第二章 JFK誕生

次男坊のジョン・F・ケネディ、すなわち、第35代大統領の卵が生まれたのは、1917年(大正6年)5月29日であった。時は第一次世界大戦の末期。ヒトラーがベルヴィックの戦場で毒ガスに眼をやられ野戦病院にかつぎこまれ、レーニンが封印列車でひそかに母国ロシアに向かっていた時期にあたる。
母ローズは信心深くて芯の強い典型的なアイリッシュ娘であった。父フィッツジェラルドは、若いローズをイギリスに留学させ音楽の勉強させたが、帰国してきたローズには、政治運動のホステス役をやらせた。彼女の母親がハニカミ屋であったため、人前に出たがらなかったので、美貌の娘が母親の代役をさせられたのである。当時のどの記録にも必ず「黒髪の頬の赤い美女」と記されているので、多分、リンゴのような頬をした、きびきびとしたアイリッシュ娘であったのであろう。ローズは最終的に四男五女の九人の子供を産んだが、毎日ミサだけは欠かした事が無いという敬謙なカトリック信者で、自分の生んだ9人の子供のなかから、一人や二人は聖職者を出したいと願っていたと言われる。特に四男のエドワードが生まれた時には、特にそう考えたようで、ローズの記録によると「法王さま(ピオ十二世)がテッドの聖体拝領をしてくださいましたので、テッドは司祭か司教になると信じてまいりましたが、彼がある時、一人の美しいブロンド娘と出会った事で、私の夢は終わりました。」と回想している。
さて、ジャックの生まれたのはボストン郊外のブルックライン、ビールス街83番地。現在は記念館となって一般に公開されている。(写真右)私も昨年その地を訪ねたが、小さな家である。まだ、大成金になっていなかった時代に買われた家で、この家で長男のジョセフ・ジュニアからキャスリーンまでの四人の子供が生まれたのである。私が訪れた時には「冬期休業期間」で残念ながら中に入る事はできなかったが、館内にはテープレコーダーがずらりと並び、ボタンを押すとローズの回想が聞けると言う。どうやってこの家を買ったか、日常生活はどうだったか等など母ローズの声が保存されている。
ちなみに四女パトリシアと三男ロバートの生まれた家もこの家から数ブロック離れたところに現存する。こちらは記念館となっている最初の家に比べると数段大きく当時としては”豪邸”の部類に入るような家である。こちらは現在では譲渡されて一般の方がお住まいになっている為、内部を見る事は出来ない。(写真左)

