第四章 なぜ英国は眠ったか

JFKの論文は、ヒトラーが平和のゼスチャーの陰で密かにナチの軍備拡張を急いでいたあいだ。なぜ、イギリスは軍備を怠ったか?の疑問にメスを入れることに焦点を絞っていた。当時、アメリカでもチェンバレン首相のミユヘン協定に対する批判の声は少なくなかった。若きジャックは次のように書いた。「批判家達は間違った標的を攻撃している。ミュンヘン協定そのものは非難の対象にすべきだとは思わないが、批判は、この協定を作ったイギリスの世論の状態が、チェンバレンをして、ヒトラーへの屈服を余儀なくさせたイギリスの弱体軍備の背後にあったという要素を衝くべきであった。民主主義政治の条件というものを考慮に入れる必要があるが、イギリスの軍備が不十分だったという国家的責任を、ボールドウイン(チェンバレン内閣の副首相)ひとりの個人的責任に転嫁して、それをもって事足れりとするのは非論理的なばかりか、不公平であろう。」
JFK論文は、イギリス政治の支配者であったチェンバレンやボールドウインを批判するよりも、ヒトラーの脅威に対抗できなかったイギリスのデモクラシー制度そのものにこそ責任がある。デモクラシー国家では、平和時に軍備のために税金を支払うものは少ない。それに乗じたヒトラーは密かに偽装軍備を進めてきた、と説いている。この本を書いた目的は、イギリスの準備不足が、どこまでがイギリスの政治家達の個人的弱点によるものであり、どこまでが「民主主義と資本主義の持つ一般的な弱点」によるものであるのかを確かめる事にあった。その結果、前文のように指導者達ではなく制度に問題があると言う結論を得たのである。ジャックは罪人を追及しなかった。「指導者達は行政部面にかぎって失敗の責任があるのであって、国家全体についての責任を問われるべきではない。民主主義がそれ自身の弱点を隠すために身代わりを作ろうとするのは、民主主義の欠点の一つである」と論ずるのであった。ジャックはまた、一人の指導者が国民の心を変える事ができるという考え方には、あまり信をおかなかった。彼の見るところ、イギリスの無能さの根本原因は人間の問題ではなく制度的なものだった。「資本主義に関して言うならば、イギリスの失敗にあれほど寄与したのは、”資本主義の諸原則に対する従順”であったことにまず気がつくであろう」そのうえ、民主主義は「本来平和を好むもの」であり、それゆえ軍備には敵意を持っている。資本主義も民主主義も共に平和時の世界に合わせて作られたものであり、一方全体主義は、戦争時の世界に合わせて作られたものである。ジャックのこの本に満ち満ちているのは「民主主義と全体主義の戦い」という強い意識であった。この戦いでは、長期戦になれば民主主義が優れているが、短期間では全体主義のほうに大きな利点がある。とジャックは信じていたのである。
ジャックは1940年のイースター休暇を利用してフロリダのパームビーチにある別荘に行った。父が懇意にしていたニューヨーク・タイムズの政治記者アーサー・クロックを訪ねたのである。その直後、ジャックはロンドンの父に宛てて手紙を書いている。「アーサー・クロックが僕の論文を読んでくれましたが、クロックさんは論文を出版すべきだと言っています。クロックさんの案ですが、チャーチルの「英国が眠っている間に」とのコントラストを考え、「なぜ英国は眠ったか」と言う題がよいと言っています。クロックさんは、今やれば、5月か6月には出版できると言っていますが、パパの了解を得たい事があります。問題は次の諸点にかかっていると思います。@ パパがいつ英国大使を辞めるのか。A パパがこの出版を認めてくれるのか。B パパがもし今年の夏まで大使の職に留まる場合でも、出版してよいのか?」です。
父からの返事は「出版しても良い。」との返事であった。ジョセフの心はすでにイギリスから離れていたのである。続いて父から長い手紙が届いたのは5月20日の事であった。「ロンドンでもおまえの卒論を各方面の知人に読んでもらった。多数の人はおまえの論文に共鳴してくれた。しかし二、三人の人から、おまえの「英国政府の指導者からミュンヘン協定の責任を解除しよう」とする考えには賛成しない人もいた。チェンバレンやボールドウインをスケープゴードに仕立て上げる事はよくないにしても、責任が国民だけにありと非難する事も当たっていない。資料にもよく気をつけて、人名や年月日、場所の間違いを訂正するように注意されると良い。」さらに「ドイツが軍備をやりだしたのは、英仏側がその実態に気ずかぬ前だった。ドイツの軍備先行は、初めから兵器そのものに手をつけたのではなく、製造の基礎作りをやったのだ。たとえば、蒸気機関車工場の補強がいつのまにか戦車を作る基礎となった、飛行機に関しても、ドイツ人はスマートであった、兵器のスケールで大規模に飛行機を生産するまでには最低2年の歳月が必要であったが、ドイツ人はすでに基礎を固めていたので、いきなり大規模な生産にとりかかることができた。英仏の指導者達は、その様な、初期段階での準備状況を見通すことはできたのだが、実際に、自動車工場の中で、大衆車のエンジンが飛行機のエンジンに変わりうるのだということまでは見通すことはできなかったのだ。」と忠告する。この父の意見、つまりロンドンから送られてきた父の手になる原稿が、出版されたジャックの本の中では次のように変形されて活字になった。「ドイツの真実は、連合国がその実態を知る前に軍拡計画を発車させていたことだ、その計画は兵器生産の形で実行されたのではなく生産の基礎作りから開始された。たとえば、蒸気機関車工場が戦車生産のためにあらかじめ計画されていたり、航空機生産のための設計が巧妙になされていたのである。大規模な兵器生産計画のための工場再編成は一年以上かかったが、準備がよくできていたため大躍進が可能であった。ドイツのような国において、全体主義体制の秘密が完全であった場合、軍拡計画の実態をとらえることは至難であった。ラインの大衆にあまねく普及された廉価車のエンジンが飛行機のエンジンに変わるのだと言う事を探知する事はむずかしかった。」
