第十二章 副大統領候補

1956年はケネディにとって数多くの出来事があった年になった。勇気ある人々の出版もその一つであるが、何と言っても来るべき大統領選挙における民主党”副”大統領候補への挑戦であった。この事を書くには、どうしても時計を巻き戻さなければならない。時は1952年ケネディが上院議員に初当選した年までさかのぼる。
この頃のアメリカ政界は、ジョセフ・マッカーシー議員の独り舞台の感があった、いわゆる「マッカーシー旋風」である。実はマッカーシー議員とケネディ家とは因縁浅からぬものがあった。父ジョセフと同名であったことも手伝ってか二人は馬があった。マッカーシーが独身であった頃、マッカーシーはしばしばケネディ家を訪れ、ケネディ家の二人の姉妹、パトリシアとユーニスとデートを繰り返していた。「いまにマッカーシーが、ケネディ家のどちらかの美女を嫁にするぞ」と噂されるほどであった。しかしマッカーシーは噂を裏切って彼の美人秘書ジーンと結婚した。噂は消えたが、彼とケネディ家との付き合いはますます深まって行った。それに、ボビーとマッカーシーの関係も家族同士の付き合い以上のものがあった。ロバートがバージニア大学に在学していた頃、大学を訪れ講演を行ったマッカーシー上院議員の熱のこもった雄弁と強い思想にロバートは感銘をうけていたのであった。1951年夏、ロバートは結婚して生まれた最初の子供の名付け親をマッカーシーに依頼している。マッカーシーは、その子をキャスリーンと名付けた、いわゆる、ゴッド・ファーザーである。それ程の近しい間柄になっていたのである。そしてその翌年、ケネディが上院議員に当選すると、父ケネディはロバートにこう言った。「さあ、次はおまえがやる番なのだが、それまで、勉強のためだ。マッカーシーの事務所に行って弟子になれ」と薦めた。この頃すでにマッカーシーは、1950年に始めた、有名な「赤狩り」の真っ最中で、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いであった。「国務省内に265人の共産党員がいる!」と有名な言葉を吐いただけでなく、政府諸省庁内の左翼分子をつぎつぎに槍玉にあげて大鉄槌を振るっていた。原爆を生み出し、水爆の製造に反対したオッペンハイマー博士や、ルーズベルトと共にヤルタ会談に参加した国務省のアルガー・ヒスなど、マッカーシーの魔女狩りの網に引っかけられて、投獄、追放の難にあった政府職員や学者は、文字通り枚挙にいとまない有り様であった。マッカーシーは、巡回裁判所の判事であった時に大戦が勃発、従軍。戦後、民主党から共和党に鞍替えした男で、下院から上院へと、持ち前のタカ派理論が受けてトントン拍子の出世街道を進んできた人物である。実現はしなかったが1952年の大統領選挙の候補者の一人とまで言われる人気であった。希代のデマゴーグとされ、ニューディール政策で左旋回していたアメリカを強引に右へ振り戻どそうとした彼の発意は健気ではあったが、ために、アメリカの良識社会は戦々恐々のパニック状態に陥っていたのである。父の推薦で、ロバートはマッカーシーの門を叩いたが、それが魔女狩りの特捜部と裁判所を兼ねた公的機関として恐れられた、知る人ぞ知る「上院常設調査分科委員会」であった。この委員会に配属されたロバートは「赤狩りGメン」となったのである。委員会でのロバートはマッカーシーを満足させるに足る働きをし、委員会の若鷹となっていた。しかし、ロバートには直属の上司としてロイ・コーンと言う人物がいた。このコーンこそがマッカーシーに輪をかけた恐るべき右翼の急先鋒であった、司法次官の時代にローゼンバーグ博士夫妻を原子力スパイとして死罪に処した実績を引っさげてこの委員会に君臨していたのである。ロバートはこのロイ・コーンとはどうしても馬が合わなかった。人生とは面白いもので、この上司と馬が合わなかったことがロバートにとっては幸いしたのである。(もし、ボビーがこの上司と馬が合っていたらボビーの実力から言って委員会の最重要スタッフとなっていたであろう。この場合ボビーの政治生命は1954年に完全に絶たれた)
