地獄の淵




一触即発

10月23日、火曜日 危機8日目
ケネディは目覚めた、しかし、戦争は始まっていなかった。
午前10時エクスコム会議、ここでケネディは正式に海上封鎖宣言書に署名している。そして、この会議において、後に重要となる合意事項が確認されている。今後偵察活動の強化によって増発される,U2型機が撃墜された場合、アメリカとしてどのように対処するかが話題になった。この様な事件が発生し「キューバの行動の敵意」が証明された場合、大統領の承認の上で、撃墜に関連した基地は破壊されるべきであり、さらなる偵察活動への妨害が続けられた場合、すべての地対空ミサイル基地に攻撃を加えることで意見が一致した。
10月24日 危機9日目。参謀本部は戦略空軍に対して、”デフコン2”を指令した。Defcon2(DefenseCondition2)とは防衛準備態勢で、ランクが5つにわけられている。デフコン1が戦闘状態であるから、その直前を意味する。もちろん第二次大戦以降初めてである。この指令によって、全戦闘要員は24時間非常待機態勢に入り、B47爆撃機の分散待機が始まった。さらにB52戦略爆撃機はその8分の1が空中待機態勢に入った。この時から、B52、B47あわせて672機と空中給油機381機が空中待機もしくは24時間出撃態勢になっている。搭載された核兵器は合計1627基に上った。戦略空軍のパイロット達は、二度と家へ戻れないと覚悟したと言う。
この日午後2時アメリカ大西洋第二艦隊によって、海上封鎖が開始された、司令長官は海軍中将アルフレッド・ウオード、彼は0プランの実行指揮官として、空母エンタープライズ、インデペンデンスを中心とした128隻の大艦隊の司令官に任命されたばかりであった。当初、この艦隊は、キューバ侵攻作戦の為に配備されていたのであるが、そのまま封鎖実行艦隊となったのである。この時点で封鎖対象船舶は大西洋上に30隻が確認されている。その中の一隻がレバノン船籍の貨物船”マルキュラ号”であった。

船は止まらない。

10月25日 危機10日目。
キューバのソ連軍司令部に本国より指令がきた。電文は「キューバ軍と協力して、上陸してくるアメリカ軍に打撃をあたえるため、核ミサイル部隊・核弾頭管理部隊を除いて、準備に全力を上げよ。核弾頭の管理に関しては、以後本国の指令を待つべし」すなわち、核ミサイルの発射権限は本国に有る事を指示してきたのである。アメリカ軍の上陸部隊を撃退する為に配備された戦術核をも「絶対に使用するな。」とのこの指令は、現地の厳しい状況を知る彼らにとって、丸腰で戦え、と言っているのに等しいと、現地司令部は考えた。ガルブス将軍達は現地司令部の判断で戦術核の使用を認めるように、意見具申している。「至急。偵察報告によると、アメリカ軍は侵攻を計画している。国防相の命令を待つ。」。返電「命令はすでに受領済みのはずである、諸君の勇気と反撃準備態勢を信じている。追伸、核を許可なく使用することを絶対的に禁止する。」マリノフスキー国防相は、本国の命令を超えて現地部隊が独走の危険を察知したのであろう。核兵器が、人間の思慮の範囲を超えて暴走を始めようとしていた。
同日、ケネディはNATO(北大西洋条約機構)軍の全航空戦力に核弾頭の搭載を許可した。危機はカリブ海から、全世界に広がった。
同日午後4時、緊急国連安全保障会議が招集された、会議の席上アメリカ国連大使アドレイ・スチーブンソンは、キューバの基地を撮影した写真を示し、ソ連国連大使ヴァレリアン・ゾーリンに、核ミサイルの存在を認める様に迫った。国連史上有名なやり取りが、繰り広げられた。

国連でのやり取り

スチィーブンソン:「核ミサイルの存在を認めるのかどうか、イエスかノーかで答えて頂きたい。通訳は必要ない。イエスかノーか!」
ゾーリン:「極めて短い質問であるが、答えるのには相当時間がかかる。」
スチィーブンソン:「地獄が凍りつくまで、貴方の答えをお待ちする。」


同日、午後5時43分第二艦隊所属の駆逐艦ピアス号が、貨物船マルキュラ号が封鎖設定ラインを突破した事を確認した。船は止まらなかった。駆逐艦ピアス号からは停船・検疫開始の命令を求める意見具申あり。決断はケネディ本人に委ねられた。初めてのソ連とアメリカの遭遇、ここで万一不測の衝突が起れば、事態は最悪の方向にすすむ事は明らかである。ケネディは悩んだ。そして、決断した。・・・・・「検疫を開始せよ。」・・・・・・
10月26日午前7時。初めての停船命令が貨物船”マルキュラ号”に発せられた。この模様はラジオを通じて全米に放送されている。全米の国民、いや全世界の人々が固唾を飲んで成り行きを見守った。

アメリカの混乱と検疫実況に聞き入る国民

検疫は無事終了した。マルキュラ号には禁止対象物資は発見されなかった。全世界はホット胸をなで下ろした。
この時始めて、封鎖艦隊司令官がウオード中将である事を、世界が知った。そして、ウオード宛てに驚くほどの激励の手紙が寄せられたと言う、その中の一つ・・・・
「今、貴方は歴史を作っている。あなたの行動がアメリカと世界の運命を決める。そして、今の貴方の行動は、今後数世代にわたり、歴史の研究の対象となるであろう。ただし、我々に続く世代が存在すればの話であるが・・・・・・・・・」

