第二回ダラスオフ会報告書をお届けいたします。今回のオフ会は正に奇跡の連続!一生の思い出となる旅でした。その為,かなり興奮状態で書きましたので相当な長文となってしまいました。しかし、お読み頂ければ我々の奇跡の旅を皆さんも共有できると確信しています。
 プロローグ
2002年4月20日、第二回国内オフ会懇親会の席上この話は始まったのでした。オフ会の興奮も覚めやらぬ中、感動の美酒に酔いながら口に出た言葉「え〜、来年は、ケネディ没後40年の節目の年にあたります、わがJFKクラブでも「第二回ダラスオフ会」として明年11月22日にダラスに行き、その日その時の風を共に味わい、冥福を祈ろうと思うのですが!いかがでしょうか?」 その時の一瞬の静寂を私は今でも昨日のことのように覚えています。やはり無理かな?「東京でオフ会やります!」と言うのとチョット訳が違うもの、行き先は何と言っても「アメリカ」だもん・・・・
「今月からダラス預金として、毎月1万円だけでも積み立てて頂ければ十分に行けますので是非ご検討ください」と言って結ぶのが精一杯でした。それから18ヶ月、その夢はついに実現したのでした。私自信、心底「実現する」とは思っていなかったのが正直な気持ちです。
2003年5月意を決してオフ会開催の告知をアップ、その時には最悪の場合自分一人ででも行こうと言った気持ちでのアップでした。数日して「私、行きま〜す」のメール!名古屋のナッキーさんからのメールでした。税理士としてお忙しい方、五日間も休めるのかしらん?「今からその間の仕事は一切受け付けるつもりは有りませんし、税務署にもその旨伝えておきました!」何と言う嬉しいお言葉、絶対に実現して見せるぞ!心底勇気を与えて頂いたお言葉でした。その後、さらなる援軍として何と!土田先生の参加表明!「これで決まり!」と思った瞬間なのでした。それからの5ヶ月間は、山あり谷ありの日々でした「選挙の票読み」ではありませんが確実参加と読んでいた人からは何の音沙汰もなし、痺れを切らして「どうするの?」と聞けば「てっきり、数の中に入っていると思ってました!」などとほざく輩も居て「親の心子知らず」の典型ジャン!などと憤慨したり(笑)、しかし最終的には募集人員7名に1名不足の状態で〆切の9月下旬を迎えたのでした。・・・・「えーい、ままよ」ついに決断して人数不足でも決行を決意しました。不足になれば当然チャーターバスの頭割り負担額が増大しますが、かと言っていまさら予算が増えますとも言えず・・・・後先考えずにホテルやバス会社にオファーを出してしまった私なのでした。しかし、我々のケネディに祈りたいという気持ちが通じたのか下旬になって何と3名の参加通知!全ての不安(特に私の財布)が霧散した瞬間でした。考えてみれば、もし私がサラリーマンであれば、そんなに早く休暇の予定が取れる訳きゃあ無いな、しっかり自営業の気楽さに染まっていた自分を見る思いでした。加えて世界経済までもが我らの後押し!120円計算が支払い送金の段になって110円!額が多いから円高差益も結構な金額に!皆に返金までできちゃいました。実はこの「ラッキー」の連続が現地ダラスでの思わぬ幸運の「前奏曲」であった事など、その時は知る由も無かったのでした。ただひとつ残念であったことは、土田先生の不参加が確定したこと、体調を崩され、いつ入院か解らない状態との事、「お体専一」が最優先ですので、残念ながら先生のお話は次回のオフ会でのお楽しみと言うことになりました。
 出発そしてトラブル1号
出発まであと一ヶ月、又しても彼の地を訪れる興奮状態の頭をよぎるのは「JFKクラブJAPAN」の名をアメリカ中にいかにして広めるかの気持ちでした。ここでも、私のお節介精神が発揮されたのです。「よし、ユニフォームを作ろう!」全員が同じユニフォームでディリー広場を闊歩すれば”目立つ事請け合い!女房の冷たい視線を後ろに感じながらせっせとユニフォーム作りに励む私でした。(これが現地で大当たり!)他には何かないかしらん?そうだ、前回の追悼式ではディリー広場の記念プレートに数多くの花が捧げられていたっけ!「我々も献花しよう!」早速現地に献花の手配、自分自身でびっくりする位色々なアイデアが浮かんでくるのです。このままでは次に何を考え出すやら・・。そんな興奮状態のまま、ついに11月21日の朝をむかえたのでした。
