第十四章 宗教戦争

党内の敵は多かった。まず、かつてルーズベルトを悩ましたテキサスの万年独身男で党内実力者の禿頭老人、サム・レイバーン下院議長が敵に回った。彼は同郷人で党上院院内総務を勤めるリンドン・ジョンソンを強力に押し上げてきた。「わしの息のかかった四十七人のボーイ達が上院を牛耳っているが、彼らはみんなケネディが生まれる前から政治家になっていたんだぞ!」この老骨の存在は、ルーズベルトが大統領になろうとした時、全国大会でガーナーを大統領候補にぶつけてきたが、今回はそっくりそのまま。ガーナーをジョンソンに置き換えてきたのである。ケネディが当時のルーズベルトよりずっとやりにくかったのは、前二回敗れたとはいえ、依然、党首格の発言権を持った進歩派のスター、アンドレー・スティーブンソンが虎視耽々としてシカゴの一角から「ストップ・ケネディ」の圧力をかけていた事である。スティーブンソンが、予備選挙のどこかで、誰かにケネディを止めさせて、全国大会までに、サイミントン、ハンフリー、ジョンソン、ケネディの四すくみ状態のデッド・ヒートに追い込み、最終的には、自分が出馬しようとする魂胆を持っていた事は誰の目にもあきらかであった。加えて、ジョンソン陣営も同様の作戦を考えていた事も又明らかであった。まさに、狸と狐の騙しあいの様相であった。ただ「ストップ・ケネディ」の一点のみは、党の重鎮たる四候補共通の思いであったのである。党内世論は、ウイスコンシン後、どっと堰を切った形となって現れてきた。
はたせるかな、スティーブンソンからケネディにまず攻撃をかけてきた。プエルトリコ遊説中のスティーブンソンが記者団に「天文学的と言うべきか、滅茶苦茶で、おそらくアメリカ政治史上最高といえる政治資金が使われている」とケネディの資金問題を攻撃してきたのである。ケネディはシカゴに飛んでスティーブンソンとの和解を図ろうとした。彼が出馬辞退声明を出した通り、本当に出馬しないというのであれば、彼の票をくれないかと頭を下げてみたのであるが、スティーブンソンは言葉を濁して確答を避けたのである。ケネディ陣営のスタッフ達は「あの男は外交に色気があるのだから、票を貰うための交換条件として、国務長官の椅子をオッファーしてみては?・・・・」と言う意見もあったが、ケネディは取り引きする事を控えた。探りを入れてみたところ「恐らく受けまい。怒らせて逆効果を生むだけであろう」との情報を手にしていたからだ。この国務長官人事は組閣にあたっての人事決定に大きな問題を残してしまった。(遺産シリーズ「閣僚」の項目参照)
さらに厄介な事に、党内進歩派の急先鋒を自他共に認めていた、例のエリノア・ルーズベルト夫人もニューヨークの進歩派勢力を結集して、スティーブンソン擁立の動きを活発化しだしたのである。それらは、あなどりがたい地下勢力となっていたが、ケネディには、彼らに突っつかれるだけの弱みが沢山あった。特に、黒人問題に対する過去のケネディの態度に不鮮明さがあったのだ。これは、マッカーシー事件に対するケネディのヌエ的な落度が衝かれたと同じで、南部の一角から、いち早くケネディ支持を表明したアラバマ州知事のジョン・パターソンの個人的政争が逆効果を生んでしまったのである。パターソンと州知事を争っていた党内右派の急先鋒ジョージ・ウオーレス(1968年大統領選挙の時、銃弾で負傷した、ウオーレス事件の当事者)が、ケネディ支持に回ったパターソンを「パターソンは KKK を支持している!」と攻撃したのであるから、ケネディにとってはたまったものではなかった。
黒人生徒の共学編入問題に反対して発火した南部最大の騒擾事件「リトルロック事件」が起こったのは1957年9月であった。すでに二年半の歳月が流れていたのであったが、南部の黒人差別は、まだ抜き難い因習の根を張っていた。事件自体はアイゼンハワー大統領の強権行使で収束してはいたが。事件の波紋は拡大し、南部各地で白人の煽動的示威行為や暴力事件が頻発していた。大統領となった後、ケネディ兄弟の黒人差別撤廃をめぐる施策は、公民権史を通じて極めて特筆すべき足跡を残しているが、1960年当時の予備選の蓋明けの時期、パターソン知事がケネディを支持した時点で、アメリカ国民の意識の中に、ケネディが黒人問題に関して進歩的な考えを持っていると言った評価は、まったくと言ってよいほど無かった、ボストンのブルジョアの倅がカッコのいい事を言っているぐらいにしか考えられていなかったのである。
