第十三章 ウイスコンシンの挑戦

ケネディが大統領選挙に出馬するためのケネディ家初の準備会合は、1959年4月1日、フロリダのパーム・ビーチにあった別荘で開かれた。出席者は、本人の他、父親のジョセフ、弟のロバートと末妹ジーンの夫スティーブン・スミス(1956年結婚)、家族外のメンバーとしてはソレンセン他4名のスタッフが参加した。この会議であらましの戦略が決められた。「世論調査の結果を宣伝する事、選挙本部からプロテスタントのスタッフを各州に派遣して宗教対策に重点を置く事、明確な政治公約を作る事、各州内の運動員の監督組織を作る事、外交政策では平和を強調する事、神に対してでなく対立候補と戦う事」等であった。世論調査についてはケネディが以前よりやかましく言っていたことであり1958年の秋ごろ、彼はニューヨークのルイス・ハリス世論調査研究所を十万ドル契約で抱え込み、全国的な調査の網を広げていた。「神に対してでなく対立候補と戦う事」の項目はいかにもケネディが考えた戦略らしくて面白い。第二回の戦略会議はそれから半年経った10月28日で、会場はハイアニスの別荘にあったロバートのコテージであった、ロバートが選挙参謀長となる事が決まり、年を越して1960年1月2日に記者会見を開いて、出馬表明を出す方針が決められた。誰よりも早く名乗りを挙げようという戦略であった。ケネディ・クラブを母体としたケネディ・マシーンのスタートであった。
「やっと自信ができたよ」と、ケネディがまじめな顔で前向きの姿勢を示したのはこのころの事である。この言葉を聞いたソレンセンは「それまでは自信が無かったのか?とビックリした」と回想している。これより二年前の1957年11月27日、ジャクリ−ヌは念願の子供をやっと無事に出産している、長女キャロラインの誕生である。家庭的にもひと区切りの安定がもたらされた時期でもあったわけである。
ケネディが未来の大器としての天才であった一面は認めても良いが、ネクタイを取り違えたり、シャツや背広をホテルに忘れてきたりする健忘症のような習癖や、常に机の上が乱雑で、一枚の書類を捜し出すのに秘書達が大騒動する話など天才らしい男の反面を物語る事例は枚挙にいとまない。が、大統領に出馬を決めた、否、ひょっとして選挙に当選した瞬間までのケネディは、ケネディ一族が総がかりになって作り上げたケネディ王朝の人工大統領候補であったのではないかと思わせる一面すらこの一連の大統領選挙キャンペーンの中で浮かびあがってくる。ケネディ家のケネディ・クラブは、文字通り、総力をあげてケネディに期待し過ぎたし、ケネディも又、クラブに多くを負っていた事は誰も否定できないであろう。それでは、ケネディは、作られた大統領候補であって、ケネディ自身には大統領候補としての天性は無かったのか? ケネディ自身が大統領になろうとする自発的な意志や努力は無かったのか? ケネディ・クラブに埋もれてしまっていたケネディ本人の決意はどうであったのであろうか? これは”大統領への道”であり、1946年の下院議員立候補の時とはおのずと意味が違うのである。これらの疑問に対するケネディ自身の回答こそが。ソレンセンをして驚かしめた「やっと自信ができたよ」の発言であり、意外とケネディ自身の本音であり、偽らざる告白であったのかもしれない。ケネディ・クラブ総がかりの”大統領製造作戦”はこれからも続くのであるが、曲がり角に差し掛かっていたと言われるアメリカ社会とその大衆が真に期待していた「大統領への道」は、
むろん、ケネディ自身で切り開いていかなければならないはずであった。
「飛行機を買おうじゃないか!」
プロペラのコルベア機が購入され、ケネディの発想で機内が全面的に改装された。ベットが持ち込まれ台所用品一式までもがセットされた。これによって移動の時間中に睡眠もとれるし食事も出来るようになった。機名は長女の名前をとって「キャロライン号」と名付けられた、ケネディはどんな悪天候でも、予定の変更を拒否した。そのため雇われたパイロットは辟易して「真っ青」になる事など日常茶飯事であった。「メイン州へ飛んだ時、滑走路が見つからず飛行機がグルグル旋回している間、全員で滑走路を探した、アイオワの収穫大会に行った時には、トウモロコシ畑に着陸した、どしゃ降りの雨の中、アラスカで飛び立った時などは、ケネディがパイロット席の窓から手動のワイパーを動かした事もあった」ソレンセンの回想である。夜行列車とキャロライン号を駆使し駆け回った全国行脚の距離は驚異的に伸びて行った。ある時など参加するゲストには、血のサインをさせるしきたりとなっている団体の集会で演説した時、彼は躊躇する事無く血のサインに応じたりもした。こんな話は、大統領になるためにバカげたことをした序の口であった。
ケネディが「予備選が行われる州の全部に出る!」と言いきった時スタッフは全員反対した。いくらなんでも、同時に、州の違う選挙区での準備が無理なことと、勝てる州と負けるに決まっている州がはっきりしていたため、そんな危ないギャンブルは打たせたくなかったからであるが、ケネディは断固として全区出場の決意を翻さなかった。「古い顔の党役員や代議員よりも、私は底辺の大衆に向かって挑戦したいのだ。みんなついてきてほしい」不退転の決意が披露されたのだが、その決意は「勇気ある人々」の中に、彼自身が吐露してきた既成政治に対する深い不信感を反映させたものであった。ケネディの伝記を書いたジェームズ・バーンズはこう回想する。この回想の一部は、実際に選挙期間中、生の形のパンフレットとして選挙区に配布されたものである。