後年、批評家達はジャックの労作を父親の意見を借りた、いや、鵜呑みにしたものでしかない。と批判し、他にも発掘された一連の父親の手紙との類似点を上げて攻撃を加えたのであるが、確かにジャックが父の意見を借りた表現はかなり発見できる。が、23歳のハーバード大学4年の若者が書いた処女作であったのであるから、政治のプロである父の考えを傾聴したとしても、むしろ当然すぎるくらい当然の事であったと言えよう。問題は「なぜ英国は眠ったか」という本の主題に対するジャックの考え方の基本姿勢がどうであったかということではないだろうか。この本でジャックは次のように結論する。
「私はイギリスの体験を看過することはできない。いまや(ポーランド侵攻によって)世界は震撼され、アメリカも覚醒された。過去において、われわれは防衛のために金を出す事を躊躇してきたのであるが、アメリカの場合も、イギリスのデモクラシーが眠っていたのと同時に、アメリカ民主主義制度が眠っていたという事実から誰も逃れる事はできないであろう。もしわれわれが、三千、五千マイルの海に包囲されていなかったとすれば、アメリカもまた”西側世界のミュンヘン”という落とし穴を経験せねばならなかったであろう。数週間前の出来事だけでデモクラシーが覚醒されたということは十分ではない。われわれにとって必要なことは、火災が発生しないために、いつでも武装してガードを固めるべきだということで、火災発生を防止できるような軍備を行えと言う事にある。われわれはイギリスの教訓から利益を得て、デモクラシーをもっと役に立つ制度にすべきである。すぐやろうではないか。政治のシステムに”喝”をいれようではないか・・・・」
ジョセフ・ケネディは、この年(1940年)の暮れに大統領に辞表を書いた。ヒトラーの電撃戦(北欧作戦)に驚嘆した駐英大使は、チャーチルの抵抗精神には注目したが、もうこれ以上、イギリスはもつまいと見放したのである。彼の戦局に対する悲観的な見通しは、彼を敗北主義に陥れる、というより、英雄リンドバーグ大佐が中心になって組織した「アメリカ第一主義委員会」の主張に耳を傾け、非参戦中立を標榜する孤立主義の列に入っていったのである。ジョセフ・ケネディは、やがて、ルーズベルトを偽善者と呼び、彼の三選に反対して、ルーズベルトのニュー・ディール派の中から、反ルーズベルト色を濃くしだしていたジム・ファーレーを大統領候補に推すことになる。しかしルーズベルトは三選され、ジョセフ・ケネディはルーズベルト陣営から脱落していった。そして政界から手を引いたジョセフ・ケネディが次に打った手は、長男ジョセフ Jr の政界デビューであった。ジョセフ Jr は、民主党全国大会代議員としてこの年政界にデビューする事となる。
「なぜ英国は眠ったか」はクロックの手でハーバー・アンド・ブラザーズ社に持ち込まれたが、パリ陥落直後でもあり、内容が古いという理由で断られた。そしてウイルフレッド・ファンク社によって出版された。まだロンドンにいたジョセフは、ジャック宛に祝いの手紙を書き送った。「早く初版が見たいものだ。いまやイギリスではっきりと顕在化しだした問題を衝いているのだから、よく売れる事は間違いない。当のチェンバレン卿やハリファックス卿、それにラスキまでもが早く読みたいと言っている。本を書くということが、これからいかにハイ・クラスの人々の評価を得ることか。おまえがハーバードの論文作成で色々依頼してきた時、25年後になってハーバードの委員会が、おまえはどんなどんな本を書いたのか? と、きっと聞いてくるようなことが有りうるということを指摘したことを覚えているだろう。おまえが立派な仕事をしたことは、今や疑う余地のないのだ。」
若冠二十三歳にして世に問われたジャックの処女作は、米英ともに高い評価を勝ち取り、それぞれの国で四万部を売ってベスト・セラーに列した。しかし、例の労働党の理論的指導者ハロルド・ラスキからジョセフに宛てた感想の手紙は、二人にとって耳の痛い言葉であった。「正直にいって、大変未熟な若者の労作ですね。現実の構造といったものがなく、事態の表面を撫でているにすぎません。私は貴台の息子さんたちの面倒を見てまいりましたが、お子さん達を金持ちの息子としてスポイルしてはならないと思います。考えると言うことは難しいビジネスで、貴台は高価な代価を支払わねばならぬのです。言いにくいことを申し上げますが、アーサー・クロック氏のようなイエスマンに支払われる代価よりも、私はずっと価値のある真の友情をお届けしたいと思います。」ラスキは歯に衣を着せずに、はっきりとジョセフにたいして「倅達をファ−ザーズ・サンにするな」と注文してきたのである。
青年ジャックにとって、いや世界中の青年にとって自由な時間は残り少なかった。そんな中ジャックはハーバード大学を卒業したのであった。


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