変化の兆し

10月26日 危機11日目。ABCテレビの国務省担当記者ジョン・スカーリは、駐米ソ連参事官アレクサンドル・フォーミンから呼び出しを受けた。フォーミンはアメリカに駐在するKGBエージェントの中の最高位の人物と言われている人物である。彼はスカーリに対して、こう切り出した。「あなたの友人の国務省の高官に打診してほしい、この危機を解決する可能性に関心があるのかどうか?ソ連のミサイル基地は、国連の監視の基に武装を解除し、カストロがこれまでのような攻撃的兵器は受け取らないと約束する一方、アメリカは、キューバに侵攻しないことを約束するのだ。」。スカーリはただちに国務省のロジャー・ヒルズマンを訪ね、この事を話した。
クレムリンで何か変化が起っている。・・・・・
同日、キューバ。この日カストロは、ハバナのソ連大使館にいた。カストロとアレクセイエフはアメリカ軍の襲来に脅えつつフルシチョフへの書簡を書いていた。
フィデル・カストロは今、私の目の前に居てフルシチョフ同志への私的な書簡を認めている。その書簡はまもなく届くであろう。カストロの意見によると、アメリカの武力干渉はいまや不可避のものとなり、24時間から72時間以内に発生するであろう。
カストロの書簡
「同志フルシチョフ、現下の情勢ならびに我が国が知り得る限りの情報を総合すると、アメリカ帝国主義の攻撃は24時間から72時間のうちに起りうるとの結論に達した。攻撃の形には二つの可能性がある。まず第一に、特定の目標を破壊するための限定的な攻撃である。今一つは、可能性は低いが、侵略行為である。米軍にとって後者の実行には多大な戦力を必要とし、我々にとっては、最も忌まわしい形態だ。しかし、我々は断固として、いかなる侵略にも決然として戦う。キューバ国民の志気はますます高まっており、侵略者に対して英雄的に戦うであろう。・・・後略・・・」
書簡を受け取ったフルシチョフの重圧は更にも増して大きくなった。NATO軍の核装備にたいしてワルシャワ条約軍もすでに緊急展開態勢にはいっており、ソ連のすべての核ミサイルは発射態勢に入っていた。西も東も全世界が完全に臨戦態勢にはいっているのだ、このまま、ソ連船が接近を続けていれば、いずれ必ず衝突がおきるのは明らかである。フルシチョフは追いつめられた。このころのフルシチョフについて、トロヤノスキーはこう表現している。いつもは陽気で良くしゃべる彼が、この時は、別荘に引きこもり、気難しく無口になった、不安でイライラしているように見えた。と・・・

26日を迎えて間も無い深夜、キューバ駐在ソ連軍司令部は重大な決定をしている。「これ以上、アメリカの偵察機の偵察行動を黙認していれば、我々の戦闘準備は敵に対して完全に筒抜けになり、闘いは完全に我が方の不利になる。したがって、我々は敵機に対する通常兵器によるあらゆる軍事行動を決定した。尚、この決定内容の確認を国防大臣自身より頂戴したい。」キューバ軍はすでに、偵察機に対する発砲命令を出しているが、高度二万メートルを飛行するアメリカ偵察機を撃墜できる兵器はキューバ軍には無い。キューバ軍や現地ソ連軍の前線部隊からは、司令部の決断を促す空気が高まっていた。時間はなかった。ガルブス将軍は決断した。モスクワからの返事を待たずに、自分の命令で必要が有れば、撃墜の許可を出す事を。

10月26日も終わろうとしていた午後9時、ホワイトハウスはフルシチョフからケネディに宛てた長文の電報を受け取った。全文11ページ、全文受信に3時間もかかる異例の長文であった。文章のどこにも推敲された形跡が無く、フルシチョフ自身が書いた事が明らかな文章であった。
「親愛なる大統領閣下
貴方が、本当に平和と貴国の人々の福利に関心がおありなら、私は、同様にソ連邦首相として我が国の人々の福利に関心が有ります。さらに、普遍的な平和の維持は両国の共通の関心事であるはずです。もし、戦争が現代の状況下で勃発したら、それは、単に両国間の戦争ではなく、悲惨で破壊的な世界規模の戦争となるからです。・・・・・・・」
文章は、戦争の悲劇を語り、政治家の使命を述べ、おおいなる決断を双方が分かち合う事を提案した。そして、キューバに向かうあらゆる船舶がいかなる軍備もしていない事を宣言し、アメリカは、キューバを侵略する意図はなく、いかなるキューバ侵略勢力に対しても支援するつもりの無い事を宣言するように提案している、ほぼ無条件の相互譲歩である。
このフルシチョフの手紙は、初めての具体的な交渉提案であり、フルシチョフ自身の核戦争への恐怖感、危機の解決、平和の希求を切々と訴えた感情的なものであった。エクスコム会議は、希望の光を見た思いをした。これで悪夢は終わるのか、誰しもが思った。


しかし、この夢はつかのまの夢に終わったのである・・・・・・・・・・・