第七章 魚雷艇PT109(下)

事件後4日目、疲労は絶望的に強まっていた。元気ものだったはずのジョンソンまでが、マックギアーの十字架のネックレスを見つけると、「頼む、祈ってくれ」と泣き出したりした。ケネディは絶望というものを認めなかった。絶対に断念しようとはしなかったのであるから、恐るべき心理状態であった。さらに南西方向に、ナウル島という小島があるはずだ、とケネディがいいだした。ロスが先導してナウル島に泳ぎ着いた。一時間かかったが、最後の死闘のように思えた。ナウル島を歩いて横切るとファーガソン水路にたどりつける!海辺で日本軍の新しい携行食糧と水筒、さらに一人用のカヌーが発見された。夜の訪れを待って、ケネディがこのカヌーを漕ぐことにした。「ファーガソン水路まで漕いでいって、友軍を探してくるから!」が、これも徒労に終わった。死の影が、ケネディをふくめて11名の米兵の命の周辺にひたひたと迫っていた。夜明け前、突風が見舞って、ひっくり返ったカヌーが砂浜に乗り上げたとき、ケネディの前に土民が現れた。土民は手真似で「二人乗りのカヌーがあるよ」と教えてくれた。ケネディは椰子の実を拾ってナイフで椰子の実の殻に彫り付けたのである。言葉こそ通じなかったが、この土民は信用できそうだ、と思ったのだ。
「11名生存!この土民がポジションを知っている。ナウル島にて。ケネディ」
ケネディは土民に手真似まじりで告げた。 「レンドーバ!レンドーバ!」
わかってくれたようであった。土民はうなずいて立ち去っていった。レンドーバ島はケネディの本隊がある根拠地であった。ケネディはまた死んだように深い眠り落ちていった。
目がさめると、土民に教えられた二人乗りのカヌーを探し当てた。ケネディはロスと共に、ファーガソン水路への挑戦を再開した。風は変わりやすくて強かった。また、カヌーが転覆して沖のほうに流された。必死のもがきであった。明らかに沖の方角へ漂流していた。島まで泳ぎ返すのに二時間はかかる位置であったが天候はますます悪くなり、豪雨が降り出した。三メートル先も見えないほどであった。「勘弁してくれ、ロス、僕が悪かった。君をこんな死地に連れ込んでしまって。」ケネディはロスに詫びた。「バカを言うのはよせ!」ロスの声がハネ返ってきた。
その時、前方に白い線が見えて、その白い線がしだいに近ずいてきた。遠くから押し寄せてきた大波が襲いかかってきたのである。ケネディは激しくもまれて、波の中にのみこまれた。ロスも珊瑚礁で全身に傷を負った。二人は浜辺に打ち上げられた、遠ざかる意識のなかでケネディは「これで、俺はとうとう死ぬのか」と思った。
翌朝であった、四人の土民がケネディとロスを発見した。ケネディを揺り起こした土民の一人が、上手な英語で告げた。宣教師に教育されたことのある男であった。
「兵隊さん。手紙を持ってきたよ!」
ケネディは、ぼんやりと目を開いた。瞬きしながら土民の顔を見詰めていた。やがて、ケネディは土民の手から受け取った封書を引き裂くようにして手紙の内容に目を通した。

「国王陛下の部隊より、ナウル島の先任将校殿
ただいま貴台らの生存を知りました。私はニュー・ジョージア島駐屯のニュージーランド歩兵パトロール部隊の隊長でありますが、どうか、この土民についてきて下さい。私は無電でレンドーバ島にある貴台の原隊に連絡を取りました。貴台の部下のほかの生存者の救出作業もただちに開始いたします。
ニュージーランド歩兵21連隊 ウインコート中尉」

文字通り九死に一生を得た訳であったが、この事件が発生した時から3年後、勿論大戦が終結したあとのことだが、1946年11月1日号の「タイムズ」誌に、次のような記事が出た。「ジャック・ケネディは初選挙の初演説で、ソロモン沖でPT109号艇の艇長時代の約束ごとを再提起して、こう述べた。私は自分の艇が沈み、いままさに、若者達の生命とともに死ぬのだと考えた瞬間、もしここで生き長らえることができたら、祖国のために命を賭けて戦ってきた自分の過去をこれからは平和のためにささげたいものだと決心した・・・。マサチューセッツ州第11区から、下院議員候補として、こんど出馬したジョン・フィッツジェラルド・ケネディは、政治家としての条件はよく備わっている。この男は1940年、ハーバード大学4年のとき、早くも、イギリスの外交政策の失敗を指摘して、それをアメリカへの警告とした。彼が書いたささやかな著書「なぜ英国は眠ったか」の中で、大英帝国が戦争防止のために、バターを大砲作りの犠牲に供することを拒否したのは、よもや再び戦争など起こるまいと考えたためだ、と述べている。実際に、起こらぬはずのその戦争が起こった時、彼の実兄が戦死し、妹の夫も戦死した。ケネディ自身も、PTボートが二つに引き裂かれ、背中を負傷したのであったが、これらの出来事が、彼をして、アメリカが安全保障の備えを固めることこそ世界平和の防波堤になりうるのだとする彼の政治哲学を生み出してくれた、というのである。」タイム誌は、政治家ケネディの初紹介記事の中で、彼の体験から生まれた「積極的平和主義」を強調していた。紹介記事は続く。「29歳・・・。ケネディはこの要望によく答えている。すでに、彼はクラブや教会で、450回の事前演説をやってきた。童顔でハンサムな独身候補であるが、注目すべきであるのは、クラブや教会の演説以外にも、彼がイタイア人社会でスパゲッティーを食い、中国人街で中国茶を飲んできた候補だということだ。彼はシリア人社会にも深く入り込んでいるし、波止場の荒くれ労働者ともよく交際している。投票日には、彼は彼の祖父の元ボストン市長のハニー・フィッツ夫妻と共に投票所に行くことであろうが、若いケネディが共和党の現職議員ラーリーを破る可能性が強い。投票が終わったとき、ケネディは多分、映画館の中で「カサブランカの夜」を鑑賞しながら、勝利の開票結果をきくのではあるまいか。」
一地方区の名も無き若手候補をメジャーの全国誌がこう紹介したのであるから、これは好意的すぎる下馬評であった。しかし「タイム誌」が、この時点で、童顔の独身候補に注目した根拠の中に、PT109号事件があったことは間違い無い。ジョン・ハーシー記者の記事がケネディを政治家に仕立て上げていくことに大きな貢献をしたのである。「タイム誌」に同時に掲載された写真も興味をそそった。題して「安全保障とスパゲティーと中国茶」・・・帽子を右手に、ギスギスに痩せたケネディを先頭に、ネクタイと白シャツ、上着無しの復員兵士の大行進がボストンの街を練り歩いている図柄であった。



第八章へ