1953年「常設調査分科委員会」に異変が起きた。委員会に非米活動委員会から横滑りしてきたマシューズという猛烈調査官がマッカーシーの寵愛をいいことにして、虎の威を借る狐ぶりを発揮し出した時、さしものマッカーシー委員会に最初の亀裂が生まれた。常設分科委員会のメンバーであったマックレラン、ジャクソン、サイミントンの良識派と呼ばれた三名の委員が辞表を書いたのである。この時、同調したわけではないと言いながら、コーンとの確執に嫌気が差していたロバートも委員会を飛び出して行ったのである。「マッカーシーとの個人的友情関係には変わりがない」と、苦しい弁明をしたのは、娘の名付け親に対する間接的な陳謝声明であった。実際にはマッカーシーとマックレラン、ジャクソン、サイミントンの三議員の和解が成立して、ボビーは再びマッカーシー委員会に戻ることになるのであるが、今度はマックレラン議員直属の副調査官としての復帰であった。
明けて1954年2月マッカーシーにとっては勇み足の命取りとなった陸軍省を相手取った開戦ラッパが吹き鳴らされた。
2月21日「ワシントン発UP特電=マッカーシーの赤退治の新しい矛先が陸軍省に向けられた。23日にはスティーブンス陸軍長官が上院マッカーシー委員会で証言することになったが、マッカーシーはそれに先立ち声明を発表して、あの大間抜けの陸軍長官は、民主党の残骸であると決め付けた。陸軍長官も負けずに、マッカーシーは陸軍将校に侮辱を加えたと反論した」
2月26日「ワシントン発AFP特電=マッカーシー委員会は、新たな問題提起として、1940年代に、アメリカ共産党本部から電話を受けたことのある政府職員の電話番号リストを政府人事委員会に送り付けた。このリストの中には600〜700の電話番号が含まれているといわれる。マッカーシーは、この電話の持ち主がまだ政府内に勤務しているかどうか、政府人事委員会に糾明を要求し、彼らを証人喚問したいと語った」
アイゼンハワー大統領が、ホワイトハウスの定例記者会見で、重大発言を行ない、波紋の一石を投じたのは3月3日のことであった。
アイゼンハワー大統領声明「私は上院の調査分科委員会で、公正な取り扱いを受けていない政府職員に対して、ここで全面的支持を与えたい。議会と政府の真の協力は、相互に信頼し合う雰囲気があってこそ達せられるからである、政府の職員は議会の要求に応えねばならぬことは当然としても、彼らは尊敬と丁重さで遇されねばならない」マッカーシーは、この大統領声明が行われてから一時間も経たないうちに声明を発表した。「大統領はヤカンの中でカンシャク玉を破裂させた。共産党の第五列が陸軍内部に巣食っていたというれっきとした事実を指摘されて、大統領が怒り狂うのは馬鹿げているというよりはバカバカしく大きな過ちを犯している」といった挑戦的な声明であった。
翌日からのアメリカの新聞各紙は一斉に大統領支持のキャンペーンをはった。共和党色が強く、保守系のヘラルド・トリビューンまでが、「マッカーシーに騙されるな。個人に託するフェアプレーこそが伝統あるアメリカの国家的基本理念だ!」と書いた。アメリカ世論の大勢は大きく反マッカーシーに傾いたのである。4月22日、スティーブンス陸軍長官はマッカーシー委員会の証人喚問で、マッカーシーの腹心の部下であったデヴィット・シャイン一等兵を将校に昇進させるように圧力をかけてきた事を暴露したのである。すなはち兵役についたシャインをすぐに将校にしないと、陸軍部内にも調査のメスを入れるぞ。といった本末転倒の要求であったと言うのである。
アメリカ全土は、鼎をつついたようなヒステリー状態になった。各地でマッカーシー・リコール運動が展開された。議会においても良識派と呼ばれる人々が世論の支持を得てマッカーシーを譴責する動きが出た。1954年12月2日、上院はマッカーシー非難決議を67対22で可決した。その時の決議に棄権者が9名出ている。この棄権者の中にケネディの名前があったのである。
