第五章 戦争(勇気と死)

ハーバード大学を卒業したジャックは陸軍に志願する、しかしフットボールで痛めた椎間板ヘルニアが原因で不合格となる。5ヶ月ほどトレーニングによって身体を鍛えたジャックは今度は海軍に志願する、そして1941年9月めでたく海軍に入隊することができたのである。ジャック24歳の秋であった。このころ太平洋は風雲急を告げ、日米開戦必至の情勢下にあった。しかし海軍に入隊したもののジャックは国内の軍需工場勤務を命ぜられ、彼の表現を借りれば「シベリア流刑」の毎日であった。
そして12月7日「真珠湾奇襲」。ついにアメリカは孤立中立をすて日本に宣戦布告、同時に枢軸国との戦闘状態に突入する。民主党全国委員会の代議員として政界デビューを果たした兄のジョセフも海軍に入隊、ヨーロッパ戦線に出陣していったのである、そんな事も手伝ってかジャックのあせりは激しかった、時には父のコネを利用してワシントンを動かしたりもして前線勤務を渇望していた、ついにその時がきた。戦局はジャックを南大平洋の前線へ押し出していったのである。南太平洋でのジャックは魚雷艇勤務、ソロモン沖海戦、ツラギ、レンドヴァでの生活などに続いて、1943年8月には、信じられないような数日を経験した。日本の駆逐艦「天霧」が、彼の魚雷艇を真っ二つに引き裂き、ジャックとその部下達をガソリンの焔に覆われたファーガソン水路の海面に投げ込んだのである。ジャックの落ち着いた勇敢さ、救命具のベルトの端を歯で咥えて引っ張り、部下の一人を安全な場所に救い出した驚くべき功績、指導力、助けがくるまでの機略縦横さや部下に対する激励、これらはこの戦争の本物の英雄的行為であった。この間の事情は後にジョン・ハーシーによって生き生きと描かれた。(第六章 魚雷艇PT109で紹介)しかし、ジャック自身はこの事をあまり口に出さなかったと言われており定説となっている感があるが、これは ”ケネディ贔屓”の見本のようなもので、事実は違うように思う。彼はこの事件を注意深く巧妙に宣伝して、政界進出への跳躍台にした形跡が随所に見られる。しかしソロモン群島でのこの出来事は、ジャックが深く心を奪われていた二つのもの、つまり「勇気と死」についての彼の考えを具現するものであった事には間違いない。ジャックは勇気や死について抽象的に話すことを嫌ったが、にもかかわらず、これらはジャックの生涯を通じて存在した問題であった。「勇気こそ、兄がもっとも敬意を払った美徳であった。」と、ロバート・ケネディは言っている。最初、この勇気とは、肉体的勇気を意味していた。すなはち敵の砲火にさらされた人間の勇気、静かに痛みを耐え忍ぶ人間の勇気、水兵や登山家の勇気、あるいは群集をじっと見下ろしたり、宇宙の外に舞い上がる人間の勇気である。しかし、政治に足を踏み入れてのち、この勇気は道徳的勇気を意味するようになった。すなはち、ジャックが後にその著書「勇気ある人々」を献じる対象になった勇気、「個人的な結果にもかかわらず、障害や危険や圧力にもかかわらず、なさねばならぬことをなす人間」の勇気であり、「人類のすべての道義の基礎である。」と彼が言ったその勇気である。
勇気・・・・そして死。この二つは互いに関係がある。なぜなら、もし勇気が無鉄砲な虚勢以上のものであるならば、当然、死がその代償としてともなうかも知れないという、苦痛にみちた認識が底にあるはずだからである。ノーバート・ウイナー(アメリカの数学者、哲学者。サイバネティックスの創始者として知られる。)は「上中流階級のアメリカの子供が、普通受ける教育は、死の不安から子供を懸命に守るためのものである。」と書いている。しかしこのことは、ジャックのように正統派宗教のなかで育てられた子供にはそれほど当てはまらない。ジャックの受けた宗教教育、病気、王者の死についての読書、これらがすべて一体となって、ジャックにして「人間は死を免れ得ない」という考えを、早くから与えたに相違ない。そして、はるか南太平洋の黒い潮流のなかで漂った幾時間もの間に、死は彼にとって身近なものになったのである。それからちょうど一年後、ジャックは二人の人物の死に直面する。一人は実の兄であるジョーの死であり、一人は妹キャスリーンの夫でイギリス人のビリー・ハーティントン侯爵の死である。兄ジョーは西ヨーロッパのナチ潜水艦基地への夜間爆撃行で戦死。ハーティントン卿はフランスでの戦闘での戦死であった。
ジョーとビリーの死を思ってつずった切り抜き帳には、1915年フランスで戦死したレイモンド・アスキス(第一次世界大戦時の英国の英雄)についてウインストン・チャーチルが書いた「偉大な同時代人」の一節を抜書きして挟んでいる。

あれほど多くの人々の限界を暴露させた戦争も、彼の限界をきわめることはできなかった。近衛歩兵第一連隊がソム河の激戦を開始した時、彼は、冷静に、騒ぎも立てず、決然と淡々と、はればれと、その運命におもむいたのであった。

もう一つは、ジャックの愛読書、ジョン・バカンの「巡礼の道」からの引用である。

彼はかつて自分の若さを愛した。今、その若さは永遠のものとなった。はればれとして輝かしい勇気に満ちた彼は、今や老いも疲れも敗北も知らぬ不滅の英国の一部となったのである。

ジャックの妻ジャクリーンは後に「若くして死ぬ人があるという胸をしめつけられる思いが、たえず彼につきまとっていたのです。」と語っている。「勇気と死」この彼にとっての信念とも言える思いは「政治家ケネディ」・「大統領ケネディ」として遺憾無く発揮された。しかし、歴史の神は皮肉にも彼に表裏一体の死をも与えたのである。1963年11月19日、テキサスへの旅に強硬に反対する秘書リンカーン夫人にケネディはこう言ったといわれる。「私を殺そうと思えば、簡単なことさ、礼拝中だって殺せるよ。」


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