久しぶりの成田、集合時間の1時には全員が無事集合、そこかしこで再会の挨拶やら初対面の挨拶が飛び交う、何度体験してもいい風景!見ず知らずの人々が、あっというまに旧知の仲のような雰囲気になってしまう、JFK仲間万歳!
さて毎度のことながら禁煙とエコノミー症候群の恐怖に耐えながらセントポール空港に降り立ったメンバー(今回はAAの直行便でなくNWの乗り継ぎ便)ぞろぞろと入国審査のゲートを通過していったのでした、さて次は税関検査。まてよ一人足りんぞ?何とメンバーの一人が入国審査の別室に連れて行かれるアクシデント、入口越しに見るとまさに消え入りそうな風情「大丈夫!大丈夫!」と声をかけて励ましてあげるしか有りませんでした。何も悪いことをしている訳ではありませんので・・・多分・・・やっと開放されてきた彼に聞くと、まったく英語がだめ、入国審査官の質問にノーコメントを通したみたいで通訳を通しての入国審査になったようです。実は彼、横須賀に住んでいるのですが入国審査官に「横須賀に住んでいるのに、なぜ英語が喋れない?」と聞かれたそうです。何と言う理不尽!アメリカ人は横須賀を「アメリカの植民地」とでも思っているのかしらん?日本の基地問題は早急に解決しなければならん!などと思ったりして・・・とにかく事前に英語の可否を確認しなかった私のミスでした。申し訳ありませんでした。税関審査でも「何か食品は持っていないか」との質問に、先ほどの腹いせに「持ってるよ!センベイ」「What's?」思いっきり日本語なまりで「ジャパニーズ ライスクッキー!」税関職員、目を白黒させていました。でも日本の入国審査官や税関職員は英語で応対しているよなあ、お前等だって日本語少しは勉強しろよな!そこいらの案内看板にはちゃんと日本語表記がしてあるじゃんか、それだけ日本人はお得意様なんだから!と言いたくなりました。よほどさっきの「横須賀植民地的発言」が頭にきていた私でした。(この発音問題最後の最後に極めつけの笑い話が控えておりますのでお楽しみに)
まさに珍道中を予感させたセントポールを後に、一路ダラスへ、ダラス・フォトワース空港では今回の現地窓口になってくれた添乗員さんと無事合流、とりあえずは添乗業務終了となりました。やはり現地添乗を手配しておいて良かった、最後まで僕が添乗員じゃ堪りませんでした。現地添乗は第一回のダラスオフ会でもお世話になった「ゆき」さんをお願いしてあったのですが、ご主人のお体の具合が悪く、急遽「みか」さんに変更となったとの事。残念でしたが、その分、数十年若返ったことで満足しました。(おっと、もしこのページを見たら、ゆきさんごめんなさい)ホテルに向かう途中、前回同様トレードマートセンターに寄り道、ところが今回のバスの運ちゃん新館の方へ行ってこれがそうだと言い張る。いや違うあっちの旧館のほうだと言ってもそしらぬ顔でどんどん行ってしまった。こりゃちょっぴり手を焼くぞこの運ちゃん!ケネディ関連の場所ほとんど知らないんじゃないかな?(この予感は的中しました)
ホテル到着後、一風呂浴びてロビーに集合、現地で合流の駒田氏とも無事再会して夕食のためにウエストエンドに繰り出しました。例のごとく馬に食わせるようなサラダと大味なステーキや特大ポテトに再会!ウキウキ気分の僕はウエイトレスさんに「チュー」までしちゃって悪乗り気分。その瞬間の写真は家庭争議の元になる危険性がありますのでアップしません。食後、ホテルの部屋で「イカゲソパーティー!」皆明日への期待に興奮状態でした。テレビではさかんにケネディ特集の番組を流している。(滞在中の三日間どこかのチャンネルで必ずケネディ関連番組が放映されていました)情報によると明日の人出は前回の比ではない様子、やはり40年の節目の年ですのでさもありなん!当初ホテルを8時出発の予定を7時30分出発に変更してお開きといたしました。

