1963年11月22日ダラスで起こった出来事をどのように信じるのか?この事は、どの証拠を信じるかによって導き出される結論が異なってくる。私は[続・弾道解析 証拠物件399」において”銃弾謀略説”すなわち、謀略の考えの出発点を「見つかった」銃弾ではなく、「見つかった」ライフル銃とすべきであると、述べている。ここでは暗殺の凶器とされたカルカノ銃とオズワルドとを結び付ける事になった各種の”証拠”に焦点をあてる。なお、この銃に関する発見時の謎やその性能(発射回数の問題も含めて)は”凶器解析”の項目をご参照ください。

オズワルドと銃の関係

オズワルドとカルカノライフルとを結び付ける発端は何といってもシヵゴのクラインスポーツ社の広告である。この1963年の「アメリカン・ライフルマン」誌の2月号に掲載された広告にダラスより注文があった。注文番号C2766・注文商品番号C20−750の販売記録の注文主の名前はアレック・ジェームズ・ヒデル、送り先はテキサス州ダラス市郵便局私書箱2915.この私書箱の契約者もアレック・ジェームズ・ヒデルであった。このアレック・ジェームズ・ヒデルの名前は前年の夏、ニューオリンズでオズワルドが「キューバのための公正活動委員会」のビラを配っていたときに、彼が使った偽名であった。後にFBIの筆跡鑑定官はクライン社に送られた注文書の筆跡はオズワルドのものである事を確認している。この疑う事の出来ないようなオズワルドとカルカノライフルとの出会いにも実は疑問点があるのである。事件後発表された「凶器」マリンカ・カルカノ銃の長さは40.2インチ(100.5センチ)である。ところが、この問題のオズワルドに送られた銃の長さは広告によると36インチ(90センチ)であった。実は前者の凶器とされた40.2インチのマリンカ・カルカノ銃は、同じクラインスポーツ社が1963年の「フィールド・アンド・ストリーム」誌の11月号に掲載した広告に載っているのである、そこには長さ40インチ(100センチ)と記載されている、しかも、注文商品番号も同じC20−750であった。銃の長さというものは非常に重要で、私が趣味としてやっている散弾銃に関しても年に1回厳重な審査があり銃の長さやリムの数は必ずチェックされるのである。
加えて、当時のアメリカにおいては身分証明書の提示の義務も無く銃器は購入できたのである。と言う事は、もし、オズワルドが犯行を前提としてこの銃を購入したと仮定したならば、偽名とはいえわざわざ身元が解る可能性のある方法を選んだ事になるのである。どこか他の町に行って氏名を明かす事無く銃は購入できたにもかかわらず。

突然の発見

FBIの指紋専門官セバスチャン・ラトナーは1963年11月23日土曜日の時点でワシントンの本部に送り届けられたカルカノ銃を調べているが、その時点で「・・・・指紋も掌紋も役に立たなかった。」と証言している。銃はFBIダラス支局のヴィンセント・ドレインがワシントンに持参している。その間ダラス警察では当然指紋の検出作業を行っていたはずである、しかし銃から検出された指紋や掌紋は、写真のように当時問題の銃はいろいろな人物が素手で持ち歩いていたために。ほとんどがオズワルド以外のもので、少なくともドレインに銃を渡すまでの間にはオズワルドの指紋や掌紋などは発見できなかったのであった。この何も発見できなかった事はダラスのラジオ局KLIFの記者、ジョージ・ロングとゲリー・デローンが警察本部で刑事達と接触して22日金曜日の夜の時点で次のような放送を行っている事で証明される。「再び、警察本部です。致命傷を撃ち込んだと思われるライフルからは、指紋が検出されませんでした。・・・・ライフルは・・・・もう既にFBIに渡されましたが、ワシントンに向かっています。しかし、指紋が検出されなかった事実は捜査当局にはかなりのショックでした。」と・・・さらに23日の夜の記者会見で殺人課のフィリッツ警部は記者団の「オズワルドの指紋はあったのですか?」との質問に答えて。「いいや・・」と答えているのである。
しかし11月29日になって突然に、FBIはダラス警察から問題のライフルから検出したとする”掌紋”を受け取っている。この掌紋はダラス警察が11月22日夜、ドレインに銃を手渡す前に銃床から「取り上げた」物だというのである。六日の間この「掌紋」の存在は知られることがなかったのである。この時間的な問題から当時からこの「掌紋」には疑惑の目がそそがれていた、しかしFBIの鑑識は「送られてきた掌紋には、ライフルにある特有の傷も映し出されており、問題のライフルから採取したものに間違いない。」と結論したのである。したがって、オズワルドが実際にこのライフルを扱ったことには疑問の余地はないことになったのである。通常、鑑識作業中に将来証拠となるべき結果は写真に撮影するのが原則である。しかし、ダラス警察の鑑識主任カール・デイは数多くの事件とは関係の無いまったく役に立たない指紋や掌紋の写真は撮影しているにもかかわらず、肝心の「22日に発見された」とされるオズワルドの掌紋の写真は撮影していないのである。カール・デイはこの写真を撮らなかったのはカリー署長がライフルをFBIに渡せと命令したので「文字通り、その命令に従った」為だと述べている。
ここで、問題の銃が教科書ビルで発見されてからの動きを見てみよう。22日午後1時15分頃このライフルは教科書ビルの6階北西の隅で発見された。と、されている。そして22日の夜11時45分にFBIダラス支局のドレインに渡されるまでダラス警察の管理下にあった。そして23日の朝6時30分にはワシントンのFBI本部に持ち込まれて鑑識作業が行われた。しかし何の役立つような資料を得られなかったので、ドレインは翌24日日曜日の朝早く、再びダラスに持ち帰っている。ダラスに到着したときにはオズワルドの殺害事件が発生し混乱していたので、遅くはなったが24日日曜日の午後3時30分にダラス警察に返還したとしている。
一方、殺害されたオズワルドの遺体は24日の夜10時30分まではパークランド病院に置かれ、その後フォートワースのミラー葬儀所に移されている。そしてフォートワース警察の監視下におかれ25日月曜日の午前1時30分に遺体の防腐処理が終了している、その後25日朝、オズワルドの家族に引き渡されるまでミラー葬儀所に安置されていたのである。

