第十一章 勇気ある人々

上院議員となっていたケネディには、下院議員の時以上に地元民からたくさんの手紙が連日舞い込んでくるようになっていた。陳情やら激励やら苦情やらで、手紙の数は連日数百、数千にのぼった。たとえケネディが病魔に臥せっていようが変わることはなかった。そんな中の一通の手紙にケネディは目を留めた。差出人は90歳の老婦人であった。ケープ・ゴッドに家を持つ寝たきりの老女であった。「私はきょうまで、民主党に投票したことは一度もありませんでしたが、死ぬ前に一回だけ、あなたの為に民主党に票を入れましょう。あなたもどうか体の手当てを十分になさって、この際、これまでに忙しくて出来なかった事を今すべてやって下さい。 お若い方へ・・・・」ケネディは老婦人の手紙を何度も何度も読み返してみて感動した。「そうか!これまで忙しくてできなかったことを今やれ、そういう事だな!」と自問自答してみた彼は、病を押し、意を決して一冊の本を書こうと思ったのである。ジャクリーヌも夫の決意に勇気ずけられて協力した。後にケネディのスピーチライターとなったセオドア・ソレンセンも協力することになった。本の題名が先にきまっていた。題名は「勇気ある人々」であった。
「私は上院に入るずっと前、ジョン・クインシー・アダムズ、ならびに彼と連邦党との相克に関する記録を読んで以来、選挙民の圧力に直面する政治的勇気の問題、ならびに過去の政治家の伝記によってこれらの問題を明らかにすることに興味を抱いてきた。1954年、背骨の手術に続く長い入院と静養の期間、初めてこの計画に必要な読書と研究の機会を得た。(中略)妻ジャクリーヌの激励と援助と批評なしには、本書は生まれなかった。」
という、”著者はしがき”で始る「勇気ある人々」は第六代合衆国大統領ジョン・クインシー・アダムズを筆頭に八名の伝記の中から、ケネディは先人たちの勇気ある行動を通して自己主張を貫こうとしたのである。ここにその八名を列記する。


ジョン・アダムズ 二代大統領アダムズの息子、言論の自由の擁護者としてまた奴隷制度の拡大に反対、民主共和党の六代大統領、モンロー大統領の国務長官時代モンロー宣言の重要な助言者
ダニエル・ウエブスター ダートマス裁判で母校の弁護人を務めた強硬漢の上院議員。史上最高の雄弁家と言われ連邦政府権限の強化を叫んだが、1852年の大統領選挙で民主党のフランクリン・ピアスに敗れた
トーマス・ベントン 国立銀行問題で硬貨論を唱えて紙幣制度に反対した上院議員
サム・ヒューストン テキサスが併合される前のテキサス共和国初代大統領。テキサス州知事、上院議員。強力な連邦論者
エドモンド・ロス 奴隷反対論者で南北戦争の勇者。カンサス州知事選挙で敗北後、ニュー・メキシコ総督,腐敗と戦ったため失脚
ルシアス・ラマー ミシシピー州出身下院議員。南北戦争では南部連合のために働く
ジョージ・ノリス 共和党急進派からルーズベルトのニュー・ディール政策を支持、TVA法の貢献者、第一次大戦の参戦論者
ロバート・タフト 共和党保守派の総帥、党大会でアイゼンハワーとの指名争いに敗北


