危機の始まり


1962年10月16日火曜日

午前8時45分、バンディはケネディの寝室に入った。
「大統領、ロシアがキューバに攻撃兵器を持ち込んだと言う、確固たる証拠が出ました。写真は後ほどお見せします。」
このときから、10月28日午前9時までの288時間、世界史上最悪のドラマが繰り広げられる事になる。
ケネディは、ただちに命令した。11時45分に緊急会議を開く、関係者にただちに連絡を取るように。大統領のスケジュールはすでに1ヶ月いや数ヶ月さきまで綿密に組まれている、そのどれ一つをとってもおろそかにできる物はない。この日も、午前中は宇宙飛行士シルラ夫妻との歓談、ハリケーンで被害に遭ったオレゴン州の状況報告と現地への援助問題。これらの仕事を、何も無かったようにこなしていかなければならない。大統領とはそんなものである。

エクスコム会議

エクスコム・ExComm (国家安全保障会議執行委員会) が招集された、予定より5分遅れた、11時50分。緊張の隠し切れないケネディ政権の閣僚や軍の関係者が集まった。

参集するメンバー

会議には時に応じて出席者に変動があるが、主なメンバーは、

副大統領 リンドン・ジョンソン
国防長官 ロバート・マクナマラ
国務長官 ディーン・ラスク
財務長官 ダグラス・ディロン
司法長官 ロバート・ケネディ
中央情報局長官ジョン・マコーン
特別顧問 シオドア・ソレンセン
特別補佐官 マクジョージ・バンディ
特別補佐官 ケネス・オドンネル
国務次官 ジョージ・ポール
国務次官補マーティン
国務次官代理アレクシス・ジョンソン
国務省顧問 ルエリン・トンプソン
国防副長官 ロズウエル・ギルパトリック
国防次官 ポール・ニッツ
統合参謀本部議長 マックスウエル・テイラー
軍縮局長 ウイリアム・フォスター
文化情報局副長官 フロムリー・スミス



平均年齢50.1歳の20世紀にはいってからもっとも若い政権の彼らに、アメリカ建国以来の巨大な責任がのしかかったのである。
この会議の議事録は国家最高機密とされ公開されていない。また、参加者は個人的に書き留めたメモさえ、部屋の外に持ち出す事を禁じられた。しかし、ケネディは密かにこの会議の模様を録音していた。その一部が書き起こされ公開されている。この一部の資料だけが現在知り得る会議の模様のすべてである。

東条英機の気持ちが、よく解る

会議は始まった。冒頭、ラスクがきりだした。
「これは誰一人夢想だにしなかった事態だ。問題は、我々が通告も無く攻撃を受けてから行動するのか、我々が相手を追いつめて、敵に成功する可能性がないことを分からせるか、それとも、キューバに攻撃を開始するようにしむけるかだ。これは、アメリカ一国の問題ではない。同盟国、紛争地域の今後の展開が、我々の一挙手一投足にかかっている。我々にできることは二つある、一つは即座に攻撃を仕掛ける事、今一つは我が同盟国とフルシチョフに通告することだ。」
マクナマラ「基地に攻撃をかけるなら、ミサイルが発射可能な状態になる前に攻撃し、目標もミサイル基地のみならず飛行場、核貯蔵基地なども含めなければならない。」
軍部を代表する、テイラーが続く。「準備には数日が必要だが、緊急事態となれば数時間で準備する。しかも、作戦行動は数日間続ける事ができる。また、空襲の次の段階として、空と陸からの侵攻準備も可能である。空襲で攻撃兵器を破壊した後、それ以上持ち込ませないようにする手段、海上封鎖を行う必要もあると考える。」、ラスクが反論する。「ミサイルが発射される前に、それをすべて破壊できるとは、私には信じられない。複数のミサイルを発射するだけで、全面核戦争になってしまうからだ。」ロバートが続く。「攻撃をするには理由が必要だ。グアンタナモ(キューバに残された、アメリカ海軍基地)にある、老朽船をキューバの仕業にみせかけて、沈めたらどうだろう。」
会議の雰囲気は報復攻撃、一色につつまれた。問題はどのようにして攻撃するかの問題に絞られていた。
バンディが発言している。「ソ連はトルコの中距離核と共存しているのだから、我々もキューバの核とも共存できるはずだという難癖を、同盟国がつけてはこないだろうか。また、アメリカは身近なキューバのことばかり重視しており、これがひいてはベルリンを危機に陥れることになる、と同盟国が考えられないだろうか。」
最後に、大統領がしめくくった、「いずれにせよ、ミサイルを取り除かなければならないことは、はっきりしている。第一段階ではそうする。第二段階として、全面空爆をやるか、さらには第三段階として侵攻をするかどうかだ。」
この時、弟、ロバートが一枚のメモを、そっと手渡したといわれている。そこには、こう書かれていた。

私は、真珠湾奇襲を決断した時の、東条首相の気持ちがよく分かる。

と記されていた。この文章は長い間、ロバートがアメリカには奇襲攻撃の伝統はないので、空爆には反対であるとの意味を吐いた言葉とされていたが、会議での発言内容から推して、空爆をするなら奇襲しかない、との意見を伝えたものととらえられる。