彼女は子供たちの育児カードを記録につけていた。子供たちの食事のこと、病気のこと、予防注射のこと、等など、カードを作っておかなければあれこれと覚えていられないほどの子沢山だった訳であるが、ジャックの育児カードから・・・
「1920年2月20日(二歳) しょう紅熱、百日咳、風疹、水疱瘡。市立病院のヒル博士とレアドソン博士に診てもらう。」
「1928年(十歳・日付不詳) ジフテリア反応・気管支炎」
「1930年6月15日(十三歳) ラセイ医院で検診 扁桃腺大丈夫」
「1930年10月から12月にかけて、キャンタベリー校へ入学したためか、体重4ポンド減・・・」
これは大変であったろう。ローズは、夫の仕事が忙しく家庭を留守にしがちだったので女ながらも毎日の新聞と毎週の週刊誌に眼を通して毎夕の食事で子供たちに日々の政治ニュースを語って聞かせた。子供たちの学校へも頻繁に顔を出す教育ママであった。その為か、ジャックが無類の読書好きであった事は有名である。「少年時代の病弱さが、彼をそうさせた」と言われる。ジフテリア、しょう紅熱、盲腸炎、慢性胃カタル、それに兄ジョセフとの自転車競争による転落事故の大怪我など、ベットの中にいることが多かったジャック少年は、両親が与えた本を乱読して孤独を慰めながら育ったのである。ジャックは自分が好きな歴史書をむさぼり読んで、気に入った古人の名句を発見するとノートにびっしりメモをとって暗礁していたと言う、それが、大統領になる為にも、また大統領になってからも役立ったのである。
1930年といえば、世界大不況の年であるが、ジャック13歳、キャンタベリー校の寄宿舎生活のころの父親への手紙が残されている。「世界市場のスランプを知りませんでした。勉強したいので「リタラリー・ダイジェスト誌」を送って下さい。」と書かれている。リタラリー・ダイジェスト誌は、一週間分の重要ニュースに関する世界各国の重要新聞社の関連記事をダイジェストして掲載していた週刊誌であるが、内容的には、普通の13歳の少年がとても読みこなせるような代物ではない。
ジャック少年は、1921年10月から1926年までを家から程近い「エドワード・デボウション・スクール」(写真左)で過ごしたが、日本流に言えば小学校3年の時にニューヨーク郊外リバーディールに移った。父がボストンの排他性の強い土地柄を嫌ったことと、ウオール街との関係で家庭を移動させたためである。この地で13歳の秋を迎えたジャックはニューヨークの北、コネティカット州にあるキャンタベリー校の寄宿舎に入った。エール大学の北、数キロに位置する同校は、教会の教職者が先生を務めるカソリック系のミッションスクールであった。一年後には、保守的で監督色の濃い名門チョート校に移された、これも父ジョセフの教育計画によるものであったが、父はジャックをこの名門校に入学させて、上流家庭の子弟を級友に持たせたかったのである。チョート校は、ルーズベルトやハリマン、アチソン、スティーブンソンなど政界で活躍する綺羅星のごとき諸先輩を排出している名門中の名門であった。同校でのジャックは知能指数反応は抜群ではあったが成績はかんばしくなかった、学年112名の中で64番の成績で卒業している。しかしジャックはこのチョート校で生涯の親友を見出している。ルモイン・ビリングスとラルフ・ホートンである。三人の友情はその生涯変らなかった。脱線するがホートンの回想「17歳の時だった。女郎屋に行く事で衆議一決。タクシーでハーレムの淫売宿に三人で乗り付けた。一発3ドル。帰ってきて、梅毒に感染していたら死ぬぞ、と言う事になり、ペニスに軟膏をこすりつけて大騒ぎになった。いったんベッドに入ったのだが、ジャックが全員を起こして、やはり医者に診てもらおうと言う事になり、深夜、医者をたたき起こしてその夜は終わった。しかしその後も何度かハーレムやパームビーチの淫売宿にも行った。」この話とは全然関係ないが、ジャックがニューヨーク・タイムズを愛読するようになったのはこの頃からである?ホートンは、ジャックのチョート校のおける特徴を次のように語る。「第一、病弱にもかかわらず、彼はスポーツが好きだった、勿論自分自身でもプレーしたし努力もした。その姿は虎のごときものであった。第二には、恐ろしく迅速であった。クラス内のありきたりの勉強に対しては辛抱できなかったし、学校内の伝統的なしきたりやしごきに対しては身を持って抵抗していた。だが、ひとたび気に入ったことを見つけると疾風のように没頭していった。最後に、彼はクラス内で圧倒的人気があったことだ。人気投票では常に一位。これは、政治家としての彼の絶対的な特性であった。」ホートンはジャックの人気や組織力をもって、大統領になる素質ありと想定し、自ら「ケネディを支える会」を組織し大統領選挙に臨んでいる。大統領就任後、ジャックの特命をもって国防省に入りペンタゴンの改革に手腕をふるっている。ついでながら、悪友ピリングスも同様で、ジャクリーン夫人に言わせると「ピリングスは、私が結婚してきた最初の週末から、ジャックのお客様でした。」ということになる。そんな親友を作ったチョート校ではあったが、ジャック自身はこの監督色の濃い学校を嫌っていた、ラテン語を極端に苦手としていた事も原因ではあろうが。後年、大統領に就任するとチョート校はケネディ大統領の胸像を作り盛大な除幕式を行った。ケネディはこの除幕式の事を聞くと「ぼくの知る限りの最も皮肉な儀式」と表現したと言われている。彼は常々「チョート校のような学校は、アメリカ社会のほんの少数階層を代表した学校にすぎない。私立学校というものは、もっと幅広い階層を生徒に持つべきなのだ」と、同校のエリート意識に鋭い批判の言葉を投げかけていた。ジャックらしい批判精神が顔を出している。


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