第十章 健康

ケネディの最大の弱点はその健康にあった。この健康に対する不安は、常に彼の念頭につきまとっていた。ソロモン海域での事件のショックは。6年前ハーバード大学でフットボールの最中に受けた傷で弱くなっていた背中を、さらに悪化させてしまった。さらに、一週間近く海中を泳いだことも悪化に拍車をかけた。救出後の激しい疲労の中でケネディはマラリアに襲われた。激しい高熱が続き、嘔吐した。ガソリンを多く含んだ海水を大量に飲んだことも悪かったのである。除隊してアメリカに戻った時ケネディはギスギスにやせ細り、挫骨神経痛に悩まされていた。チェルシー海軍病院で腰部椎間板の手術を受け、神経組織に対する圧迫を取り除いた。しかし、背骨はその後も彼を苦しめ続けた、手術は成功してはいなかったのである。「兄の生涯のすくなくとも半分は、猛烈な肉体的苦痛の日々であった」とロバート・ケネディは書いている。続いて副腎機能不全。すなはちアジソン病の診断が下され、1946年から49年にかけて、コーチゾン療法を受けることになる。ジョセフ・オルコップ(アメリカの軍事評論家)がケネディの顔色が悪いことに気がつき「顔色が青ざめているが?」と聞くとケネディは「医者は、一種の進行ののろい白血病だと言っている。しかし多分、45歳までは生きられるということだから、この事を、(コーチゾンの)注射の時以外はめったに考えないことにしている。」と答えている。アジソン病とは、生命の維持に必要な内分泌腺である両側の副腎(末梢神経の収縮や血圧の維持に重要な役割を果たす器官で、ストレスに対処するホルモンを分泌する)が冒され、通常、この病気に精神的なストレスが加わると、急に高熱を出したり、意識混濁状態に陥り、ショック状態になって死亡すると言う難病である。しかし、しばらくたって次のようなことが判明した。ケネディの場合は古典的な意味でのアジソン病、すなはち、副腎結核によって引き起こされるアジソン病とは認められない、また結核の気はまったく無いので、近代的な治療を施せば、明らかに夜を徹しての泳ぎによる肉体的疲労と、その後のマラリアが原因と思われるこの副腎機能障害は、さして問題にするほどのことはないというのである。彼は直ちにコーチゾンの注射を止めた。もっとも、過度の肉体的緊張や、酷使に対する最善の対策として、時折コーチコステロイドの錠剤を生涯飲み続けた。このような年月にも、背中が痛みすぎる時は別として、ケネディは政治と運動の間で、めざましい、活発な肉体的活動の生活を送っていたのである。1951年極東を旅行していたケネディは、日本につく直前に高熱を発して沖縄の海軍病院に担ぎ込まれている。しかしケネディは、その超人的精神力でその後の日程を消化している。(この時の来日がケネディの唯一の来日である)その後も背中の痛みは彼を悩まし続けた。ジャクリーヌは、二人の交際中ケネディが松葉杖を使っていた時のほうが、そうでない時よりもはるかに多かったと記憶している。1954年になると、苦痛は絶え間なくなり、もう一度手術を受ける決心をした。今度は脊柱に鋼鉄の板を差し込んで行う腰椎の接合である。外科医たちには、この手術が有効であるかどうかの確信もなく、おまけに危険を伴うと警告したが、不断の苦しみに消耗しきっていたケネディは「私はかまはない。こんな風ではどうしようもないから」と言って手術を希望した。彼はあらゆる可能性にしがみつきたかったのである。手術後のその年の秋は、まるで拷問であった。鋼鉄の板を入れた場所がブドウ状菌の進入によって化膿してしまったのである。病状はさらに悪化した。病室にはカソリックの司祭が呼び込まれ、蝋燭が立てられ「終油の秘蹟」の儀式が執行された。カソリック信者は臨終に際して、体に聖油を塗って昇天の儀式をうけなければならないからであった。ケネディの生命はまさに朽ちなんとしていた。
