暗黒の土曜日
翻意
1962年10月27日(土曜日) 危機12日目
午前6時、
空軍少佐ルドルフ・アンダーソン操縦の
U2偵察機が、キューバ上空の偵察飛行に飛び立った。危機の深刻化以降米軍は、キューバ上空の偵察飛行を強化し、ほぼ連日数十機の偵察機がキューバ上空を飛行していた。キューバには上空2万メートルを飛行するU2型機を撃墜する能力のある兵器は存在せず。”毎日の牛乳配達”のような偵察任務であった。
午前9時、モスクワの英語放送はフルシチョフのケネディ宛ての書簡を緊急放送しはじめた。
あなたは、自国の安全保障を確かな物にしたいと考えている。それは、私も理解できる。なぜならば、それが合衆国大統領の当然の貴方の義務だからである。しかし、私も全く同じ悩みを抱えている事を忘れないで欲しい。あなたはキューバによって不安にさせられた、キューバはアメリカから90マイルしか離れていないので、これがアメリカを不安にさせる、とあなたは主張する。しかし、アメリカは破壊的なミサイルをトルコに設置して、それを攻撃用といっているが、トルコはソ連から正に90マイルの位置にある。
したがって、私は、以下のような提案を行う。我々は、あなたが攻撃的だと言っている兵器すべてをキューバから撤去する。アメリカは、
トルコから同様の武器を撤去することを宣言して頂きたい。そして、その後国連安全保障理事会が委任した人々がその場所を査察できるようにする。・・・・・・・以下略・・・・」
エクスコム会議は騒然となった。わずか半日前に送ってきた書簡との落差は激しいものがある。感情に流されたとは言え戦争への恐怖や平和の希求を一人の人間として、赤裸々に書いたのはわずか半日前の事である。今回の書簡は交換条件を出し、文面は居丈高で、激しい物がある。
一体クレムリンで何が起ったのか?
まちがいなく言える事は、26日の書簡はフルシチョフが個人的に書いたものであるが、27日のこの書簡は、もっと複数の人の協議の結果出された物であろうと言う事であった。しかし、ソ連軍部はトルコのミサイルは旧式でいまや脅威でもなんでもないと思っており、フルシチョフもその事を知って居た、それでも交換条件としてこのミサイル撤去をもちだしたのは、アメリカに譲歩させたという事実が欲しかった事と、一方的撤退と言う印象を免れたいが為の国際的な面子の問題であったとトロヤノスキーは語って居る。
エクスコム会議では、このフルシチョフ第二書簡をめぐって紛糾した。クレムリン内部でのフルシチョフの指導力に疑問を持つ者、困難な彼の立場に同情する者、彼の提案が、国際的には理解し易く、妥当な提案であると国連をはじめ国際世論が思うであろう事を愁う者、取引条件を半日で変えるような人物と交渉はできないと反発する者と妥協論と強硬論が交錯した。午前中の会議は、ソ連政府の公式な路線は27日声明である事の確認と、トルコミサイル撤去の件は無視する事で議事を終えた。この午前中の会議でケネディは常に妥協的解決の方法を探るべく発言している。そのころ、キューバ上空では、運命の瞬間が近ずきつつあった。
U2が消えた!