写真左から  駒田さん・堀口さん・和田さん・中出さん・小澤さん・鈴木さん・植田さん・中北さん  (撮影者・前田)

 2003年11月22日ダラス
ついに40周年目の朝を迎えました。とは言っても昨日と言うか、ついさっきの「イカゲソパーティー」終了からこの時間まで私は一睡もしていませんでした。興奮の極にあったことも事実ですが、他にも理由があったのです。ネ和田さん!
とにかく11月22日の朝は明けたのです。早朝からディリー広場に偵察?に行った和田情報によると6時現在、エルム通りは通行止めとなり警察官が配置され、ものものしい雰囲気。広場にはすでに数十人の人々が集まって三々五々現場周辺を歩き回っている、報道陣はエルム通り南側に「お花見の場所取り」さながらにテープを張って準備しているとの事、そそくさと朝食を済ませ全員「JFK CLUB JAPAN」のユニフォームを着てディリー広場に向かったのでした。途中すれ違う人々は、日本風に言えばどこかの新興宗教の一団と見まごうばかりの我々を振り返って見ています。ふむふむ、これならば現場でも相当インパクトがあって目立っちゃうゾ!当初の目論見が実現する期待に胸ときめいた「行進」でした。天気はあの日あの時と同じく晴れ!数分でディリー広場に到着しました!「JFK CLUB JAPAN」のアメリカデビューの瞬間でした。早速、広場の記念プレートに黙祷を捧げて要所要所の解説に移りました。前回の時にはほとんど人影も無かった時間帯なのですが、今回はノールの裏側やザプルータの立っていた場所はすでに人だかりが出来ている、のんびり解説をしながら歩いていたら目的の場所にも近づけなくなる可能性すら感じたため、前回は2時間かけて回ったところを1時間程度で回りました。ザプルータの立った場所、ブレナンの座っていた所、モーマン写真の位置、テーグ被弾の場所、裏に回ってパワーズの居た操車指令塔からノールのバックヤード、さらに陸橋の上に回ってホーランドの視野を確認、最後にパビリオンの裏手からハドソンの立っていた場所へと回りました。文章で書けばこれだけなのですが、実はこれらの場所を回る我々の行く手を阻む人々が大勢いたのです。SSの身分証をかざして「ここには何も無い!」と叫んだ訳では有りませんが、報道陣がわれわれをさえぎってしまうのです。記憶にあるだけで、JFK LANCER社(毎年追悼式を主宰する会社)・ABC・CBS・DALLAS MORNING NEWS・FOX4 等々。最初のうちはいい気分で答えていたのですが面倒臭くなったことと、ブロークンな英語の為、会話がはかどらないので最後には「12時に通訳と待ち合わせているので、その時にどうぞ」と答えておきました、通訳すなはち「みか」さんなのですが・・・・それと一番気になり出したのは私の英語を間違って理解されて誤解を招いたら困ると思ったのです。全部の報道陣が一様に聞くことは「日本人にとってケネディはどんな存在なのか?」「その日その時おまえは日本で何をしていたか?」「何でこの事件を知ったか?」「なぜここまで、はるばるやって来たのか?」「JFK CLUB JAPANとはどんな組織なのか?」といった具合なのです。やはり10名近い集団がお揃いのユニフォームでうろうろしているのは結構目立ったようです、最初からメディアを意識していたとは言えこれだけうるさく付きまとわれると、やはり好きにさせてくれと言いたくなるもんですね。マスコミに追いかけられる人たちの気分がチョッピリ解りました。さて、時間は9時を回っている、人出も多くなって来ました。12時集合を少し早めて皆さんには六階博物館に入って頂きました。私は一人、外でウロウロしていたのですが向こうに日本人らしき人、実は日本を立つ前にこの広場で二人の方とお会いする約束をしていたのです。一人は日本から単独でこの日にダラスに行くと言っていた「はたはたさん」こと畑中さん、それとアメリカ在住の宮奥さんのお二人です。バックパッカースタイルの方は畑中さんでした、初対面のご挨拶を交わしてしばしJFK談義、午後のバスツアーにお誘いいたしました。時間は11時を回っている、あたりは人、人、人のありさま、北側のパビリオンからエルム通りを埋め尽くし、メイン通りまでが人の海と化していました。エルムの南側に「陣取り」をしていた報道陣はすでの人波に飲み込まれ跡形もなし、彼らとしても想像以上の人出だったのでしょう。


国家斉唱の映像
(中北氏提供 AVI File を Mpeg File に変換 1.793Kb)

