フルシチョフの胸中



危機の芽生え

キューバ危機を語る時、今もって謎とされている部分がある。それは、フルシチョフがいったい”いつ、どのような理由でミサイル配備を決断したか?”である。
当時、いやソ連崩壊の時まで、ソ連は国外にミサイルを配備した事はない、その唯一の例外がキューバであった。当然東ヨーロッパの国々に配備する事は可能であったにもかかわらずである。彼の、回想録にはこのように記されている。
ミサイル配備はキューバ防衛の為であった、アメリカの侵攻が恐かった、芽吹いた革命をなんとしても守りたかった。と
このキューバ防衛と言う動機がフルシチョフのこころの中を最も支配していたであろう事は、当事者の証言からも受け入れられる。しかし、「なぜ、そのキューバ防衛がミサイルなのか?」という問題については、いまだ結論めいた意見を知らない。危機当時のCIA副長官であったレイ・クラインは「ミサイル配備の理由がアメリカの侵攻予防の為であったとするのは、ソ連を平和主義的に見せるための新思考外交レトリックである。」と一蹴している。キューバ防衛・この問題に関しても不可解な部分も残る。ソ連はなぜ、遥か離れた小国の安全にそれほどまで気を揉まなければならなかったのか、それもソ連史上前代未聞の大輸送作戦というリスクを負ってまで・・・・・
大方の見方として、当時のソ連政府首脳、いや、ひょっとしてフルシチョフだけが感じ取っているキューバの重要性があったのではないかと言われている。世界同時革命がほとんど失敗に終わったかと思われた時期に、ソ連の影響がまったくない地域で、しかも冷戦の対峙国アメリカの目と鼻の先で、東ヨーロッパのような輸出型でもない極めて自然発生的な社会主義革命が起った。キューバはフルシチョフにとって、アメリカにとってのベルリンいやそれ以上の重要性のある国と感じたのではないだろうか。
それに、時代背景で述べたように、バランス理論がある、アメリカが我が国を脅かすミサイルを目と鼻の先のトルコに配備しているのに、我々がキューバに同じ事をしてどこが悪いか。と言うのである.。現実に危機の真っ最中ケネディ政権の閣僚達は、第三世界と呼ばれる国々からこの点を追求された場合の対応策に苦慮している。「ソ連による、アメリカに対する核バランス不均衡の是正」と言う思いは十分に動機としてありうる事であろう。

現在キューバ危機当時の記録文書はソ連側には、ほとんど皆無である、したがって各人の回想録、生存者やその親族の証言にたよらざるを得ないが、フルシチョフがキューバにミサイルを配備すると言った構想を第三者に話した時期は、1962年5月14日から20日にかけてのブルガリア訪問の時だったとするのが、フルシチョフ自身の回想録の記述である。しかし、同年4月半ばにはミコヤン第一副首相は、個人的に相談を受けていたと言い、外務大臣のアンドレ・グロムイコはブルガリア訪問の帰路飛行機の中で始めて聞いたと証言している。正確な期日は別として、おおむね1962年の4月から5月の時期と言える。この時期はアメリカがカリブ海周辺で大規模な軍事演習を実施してキューバに脅威を与えていた時期に合致する。アメリカのキューバ侵攻は近い・・・このことがフルシチョフの心を決定ずけた要因の一つであろう。
フルシチョフにはケネディに対する印象が残っている、1961年7月初めてケネディと会ったウイーン会談での印象である。フルシチョフは、自分の息子より若いケネディは、政治の経験もなく、弱い大統領であり、CIAや軍部などの強硬派の主張のまえには無力であり、結局は強硬論に押し切られてしまうであろうと感じていた。とするならば、アメリカのキューバ侵攻は規定の事実として実施されてしまうであろう、そしてその時期は近い。この事が最終的なフルシチョフの決断のおおきなファクターであったであろう。

彼の心は決まった、キューバにミサイルを・・・・・・・・・・

演説するフルシチョフ