午後3時30分国防省は、キューバ偵察に向かっていたアンダーソン機の機影が消えた事を確認した。前日のソ連軍現地司令部の合意に基ずき、ソ連軍司令部は偵察機の撃墜を指示したのであった。アンダーソン機はソ連の地対空ミサイルによって
撃墜されたのである。機体は破壊され、アンダーソン少佐は死亡した。
”U2機撃墜さる”のニュースは、午後の会議を開始していたエクスコム会議に伝達された、電話を受けたケネディは、しばし
受話器を下ろす事を忘れるほどの衝撃を受けた。午前中のフルシチョフの第二書簡の検討は霧散した、会議は報復攻撃やむなしの強硬論の空気に一変した。10月23日の会議の合意事項が現実となってしまったのである。会議は、大統領に対して、明28日早朝を期して、キューバミサイル基地(地対空ミサイルSAM基地)に対する報復攻撃を実施する事を勧告した。ケネディは瀬戸際に立たされた。ケネディは今後偵察機が再度攻撃された場合には、基地攻撃もやむおえないが、今回の撃墜で即時行動を起こす事には、賛成できない、と考えていた。
クレムリンもこの事態に驚愕した、「しまった。」というのがマリノフスキーの実感であった。フルシチョフは激怒した。ただちに現地軍に対して、二度と偵察機に手を出すな。との指令が発せられた。
一方ケネディはエクスコム会議の勧告に対し、こう結論した。「ただちに報復攻撃を行う事は承認できない。しかし、明日も我が国の無防備の偵察機がキューバ側の攻撃を受けるようであれば、その時は直ちに、爆撃を開始しよう。」
ケネディは、核戦争と言う名の深い崖の縁に立たされていた。自分かかる重圧に、いまにも押しつぶされそうになる自分を、やっとの思いで支えていた。そして、その崖の反対側の淵で一人重圧と戦っている人物の事を思っていた。
アメリカ全軍が行動に移った、軍隊とはそのようなものである、命令が発せられてから、やおら腰を上げても何の役にも立たない。命令が発せられた場合、瞬時に命令を実行できる態勢を準備しておくのである。
B52戦略爆撃機の副機長であったジェリ−・ブラウンはこう回想する。空中待機していた自分の機はソ連に向かった、命令があってから15分以内にソ連の基地を叩ける位置にまで進出したのである。その移動の途中、夜間大西洋上で、雲海を抜けると同時に、空が突然明るく輝きました。それは、月の光が海面に反射して空全体が輝いたように見えただけなのですが、皆一斉に「神様!とうとう始まっちまった・・・と叫びました。思わず隣の同僚と手を握り合っていました。
この事件でキューバは完全に死を覚悟した、カストロは”祖国と共に死のう!”と絶叫し。24万の正規軍と、男女年齢の区別なく全国民で組織された民兵隊のすべてに24時間警戒態勢が発せられた。いつ、戦争が始まってもおかしくはなかった・・・・・・・・・・・・
もう戦争しかないのか、誰しもがそう思っていた。だがケネディは諦めなかった。・・・・・・・
やはり引かなければ
ケネディはエクスコム会議の席上、キューバから兵器を取り除く事はできないかもしれない、でも交渉なら・・・・。我々はトルコからミサイルを引かなければならない。フルシチョフが大ぴらに言ってきたのだから、この条件を撤回するとは思えないし、できないであろう。我々がトルコから引かなければ、彼も、キューバから引かないであろう。と言い続けてきた。この最後の瀬戸際になって、ケネディは決断した「この危機的状況から脱するには。やはり、どこかで引かなければ。」これは会議の席でおおっぴらに議論することはできない。ケネディは、自分の気持ちを話し、最も信頼できる一人にこの交渉のすべてを委任した。ロバート・ケネディその人である。
10月27日午後7時27分、ロバートはドブルイニンソ連大使を司法省の事務室に呼んだ。ドブルイニンの回想では、司法長官は、蒼白な顔をして私を迎えたと言う。
ロバートはドブルイニンに会議の結果を具体的に話し、政府もこの結論を支持するであろうと話し、報復攻撃不可避の現状を説明した。大統領に対する圧力はこれまでにない物で、彼がこの圧力にいつまで抗しきれるかわからない、もはや一刻の猶予もならない。我々のキューバへの攻撃は、貴国にとっても苦痛を伴う物であり、貴国は必ずやヨーロッパのどこかで我々に反撃に出るであろう、そうすれば、1000万いやそれ以上の人間の命がなくなるであろう。我々もこの様な事態をのぞんではいない。大統領は、26日付けのフルシチョフ書簡が解決の適切な基盤となりうると考える。そしてドブルイニンの”トルコはどうなる”との質問に答えて。もしも、その問題が、解決を阻む唯一のものであるのならば、大統領はこの問題が、克服できないような難しい問題とは考えていない。しかしこの事は絶対に極秘事項である、ワシントンでもこの事を知っているのは私たち兄弟と、多くても3人しかいない。残念ながら、時間がない、その為貴官に、国家最高機密のひとつである大統領直通電話番号をお教えしよう。
サイはなげられたのである・・・・・・