現場周辺視察写真集
(スライドショー)
 2003年11月22日12時30分
博物館裏手で「みか」さんと合流、持参していただいた献花用のフラワースタンドを先頭に行進を始めました。倉庫ビルの正面付近からプレートの位置まではすでに人の波、はたしてプレートまで辿り着けるのかしらん?と思いましたが我々の行進の前の人だかりは進むにしたがって次々と道を空けてくれます。集まっている人々は皆ケネディを愛する人々ばかり、献花の行列を暖かく迎えてくれるのでした。私達の行進は無事プレートの前に、周りからは拍手の音すら聞こえる「エクセレンツ!」「ブラボー!」自慢じゃないけど、他のどの献花よりも一段とデラックス。はるばる日本からの献花に皆んな感動してくれたのでしょう。早速、万感の思いを花束に託して献花!持参した「土田先生」の最新作”秘密工作ケネディ暗殺”の見本本を「ケネディの魂へ届け!」との思いを込めて献本したのです。残念ながら参加できなかった先生、今ごろは病院のベッドの上で気持ちだけは我々と一緒に祈ってくれている事と思います。祈りを捧げる私の周りは又しても報道陣の輪、通訳?としての「みか」さん大活躍!何を喋っているのか解らなくなってしまった私、でも、「みか」さんは記者に対してどんどん話している?おいおい、みんながまったく同じ質問ばかりなので私が喋る前に答えちゃってました。こんなことなら「ステートメント」でも準備しておくんだった!報道陣は、我々の着ているユニフォームに興味を引かれたらしく、背中を写させろとばかり「向こうを向け!」の連発、顔も写してほしかったですね!皆んな!このユニフォーム、他のメンバーに聞くと、一般の方々からも「写させてくれ」とか「どこで売っているのか?」「譲ってくれないか?」とか聞かれたそうです、大量に作って行ってフリーマーケットでもやればよかったかな?
主催者であるLANCER社の準備した演壇では、ブラシカウーマンとして有名?なベバリー・オリバーやご存知ジェームス・テーグが次々と演壇に立ち絶叫している。時には「ワシントンの方角に向けてシュプレヒコールを!」と促し”真実を!”と叫んでいるのでした。取材も一段落した頃、ヒューストン通りの方角からマーチングバンドの音。音は次第に近づいてくる、鼓隊を先頭にしたその一団はプラカードを掲げている、人々からは、拍手と「嘘つき!」との絶叫が交錯して聞こえる。プラカードには「ケネディを殺したのはオズワルドだ!」と書かれていました。心なしか後ろの演壇のボリュームも一段と大きくなったような感じ、プレート前は騒然とした雰囲気になってきました。「ちょっと、やばいかな」我々のグループは二つの団体の丁度真中の位置・・・・ここはアメリカ人の良識を信じるしかないか。確かに闇の中に埋もれた真実に対しての意見は色々あっていいかと思うのですが、今のこの場所はそれらの主義主張を押し付けあう場ではなく、真摯にケネディの冥福を祈る「場」であって欲しいと心底思った一瞬でした。時間はすでに12時30分に近づいている、前回の時にはその時間、賑やかだった周囲はまったくの静寂につつまれ、静かに「アメージンググレイス」の歌声が流れる祈りの時間だったのにそんな雰囲気はまったくと言ってない。今回は喧騒のなかで12時30分を迎えました。私は一人静かに黙祷をささげたのでした。今回の旅のなかで最も残念であったことでした。
 CBS NEWSインターネット版で世界に配信

(C)AP
アメリカ三大ネットワークのひとつ「CBS」の22日付インターネット版トップに写真付きで紹介されていました。誤解を恐れず「いい気分」と言ったところが正直な気持ちです。掲載されたのは私の写真だけでしたが参加者全員が紹介されたと私は思っています。書かれた内容は、あの質問内容はいったい何だったんだと思わせるたった一行!・・・・一応引用しておきます。

Koichi Maeda, right, from Japan, prays for JFK at make-shift memorial in Dallas Saturday. In background is old Texas School Book Depository, from which officials said fatal shots were fired .」

ページは半年もすればアクセスできなくなると思いますが、以下のアドレスです。
http://www.cbsnews.com/stories/2003/11/22/national/main585104.shtml
念のためページをハードコピーして画像化しておきました。→こちら

他にも、我々は見ることが出来なかったのですが「みか」さん情報によると、22日夜と23日朝のローカル各社のニュース番組で我々の映像が報道されていたとの事です。「みか」さんには放送局に依頼してニュースのフィルムコピーを入手して送っていただくように依頼しておきました。入手できましたら、ここに追加する予定でいます。
  数多くの生き証人達も