タカとハト

危機二日目、マクナマラ「統合参謀本部は、決定的な打撃を与える事ができるような空爆を実施することは、軍事的に不可能であると言っている。またどのような軍事行動であれ、その後には事態収拾のための侵攻が必要になってくる。この様な事態は避けるべきで、これには海上封鎖が最善であると思う。」
この日、ケネディは国連大使スティーブンソンの書簡をうけとっている。
「アメリカもトルコに基地を持っているのだから、世界は、ソ連がキューバに基地を建設しても当然の権利と考えるでしょう。銃を手にして交渉しようとしてもだめです、大統領、どのミサイル基地であれ、交渉の対象となるのだと言う事を認識すべきです。」
ここに、空爆・海上封鎖・交渉の三派がでそろったのである。現代、タカ派、ハト派と言う言葉がつかわれている。この呼び方は、この時から始まったと言われている。
空爆派の考え方はこうである、ソ連の首脳たちは、物事を合理的に判断すると信じ、キューバを攻撃しても核戦争に発展する可能性は極めて少ない、したがって、攻撃にはそれほどのリスクは伴わない、と判断した。それに対して封鎖派は、ソ連が攻撃をしかけてくる可能性は五分五分であり、危機的状況において人間の合理性などはあてにならないから、偶発核戦争への恐れは十分にある。と考えたのである。

ケネディ・グロムイコ会談

ケネディ・グロムイコ会談

危機三日目、この日国連総会に出席の為、アメリカに滞在していた、ソ連外相グロムイコが、ケネディを訪れた。まさにタヌキとキツネの会談であった。グロムイコはキューバ問題にふれ、大国が小国をいじめていると非難し、キューバへの軍事援助は防衛目的であると繰り返し主張した。これに対しケネディは、ミサイル発見のことなど、おくびにも出さず、9月にだしたキューバへの攻撃兵器導入に反対するとの声明を再度繰り返すといったような、他愛のない会談に終始した。
この会談のあと、グロムイコは本国に打電している。

「本日、ケネディ大統領と会談、アメリカにはキューバ侵攻の意図無し。世論をキューバからそらすため、反キューバ強硬姿勢は縮小しつつあり。」

一方、ケネディは側近に「しまった!もうすこし、強い事をいっておくんだった。」と言ったと伝えられる。
この日もう一人の、外国人が大統領を、訪れている。当時の自民党幹事長・佐藤栄作である。ケネディは、佐藤との会談にはエクスコムの会議室から直行したと言われている。世界史上希有の危機に直面しての会議をぬけだしての会談である。かの、グロムイコですら、欺かれたのであるから、佐藤氏にはチョット無理かもしれない。佐藤は日本に帰国した後、危機を知る事になる。

空爆開始宣言

グロムイコとの会談後、ケネディは一人の人物と単独で会った。この時期のアメリカ外交界の大御所の一人として名声も高かったロバート・ラヴェットである。この時ラヴェットはケネディにこう助言した。
「第一段階としての空爆は行き過ぎである。封鎖策のほうが賢明だ。海上封鎖は、空爆と異なり暴力をともなわない。政治的に言って、注意深く抑制された行動をとっているほうが、怒りをあらわにして暴力的になるよりずっと良い。そして、封鎖の対象は、攻撃兵器に限るのではなく。食料・医薬品以外のすべての物を対象にすべきである。」

この時期空爆派と封鎖派の意見の対立が表面化してきた。それぞれの意見グループが別々のグループで、それぞれのシナリオを検討する会議ももたれた。この時、空爆派グループによって大統領の空爆開始宣言予定稿もシュミレーションの一つとして作成されている。

「国民の皆さん
心は大変重いのですが、私が任務を遂行するにあたって立てた誓いを全うする為、キューバ国内から主要な核兵器基地を除去する為、軍事行動をとるように命じました。そしてアメリカ空軍は、今、実行に移りました。核の時代は、必然的に大きな危険のある時代です。最も恐ろしいのは、公然と冷酷に世界支配を目指す力によって自由を守る我が国の決意と意志が踏みにじられる事です。我が国が黙認してその陰謀を成功させてしまったならば、その危険は幾倍にさえなってしまったでしょう。私は、国民の皆さんに、冷静を保ち、自信を持ち、毎日の仕事に変わらず精を出す事を求めたいと思います。大きな戦争はないでしょう。みなさんの防衛しようと言う決意と力こそがその答えなのです。自由を愛する我がアメリカは、自国の安全が脅かされる事を決して認めないのです。」

この間、会議のメンバー、アメリカのいかなる情報機関も以下の点を知る由も無かった。
1、キューバに配置されたミサイルは、中距離ミサイルだけでなく、戦術ミサイルも存在していた。
2、戦術ミサイルの発射権限は現地司令官にあった。
3、ガルブスの証言によれば、現地司令部はミサイルの使用には躊躇しなかった。