掌紋の謎

11月25日付の「フォートワース・プレス」紙が「ケネディ暗殺者の死体フォートワースで監視」という見出しの記事を掲載している。この記事によると、葬儀所はひどく寂しいところにあり、フォートワース警察の監視体制下に置かれていた。さらに次のような詳細記事が載っていた。記事を書いたのはジャック・モズレイであった。「カメラと鑑識機具を持ったFBIの一団がここで長い時間を過ごした。」と。FBIの記録によるとミラー葬儀所でFBIがそのような行動をしたという記録はない、しかし、ウオーレン報告書の中に1963年11月25日付の指紋カードが存在するのである。このカードが一体どこで作られたのか定かではないが、11月25日採取の事実は日付の記載から確実である。そしてこの指紋カードをFBIが受け取ったのは、掌紋を受け取った日と同じ11月29日である。カードの提供者はダラス警察である。FBIにとってオズワルドの指紋などは彼の逮捕された22日には、海兵隊からすでに入手しており何の役にも立たなかったし、必要もなかった。FBIの指紋専門官ラトナーは、オズワルドの死後、彼に関する資料があらためて提供されたことに関して質問されたのに答えて、次のように訳の分からない事を言って答えている。「リー・ハーヴェイ・オズワルドが死んだ事を公式に伝えようとして指紋が取られたのだと思いました。」と。11月25日といえばオズワルドの遺体はミラー葬儀所に移されていた時点であり「カメラと鑑識機具」を持った一団が出入りしていた時にあたる。ここでミラー葬儀所の所長ポール・グルーディの証言がある。「防腐処理の後、警察の一連の作業の後、彼の指は汚れてしまい後できれいにしてあげなければなりませんでした。私は特殊な液を使ったのですが、それでも汚れがなかなか落ちなかったので良く覚えています。」さらに手のひらはどうだったか?との質問に「彼の手のひら全体が汚れていました。」と答えている。しかしモズレイもグルーディも、その時ライフルもしくは銃床が持ち込まれたかどうかに関しては”解らない”という答えであった。

警察発表との符合

22日の金曜日から23日の土曜日までのダラス当局の声明は指紋に関しては悲観的な声明に終始している。前述のように23日の夜の記者会見では殺人課のフィリッツ警部は、指紋は全く見つからなかったと言っているし、彼の直属の上司にあたる犯罪調査局のスティーブンソンは明確な表明をしていなかった。さらに地方検事のウエードは、この二日間はこの指紋に関するいくつかの質問に関しては軽く受け流していたのである。ところが24日の日曜日の夕刻の記者会見でウエードは自らこのように述べている。「そうですね、彼の指紋が銃にありました。前にもそう言いませんでしたか?」と、記者達は騒然として「そんなこと言わなかったじゃないですか!」と叫んでいる。ウエードは続けて、「指紋じゃなくて掌紋が・・・銃の金属部分のところに・・」と言っている。「いつ気ずいたのですか? ワシントンに送る前ですか?」との質問に「前です。ダラス警察が見つけました。」と答えている。この発表がなされた時点では問題のライフルはダラス警察に返還され、彼らの管理下に戻った時間にあたるのである。