さすが40周年、現場には沢山の人々が訪れていました。勿論、他にも当時の関係者の方々もおいでになっていたと思いますが、気がついた方々です。大物とは言えませんが当時の生き証人をまのあたりにするのも節目の年ならではでしょう。残念ながら期待していた研究者達は気がつきませんでした。

現場で見かけた方々  左から ジム・ルベール氏/ジェームズ・テーグ氏/ベバリー・オリバー氏/エディー・ホフマン氏
 関連現場視察の旅
もう少し感動的な12時30分を迎えたかった気持ちを引きずりながら、午後のスケジュールに動き出しました。集合を待っている間に午前中お会いできなかった宮奥さんにも合流、奥様同伴でのダラスでした。新たに三名の方をご一緒して午後のツアーに出発しました。予定では、パークランド病院・旧ダラス警察(オズワルド殺害現場)・オズワルド逃走経路を走って当時のオズワルドの下宿・チピット殺害現場からテキサス劇場へ、最後に「戦闘の準備」と呼ばれる問題写真を撮影したとされる当時のオズワルド夫妻の下宿といったところです。パークランド病院に向かう時、かの運ちゃん「何でそんな所へ?」と言った風情で舌打ちまでしている。到着しても救急入り口の場所が解らない様子、入口の坂道を通り過ぎようとするので、思わず日本語で!「ここ!ここ!」やはり語気と言うものは解るもんで急ハンドルで突っ込みました。次は街中に戻って旧ダラス警察。言わずもがなの「オズワルド殺害現場」です。初めて私がダラスに旅した時には宿泊したホテル(閉鎖してました)の目の前だったので、無知の強みを発揮してふらっと地下駐車場に入っても何の制止も無かった場所なのですが今回は土曜日と言うこともあったり、人数も多い為やはり無理なようでした。ここでも、かの運ちゃん「ここだよ」と言っただけでスイスイ通り過ぎてしまいました。今度からは事前に強く言わなくてはと決心しました。写真は翌朝一人で訪ねたときに撮影したものです。手前の荘重な建物が当時の市役所、一段低くなった建物の一階部分にあるのが殺害現場の地下駐車場からの出口です、下の写真左がコマース通り側の出口、右がルビーが降りて行ったと言われるメイン通り側の入口です。次がオズワルドの逃走経路の走行、雰囲気がまったく違うので車窓から体験していただいたのですが唯一当時のままに残っているのがグレイハウンドのバスターミナル、長距離バスのターミナルなのですが、逃走してきたオズワルドがこの建物の前でタクシーを拾ったことになっています。ここでも逃走しているはずのオズワルドが「老婦人にタクシーを譲った」とか「タクシー運転手の乗務日誌の時間記述の問題」とか数々の疑問点が指摘されている場所でもあるのです。バスは、当日オズワルドがタクシーに乗って自宅まで帰った道筋を忠実に走ります。当然ながら当時の景色とは一変してしまってはいますが、ダラスの町を東西に大きく分断するトリニティ川の橋を渡ったとき、きっと当時と変わらぬであろう川面の風景を眺めて、オズワルドはどんな気持ちでこの景色を見ていたのかとの感慨にふけりました。数分で North Beckley Ave. に左折、すぐですので、腰を浮かせた私を尻目にバスはどんどん走っていく、またしても失敗、運ちゃんはオズワルドの下宿建物を知らない!「そこ!そこ!」またしても日本語で叫ぶ私でした、通り過ぎたバスを今度は私が道案内!「そこを左、次を右」・・・「どうなってるの?これ?」やっとの事で当時のオズワルドの下宿建物の前に到着、この建物も当時のままに残っているものです。バスを降りて私が最初に気がついたのは玄関入り口に星条旗が翩翻と翻っていたことです。もちろん今日は「アメリカの旗日」ではありません(この言葉、今では死語の一つで読者の中には意味の解らない人も居るかも?)前回の時には掲揚してはありませんでしたので、常時掲揚してあるわけではありません。間違いなく現在の住人が40年目のこの日を十分に意識して掲げたものでしょう。(これは、この後に我々を襲った怖いばかりの幸運の後に思ったことですが、もしあの時、家のドアをノックしていたら内部を見せて頂けたのではないかと思ったりしたのですが後の祭りでした。)