1954年の12月という時期は、ジャクリーヌの流産、最後の手術を終えケネディがもっとも意気消沈し、かつ苦しみの絶頂で病床に伏していた時期にあたる。したがって、彼はこの非難決議が採択に付された議会に出席できるような状態ではなかった。ケネディ本人にしてみれば命の縁をさまよっていた訳であるから仕方の無いことではあったが、議会人としては言い逃れにすぎなかった、ケネディ自身も弁解はしなかった。この事がケネディに対する批判の声として議会内部に広まったのである、加えてケネディの実弟が、マッカーシー委員会の副調査官の立場にいた事も噂に拍車がかかった。特に民主党進歩派議員の反発は大きく「卑怯な男」と言った批判は議員達の心の中に残った。進歩派を自任していたケネディにとっては大変な痛手であったのである。この事件があってから一年半近くの歳月が流れた。ケネディは1956年の大統領選挙にあたってスチーブンソン大統領候補について副大統領候補に立候補したのである。この時の民主党は大統領候補になった人物の指名ではなく、副大統領候補も選挙によって選んだのである。このシカゴで行われた党大会で一人の女性が演壇に立って絶叫した。「ケネディがマッカーシーの政治生命が終わったあとになって、どんなに死者を鞭打ったからといって、マッカーシーの魔女狩り旋風が猛威を振るっていた時に彼はどうでしたか?マッカーシーの非難決議の時に、彼がどの様な態度をとったのでしょうか?黙っていたではないですか!今ごろになって、急に態度を変えたとしても、ケネディの行動は完全に政治的売春行為ですよ!」絶叫の主は、あのフランクリン・ルーズベルト大統領夫人のエリノア・ルーズベルトであった。言葉汚く罵って、エリノアはケネディの父親がやったロンドンでの反逆行為の仇を、今このシカゴで果たそうとしたのである。食いついてきたエリノアに私怨がなかったとは言えないが、ケネディは痛いところを突き上げられたのである。その結果、土壇場で僅少差とは言え、進歩派の旗をかざしてのし上げてきたキーフォーバー議員にうっちゃられ敗北を喫したのである。
キーフォーバー議員は南部テネシー州の出身であったが、東北部出身のケネディが、レイバーンやジョンソンと言った南部の保守派に支持された。民主党の院内総務の重職にあったテキサスのリンドン・ジョンソンに支持されたというのは皮肉な話であった。ジョンソンは、ここでケネディに貸しを作っておいて、次回の1960年には自分自身が大統領候補に出馬するハラであったのである。ジョンソンは「テキサスは、戦争の傷痕を持つ勇敢なる海軍の兵士に、誇りを持って票を投ずる!」と演説し強引にケネディをタカ派の陣営に引き入れようとしたのであった。しかし、ケネディ兄弟は、キーフォーバーに敗れた瞬間、「次は大統領候補に挑戦するぞ」と。敗北の雪辱を一段飛びにエスカレートさせて、早くも1960年の党大会に絞り上げた的を睨んでいたのである。「いったい、ケネディ兄弟は、口で言うほどの進歩派なのか、それとも、根は父親譲りの保守派なのか?」少なくともボビーの耳には痛いほどうるさい批評が届いていた。煮え切らなかったケネディの態度を”政治的売春行為”と罵ったのは、エリノア・ルーズベルトだけではなかった事をボビーはよく知っていた。いまここで仕切り直す必要が痛切に感じられていたところでもあった。「なにか強いデモンストレーションをやって、あの世評を吹き飛ばすだけの演出が必要だな」と、ボビーがチャンスを求めていたことは否定できない。
1957年になると、大統領の地位自体もそれほど遠いものには思えなくなってきた。1958年の夏、ジョセフ・オルコップ(第十章前出)がケネディに対して「今や君は、今度こそ副大統領の指名を目指せる」と言うと、ケネディはこう応えたと言う。
「”副(ヴァイス)”について話すのはよそう。私はどのような形のものであっても”悪(ヴァイス)”には反対だ!」と・・・・・
このような元気とは裏腹に実際には副大統領選挙敗北のショックはケネディにとって相当大きなものであったらしい。選挙の敗北はケネディにとって人生における最初の敗北体験であった。ケネディと親しかったフロリダ選出のスマザー議員の話であるが、「敗北の翌日、彼は急に姿を消してしまった。フランスのリヴィエラ海岸にいた父のもとへ飛んだのだ。ジャッキーはニューポートの実家のもとに走った、夫婦がバラバラになった。ボビーが、ジャッキー流産の報をフランスに打電した時、ケネディは父のヨットで地中海に出ていたのだ。」(1954年に次ぐ二回目の流産であったが、この時は八ヶ月の身重であった)


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