第三章 大戦前夜

ジャックがチョート校を卒業した年、父親は彼をロンドンに留学させた。ロンドンのハロルド・ラスキの門を叩かせたのである。ヘーゲルの国家主義批判の急先鋒であり、イギリス労働党きっての左翼理論家の門に、息子を入れようとした父親の考えの中には、チョート校へ入学させた時の心情とはかなり矛盾した思考が交錯している。長男のジョーもラスキの門に入れたのであるが、ジョセフとしては息子たちに左翼の経済理論を学ばせ、同じ門の中にいた世界各地からの亡命者や革命家の子弟との交流も深めさせておきたいと考えたのかもしれない。しかし、ジャックはラスキ理論に染まるかわりに、黄疸の病に染まって帰国した。帰国後ジャックはプリンストン大学に入学している。父親の母校であるハーバード大学には兄ジョーがすでに入学していたので敬遠したと言う説もあるが、実際はロンドンで罹った黄疸の治療のため9月の入学時期に間に合わず、父が彼の友人であったニューヨーク・ワールド新聞の編集長ハーバート・スウオーブに頼み込んでプリンストン大学に泣きを入れて特別に入学を許可されたと言うのが真相のようである、したがって、プリンストンの入学日は10月末となっている。ところが一年後の1936年には、父の強い勧めでプリンストンを去りハーバードに転校していったのである。ハーバード大学の特異なアイボリー・カラーがジョンに決定的な影響を与えた事は否定できない、ケネディ・マシーンと呼ばれた彼のブレーンの大多数がハーバードに集約されていたことでも明らかなのであるが、ハーバード在学中のジャックの行動は、他の学生のように急進的な傾向は一切見出す事が出来なかった。これも又不思議な話である。ジャックが入学した頃は、ルーズベルトのニューディール政策が大恐慌の中から芽を出し始めた直後の時期にあたり、共産主義を混えた急進的平和主義者や自由主義的社会主義を信奉する学生たちが、ヒトラーやムッソリーニの人形を焼き払い校内でアジテーションしていた。しかし、ジャックの姿をその集団の中に見出す事はなかった、彼はフレッシュマン(一年生の意味)の演劇会を組織したり、フットボールをやったり、もっぱらクラブ活動に熱を入れていた。フットボールの試合中に背中を痛め、椎間板ヘルニアを患ったのもこの時期である。ところがジャックはそのヘルニアの治療には水泳が効果的である事を知ると、水泳クラブを創設してしまったのである。同級生はルーズベルトの「炉辺談話」のラジオ放送に興奮したが、ジャックにはそういう記録は少なかった。
ハーバード時代の成績は一年の時は、経済学B。英語・フランス語・歴史がC。二年になってもBが一つでCとDが四科目もあった。決してお世辞にも優秀な成績とは言えない。しかし四年になると、突然成績が好転する、特に政治科学の分野で傑出しだしたのである。それには理由があった。ハーバードでの成績に限らず「大統領ケネディ」にとっても重要な基盤となった1939年のヨーロッパ旅行がその理由である。
ジャックの1939年初めから秋にかけての長期ヨーロッパ旅行は、第二次世界大戦前夜のヨーロッパを実際に歩き回り、この体験のなかから、政治的な覚醒をみやげに持ち帰ったのである。時のイギリス首相チェンバレンがミュンヘンでヒトラーにチェコを売り渡した、有名なミュンヘン会談(1938年9月)直後の事であった。加えて 1937年には父ジョセフがルーズベルト政権の駐英大使の重職に就任していた為各地で通常の大学生以上の厚遇も受けたし、ある程度の情報も得やすい立場であった事は事実である。大西洋を渡ったジョンはアメリカ駐仏大使ブリットの公邸を根拠地として、ポーランド、ソ連、トルコさらには中東を経てパレスティナまで足を伸ばしている。モスクワでは駐ソ二等書記官であったチャールズ・ポーエンの家に泊めてもらった。(ポーエンは後に駐ソ大使となりケネディ政権の駐仏大使となってケネディ政権を支えた。)何よりもジャックがこの旅行によって大きな成長を遂げた原因と考えられるのは、前述の通り駐英大使となっていた父ジョセフの旅行にあたっての一言であった。