もう一人、ケネディにとっては無視できぬ反対勢力があった。ミズーリ州の平原地帯で隠然たる発言権を維持していたトルーマン元大統領の存在であった。彼は「あの若造に党は渡さぬ」と反ケネディ色を鮮明にし、サイミントン支持を打ち出していたのである。まさにケネディは、民主党内の左右両派から挟み撃ちにあったような状況であった。
では、いったいいつの時点で、ケネディのイメージが盛り上がり、42歳の新風として全国的な期待がケネディに寄せられたのか? それはウエスト・バージニアの予備選で勝利した時点を境界線としたのである。
ウエスト・バージニア州と言う小さな予備選に、ウイスコンシン州で敗れたヒューバート・ハンフリーが再挑戦してきた事はケネディ陣営にとっては大きな衝撃であった。地元で惨敗を喫したのであるから、まさか二度と立ち直れまいと思われた敗軍の将の捲土重来であったからだが、それだけに、ケネディが味わわねばならなかった苦戦の原因は、死にもの狂いとなったハンフリーの、カソリック対プロテスタントの宗教戦争の泥試合の図式にあった。統計によると、同州のカソリック教徒は州人口のうち、わずかに5%足らずであった。投票日は5月10日であった。ウエスト・バージニアは首都ワシントンからそう遠くない距離にある。自動車で走っても二時間くらいで州境を越える。斜陽化しつつあった炭鉱の多い土地柄である。普通の選挙であったならば、まったくとるに足らない小州の予備選であったのだが、ここに来て「第二の天王山」として注目をあびたのである。予想された通り、ハンフリーは宗教問題を前面に押し出して、ここを泥試合の修羅場に変えたのである。
宗教戦争の挑戦に対してケネディが見せた演説は抜群という外ないほど巧妙なものであった。ケネディ側が操作したのであるが、あらかじめプロテスタントの牧師団13名に公開質問状を出させておいてから、テレビに出演してその質問状に答えるといった演出をやってのけた。そして、政教分離を明確に打ち出したのである。彼がローマ教会の拘束を明確に切断する事は当時としては、実に危険な賭けであった。ウイスコンシン州ではカソリック教徒に救われたはずであったのに、いかにウエスト・バージニアが欲しかったとはいえ、ここで政教分離を明確化させ、ローマ教会を怒らせるようなことをすれば、後に続く他州での予備選や、全国大会後の本番選挙でカソリック信者の固定票を失いかねない危険もあった。が、ケネディはあえてこの危険な賭けに挑戦したのである。
ケネディがテレビでこの危険な演技を見せる直前。全国新聞編集者協会でケネディが明らかにした声明内容が残っていいる。いわばテレビのリハーサルであった。
「ローマ法王庁との関係について、私に対する質問は一つしかないはずだ。それは、国家の利益を追求せねばならぬアメリカ大統領の職務が、ローマに拘束され影響されるか?そういう質問であると思うが、私の回答はノーとお答えすることである。私はカソリック教会から立候補した訳ではない。私は公共事業についてカソリック教会を代弁したりはしない。(註・カソリック系私立学校に対する政府補助金問題が当時問題になっていた)ユダヤ教徒がダブリン市長になってもよいし、プロテスタント信者がフランスの外務大臣になってもよい。イスラム教徒がイスラエルの国会議員になってもよいと言っておきながら、カソリック教徒がアメリカ大統領になれないというのはおかしいではないか?」
思い切った発言であった。が、ローマが苦り切った顔をした反面、プロテスタント側の手ごたえは十分であった。テレビでケネディはハッキリと答えた「私は、法王からも枢機卿からも司教や神父からも命令を受けない!」と・・・(右の風刺画はカソリックの大統領が就任したらローマ教会の餌食になると批判したもの。新聞に堂々と掲載された)

