョンソンが何名かの統合幕僚に対して「私を再選しさえすれば、君らはあの戦争を続ける事ができる。」と語ったと紹介している。周知のごと く、重大な意味を持つヴェトナムからの撤兵は暗殺から丸まる10年は行われず、五万八千人のアメリカ人と南ヴェトナム人に限ってさえもおよそ百万人の命を代償にして実現したのである。

次に、アメリカが北に対して戦争を拡大することになるジョンソンの覚書273号の主要な政策転換に目をむけてみよう。
覚書273号は実は二通ある、一つはバンディが起草して帰らぬ大統領の署名を待っていた11月21日付のものと、実際に発効した11月26日付のものである。双方の文書のパラグラフはほとんど同一である。この中でパラグラフ7が北ヴェトナムに対する対応のセクションである。

”草稿”パラグラフ7
北ヴェトナムに対抗する行動に関して、ヴェトナム政府の人的、物的資源を、特に海上活動における状況をさらに向上させる、より詳細な計画が必要である。そうした計画には、この分野での行動に新たな効果を上げる為に必要な時間と投資を明確にしなければならない。

”覚書273号”パラグラフ7
計画にはさまざまな段階での増大する可能性のある行動が含まれるべきで、いずれの場合も、以下の要因を見積もらなければならない。
1、北ヴェトナムに与える損害
2、もっともらしい否認
3、北ヴェトナムの報復の可能性
4、その他の国の反応
計画はより上層の機関によって迅速に承認されなくてはならない。

この様に、草稿の段階ではサイゴン政府による対北ヴェトナム活動の付加的な資源に関して記しているだけなのに比べて、実際の覚書にはその直後から始まる米軍の作戦計画を容認可能とするような記述に変更されている。繰り返すが、10のパラグラフで構成されている草稿と覚書273号は内容的には、ほとんど一緒で内容が劇的に変化しているのはこのパラグラフ7のみである。この内容的には、ほぼ一緒の二つの文書を示して「政策の変更は一切なかった。」と主張し「新たな計画は提案も支持もされていない。」と述べる人物達にこのパラグラフ7はどの様に映るのであろうか?さらに付け加えるには、バンディの草稿をケネディは決済もしていないし、読んでもいないのである。草稿を承認したかどうかは、まさに神のみぞ知るである。

国際政治の政策の変化

少なくとも1962年のキューバ危機まで、ケネディがタカ派であった事は誰にも否定できない。しかし、あの危機の後、ケネディはヴェトナムのみならずカリブ海をめぐり新たな、より懐柔的な政策を展開した。CIA解析のコンテンツでも触れている通り、ケネディの死をフィデル・カストロが知った時には彼の側にはケネディの密使としてジャン・ダニエルが同席していたのである。そしてカストロをして言わしめた「これは、悪いニュースだ。」「ダニエル、あなたの平和の使命は終わった。」と・・・・・さらに1963年の中米における一連のクーデター事件で生まれたグァテマラやドミニカの軍事暫定政権を承認する事を拒否している。(両国のクーデタの背後にはCIAが介在していた事は今日では明らかになっている。)しかし、ジョンソンによって極めて迅速に取り消され、両国政府を承認している。また、グァテマラのクーデターに積極的に関与していたアメリカの駐メキシコ大使トマス・マンは1963年の中頃、辞任する旨発表していたが、ジョンソンは彼を昇格させて、ラテンアメリカのクーデター(例えば、1964年のブラジルのクーデター)を助長する新政策を統括させている。
ケネディが生きていたならば、こうした政策の相違を追求し、もっと異なった結果をもたらす事ができたであろう、と私は証明する事はできない。しかし、1963年、彼に以上を実行させようとする官僚側かつ企業側からの圧力があったことは実証されている。また、1963年後半、悪化する国際収支がドルと海外投資への保障のいずれを守るかという選択を大統領に余儀なくさせたという事実が残っている。ジョンソンが後者を選択した事はご承知の通りであるが、ケネディはドル防衛に傾いていた事もこれまた周知の事実である。