「勇気ある人々」は1956年、ハーバーズ・アンド・ブラザーズ社から出版された、たちまちベストセラー第一位となり、一年間連続してその記録は破られなかったのであるが、この本を読むと、病魔と戦っていたころの彼がなにを考えるようになっていたかが良く解る。彼が「勇気ある人々」として挙げた八名の先人達は、それぞれ、自己の信念と信条のために戦った政治家達であるが、各人各様に、勇気があったがゆえに最後が不運で終わるべき人生の幕を閉じねばならなかった人物ばかりであった。歴史の皮肉は、ケネディをもって、もっとも悲惨な最期を遂げた「勇気ある人々」の九人目に彼を列せしめたのである。
ケネディがこの書のなかに、なぜ「車椅子の大統領」フランクリン・ルーズベルトを挙げなかったのかは興味深い、想像ではあるが、ルーズベルトを支持し、彼を裏切り、裏切られたという父親への配慮からであろう。ジェームズ・バーンズは「あの本はケネディの知的、政治的成長の一段階を画すものであった。勇気を書いているうちに、彼は選挙区の狭い責任感というものから解放されたのである」と書いている。つまり、一地方のための議員たることに甘んじることなく、断固として大統領への道を志したというのであろう。アーカンソー州の選挙区民の陳情をなおざりにして批判を受けたフルブライト上院議員が、選挙区から「おまえは地元をなおざりにし過ぎる」との声にたいして、「私の選挙区は世界区だ!」と言い切った言葉が思い起こされる。ベトナム戦争や中国問題で、あれほど良識派であったフルブライトでさえ、最後は選挙区で地盤をひっくり返された事例に思いを馳せれば、ケネディのいう勇気とは、それがなにを意味していたのかが良く解る気もする。政治屋(ポリティシャン)から政治家(ステーツマン)への大跳躍であった。
だが、ケネディにとっては、確かにこの著作の仕事は、精神的にも肉体的にも決意と飛躍を画する挑戦であった。ベットに横たわったまま書いたこともあったし、プールサイドで書いたこともあった。書くスピードは鈍足であった、ケネディの性格上、思考が走り過ぎたので、書いては消し、消しては追加した。ボストンの地元紙、クリスチャン・サイエンス・モニター紙のカンハム主幹の書評・・・「ケネディ・マストに翻ったすばらしい軍艦旗である。いつまでも、この旗が翻ることを祈る。」
この年のギャラップ調査は、次の次(1960年、1956年は大統領選挙の年であった)の民主党大統領候補として、ケネディとキーフォバーを挙げたが、ケネディ支持率45%、キーフォバー33%であった。彼が大統領に就任したのち「ケネディ語録」の中に収録された「勇気ある人々」の中の勇気に関する彼の言葉を紹介してみよう。

「兄弟同士が戦った南北戦争で、砲火の下の勇気を判断するうえで、どちらの側で戦ったかなど問題ではない」
「過去において、勇気の本質を忘れた国民は、今日、選ばれた指導者に勇気を要求するとは思えない。また、勇気ある指導者に報いるような国民でもない」
「国民が政治的勇気を妨げ、政治家に良心の放棄を強要している恐るべき圧力は、安易な道を選ぶ者には寛大である」
「勇気ある者でなければ、強力な敵との戦いにおいて、生き抜くために必要な、困難にして不人気な決定などできない」
「勇気ある者でなければ、アメリカを生み、この国の幼年期を育て苦しい試練を通じてこの国を成年に育てあげてきた個人主義と独立精神を、胸に燃やし続けることはできない」
「議員の責務が有権者の衝動に束縛されることを否定する者こそ、民衆の英知を信用するものである」
「勇気の意味は、政治活動と同じく誤解されやすい」
「真の民主主義とは、その主義に対する貢献のために不人気な方向をたどった人物を非難しないだけでなく、その勇気に報い、高潔さを尊敬し、最後に正しさを認める信念を植え付けることである」
「勇気と良心の問題は、アメリカの官吏と公人格の地位の上下にかかわらず、官公吏にかかわる問題点である」
「勇気によって死んだ人々を軽んじることなく、勇気をもって生きた人々の行為も忘れてはならない。勇気ある人生は、最後の瞬間の勇気ほど劇的なめざましさはない。にもかかわらず、そこに、壮大な勝利と悲劇が同居していることには変わりはない」

そして・・・・・・・

「政治は、勇気に特殊な試練の土俵を提供するに過ぎない。人生のどの領域でも勇気の試練に遭遇するものだが、良心に従えば、直面する犠牲が何であろうとも、友人や財産を失い、仲間の尊敬さえ失っても、進むべき道を決断しなければならない」

どの一文をとってみても、現代の政治屋や国民に聞かせたい文章である(特にどこかの国の人々に)。この本は、前記のようにベストセラーとなりこの年のピュリツアー賞を獲得したのである。その時、後々まで語り継がれることになった事件が起こった。評論家ドルー・ピアソン(いわゆる、スッパ抜きライターの元祖と言える人物)が「あの本はケネディが自分で書いたものではない」とABC放送のテレビ番組で罵り、ABCはソレンセンが代作したものであると流したのである。この時ほどケネディが怒ったことは無いと言われる。ケネディはABC放送とピアソンを誹謗法(名誉毀損)で告発しようとしたがABC放送とピアソンが謝罪したため事件にはならなかった。ケネディとABCが対決した時のやりとり
ABC「多分、ソレンセンは酒に酔って代作したと失言したのではないか?」
ケネディ「あの男は酒は飲まない。」
ABC 「では、彼が怒って放言した?」
ケネディ 「ノー! 彼は怒ったりしない!」
そして、当のソレンセンは、「私が代作したのは、ABC放送が放送することになったケネディに対する謝罪文を書いてやったことだけだ!」と言った。
しかし、この”代作問題”の噂は消滅せず現在もなお、この事を信じている人々も多い。


第十二章へ