「おまえ、ひとつ各国の情勢を肌で感じて来て、その報告をしろ。」この大学生にとって、張り切らざるを得ない刺激的な一言が、この旅行を単なる物見遊山のものでは無くしたのである。ジャックが、歩き回った先々からロンドンの父に送った大量の書簡が残されているが、ポーランドでは、ワルシャワの外人記者や大使館員と会っただけでなく、相当数のポーランド人とインタビューを試みている。さらに紛争の発火点となったダンヒッチまで足をのばして、その地のポーランド人やドイツ人の意見を聴取している様子が詳細に報告されている。この書簡のなかでジャックは「ポーランド人はダンヒッチのために断固として最後まで戦うであろう。」と、後の”ダンヒチの悲劇”を予言している。書簡には”学生外交官”の感覚がよく働き、気概あふれるものになっている。ソ連からの手紙には、共産主義国家ソ連を「ロシアは粗野で、絶望的に遅れた官僚主義の国だ。」と喝破し、イェルサレムからは「イギリスとアラブ、ユダヤの関係の中で、イギリスの外交政策は正しいとは思うが、仮にそれが歴史的に正しいとしても、実際に役立つ解決方法でなければ政治としての問題の解決にはならない。」と後の「大統領ジョン・ケネディ」のプラグマティズムの片鱗を覗かしている。
1939年9月、ジャックが足掛け九ヶ月にわたった長期のヨーロッパ旅行を終わってロンドンに着くと同時にドイツ・ソ連のポーランド蹂躪が始まった、第二次世界大戦の勃発である。誰でもそうであろうが、見ると聞くとは感覚が違う。ハーバード大学のシニアー(四年生の意味)の最終コースに進む直前の時期に、歴史的大変事を現地で目撃する事ができたジャックの青春はまことに幸運と言ってよいであろう。
イギリス船「オセアニア号」がUボートの攻撃を受けて撃沈された時、生存者のなかのアメリカ人船客がグラスゴーの港に帰ってきた、父はジャックをグラスゴーに派遣した。これまた、臨時外交官の大役を振り当てられた訳であるが、ジャックは遭難客と面接してロンドンに帰ると父に報告した。「パパ、大西洋の船には護衛艦をつけなくっちゃ!ヒトラーは信用できない。」と積極的武装論を説いたと言われる。1939年9月末、ボストンに帰ったジャックは父に手紙を出している。「イギリスの外交政策を卒業論文にしたい。1931年以降の資料を、セイモアーに頼んで送ってください。」ジェイムズ・セイモアーは、父ジョセフの古いケネディ家の個人秘書である。そして、ロンドンタイムズを始めエコノミスト誌等の新聞・雑誌に限らず、かなり大量のイギリス外務省記録がジャックのもとに送り込まれた。以降、ハーバードの図書館には卒論に取り組むジャックの姿が見られている。卒論のテーマは「ミュンヘンの宥和」に決まった。
長男ジョセフ Jr がロンドンに書き送った手紙。
「ジャックは気違いのごとく、毎夜、論文の仕上げにおおわらわでしたが、速記者五人の助けで、締め切り日にやっと間に合いました。」と、ブルジョアの息子らしく、五人もの速記者が動員されていた事が記録されている。ただし、兄貴の論文そのものに対する評価はなかなか手厳しく「ジャックは頑張ってはいるが、あれでは何の証明にもなっていません。」と父に書き送っている。しかし、当の本人は「やっと論文が出来上がりました。70ページの予定でしたが、90ページになってしまいました。カーボン・コピーを送ります。ご協力を有難う。ご感想を期待しています。わが生涯の最高の仕事でした。」と自信満々であった。
JFK論文に対する教授会の採点記録が残されている。
第一回投票記録。「悪作だが労作である。難問に対する興味ある知的な議論なり。第二位優等賞。」
第二回投票記録。「基本的前提の分析なし。長ったらしく言葉使いに反復が多すぎる。タイプのエラーも多い。優等、三位」
優等には列せられたが、認められたわけではなかった。


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