次は、チピット巡査殺害現場。今度は初めから私が道案内「はい、次を左、すぐ右折。10番街を左折!はいはい、パットン通りを過ぎて、ハイ、ここ、ここ。はいストップ!」まさにその日チピットがパトカーを止めたその位置にバスは止まりました。地面を凝視してチピットの血痕でもないかしらと思う私でした。実はこの場所の近くに、事件当時ジャック・ルビーが住んでいたアパート 323 South Ewing Ave. も在るのですが、事前の調査で現在はその場所も含めて付近一帯「ダラス動物園」の駐車場になっているとのことでしたので割愛しました。ただの駐車場を眺めて「ここにルビーの住んでいたアパートが・・・」と言っても意味がありませんからネ
次の訪問地テキサス劇場に向かうとき、バスはパットン通りからジェファーソン大通りに右折、その時パットン通りにはちゃんと中古車工場がありました、当時もこの位置には中古車工場があり、そこの主人テッド・キャラウエーがオズワルドに声をかけているのです。きっと、息子さんが跡を継いで経営しているのでしょう。
 テキサス劇場の幸運
前回の時に 「 For Sale or Rease 」の看板が立ち、今回が見納めかと思ったテキサス劇場は健在でした。(旅行前ナッキーさんも不安を述べていたのですが )気のせいか、前回より一段と痛みが激しくなっているように感じましたが側面の独特の看板も含めて立派に残っていました。前回の 「 For Sale or Rease 」の看板は無く、ほかの看板が立っていました、同じような事が書いてあるのだろうと気にも留めずオズワルドが劇場に入っていくところを通報したブルーアーの Hardy 靴店の位置(現在は King という名の店になっていました)や当時のいきさつを説明をしていると、宮奥さんがさっきの看板を見ながら携帯電話をかけている、何をしているのだろうと看板を読むと「この劇場に関して説明します、電話はこちら」と書いてある、フーームどういうことだろう?「留守電になっていますネ」宮奥さんが残念そうにつぶやいたその時でした、突然、劇場のドアが開きカメラや照明器具を持った一団が劇場内部から出てきたのです。確かに我々が到着した時から劇場前にはCBSの看板を背負った車が止まっていたので、40年記念番組か何かでこの付近の取材にきているのだろうと思っていたのですが、そのクルーが出てきたのです。入り口付近で皆が、がやがや話している、クルーと一緒に出てきたご婦人二人と何やらメンバーが話をしているのです。どう見てもテレビクルーのメンバーには見えないごく普通のご婦人方。突然、誰の声だか記憶にありませんが「入っていいそうですよ〜〜」一瞬耳を疑う言葉が聞こえてきたのです。さきほど宮奥さんが電話をかけていた所は「 Oakcliff Foundation 」(オーククリフ基金とでも訳しますか)すなはち、オーククリフ地区の遺産を保存保護したり地域の美化運動の活動している団体であったのですが、先ほどの二人のご婦人はそのメンバーの方々だったのです。勿論、喜び勇んで内部に入らせていただきました、雑然となった館内は面影(と言っても私の場合は写真だけですが)そのままに残ってはいますが工事現場の様相、それでも確かにその現場に我々は立っているのです!「エントランス部分のみの立ち入り許可」でしたので客席部分にまでは入ることは出来ませんでしたが皆さんのため息がそこかしこに聞こえて来ました。できればオズワルドと「尻合いの仲」になりたかったのですが贅沢と言うものでしょう。
基金の方にお聞きすると、現在建物自体は入手できたのですが、建物の改修、保存維持の為に$260万の資金が必要でダラス市の補助金は$160万受けられたものの、残りの不足額$100万を募金中との事でした。将来はここで本来の上映活動や催しもの、又歴史的建築物として公開していきたいとの事。やはりアメリカ在住中の宮奥さんの通訳!細かいことまでお聞きできました。思い立った私は皆さんにご提案したのです。「この方々の努力で、何年か後にここを訪れたとき、皆さんは堂々と館内に入り歴史の現場を目の当たりに出来るようになるかも知れないのです。額は少ないですが、今回の旅行の予備費が取ってありますので、その中から$100を基金にお出ししたいのですが?」と提案したのです。勿論異論はなく、その場で贈呈式?をやっちゃいました。ホームページでも趣旨説明、募金を受け付けていますので、私も!と思われた方は是非協力してあげてください。アドレスは

http://www.oakclifffoundation.org   です。