こんな泥試合の最中、まさに驚天動地の大ニュースが飛び込んできたのであった。
「モスクワ6日発AFP=6日朝のソ連最高会議の最初の発言者になったグレチコ元帥はさる1日、ソ連領空を侵犯したアメリカ機は赤軍のロケットによって一撃のもとに撃墜された。この撃墜命令は、ソ連政府とフルシチョフ首相によって直々に命令されたものであった。領空侵犯機にロケットが使われたのは今回が初めてで、ロケット部隊はいまやソ連軍の中核をなし、指揮系統と構成を異にするロケット装備の機械化部隊が編制されている。と言明した」
「モスクワ6日発AP=ソ連国防省機関紙「赤い星」はアルメニア地方で撃墜されたアメリカ機について、こう説明している。5月1日の夜明け方、対空防衛部隊の一つが警報を受けて待機した。無線通信士は、国籍不明機一機が南方からソ連領空に入ったとの第一報を受電、同機が外国機で敵意を持っている事も明らかになった。同機は異常な高度をとり、時速860キロで飛来した。交戦は短時間で終わった。侵入機は撃墜され、付近の村民の協力で外国機の残骸はすぐに発見された」
「カリフォルニア州バンバーグ6日発AFP=撃墜されたU2機の飛行士の身元は、米政府航空宇宙局付属のロッキード航空会社のテスト・パイロットでフランシス・パワーズ大佐(30歳)と判明した。米政府はソ連外務省に抗議の覚書を送り、事件の詳細を要求した」
世界を震撼させた「U2機撃墜事件」の発生である。
フルシチョフはこの事件を対米攻撃の材料としてフルに利用した。アイゼンハワーにあらん限りの罵詈雑言をあびせかけ、5月16日からパリで開催される予定であった四カ国首脳会談を流産させてしまったのである。ジュネーブで開かれていた米ソ軍縮会議が、地下核実験停止をめぐり、かなりの進展を見せていた時だけに、誠に不幸な事件発生であったが、それにしても、フルシチョフの怒りは異常であった。後日解ったことであるが、CIA当局のU2機による偵察飛行で、フルシチョフは、当時、地上むきだしになっていたソ連側のミサイル発射台の実態を撮影されていた事実を知って、必要以上に怒ってみせて、ジュネーブの軍縮交渉を御破算にする必要があったのである。すなはち、当時はミサイル装備にかんしてアメリカはソ連に後れをとっていると言われていた。(ミサイルギャップ論争)この事は後日虚構であった事がはっきりするのであるが。フルシチョフは、アメリカ側にこの実態を暴露される前に、領空侵犯の不法行為をなじって事態を糊塗しておく必要があったのだ。とにかく、この事件の発生で米ソ関係は急転直下、悪化し冷却していくのであった。

5月10日に行われた「第二の天王山」ウエスト・バージニアの予備選は、ケネディの圧勝に終わっていた。

5月10日ウエスト・バージニア、チャールストン発UPI=開票された予備選は、民主党ではケネディがハンフリーに圧勝した。ハンフリーは同日、敗北宣言を発表した。
5月11日チャールストン発UPI=ハンフリーは、民主党の大統領競争から身を引く事を宣言、今後は上院議員として貢献すると声明を発表した。

ケネディは自らの勝利宣言の中でこう述べている。「宗教戦争は終わった。これで永久に新旧宗教の対立の溝は埋められた!」ケネディはメリーランドでも勝ち、オレゴンでも勝った。いまや、常勝将軍となった彼は、自分が正しかったと思った。大衆の底辺を信じた彼の作戦の正しさはいまや実証されたのである。右手が真っ赤に腫れ上がるほど、彼は大衆の手を握ってきた。「失業問題をかかえていたウエスト・バージニアの炭鉱夫たちとの直の手と手の接触はケネディの人間性にひと回り大きなふくらみを追加した」と報じられた。ジャクリーヌも夫について大衆の中に身を投じた。ジャクリーヌの評判も良かった。炭鉱の坑道の中から「百万長者の倅と嫁にしては、なかなか、ものがわかる奴等だぞ」と言う声が伝わってきた。かくして、ウエスト・バージニアを境として「ケネディ・ブーム」が巻き起こったのである。


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