最後の手術が行われ鋼鉄板は取り除かれて、一応手術は終わった。しかし、ケネディは依然として弱々しく、苦痛に悩まされベットに横たわっていた。加えてケネディを痛めつける事件が持ち上がった。結婚二年目を迎えていたジャクリーヌが初児を流産してしまったのである。(ジャクリーヌは二度流産している。この二人の墓標はアーリントンの二人の墓の両脇にひっそりと並んでいる)子供を欲しがっていたケネディのショックは異常なほどであった。ショックは彼の体に悪いことは勿論であった、彼は始終いらいらしだし、それまで一度だって苦痛を口に出したことの無かったケネディが松葉杖を放り出して、「こんな苦痛に耐えるくらいなら、死んだほうがましだ」と猛り狂ったと言われている。ケネディはどんなに苦しい時でも、絶対に人前では苦痛をみせたがらない男であった。選挙の演説会場でも松葉杖を隠し、微笑みながら演説をすませ、まるで苦痛などなかったように演壇を降りたものである。ちなみにケネディが松葉杖をついている写真はその膨大な写真の数に比べると非常に少ない、ケネディ自身がその姿を撮られる事を好まなかったからでもあろう。
手術は結局なんの役にもたたなかった。手術後、背中は以前よりも弱くなってしまった。後年、これらの手術は不必要であったと結論されたが、彼は一切他人を責めることはしなかった。
1955年の春、ケネディはジャネット・トラヴェルと言う人物のことを耳にした。この女性はニューヨークの内科医で、特定の苦痛を伴った筋肉の状態をノポカイン局所麻酔薬で治療していた。この女医を訪ねたケネディは、医者に対しては極めて懐疑的になっていながらも、今まで以上になんでもやってみようと言った気分になっていた。化膿した部分はまだ完治してはいなかったし、今度は貧血症までも加わり苦痛は絶え間なく続いていたのである。トラヴェル医師は、この痛みの原因は脊椎もしくは椎間板にあるのではなく、以前からの背中の筋肉の衰弱が引き起こす一種の慢性痙攣にあると診断した。すぐに、彼女の与えるノボカインは背骨筋肉の痙攣をやわらげ、痛みは急速に引いた。しかし日常の機械的な筋肉の緊張が痙攣の要因であるため、ノボカインの効果もただ一時的なものかも知れなかった。その後、トラヴェル医師はケネディの左足が右足よりも4分の3インチ(約2センチ)も短いことを発見した。これは明らかに背骨の治療個所の弱さを悪化させる原因であり、驚いたことに、それまでの医者はこのことにまったく気がつかなかったのである。長年の間、ケネディは歩くたびに背中にシーソーのような上下動与え、背骨筋肉に緊張を与え続けていたのである。早速ケネディは左足の踵を低くした靴を作らせた。また小さな”添え木”を身につけるようになった。さらに、トラヴェル医師の事務所にあった揺り椅子が、痛みを和らげることに気がついたケネディは、まったく同じ揺り椅子をつくらせたのである。ケネディのトレードマークの誕生である。色々な栄養補給が貧血を治した。トラヴェル博士の治療と心のこもった助言が、彼の人生を変えたのである。その後、トラヴェル博士に対する信頼は変わらず、大統領就任後は、彼女をホワイトハウスに招き入れ、私的な主治医として生涯ケネディの側に付き添わせたのである。
ケネディは偉大な克己心でこれらの病魔を堪え忍んだ、トラヴェル博士にとって、彼は模範的な患者であった。容態に決して不平をもらさず、もっともと思われる治療法には常にしたがった。ケネディはある時、サマセット・モームの「苦しみは人間をけだかくせず。みじめにする。」と言う言葉を引用しているが、仮にその通りであったとすると、彼はみじめさを見事に隠しおおせたことになる。具合はどうだ?と人に尋ねられることをひどく嫌った。苦しんでいる時は、態度が幾分ぶっきらぼうになり、顔面が蒼白になるということでしか他人にはそれと分からなかった。苦痛に耐えられなくなると、彼は友人を夕食に誘ったり映画に行ったり、とにかく一人でじっと座って苦しまないためには何でもして、気持ちを苦痛からそらそうとするのであった。まもなく、彼はもっと大きな仕事で気をまぎらそうとし始めた。それは一通の老女からの手紙が発端であった。


第十一章へ