「党指導者に対するケネディの猜疑心の根底には、組織に対する猜疑心にあった。戦略になるわけだが、中間層の票が勝敗を左右するアメリカでは、一民主党員を超越した立場に立って運動を行なわなければならない事をケネディは知っていた。ケネディは党の組織に乗った党員となることを何よりも嫌った。党内にはいろいろな派閥があったが、若くして素人政治家を自負した彼は派閥から超越し、独立した候補者となる事を願った。ケネディにとって、地元のニューイングランド州を除くと固定票など皆無であった。」
全米にさきがけて実施される予備選挙の栄誉は今も昔もニューハンプシャー州である。1960年3月9日、ついに予備選の火蓋が切って落とされた。このニューハンプシャーの予備選でケネディは圧勝した。ケネディが四万二千九百九票・地元の実業家であったフィッシャーが六千七百六十一票・サイミントンが三百七十四票であった。共和党はニクソンが六万五千票あまりで独走した。
続く4月1日付のニューヨークタイムズは次のように報じた。
「アメリカ国民の関心は、きたる5日に行なわれるウイスコンシン州の大統領予備選に絞られてきた。特に注目されるのは民主党のケネディとハンフリーの一騎打ちであるが、両者にとってここが予備選の”天王山”となるであろう。ここで負けると全国大会の指名はおぼつかないと言うジンクスがあるからだ。1940年には共和党のバンデンバーグ、44年には民主党のウイルキー、48年には共和党のマッカーサー元帥がここで敗れて候補を断念せねばならなかった土地柄であるからだ。」
対抗馬ハンフリーの地元のミネソタと州と州を隔てながら選挙民の心の中では州の境界が実質的にはっきりしないと言われるウイスコンシン州は、いうなればハンフリーにとっては地元と言う事になる。ハンフリーはホームグランドでの必勝を期してこの”天王山”に挑戦してきたのであるが、それだけにケネディも負けられぬ一戦となった。カトリック教徒であるケネディにとって、これまでハンディキャップ視されてきた宗教問題は、ここウイスコンシン州では逆にケネディに有利になる。同州は人工の32%がカトリック教徒であったので、一種の宗教戦争的な選挙民の反応も注目された。反面、ドイツ系や北欧系の移民が多い点ではアイリッシュのケネディには不利な要因でもあった。当初、ウイスコンシンの予備選は不利と読んだロバートは「あそこでは立候補するな!」と進言していたのであるが。「俺はどうしてもすべての予備選に出るし、特にハンフリーの裏庭では勝負したい」というケネディの一言で出馬が決まった経緯があった。ウイスコンシンでの立候補の理由は単にそれだけには止まらなかった。この州は党別の党員登録をしないで、民主・共和の両党員が一緒になって予備選を実施する方式を取っていた。その為にケネディは同じ投票数の中で、ニクソンとも勝負が出来たのである。
この”天王山”の選挙戦でひともんちゃくあった。父ジョセフがフランク・シナトラを動員しようとしたのである。当時人気上昇中のシナトラ動員のニュースを聞きつけたニクソン陣営は、支持者であったジョン・ウエインを動員してケネディに公開質問状を発表した「私の友人はコミー(共産主義者)を雇っている。これをケネディはどう思うか?」と言った内容である。意地の悪い質問状であった。その当時、シナトラが左翼作家の脚本を使っていると言った暴露記事が問題になっていたのだ。
苦い顔をしてケネディはロバートに言った「困ったことになった、シナトラはマフィアとも関係があるそうじゃないか。ラスベガスのサンス・ホテルのカジノの上がりを4%頂いているといった投書もある」ロバートは父に逆らって、シナトラのミルウオーキー入りを中止させねばならなかったばかりか、シナトラの友人サミー・デイビス Jr の応援もキャンセルした。 (大統領選挙中の父ジョセフの動きに関しては、暗殺事件関連項目のマフィア関連項目参照)
ハンフリー側も負けてはいなかった。ドジャースの人気選手 ジャッキー・ロビンソンを動員して対抗しようとした。選挙最終盤になるとついに泥試合の様相を呈してきたのである。ハンフリーはケネディの戦術をデパートの金権作戦と罵り「洪水のごとく金をバラまいているので、小売商人はとてもかなはない」と触れ歩いた。ケネディ側も負けてはいなかった。「ロビンソンは金で雇われてミルウオーキーにやってきた」とデマを流して応戦したのであったから、ケネディの選挙と言えども、高潔な知的作戦に徹していた訳ではなかったのである。ケネディの選挙にもドロドロの一面があったのであるが、その泥を一身にかぶったのは常にロバートであった。ケネディは、どこまでも高潔な理想的政治家で、ドロドロした話は一切関知しないという建前で通した。その後の二人の政治的役割分担の原形ができあがっていたのである。

4月6日、ミルウオーキー発AP電=ウイスコンシン州予備選の結果、ケネディが10選挙区中6選挙区で勝ち、同州史上最高の得票数を獲得した。共和党のニクソン票が、クロスオーバーして大量に民主党のケネディ候補に流れた模様で、ニクソン候補の得票数は意外に少なく、ハンフリー候補にも負けて第三位に甘んじた。ケネディ候補はウイスコンシンで勝って、確実に全国大会への第一歩を踏み出したと言えよう。


予備選の結果はケネディの勝利に終わった。しかし本番の大統領選挙においては、ウイスコンシン州は共和党が獲得している。選挙とはそんなものでもあった。


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